カテゴリ:カテゴリ未分類
八犬伝じゃない里見の歴史、一緒に追いかけてみましょう。
時は戦国ただなかへ、いざ、出陣。 シリーズ・里見家のおんなたち 7 里見家に生を受けた女。 里見家に嫁いだ女。 円満な者も、不遇な者も、女たちの数だけ笑いもあれば涙もあったことでしょう。そんな里見家のおんなたちは、おおよそ、実名の残されていない者が多かったのです。院号または通り名で後世に伝えられる女性の逸話を、ひととき一緒に語りましょう。 奥平忠政。 この武将は徳川家康に深くつながる人物です。生母にあたる人物は、徳川家康の長女・亀姫。亀姫の母は家康の正室・築山御前で、嫡男にあたる松平信康は同母兄という綺羅星のもとに誕生した姫です。だから、家康にとって奥平忠政は可愛い外孫のひとりという訳です。 この奥平忠政の正室が、里見義頼の娘。 いかに徳川家康が一時期の里見家を意識していたか、窺い知ることが出来ます。 義頼の娘は名前が伝わっておりません。また、いつ結婚したものか、いつ亡くなったのか、徳川家に詳しい方なら資料を探せるのかなと思うのですが、あいにく夢酔、徳川のことは委細承知しておりません。誰か知っていたら、情報提供プリーズ。 奥平忠政の嫡男は忠隆といい、慶長13年に誕生しています。正室腹としたら、それ以前の婚姻ということになりますね。ただ、徳川家と里見家の蜜月関係は、里見義康の死により緩やかに冷えてきますが、まさしく慶長13年はその頃です。とすれば、里見家にとって破格の黄金期である関ヶ原以後の婚姻と推察できますね。 その頃、里見本国は鹿島三万石の加増、里見忠重が板鼻一万石の独立と、いいこと尽くしでした。吉事の延長線に慶事があっても、むしろ自然ではないかなぁ。ただし、関ヶ原は慶長5年、嫡男誕生は8年後。時期次第ではやけに生まれるまでが長すぎるんですよね……。 奥平忠政が家を継ぎ大名となったのは、慶長7年(1602)10月22日に養嗣父・菅沼定利の死去による相続。上州吉井二万石です。そして、慶長15年(1610)7月26日、実父の奥平信昌から家督を譲られて、美濃国加納藩十万石に移封したのです。 ただ、彼、若年です。 慶長19年(1614)7月2日に死去したのですが、享年なんと35歳。病弱だったのでしょうかね。とすれば、なかなか子宝に恵まれないのも、仕方ないのかなぁ。 さて、里見義頼の娘のその後について、残されているエピソードはございません。夢酔が知らないだけだったら、お笑い草です。はい。 ◆ ◆ ◆ 戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。 「2014年に里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」 皆さまの温かいご声援をお願いします。 大河の署名用紙「Yahoo! ボックス」にUP! ぜひダウンロードしてください。 https://box.yahoo.co.jp/guest/viewer?sid=box-l-3cwv2wfiuh32cvdru3iad3wwoe-1001&uniqid=a82d0f16-38fb-4e71-a93a-d67a27a62932&viewtype=detail 房総里見会事務長 鈴木惠弘 〒294-0027 千葉県館山市西長田72 署名用紙の欄外に 「夢酔に頼まれた!」 と添え書きくだされば幸いです。 告知 1月29日の若潮マラソン会場。皆さまからたくさんの署名を頂きました。実行委員会に代わり、心よりお礼申し上げます。 それから、11月27日署名活動の写真がUPされていました。恥ずかしい…… http://www.awa.or.jp/home/kabuto/osirase.html にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|
|