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カテゴリ:牧野富太郎
竹雄の提案で横倉山へやってきた万太郎と寿恵子。
佐川の槙野万太郎です。また帰って参りました。 寿恵子さんをこの木にあわせたかったがじゃ 槙野寿恵子です。よろしくお願いします 万太郎「寿恵子さん、この子を採集してください。 大きすぎず小さすぎず 凡庸なものを選ぶ」 竹雄は万太郎の助手の役目を引き継ぐため、寿恵子に植物採集について教える。 竹雄は植物を採集した時の環境や状態を忘れないように帳面につけていると明かす。 「わしは帳面を使うちょります。」 「周りをよく見て尾根か斜面か林の中か 常緑樹か落葉樹のそばに生えていたのか。 この土はどういう土か」 ![]() 竹雄「万太郎の話し相手になりたいがやったら、書いてでも覚えちょくがじゃ。何でもない話の相手でも、助けになれることがあるき。」 寿恵子「わたしに勤まるでしょうか?」 竹雄「務まらなくて当たり前、あなたなら大丈夫」 竹雄「わしみたいな凡庸がついていくがは大変じゃき。ほんじゃき努力した。 万太郎が息するように分かることを、わしは一生懸命覚えるしかない。 それでもそばにおりたかったき。 大丈夫。あなたならできるき」 寿恵子「万太郎さんはなんで山なのにお洋服に革靴なんですか?」 竹雄「大好きな植物に会うのに、一番えい格好でいかんと失礼になると」 寿恵子「万太郎さん、夕べ役立たずといいましたけどそんなことはないです。 見えているもののことはそんなにも見えているじゃないですか」 万太郎「見えるものが見えるのは当たり前」 寿恵子「だって私わからない あなたと同じところにいても 草、木、山 それだけ 万太郎さんはそうじゃ無い それ全然当たり前じゃありません 万太郎は草花をよくよく見える目をおもちです だからとことん見て上げたら? 誰にも気付かれていないけど そこにいる子 万太郎さんだけが気付いて見て上げて」 万太郎「簡単に言うの・・・」 竹雄「日本の植物学の入り口。 みんなで山にとりかかっていく 波多野さん、藤丸さん、全員が同じ山道を登ってもしかなない それぞれがそれぞれの道を歩くことで山全体を見渡せる」 💛第63回は哲学的な、あるいは教訓的なお話に聞こえました。 凡庸なものを選ぶ は 宮沢賢治の「どんぐりと山猫」を思い出す。 「黄金の草地」で「一番えらい」のは先が尖っているのだとか、丸いのだとか,背が高いのだとか言って「パチパチ塩をはぜるやうに」音を立てて三日も争っている。 一郎は「このなかでいちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが、いちばんえらい」というと、どんぐりたちは急に静かになって争いは収まった。 *新約聖書『ルカによる福音書』の9章 弟子たちの間で、誰が一番偉いかという議論が持ち上がる。 イエスは一人の幼な子の手を取り、自分のそばに立たせてこのように言われた。 「わたしの名のために幼な子を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。 わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。 あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」 万太郎「見えるものが見えるのは当たり前」 寿恵子「だって私わからない。あなたと同じところにいても 草、木、山 それだけ 万太郎さんはそうじゃ無い。それ全然当たり前じゃありません 万太郎は草花をよくよく見える目をおもちです」 星の王子様の冒頭を想う。 ![]() ほんとうは、これは帽子ではなく、ゾウを丸呑みした大蛇ボアの絵。 でも、この絵を大人に見せるたびに、「帽子でしょ」と言われ、「僕」は仕方なく中身のゾウの姿も描く。 大人たちは「なかが見えようが見えまいが、ボアの絵はもう描かなくていい。 そんなことより勉強をしなさい」と注意する 落胆した「僕」は、画家になることをあきらめ、操縦士を目指し、世界中を飛び回るようになる。 「僕」はもう、大蛇ボアの話も原生林の話もせず、ゴルフや政治、ネクタイなどの話をし、 大人たちは趣味のいい人間と知り合えたと満足する。 「僕」は6年前、サハラ砂漠に飛行機が不時着した際、「小さな王子さま」と出会う。 王子さまは、「ヒツジを描いて」と言い、「僕」はヒツジの絵を描いたことがなかったので、自分が描ける、中身の見えない大蛇ボアの絵を見せる。 「ちがうちがう! ボアに飲まれたゾウなんていらないよ。ボアはすごく危険だし、ゾウはちょっと大きすぎる。ぼくのところは、とっても小さいんだ。ほしいのはヒツジなの。ヒツジの絵を描いて」 大人が、本当はとても大事なことを「そんなことはどうでもいい」という態度でいること、 目に見えないものが大切だという、『星の王子さま』全体を通して描かれる哲学を象徴的に表現している。 💛馬琴は歴史小説の7則という原則を抽出し発表した。 坪内逍遥(丈之助)は それを 近代西洋文学の立場からこっぴどく批判した。 7則 とは 一に主客、二に伏線、三に襯染(しんぜん)、四に照応、五に反対、六に省筆、七に隠微である。 二の伏線とは「後に必ず出すべき趣向があるのを、数回前に少しほのめかしておく」のである。 四の 照応 とは 「例えば、律詩に対句があるように、あれとこれを照らし合い、出来事や人物を対にすることをいう。照応は意図的に前の趣向の対とする」「照応はわざと前の趣向の対をとってあれとこれとを参照させる」とある。 五の 反対 とは 「人は同じだが事は同じではない。」「事はあれとこれと互いに反し、勝手に対をなす。」 六の 省筆 とは 長々しい出来事の内容を、後で同じように繰り返して書かないための工夫。 必ず聞ける人物に立ち聞きさせることで筆を省く。 あるいは、地の文を使わず、その人物の口で説明させる。 作者の筆を省くことで、読者を飽きさせないようにする。 七の 隠微 とは 作者が書かなかった文外に深意を置く。百年後の読者が現れるのを待ち、悟らしめる仕掛けだ。 聖書ルカ伝の幼子 や 星の王子様のボアの絵 や 賢治の「一番バカでなってないのが一番偉い」のように百年後、千年後の人の心に響く。 そのような隠微の仕掛けがあるからこそ、らんまんは奥深く感じるのかもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.06.28 17:41:00
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