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カテゴリ:報徳
晩年の出口勇蔵先生
ウェーバー とクニース を めぐって 柴 田 周 二 *出口 勇蔵 (でぐち ゆうぞう、 1909年 1月23日 - 2003年 4月2日 )は、 日本 の 経済学者 。 経済学博士 ( 京都大学 )。 京都鹿ケ谷 の法然院には,河上肇の墓碑 があり,そこには,「 多度利津伎 布理加幣 弔美禮者山河遠古依天波越而来都流毛野哉(辿りつき振り返りみれば山河を越えては越えて来つるものかな)」という河上の歌が刻まれている.そして,その東隣 には,石や碑文の選定に努力され,河上肇 とは師弟関係にあり、かつ出口先生の恩師でもあった石川興二の墓が寄り添うように建っている、 1970年 春,京都大学における出ロゼミの最後の卒業生である私たちの授業は.河上肇の墓参から始まった。 この年のゼミのテキストに選ばれたのは,『世界の大思想23ウェーバー 政治・社会論集』(河出書房新社)であり,年の前半はそれを輪読 ,後半は各自が自由なテーマで発表する というもので あった。先生の関心からは少し遠くみえるテーマのときは、先生は学生の発表を聞きながら,眠られているというほほえましい光景もあった。 出口先生 というと,まず頭に浮かぶ のは,「ウェーバー」 や 「経済学史」 という言葉である。 しかし,先生の学問的出発点は,恩師の強い影響の下に,ディルタイ,クニース,フィヒテなどの研究にあり,ヘーゲルや西田哲学にも深い造詣があった。 先生の退官記念講演会 は,京都大学の楽友会館で行われ,その時,先生が 自らの思想的遍歴を語られた中で,若いころに影響を受けた明治時代 の宗教思想家である 「清沢満之」の名前が出てこないというハプニングがあった。そこで,先生は,多くの来聴者に向かって,「どなたかご存知ありませんか?」 と,尋ねられた. 話の内容から清沢満之のような気がしたが,すぐに声に出す勇気 はなく,年長の先生方から 「鈴木大拙」 などの声は上がったが.清沢満之の名は出なかった. たぶん,経済学部の関係者 には出口先生 の宗教的教養は意外であったのだろう。 さて,私が.出口先生から親しく教えを受けたのは,大学院に進学してからである。 大学院の指導教官は,先生の二人目のお弟子さんである田中真晴先生であった。 博士課程も後半のころ,出口先生から.平凡社からシリーズで出ているアンソロジー集の一つである 『世界の思想家21ウ ェー一バー』 の 「宗教社会学」 を担当しないかというお誘いがあり。 田中先生 にご相談して参加することになった。 もう一人のメンバーは,出口先生の四人目のお弟子さんである甲南大学の山口和男先生であり,出口先生が 「学問論」と「社会学」 を,山口先生が 「歴史研究」と「政治論」 を,そして,私が「宗教杜会学」を担当することになった。 このために,私たちは2~3ヶ月に一度,出口先生のお宅に集まり,それぞれの進行状況を報告し,内容について議論議する一方で,個人的にも先生のお宅に伺い,訳出箇所の選択や翻訳 に関する指導を得た。 このころ,いちばん驚いたのは.山口先生の出口先生に対する最敬札に近い恭しい態度であり,出口先生の方でもそれを当然とされている様子があった。 ここには,かつて田中先生などからお聞きしていた,戦後間もないころの大学院で アリストテレスの 『デ ・アニマ(魂について)』を読まれたころの出口先生の厳しい態度を想像させるものがあり、その他にもいろいろなことを知る機会があった。 当時,コ ピーは高価なものであったが,この仕事のために人文研の河野健二先生に便宜を図っていただくことにな り,それを依頼される出口先生の電話の様子は,まさにお二人が盟友の関係にあることをうかがわせるものであった。 また,出口先生の美術に対する愛好とその知識は素人の域を超えていて,美術の話をされるときの先生は本当に幸福そうであった。 山口先生が年末のお土産に持ってこられた,ご尊父の山口華楊氏の絵画から構成されたカレンダーはことのほか喜ばれた。 他にも、0.シュタマーの『ウェーバーと現代社会学』(木鐸社)の 翻訳 に関わられた筒井清忠氏や出ロゼミの出身者である今村仁司氏らの話が出ることもあった。 今ならさしずめ,同じく出ロゼミの大先輩であるアサヒビール元会長の樋口廣太郎氏などの思い出話が出るのかもしれない。 それはともあれ.アンソロジーの仕事は外に出た成果や評価とは裏腹にかなりの難事業であった、 ウェーバーの膨大な業績の中から,そのエッセンスを取り出し,その全体像をわずか200ページほどの小さな書物に集約するというのは不可能に近い仕事であり、厳密にやればやるほど消耗感の大きくなる仕事であった。 出口先生は,おそらくこのときに初めて.『経済と社会』に取り組まれたのではないかと思うが,遅々として進まぬ仕事にかなりの苛立ちを示された。取り掛かり始めてから.出版まで2年以上を要し,編集者に締切りを延ばしてもらうのは度々であった。 しかし,この過程でいちばん思い出に残っているのは,音楽をめぐる先生との会話である。 先生の奥様は,西田幾多郎の高弟である木村素衛の妹さんであるが,当時.ご病 (ページなし) 手紙である。先生が東京に行かれてから後,先生からの手紙や年賀状は途絶えた。 出口先生のご冥福を心からお祈りしたい, お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.06.30 02:17:05
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