長谷川伸の「紙の記念碑」
長谷川伸の「紙の記念碑」文藝春秋に「日本の師弟89人」が載っていて、目次を見ていて気になったのが、長谷川伸・平岩弓枝だった。長谷川伸という人は林竹二先生が作家として尊敬された人である。林先生の教え子の一人が作家志望であることを告げた時、長谷川伸の「日本俘虜史」や「相楽総三とその同志」を挙げて、このような作品を生み出すのでなければやめたほうがいいとたしなめたことがあった。長谷川伸はこうした作品を「紙の記念碑」といい、「紙碑(しひ)」と呼んだ。相楽総三という明治維新の志士で、誤って賊名のもとに死刑にされた関東勤王浪士と、その同志であり又は同志であったことのある人々の為に、十有三年、乏しき力を不断に注いで、ここまで漕ぎつけたこの一冊を、「紙の記念碑」といい、「筆の香華」と私(長谷川伸)はいっている。平岩弓枝さんの記憶する長谷川伸の言葉も実に含蓄が深い。平岩弓枝さんは戸川幸夫さんの紹介で長谷川伸主催の「新鷹会」に入った。東京二本榎にあった長谷川伸の自宅で毎月15日に開かれていた文学を志す者が集う勉強会だった。直木賞受賞作家を10人近く輩出している勉強会であり、新人の作品には先輩の完膚ないほど厳しい論評を行うことで知られていた。1年ほどたって、長谷川伸が平岩さんのことを「アンテナのいい子だよ」と戸川幸夫におっしゃったと戸川先生経由で聞いた。おそらくは激励のため戸川さん経由で聞かせたのであろうか。「私(平岩さん)が吾妻鏡を読んでいると長谷川先生が知られて「歴史が好きなのか?」とお聞きになった。で、私の生家が代々木八幡宮の由緒にかかわりがあるのでとお答えすると、「史書を読むのはよいが、必ずその行間にあるものを読み解くようにといわれた。史書を編纂した人が書けなかったもの、書いてはならなかったものが行間に必ず滲み出ている。それを承知したら同時代の別の史書と読み比べなどして書かなかったものを探り出す。その作業の手がかりになるものは、その歴史の事実に登場する人物やの人間性である場合が多い。ちなみに物語を書こうとしたらどう書いても知れている。変化球を投げるにも限界がある。・・・人間を書く時、作家は自分の心の鏡に書くべき対象を映す。鏡の出来の悪いのは論外だが、鏡が曇っていても、傷がついていても、また鏡自体が大きすぎても小さくとも正確に映すことはできない。 視野の広い、奥深くまで見透せる鏡、優しさもきびしさも、温かさも冷たさも、きっちり内臓している鏡が欲しいと思ったら、日々、心がけること。 今の君には酷(こく)かも知れないが、いつの日にか、いい小説が書きたいと思うのなら乗り越えて行き給え」平岩さんはその日以来、長谷川伸の鏡を目標とした。先生ならどう考えられるか、判断も決断もすべて先生ならと、先生の鏡をのぞくようにして生きてきたという。長谷川伸が亡くなる前、平岩さんは病床にかけつけたが、悲しくて悲しくて長谷川伸の見えないように隠れて泣いていた。すると長谷川先生が病床からこう声をかけられた。「君にお守りを渡しておこう。 将来、本当に君が人生に行きづまり書けないとなったら、必ず幽霊になって出て来る。 君が怖がらないよういつもの服を着てステッキをついて。 だから君は僕の幽霊に出会わない限り、行きづまりの壁にぶつかっていないのだ。」 ああ、長谷川伸という人は、かくも弟子や、その人生で出会った人にかくも深い愛をそそいでくださったのである。「ツキを呼ぶ魔法の言葉・魔法使いのプレゼント」のおばあさんからの手紙の中に次の一節がある。「人間の命は奇跡を何億回も重ねて生まれ、たった1回で終ってしまいます。だから毎日を大切に生きてください。」これって森信三先生の「人生二度なし」の真理にほかならない。「毎日を大切に生きる」とはどういうことか?森信三先生はこう言われた。われわれ人間は1 自分が天より享けて生れた天分をできるだけ発揮する とともに2 さらに多少でもよいから人のため世のため尽せたら 人としてこの世に生れた甲斐はあるといえよう。