ホームスティの先生って英語ができて、かっこいい!
2001年に購入した日立のFROLA 220FX NP3も、保証期間中に3~4回修理にだしただけで、10年も使えて少し得できた感じもする。ほとんど試用版を使ったり音楽CDプレーヤー代わりに使ったりブログやホームページ、ネットバンクやネットショッピングに便利に使ってる。前回2005年にVAIOの工場で組立てをする機会があったんで、次に買い替えるならVAIOも候補に入る感じもするけど、まだ未定。 インターネットが普及する前のことも、まとめ書きしてるところだけど殆んど(ほとんど)想い出ブログが多い。写真がないのが残念な感じもする。ここまでは、タイトルと関係ないけどマイパソコンの話。ここから、まだ中学生だった頃の想い出話。◇トップページを編集しながら、部屋の掃除なんかをしてた時に、ふと中学生だった頃に英語を担当した学年担任の先生から届いたエアメールを見つけた。まだ村内の中学校で英語の授業が始まって3年目くらいで、みんなで珍しそうに英語を勉強してた。 公募に応募して県教委から辞令をもらって、(旧)村教委に着任した24歳の新米先生。英語の授業で先生がホームステイしてたアメリカの中学校にクラス全員で英語の自己紹介エアメールを書いて送ったことが懐かしい。 昭和54(1979)年~57(1982)年の3年間だけ英語科の先生を担任した後、”英語力がまだ未熟だから、もう1回アメリカにホームスティに行ってきます。”と、アメリカのワシントンD.C.に自費留学しに行った。青い目の恋人にでもあいたくなったのかも。 郵便の消印をみると、3¢(セント)のTO CAST A BALLOT・A ROOT OF DEMOCRACYと5¢(セント)のジョージワシントンの肖像画と20¢(セント)の1782・1982・THE NETHERLANDS 20と印刷された青と赤の斜めストライプの3枚の28¢切手が貼ってある。消印はインクが薄くてWASINGTON D.C. PM ・・・・1983の文字がある。裏にはモニュメントの周りに桜の花が咲いてる写真が写ってる。2度と不幸な戦争に巻き込まれないように、日本から移植した桜らしい。 今だったら、インターネットですぐに連絡がとれるけど、まだ日本中が長閑(のどか)な時代だったね。 エアメールの差出人の住所は・・・・・42nd ST., N.W. WASINGTON DC, 20015 C/O(何々様方)と書いてあるんでアパートみたい。ネイティブ・アメリカンの発音とアルファベットの筆記体が上手になって国際人になれるように熱心に教えてもらった優しい記憶が思い出される。 その先生は共立女子短大でインターカレッジの卓球試合シングルスで1位、ダブルス全国2位か3位で終わってしまった事を嬉しがりながらも悔しがってたっけな。 グリーンカードでも取得してアメリカ人の恋人と結婚して幸せに暮らしてるんだろうと、想像だけど懐かしく思う。それとも生家の須坂市にすんでるのか、とにかく9.11のテロに巻き込まれなくて良かった良かった。◇ 昭和12年生まれの父の実姉が、戦前から小布施町の コスモ石油(旧 丸善石油)のガソリンスタンドを経営してる家に嫁いでしばらくしてから、須坂市の八幡に本社を移して経営してるから、1回くらいはスタンドで給油したこともあるかも知れない。自分が手伝いで給油かなんかのアルバイトしてるときに給油しにきてたら、留学の話がでたかも知れない感じ。◇ 授業が終わって長野市内で英語の先生が集まって教育研修があるときには、通学路(片道3Km)の真横にあった旧国鉄・飯山線で、急行「野沢」と同じ長岡駅発の7両編成グリーン車無し・クーラー無し扇風機付の車内から手を振って、「先生バイバ~イ」と下校中の20~30人の生徒と挨拶をしながら帰ったことも多々あった。 線路の路盤の高さが道路から1mくらいの高さにあるところを歩いてるときに、列車が通り過ぎるとディーゼルエンジンの排気口のエアーで巻き上げた砂埃が顔にあたったりして、じゃまなんだけど涼しくて心地よく感じたもんだった。機関区と転車台があった飯山駅のホームが7両編成にしか対応したないかららしい。 昭和56(1981)年 まだ3年生で純朴みんな人見知りをしてた頃に中学の修学旅行に行った帰りの定時列車が木曽福島駅で大雨のため雨量規制で運休してしまって、名古屋駅発の最終の先行特急列車のL特急「しなの」号も運転打ち切りで、木曽福島駅で一泊するはめになった。その列車には、飯山・第一第二第三中学の生徒が乗って先に帰ってしまった。 旧国鉄の名古屋の電車区から、長野の電車区までの回送予定の列車6両編成の先頭2両を、急きょ臨時に団体臨時列車に変更してもらって、東海道・身延線・中央東線・篠ノ井線(旧 山まわり線)・信越本線を経由して車内一泊で帰ったこともあった。 愛知・静岡・東京西・長野の各鉄道管理局の通過線区を担当する各鉄道管理局長・各運輸区長・各電車区長・各車掌区・各客車区長・各駅長・各信号区長・各通信区長・各保線区長・各電力区長さんなどに変更の連絡・確認をして、各駅長さんがタブレット式閉塞器の鉄道電話でリレーして閉塞・開塞をしながら長野駅まで行った。 ホームで打ち合わせをしていた、自分のクラスの引率担任の先生から生徒だった自分たちもに説明があって、東海道線で都区内を通過して尾久客車区付近で休憩してから、信越本線の碓氷峠を通るルートも検討されたけど、モハ+クハ+クモハ165(たぶん)の電車だったためEF63と強調運転が出来なくて危険なため却下されて、列車内から東京見物する話が出たのに消えてしまったのが残念だった~。決定まで役1時間ほどかかったらしい。 発車時刻は21:00に決定と駅助役さんに連絡が入る。駅助役さんと運転手兼臨時車掌さんと担任の先生と駅助役さんで手順を話しあってる声が窓から顔を出してると聞こえてくる。 駅助役さん「運転手さん信号機にしたがって運転してもらえば、安全に運転できるそうですから、運転手さんの腕にお任せします。」運転手さん「はい、了解しました。長野まで無事に999号を届けます。」駅助役さん「富士駅で東海道線・東京方面からの甲府行きの貨物列車が通貨した後に、ポイントを切り替えて列車を入れます。」「この列車に乗ってる子供の中でだれか鉄道屋さんになってくれるといいんですけどね。」 飯田線を通過する手もあったらしいけど、最終列車が終わって駅舎が閉じてしまって電話で呼び出して集めなければならない為、却下されたらしい。 翌日は平常の授業があったため、支障があったらこまるので管理局長判断での通したらしい。文部省に気を使ったのかも知れない。 翌朝の長野駅始発の篠ノ井・中央本線(東線)の始発電車だったらしく運休を回避するための措置らしい。 途中の東海道線 富士駅と篠ノ井線 塩尻駅で列車の方向転換をしながら、潮沢信号場で停車し松本方面行の定期普通列車と交換し、長野駅には14:00頃に無事到着した約16~17時間のロングランだった。その後、定期運行の飯山線の列車に1両の団体臨時列車を増結してもらって豊田の里まで帰った想い出がある。 定期・臨時列車ダイヤに無い回送用の999M団体臨時・回送列車 幻のスリーナイン号に乗れたのは幸運だったのかも知れない。◇ 10歳代の身長が145cmしかなかった頃、みんな純粋で無邪気に教室で勉強したり、鬼ごっこや隠れんぼや草野球にスキーやサイクリングに1,000円で游魚券を購入して千曲川で川釣りをしたりしてたのが懐かしい。もう1度10歳代にもどっても、楽しく過ごせそうだね!◇ ブログ内に貼ってある楽天ブログ用の絵文字がポップになったのが面白いね。少しボリューム感がでてきていい感じだと個人的には思ってるけど。自己満足だからこんな感じでいいんじゃないかと思ってるけど・・・。たまに半年に1回くらいは、懐かしい想い出のかけらみたいなのがでてきて”あっ!来た~!”って、まとめ書きすることも、ほとんどはありきたりのブログだけど。