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今日は、10年前に天に召された方の記念会がありました。(御連れ合いは、その方が召された後に、受洗されました。)わたしは生前のお姿を知らないのだが、前任の大澤牧師が、彼からのハガキや、葬式や記念会の式次第、お連れ合いのコメントなどをファイルしてくださっていて、とても役に立ちました。高校の物理の教師をされていた方で、組合活動のリーダー的存在だった方。そのハガキには、ご長男の結婚のこと、教師として感じていること、病気のことなど様子が綴られていました。ご遺族の方々にご紹介しましたら、とても喜ばれました。筆まめでかつ達筆だった方。最後は、筆で様々な聖句を綴った巻物風(?)のものを見せていただきました。どこかに貼っていた跡もあるので、この言葉を毎日見ながら過ごされたのかな、と思い、会ったこともないTさんの信仰生活をしのびました。飾らないご家族との出会いと交わりもまた良いひとときでした。感謝! 最後に、息子さんが「こうした会は、キリスト教だからできた感じがします。わたしは特に信仰心はありませんが、教会でいろいろとお願いしたいと思います」と好意を示してくださいました。
江宮隆之著『白磁の人』が「道~白磁の人」(監督:高橋伴明)として映画化された。これは、美須々交差点のすぐ近くの韓国料理店「やんちゃ坊」オーナーの李春浩(イ・チュンホ)さんが、10年ほど前から企画していたものだった。 この『白磁の人』の主人公は浅川巧(たくみ)という人である。浅川巧は、現北杜市出身。日帝時代の朝鮮半島に林業試験場の一員として働くかたわら、兄の伯孝(のりたか)と共に、朝鮮半島の陶磁器の美しさを研究した日本人の一人でもあり、柳宗悦の朝鮮美術開眼に影響を与えている。彼はキリスト者であり、現地の人びとに溶け込み、ハングルを覚え、衣服も朝鮮の民族衣装をまとっていた。朝鮮の貧しい人たちを助け、学費を援助した子どもたちも多かったという。差別的な政策をとる日本政府に対して、差別される側に身をおいた人として、韓国人に慕われている稀有な日本人である。41歳という若さで亡くなっているが、その葬儀も朝鮮式で行い、棺を大勢の韓国人が担ぎ、1時間もかかって埋葬された。戦後、日帝時代の怨みから日本人の墓が蹴倒されかかったとのことだが、浅川巧の墓は大切に守られている。 私自身が浅川巧について初めて知ったのは、詩人茨木のり子の『ハングルへの旅』(初版1986年)というエッセイである。まだ韓流などない時代、隣国の言葉を学ぼうとする人も少ないような時代に、彼女は50歳を過ぎてハングルを学んだ動機とハングルの面白さを語っている。その最後の2章で、二人のキリスト者、浅川巧と尹(ユン)東柱(ドンジュ)について紹介している。隣国で慕われている日本人と、隣国で人気のある詩人についてであるが、共に日帝時代を背負っている。 尹東柱は、日本の立教大学と同志社大学で英文科に学んだものの、独立運動の嫌疑により福岡刑務所に送られ、そこで日本の敗戦の半年前に獄死する。ハングルの詩が百余編残されているが、官憲に押収された詩は行方知れずとのこと。 そして、映画「道~白磁の人」制作に尽力した李さんの「やんちゃ坊」の店内の入口付近に、尹東柱の「序詞」がハングルで大きく掲示されている。 序詞 死ぬ日まで空を仰ぎ 一点の恥辱(はじ)なきことを 葉あいにそよぐ風にも わたしは心痛んだ 星歌う心で 生きとし生けるものをいとおしまねば そしてわたしに与えられた道を 歩みゆかねば
なお、「道~白磁の人」は6月から全国ロードショーが始まり、松本ではシネマライツでの上映が決まっている。
昨年の秋、グループホームに入っている教会員のUさんが、その施設の職員に伴われて来られた。礼拝堂で礼拝をしたときのメッセージで、『慰めの共同体・教会』の317ページにある「高齢者の祝福の祈り(歌)」を紹介した。すると、施設の職員さんが、それを心に留めてコピーを取って行かれた。 そして、クリスマスの頃、Uさんのいるグループホームを訪ねた。すると、Uさんの部屋だけでなく、すべての方の部屋に、その「高齢者の祝福の祈り」が貼っていて嬉しかった。 以下、その言葉であるが、これは元々、アフリカの讃美歌とのこと。どなたか元歌をご存知の方はいないものか、と思うこのごろである。 「私のよろめく足 萎えた手に 理解を示してくれる人びとは祝福されています。 私の耳が苦労しないと 人が語りかける言葉を聞き取ることができないことを よく分かってくれる人びとは祝福されています。 わたしの目がかすみ ゆっくりでなければ考えることができなくなっているのを わかってくれる人びとは祝福されます。 親しい微笑みを交わし しばらくのおしゃべりを楽しんでくれる人びとは祝福されます。 「今日、そのことを二度も口になさいましたよ」と 決して言うまいとしてくれている人びとは、祝福されます。 私のこころのうちに、遠い昔の思い出を呼び覚ますすべを 心得ている人びとは、祝福されます。 私が愛されており、尊敬されており、ひとりぼっちではないことを 経験させてくださる人びとは、祝福されます。 私になお残されている日々を その優しさで、軽やかな者にしてくれる人びとは 祝福されます。」 http://www.kyobunkwan.co.jp/publishing/archives/7729
今日は月曜日で、しかもひさびさに何もないような月曜日で、お休みしました。(本当は、しなくてはならないことはあるんですけどね、「明日できることは、今日するな」ってことで…) その後、お昼は連れ合いと一緒に外に食べに行きました。連れ合いがカタクラモールで買い物があるというので、街中を歩き、最初は、中町通りのクアトロ・ガッツというお店で食べるつもりだったのですが、なんとそこは今日は貸切。こういうことって僕はよくあるんです。行こうと思ったお店がお休みだったり、貸切だったり…。そこで、小澤征爾が毎年サイトウキネンフェスティバルのときに来ているというけど地味な中華料理屋さん「美味屋」に行きました。 それで、連れ合いは買い物をして、家に帰ったのですが、私も珍しいものを見つけて買ってしまいました。それが「北のおいち~ず」というおつまみ系のチーズ。成分表をみると、チーズ、醤油(大豆、小麦、塩)のみで、なかなかよさそう。見たところ「さきいか」って感じですが、たしかにチーズでした。 ![]() その後、連れ合いは、生活クラブの料理講習会の準備のため忙しいということで、夕食を適当に作りました。豚ひれ肉のパン粉焼き(チーズ・バジル風味)、白菜とリンゴのサラダ、ネギと人参と豆腐の味噌汁、という具合です。 さ~て、明日から、頑張るぞ!
以下は、松本平の有志が発行している『平和の種』というミニコミ誌に、2011年の6月ぐらいに載せたものです。(写真は後でアップします) 沖縄米軍基地のことが大きな問題となりメディアに登場しない日がなかったのが2009年終わりから2010年の前半。「普天間基地移設先は少なくとも県外」を公約としてきた民主党政権であったが鳩山首相が「在沖縄米海兵隊の『抑止力』」と言って公約を取り下げて辞任し、菅内閣は何事もなかったかのように辺(へ)野(の)古(こ)基地の計画を進めようとしている(後に鳩山前首相は「抑止力」は「方便(ほうべん)」と語ったが…)。 沖縄県民の意向の8割は県内基地建設反対でありながら、その民意は政府に無視されている。さらに基地のない地域であるわたしたちの意識にも「ずれ」があるに違いない。その沖縄との「ずれ」を皮膚感覚、身体感覚で少しでも埋めていきたい、という思いで、「沖縄スタディーツアー」と称した旅を企画してきた。これは、もともと塩尻アイオナ教会の横田幸子牧師の提案でずっと続けてきたもので、私自身にとっては3回目の旅となった。今回は参加者6名で2月21日にはじまる全日程4泊5日の旅であった。旅ごとに新しい発見があり、伝えきれないこと、消化できていないことは限りないが、辺野古・高江のこと、金城(きんじょう)実(みのる)さんとの出会いを中心にお伝えしたい。 基地建設反対の座り込み運動がはじまって2500日を超えたばかりの辺野古では、安次富浩さんからこの運動の意義、そして基地返還の運動の変化を伺った。返還された土地の利用によって、多くの町の経済が活性化されているということで、基地によって経済が成り立つという幻想が崩れているとのこと。防衛施設局のボーリング調査を阻止する非暴力抵抗運動であるが3000日に至る前には解決したいと語られた。 70代後半を迎える平良悦美さんは、この運動に関わって初めて素潜りができるようになったこと、エンジン付きのボートの運転ができるようになったことを嬉しそうに話された。また、海の美しさを知ると同時に、弱さが力になることを語ってくださった。自分のように高齢のものが施設局のやぐらにつかまって抵抗していると、そうそう乱暴な扱いはされないし、かえって気遣われているとのこと。厳しい現実がありながら、なおも喜びや笑顔を忘れない姿が印象的だったし、非暴力の抵抗運動の力を感じた。この運動の願いは普天間基地はじめ米軍基地の移設・新設ではなく廃止であり、その意味で一日も早く解決に向かってほしいと祈った。上関(かみのせき)原発反対運動の祝(いわい)島(しま)の人々も辺野古の人たちとつながっていることを、後で知った。 その一方で、浜には新たな壁が建設されようとしていた。工事の邪魔がされにくいようにするためのようであるが、辺野古基地建設に向けて美しい浜が破壊されようとしていた。今や隔離壁とか分断壁とか呼んでいるが、基地や原発の建設の計画が、町や村の人々を分断させていくことが象徴されている。 辺野古の後に、東村(ひがしそん)高江村(たかえむら)に向かった。ここは、「やんばるの森」「ブロッコリーの森」として知られている美しい自然のある場所で、人々が住む集落を囲むかのように6つのヘリパッドが新設されようとしている。しかも、垂直離着陸機オスプレーの配備が予定されているという。このオスプレーという機種は実験機でもあり、欠陥機とも称されている。墜落する可能性がまだまだ高く不安定な軍用機であるが、機動性のため米軍海兵隊の作戦では重宝(ちょうほう)する代物(しろもの)らしい。しかし、近くの集落にも墜落することを考えると恐ろしいし、そのためにヘリパッド建設反対運動が起こっている。人口200名に満たない小さな村といえるが、その命が脅(おびや)かされ軽んじられている事実をなかなか本土のメディアは伝えてはいない。政府としても、声が小さいならば無視できるものと考えているのかもしれない。 こうした基地に関わる動きを見るならば、普天間基地返還で沖縄の負担減をかこつけながら、結局は米軍基地の再編と強化という方向性があり、基地返還、負担軽減が何一つ実質化していないのである。高江では、わたしたちが訪ねた日の早朝、防衛施設局側では突然100名ほどの人員を送ってヘリパッド建設に必要な砂利などの入った土嚢(どのう)などを運びいれたという。その100名も近隣の町や村からアルバイトとして雇った人々のようで高校生らしい子もいたとのことであった。 緊迫した雰囲気の中での訪問となったが多くの方々が支援に集まっていた。キリスト教関係者でも普天間爆音訴訟原告団の島田善次牧師は午前中の戦いで疲れ切った顔をされていた。また、岩国から大川清牧師がかけつけていたし、普天間のほうから来たという女性は、「普天間で暮らすまでは基地のことなど考えもしなかった。連日連夜の轟音(ごうおん)によって基地問題が見えてきた。」と、辺野古や高江を応援したいという気持ちを語っていた。 今回の旅の直前に彫刻家の金城(きんじょう)実(みのる)さんとジャーナリストの柴野徹夫さんとの共著の写真集『鬼~沖縄のもの言う』(憲法9条・メッセージ・プロジェクト)を手にして、金城さんに是非会いたいと思った。予(あらかじ)め柴野さんを通じて連絡をして、読谷村(よみたんそん)のご自宅兼アトリエをお訪ねした。アトリエといっても彫刻やレリーフが雨ざらし・野ざらし展示されていた。半分朽ちてしまったものなどもあったが、それがかえって心に迫ってきた。 金城さんには、わたしたちがどんな人間なのか、やや怪しまれていたようだ。(共著を出したとはいえ柴野さんに対しても、最初は「難しいことを言ううるさいオヤジ」と思っていたとのこと。) 最初は靖国合祀反対訴訟の原告として金城さんが出演した番組のビデオを見せられた。ビデオ中で金城さんは、ご自身が生まれる前に戦死した父親は日本人になろうとしてなりきれなかったこと、まだ見ぬ子どもにも「立派な日本人になれ」と書き送っていたということ。その父のことと沖縄の歴史を知ると、その父親は「犬死(いぬじに)」だったと認めざるを得なかったが、自分の肉親を「犬死だった」と公言したことで母親とも難しい関係にもなったとポツポツと語っていた。最後はその母親が「実(みのる)のほうが正しいかもしれない」と言ってくれたという。 こうして泡盛を飲みながらビデオを解説していた金城さんは「よおし、だんだんと自分の言葉になってきたぞ!」と調子を上げ始めた。沖縄戦犠牲者においては戦傷病者戦没者遺族等援護法(援護法)の適用によって支給されるお金によって、言いたいことが言えなくされている人たちが大勢いるとのこと。基地問題は靖国問題でもあり、その問題を抜きにして「憲法9条を守る」なんていうのは「バカたれ」と言いたい、と言われる。また「憲法9条」どころか日本でありながら日本国憲法が適用されていない沖縄のことを考えるなら、「守る」なんておかしなことさ、とも言う。ご自身が「父親は犬死だ」と言ったことには痛みを伴う。その痛み、自分自身をえぐっていくことなしに、平和はあり得ない、とも語られた。 わたしが持って行った写真集にサインをしていただいたが、そこには「時に風にのり 風をよみ 出口を見つつ 着地点を間違うなよ!」という言葉をいただいた。「出会いは風」といい、金城さんを訪問した後で別な方に会う約束があり、時間で動こうとした私たちに「人に会うのに時間で区切るか!」と笑われた。また、ビデオには「古来琉球に伝わる下駄踊り?」というナレーションのもと金城さんの舞が写っていたが、運動にはユーモアがなければならんのじゃ、と言われたことも印象的だった。いろんな人が金城さんを訪ねてきて相談ごとにも乗るとのこと。かつては高校の英語教師だった金城さんの教育者としての厳しくも心ある一面をも垣間見ることができたし、その感性が反権力に向かうこと、親鸞(しんらん)にも共鳴し「琉球親鸞塾」の代表を務めていることも当然のように思われた。 そして沖縄を発つ日の午前中、沖縄県立博物館を見学した。沖縄の美しい自然や文化についての解説や展示品だけでなく、現在にいたる歴史的な背景がよく描かれていた。特に沖縄の日本復帰の問題では、泥沼化したベトナム戦争とともに沖縄の米軍基地維持費の負担感が米国において大きくなってきたことと絡めた議論が紹介されていた。「本土復帰」とは「おもいやり予算」「密約」に示されるように米軍基地維持のための「うそも方便」だったのかと考えさせられる展示だった。そこで、平良修さんに紹介された本島北端の辺戸岬にある「祖国復帰闘争碑」のことを思い出した。まだ見たことがないが次のように書かれているという。 全国の そして全世界の友人へ贈る 吹き渡る風の音に 耳を傾けよ 権力に抗し 復帰をなしとげた 大衆の乾杯の声だ 打ち寄せる 波濤(はとう)の響きを聞け 戦争を拒み平和と人間開放を闘う大衆の雄叫(おたけ)びだ 鉄の暴風やみ平和のおとずれを信じた沖縄県民は 米軍占領に引き続き 一九五二年四月二十八日 サンフランシスコ「平和」条約第三条により 屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた 米国の支配は傲慢(ごうまん)で 県民の自由と人権を蹂躙(じゅうりん)した 祖国日本は海の彼方に遠く 沖縄県民の声はむなしく消えた われわれの闘いは 蟷螂(とうろう)の斧(おの)に擬された しかし独立と平和を闘う世界の人々との連帯であることを信じ 全国民に呼びかけ 全世界の人々に訴えた 見よ 平和にたたずまう宜名真(じなま)の里から 二七度線を断つ小舟は船出し 舷々(げんげん)相寄り勝利を誓う大海上大会に発展したのだ 今踏まれている 土こそ 辺戸(へど)区民の真心によって成る沖天(ちゅうてん)の大焚火(おおたきび)の大地なのだ 一九七二年五月十五日 沖縄の祖国復帰は実現した しかし県民の平和への願いは叶えられず 日米国家権力の恣意(しい)のまま軍事強化に逆用された しかるが故に この碑は 喜びを表明するためにあるのでもなく まして勝利を記念するためにあるのでもない 闘いをふり返り 大衆が信じ合い 自らの力を確かめ合い決意を新たにし合うためにこそあり 人類の永遠に生存し 生きとし生けるものが 自然の摂理(せつり)の下に 生きながらえ得るために 警鐘を鳴らさんとしてある ところで、3月11日に発生した地震と巨大津波によって東北地方の沿岸の壊滅的被害がある一方、人災ともいえる原子力発電所の事故で多くの人々の目が覚まさせられたと思う。東京でも大きな原発反対のデモが行われていたが、あるプラカードには、「東京の電力のために福島の皆さんに犠牲を強いていてごめんなさい。」といったメッセージがあった。この状況は、決して原子力発電所だけの問題ではない。都市部やいわゆる「中央」が、地方の経済を人質(ひとじち)に様々な抑圧を押し付けている仕組みがあり、この沖縄の基地問題もこのような構図と無関係ではないと考える。原子力発電所に頼らない電力政策や地域再生というだけでなく沖縄の問題も含めて、「中央」の経済や政治支配によらない新しい枠組みや「生き方」を造りださなくてはと思うこのごろなのである。
以下、長野いのちの電話の広報誌の冬号に載せた文章です。 2011年3月11日金曜日の午後、私は松本教会で教会員と話をしていました。集会室のパーティションが大きく揺れ、長時間にわたる大きな揺れを三回感じました。"すごい地震だな!新潟かどこかが震源なのだろうか?"と思いました。連れ合いが「東北のほうがすごいことになっているよ。津波があるみたいだよ!」と叫んできました。私は岩手県大船渡市で小学生から高校まで暮らし、大学も仙台で過ごしました。何度も東北での地震や津波注意報を経験しましたので、「津波なんてたいしたことないんじゃない」と愚かにも答えてしまいました。しかし、経験したことのないようなことが起きていました。ニュースでは、仙台空港や陸前高田の映像が頻繁に流れていました。大船渡や仙台の友人たちも心配でしたが、一番気になったのは、釜石の教会で牧師をしている弟のことでした。釜石のニュースがあまりない中でも、津波が街を襲ったことを知りました。釜石の教会は、海からの直線距離で五~六百メートルでしたので、津波の被害は間違いないと思いましたが、教会の裏手の高台に逃れてくれれば、と願いました。確認する術はなく、インターネットで消息情報を探したり、消息を求めていることを掲示板に載せたりしました。弟の消息を求める彼の友人たちからも電話やメールが寄せられました。大槌町や気仙沼での火事や福島第一原発の恐ろしい事故が報道され、日曜日の礼拝準備もほとんど手につきませんでした。東北地方一帯の大停電のため、山形にいた両親はじめ妹弟との連絡も途絶えていました。釜石の弟家族の誰かは、命を失っていてもおかしくはない、と変な覚悟もしました。12日土曜日の夜、岩手県内陸北部に住むもう一人の弟から、電話がきました。釜石の弟の無事が分かりました。自分にとっては長い一日半でした。連絡をくれた弟は高校教師ですが、就職説明会が新日鉄釜石であったとのこと。説明会途中で地震に遭い、車を捨てて高台に逃れたところ、偶然にも釜石の弟と出会い、夜、ヒッチハイクのようにして自宅に戻ったとのことでした。電話を受けて涙があふれました。その後3月の終わりから3回、釜石に救援物資を運んだり、ボランティアとして出かけました。
高校生の時に読んだと思いますが、それからストーリーは覚えていてもタイトルが思い出せなくて、本を探せませんでした。先日、ネットで見つけました。『ベツレヘムの星』というタイトルでしたが、書評コメントを見ると、ああ、あの物語だ、と感じました。 表題の物語だけでなく、クリスマスにふさわしい詩や他の物語があり、お勧めです!
芥川龍之介 『金将軍』が韓国で評価が高いそうです。
大震災などの際には、流言飛語の類が飛び交う。関東大震災の時には「朝鮮人来襲」との流言が走り、罪のない数多くの朝鮮人が殺害された。 大正12(1923)年に芥川龍之介が「中央公論」(10月号)に書いた「大震雑記」に、その流言をめぐる菊池寛との問答形式の文章がある。 (中略) ここで芥川は菊池をだしにして、とぼけながら朝鮮人による放火などの流言を否定。それはデマであることを伝えているのだ。
文禄・慶長の役の際、秀吉の命で挑戦に攻め込んだ小西行長や加藤清正に対して祖国挑戦を救おうとした英雄・金応瑞が主人公。金将軍が行長の朝鮮人愛妓と組んで、行長を殺害する話。 もちろん、行長は朝鮮では死なず、うその話。だが「歴史を粉飾するのは必ずしも朝鮮ばかりではない」として、最後に「日本書記」での朝鮮・白村江の日本敗戦の記述を芥川は記す。「日本の歴史教科書は一度もこう云う敗戦の記事を掲げたことはないではないか?」と、その時に書いている。 また一緒に組んで行長を殺害した女性が行長の子を宿しているのを知った金将軍は、女も腹の子も殺害してしまう。武将の非情残忍な姿には日本も挑戦も変わりないと書いている。 関東大震災から間もないころに、自由で平等な歴史認識を示した芥川の「金将軍」に対して、近年、韓国では高い評価があるという。
火曜日に娘が発熱して、学校から電話がありました。 午後には、教会員の有志と施設入所や自宅療養中の方をお訪ねする予定だったのですが、わたしは行くのをキャンセルして、娘を迎えに行きました。(妻が岡谷に行っていたもので)。 水曜日の朝には、娘の熱はさがったようなので学校に行きましたが、午後にまた発熱して、戻ってきました。そのときは、妻がいたので迎えに行ってもらいました。そして、夕方になって、体に発疹があることが分かり、もしかして水疱瘡かも、と思いましたら、案の定、娘の隣の席の子が何日か前に水疱瘡だった、ということが分かりました。 ということで、木曜日の午前中、家の並びにあるクリニックに行って、診断してもらいました。水疱瘡だということで、病気を治すための薬とかゆみ止めの薬を処方してもらいました。院外処方でした。ところが、処方箋をもって近くの薬局に行くと、「うちにはありません」と言われてしまいました。次に近いところでもないとのことで、「取り寄せますか」と言われましたが、すぐに必要ですので、別なところにあたることにしました。大きな病院のそばの薬局ならあるだろうと思っていくと、そこでも「うちは在庫がありません」と言われました。でも、そこでは「うちの系列で聞いてみます」とのこと。別な店舗で在庫があるとのことで、そっちに向かいました。ところがその薬局はとても混んでいて、40分ぐらい待たされてしまいました。結局、クリニックを出て、1時間半ぐらいかかってしまいました。9時半に病院に行って11時半に帰ってきたのですが、午後からの集会用の資料も作っていなかったので、慌てました。医者に「どこの薬局に行けばいいですか」って聞けばよかったかな、と思いましたが、久々に無駄な時間を過ごしたって感じでした。おまけに、最後の薬局では、テレビでずっと「シャーク スチームポータブル」の宣伝をずっとやっていた(通販専用のチャンネル?)ので、ほとんど洗脳されそうになってしまいました。(この薬局は通販業界から何かもらってるのだろうか…。) 午後の家庭集会では、『クリスマスの黙想 新しい始まりを祝う』 (A.グリューン 著)から、「ろうそく」と「家畜小屋」の項目について分かち合いました。聖書やクリスマス・アドヴェントのこの時期に50の項目について黙想があります。言葉や物事を深めて考えるのに、この本はお勧めです!
信濃毎日新聞に五木寛之さんの「親鸞」が連載されています。 ここのところ、村の人たちに対して、親鸞が念仏をする意味を説こうとしています。 人びとは 「念仏を唱えれば、病気がなおるのか」「仕事がうまくいくのか」「暮らしが楽になるのか」などとご利益を期待します。 親鸞はそこで 「病気もなおらない。仕事もうまくいかない。暮らしも楽にならない」と言います。 すると人々は、念仏唱えても何にもならないんだったら、意味がない、と呆れあざ笑うものも出てきます。 しかし、親鸞が次のようなことを話すのです。 険しい山道を重い荷物を背負って登っていって、どんどん暗くなっていったとき、とても怖くなり泣き出してしまった。しかし、もうだめだ、と思った時に、光がさしてきて、足元がはっきりし、遠くの家の明かりが見えた。光があっても、重荷は軽くならず、道の険しさも変わりはない。しかし、それだけで安心し、前に進むことができた、と。 念仏は、その光のようなものだ、と親鸞は言いたいに違いありません。 そうした考え方は、私自身、神様について考えるときにいつもあることとつながります。自分の苦しみが、自分だけのものではなく一緒に苦しんでくださる方がいるということや、どんな困難な道も一人ではない、ということを聖書は語っているからです。イエス様は「神われらと共に」ということを表す方ですし、そもそも神様の名前「ヤハウェ」には、存在するということ、わたしが一緒にいる、というメッセージが含まれているのです。 そんなことを考えながら、今日(8月30日)の信毎朝刊の連載小説を読みました。 │<< 前のページへ │一覧 │ 一番上に戻る │ |