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通された部屋は友雅のよく知る部屋だった。が、主の姿はない。 「主はお方様の御前です。私が申しつかっておりますので。」 門前に宿る人影の報を仕える貴人の前で聞いたのだろう。助けてくれようというのは心根からか、或いは場の空気からやむを得ず、か。 女童が設えてくれた座に腰を下ろし、友雅は部屋主の記憶を辿っていた。心ざまはどんなだったろうか、なぜ、通うのをやめたのだったか……。 「お召し物を乾かしますから、どうぞこちらへ。」 女童が神子を部屋の奥に几帳を立て回した中へ誘っている。どこまで言いつけられているのか、どうやら几帳の中には女物のひと重ねが用意されているらしい。今着ている物を脱ぐように言われて神子が戸惑いの声を上げた。 「神子殿、こちらからは見えないから安心していいよ。」 「友雅さん!!」 声がとがっている。 「そのままではお風邪を召されてしまいますからどうぞご遠慮なく……」 促されてしぶしぶとかどうかはわからないが着替えを始めたらしい。衣が擦れる音が几帳の中から聞こえてきた。 見ないようにしていることなど神子には見えまいが、友雅は体を庭に向けた。夜更に訪れて日の昇る前に去るのだったから、この家の庭を明るいうちに眺めるのは初めてだった。家主はかなりの趣味人と見える瀟洒な作りの庭だ。女房の部屋に面した部分でこれだから、母屋の方はいったいどれほどか。 (何かの遊びに招かれたのだったはずだが……) 朧な記憶からは何も思い浮かばない。自分から求めて通ったのではなく、何かのはずみでそうなったはずだ。おそらく、この部屋主の方から文がつけられて、何となく興惹かれて返り事をして、そして。 調度に見覚えがあるのだからかなり足繁く通ったのだろうに、なぜ覚えていないのか……。 はたはたと足音がして、手元に衣装箱が置かれた。 「少将様もどうぞお着替えなさいませ。」 女童が持ってきたのだった。開けてみると、いかにも友雅の好みそうな色目の真新しい装束がひとそろい入っていた。 驚きの目を女童に向けると、得意そうに鼻をうごめかせて言った。 「見事なできばえでしょう? 私もお手伝いさせていただけてうれしゅうございました、少将様。こうしてお役に立つ日が来て、主もとても喜んでおります。」 衣まで縫って待っていた……自分はこんなに忘れているというのに。 几帳の影から声がした。 「友雅さんの恋人でしょう? この子のご主人って。」 「ああ…そのようだ。」 「そのようだって……違うんですか?」 「別れたのだよ……いつだったかも忘れるほど前にね。」 「忘れちゃったんですか!?」 「ああ、またそんなに声をとがらせて。京の姫君はそんな声を出すものではないよ、神子殿。」 からかう顔を女童に向けると、目にいっぱい涙をためているのが見えた。泣きそうなのをこらえて女童は言った。 「主に……少将様がお部屋にお入りくださったと伝えて参りますから……どうぞお召し替えくださいませ。」 どこまで伝えるのかと問う暇も与えず、女童は部屋を後にした。友雅は仕方ないねと嘆息して着ている物の紐をほどき始めた。心当たりが見つかったような気がしていた。もし自分の勘が間違っていなければ、自分が通わなくなった理由を女はよくわかっているはずだと思った。ちょっとしたすれ違い、どちらが悪いというわけでもなく、自然と消えてしまった恋だと友雅は思っていたのだが……。 濡れて少し重さを増した直衣の紐を解いた。単衣も湿って雨臭かった。衣装箱のひと重ねは心憎いほどに友雅の好みに合わせてあったから、若干心が痛まないわけではなかったけれど、友雅は遠慮なく濡れた物すべてを脱ぎ捨てた。 「さて、と……」 一人で着られないこともないが、手伝いの手があった方が望ましい。後朝の名残に人目を避けて帰るならともかく。 手伝いと言っても結びにくい紐を見栄よく結んでくれればいいので、先ほどの女童でもと思っても女主の元へ行ったまま戻ってくる様子もない。 (猫の手よりはましかな) 異世界の少女だが、紐の結び方くらいは知っているだろう。毎朝自分で着て出てくるのだから。 「神子殿。すまないが、少し手伝ってはもらえまいか。君がいつも結んでいるようにこの紐を結んでくれればいいのだが。」 友雅が近寄る気配を察してか、几帳の内から悲鳴があがった。 「いや、だめ、来ないで、友雅さん!」 「どうして。」 「ダメ、いやなの、近寄らないで、お願い! 恥ずかしいから!」 何を恥ずかしがっているのかは想像できた。いつもの服装と違うことが面映ゆいのだ。 「かまうことはないよ、今ひとときの借り着だろう? 君が嫌だというなら無理は言わないつもりだが、この紐を自分で結ぶとどうにも見栄えが悪いから、こんな昼間に女性の屋敷で何をしてきたかとまた余計な浮き名が立つのも面倒でねえ……」 大げさな嘆息をまぜて几帳の内へ言ってみた。どのような衣装を着て神子がどんな風に変わったかを見てみたかった。 友雅の思惑通り、几帳の端がもぞと動いた。神子の小さな頭が少しだけ布端から覗いた。 「友雅さん、困ってるんですか?」 笑い出したいのをこらえ、困り切った顔をわざと作って、友雅はうなずいた。 「そうだよ。こんな昼間から着崩れた姿では外へ出られない。助けてもらえまいか、神子殿。君の力が必要なのだよ。」 着ている物を隠すように尼削ぎの頭が几帳から出てきた。神子にとっても、身仕舞いのできていない友雅は初めてだ。だらしなく直衣がたるんでいる姿に驚いたのか、隠れることを忘れたように几帳から急いで出てきた。 「どこ、結んだらいいんですか?」 こことこことと指さして教えた。言われるままに丁寧に蝶結びしていく神子を、友雅は黙って見下ろしていた。それなりの年齢なのに童女のように切り揃えてある髪の先がゆらゆらと袿の襟元にかかっている。神子のいた世界では髪を長く長く、身の丈に余るほどにも伸ばすことはないのだそうだ。その若さで出家したかと思われるような髪と華やいだ撫子色の衣の不釣り合いさは最初こそ友雅の目には滑稽だったが、今こうして改めてみるとかえってかわいらしく、どこか友雅の好色心をくすぐる危うさまでも感じさせる。 (これが龍神の神子たる所以かな。) 手の届くところまで近づいている不用意な体を抱きしめてしまいたい衝動。そしてそれを押さえる自分でも笑い出したくなるほどの自制心。そんなものが自分にあったとは思えなかったが、どこかからわいてきたにしろ外から与えられたにしろ、それはきっと龍神やこの少女のもつ力のせいだろう。 直衣の前垂れの下で帯を結べば終わり。おぼつかない手では無理だろうと前垂れをたくし上げておくのを神子に頼み、友雅は帯を締め上げた。締めにくかろうと後ろから友雅を抱えるようにたくし上げている神子の手は衣の重みに負けて下がり、帯を締める友雅の手に触れてしまう。その感触にびくっと怯えてまたすぐに戻るが、どんな顔をして持っているのかと思うと自然にくすりと笑える。 飾り帯を着けるのももどかしく、友雅は神子の手を捕らえた。逃げようとする手をしっかりつかみ、体の向きを変えて神子の顔をのぞき込んだ。 案の定、恥ずかしさに真っ赤に染まった顔。 (可愛い……) 口づけてしまいたい衝動が突き上げる。逃れようと身をもがく神子の体をすくい上げ、強く抱きしめたその時。 「神子殿!」 よく知る声が庭から聞こえた。友雅の手から力が抜けた。慌てて逃れる神子の顔には安堵の色があからさまに見える。華やいだ撫子の重ねの愛しいものは、あんなに友雅の目に触れることを嫌がったのに、迎えに来た武士の前には何事もないように出て行くのだと見える。 (妬いているのか? 私は。) 自分の心の動きの一つ一つが不思議だった。友雅の所行を目にしただろう武士は友雅には警戒心に満ちた視線を向けるが、神子のことはついぞ見せたこともないだろう優しい瞳で見下ろしている。見上げる神子も信頼しきった目で武士を見つめている。この二人の関係も神子とそれを守る八葉であることに変わりないのだが、それ以上の想いを通じ合ってはいないか? (だとしたらどうだと言うんだい?) 自分はいったいどうしたいのだと自問自答する。普段ない屈託はつい外へ出てしまうものか、神子が怪訝そうに友雅を見た。 「どうかしたんですか? 友雅さん。」 ……君のせいだよ。 こぼれた屈託を拾い集め、いつもの余裕を努めて前に出す。 「……お迎えも来たようだ。失礼しようか、神子殿。」 借りた衣装のことを気にする神子を促し、車に向かった。 「どうして頼久さんがお迎えに来てくれたんですか?」 「友雅殿の御車が空でどこかへ行くという知らせがありましたので、藤姫様が私にお命じになりました。」 あの小さい姫君は聡すぎると友雅は苦笑した。出かけた衣装と異なる姿で館に戻ったならどうなることか。 友雅は空を仰いだ。降り止まぬ雨が冷たい。 「馬を。」 従者が引いてきた馬に跨がった。 神子を乗せた牛車が静かに進み出した。共に乗らなかったからか武士の警戒の色が少し薄らいだように感じられる。牛車からも大きな安堵のため息が聞こえた気がした。 (嫌われたものだねえ……) ふふと笑むと、友雅は馬を駆けさせた。この訳のわからない想いを振り捨ててしまいたかった。お待ちくださいと止める従者の声は遠かった。
雨宿 「おや。」 ぽたりと袖を打った雨粒に、友雅は空を見上げた。さっきまで抜けるようだった青空が暗く曇って、こらえきれないとでもいうように大粒の雨がぼたりぼたりと道をぬらし始めた。 「神子殿。」 あわてて走り出そうとする少女を呼び止め、広袖にかくまうように抱いた。恥じらう神子が身じろぎ逃げだそうとするのを押しとどめ、抱えるように走って近い屋敷の門の屋根下に雨宿り、供人に車を取りに行かせた。 広袖の中の神子の震えが止まらない。 「寒いかい?」 神子は首を振った。雨宿ったのだから不要だとばかりに広袖から逃げ出した。 「ふふ……かわいいね。」 神子は真っ赤になった。警戒心をあらわにして友雅と距離を取った。 「どうしたの。そんなに離れたら濡れるよ。」 「大丈夫です。ここ、まだ屋根がありますから。」 好きにさせるさと友雅は目をそらした。視線は自然に雨宿った屋根に向いた。 (……見覚えがあるような。) そこにあったから飛び込んだ屋根だったが、確かな記憶にはなさそうだった。従者のひとりが神子を気にしながら告げた。 「……ここは、以前……」 「ああ……」 前に通っていた屋敷だったらしい。どういうわけで別れたのかも忘れた。通い始めたきっかけも朧だった。やりとりしたはずの文も、肝心の女の声も顔も忘れかけて、隣にいる神子や館で待つ姫君が目を剥いて怒りそうな、そんな戯れの跡のようだ。 どうしたものかと思ううちに、門扉の横の小さなくぐりがぎ…と開いて、こざっぱりした衣を着せられた女童が顔を出した。よくしつけられているのか、気後れすることなく友雅に近づき、 「そんなところではお困りでしょうからどうぞ中へと主が申します。」 と、はきはきと告げた。 友雅は少し躊躇したが、隣の神子は気の強い風を見せながらも肩は寒そうに震えているし、止みそうにない雨は更に強く屋根下にも降り込んで、気づけば神子も自分もすっかり濡れていたのだった。 「お言葉に甘えましょうとご主人に。」 「はい、ではこちらへ。」 案内するというので友雅は神子を見返った。 「神子殿、行くよ。どうやらここは私の知人の家だったようでね。」 「知人?」 先ほどからのこそこそしたやりとりが耳に入っていないはずはない。神子の眉がいぶかしげに顰められる。友雅は悪戯にくすりと笑った。神子の眉根が今度がきっとつりあがって友雅をにらみつけた。 「ふふ、全く君は……見ていて飽きないね。」 「どういう意味ですか!?」 「ああ……君の相談役をアレに頼んだのは私の失策だったようだ。」 神子の眉がますますつり上がるので友雅はおかしくてたまらなかった。からかいがいのある娘だ。いい退屈しのぎになる。しかし、遊んでばかりはいられない。 「すまないね。しかしこのままでは車が来るまでにずぶ濡れだ。お言葉に甘えることにしよう、神子殿。彼女に連れて行ってもらおう。」 友雅が指す方向に可愛い女童を認めて神子の顔は和んだ。女童がまたいかにも愛らしく微笑むから、神子の機嫌はすっかり直った。 「行きましょう、友雅さん。」 先に立って歩いて行くのがおかしくて友雅はまたも吹き出しそうになったが、ぐっとこらえて後に従った。
初夏 (まったく、私らしくないねえ。) こんなにも君の背中がまぶしいなんて。 その背を抱きしめて、振り向かせて口づけを。 軽くあらがう君に目隠しをあてがってどこか遠くへ連れて行こう。 君のためなら空も飛べる。月の迎えなど来ないよう、光の道をふさいでこよう。君が私だけを見ているように、闇の帳が二人を優しく包むように。 言の葉だけは胸の内でいくらでも紡がれるのに、口に出すことができない。 どれも今の神子にはふさわしくなく、どれも自分の本心ではない。いや、もともと本心などないのかもしれないが。 目の前を藤姫と笑い合って歩く神子。 京の衣服に似た神子の世界の衣。 (浴衣と言っていた。) 湯浴みの後に着るから名付けられたのだと神子は屈託なく語った。 (まったく、どういう想像をさせるのだろうねえ。) 無邪気この上ない。 しかし、こんな少女の他愛ない一言にこんなに動揺するというのは実に自分らしくない。 (まったく、どうしたというのだろうねえ。) 遠くでイノリが神子を呼び立てる。今日は東寺の縁日に来たのだ。庶民の暮らしぶりや鄙ぶりの食べ物は貴族である友雅には珍しく、日常から外れたこんな空気が、友雅の平常をも奪っているのかもしれない。 「友雅さん、こういうの、食べたことありますか?」 神子が目の前に差し出したのは、串に刺して焼いた鮎だった。 「旨いぜ、食ってみろよ。」 鮎は旬の食べ物だから食膳に上らぬことはないが、串刺しのままかぶりつくのは初めてだ。 どこから食せばいいのかと戸惑い顔の友雅を、イノリが不思議そうに見上げた。 「友雅でも知らねえことあるんだな。」 「このように食することはないからね。」 藤姫には神子が食べさせていた。指でほぐして口元に運ぶ。おそるおそる口に入れた藤姫から感嘆のため息が漏れる。 「おいしいですわ、神子様。鮎というのは魚だったのですね。」 「鮎は魚だぜ、そんなことも知らなかったのか?」 「神子様がしてくださったような形でお膳に載ってくるのですもの……」 半ば呆れ顔で鮎の講釈を始めるイノリの横で、友雅は串のまま、鮎をほおばってみた。香魚の名の通り、しっとりした香りが鼻腔に広がる。焼きたての香ばしさ温かさも舌に心地よい。 「友雅さんにはこれも欲しいでしょう?」 神子が徳利を差し出した。 「ふふ、気が利くね。」 「だって、今日はお祭りですもの。」 ふわりと笑って、神子は行ってしまった。藤姫やイノリと連れだって。 渡された徳利を広袖に隠して、友雅も後を追うように歩き出した。見失って間違いでもされてはかなわない。土御門の公務で出かけられなかった頼久や検非違使の補佐役の「ばいと」に出ている天真に何を言われるかわからない。 (くわばらくわばらというやつだからね。) 神子の背中を見逃すはずはなかった。何しろ今日はどうしたわけか殊更に輝いて見えるのだから。 (まったく、何がどうしたというのだろうねえ。) 神子がもたらした一掬の酒がそうしたとでもいうことにしておこうか。 今度は餅菓子の屋台で立ち止まっている一行に、友雅はゆるりと追いついていた。
篠突く雨の音が友雅を浅い眠りから揺り起こした。 (雨……) 手近にある柔い温みをいつもの習いで抱き寄せた。主の求めに抗わない伽の温みを気のない手つきで弄ぶ。艶めいた小さなうめきがあがっても、友雅がそれに動かされることはない。それは単なる習慣に過ぎないから。 「あ……」 若様、と呼ぶ前に友雅は伽をうち捨てた。立ち上がり、妻戸を押し開け、夜着のまま廂へ出た。 激しい雨音と雨の匂いに満ちている。友雅は目を上げ、庭を見た。雨の中に混ざるかすかな香り……救いを求めるような。 (私を待って……いるのだろうねえ。) 友雅は黙って部屋に戻った。几帳の外に控えていた伽に衣の用意を言いつけた。かしこまりましたと差し出された衣に袖を通し、友雅は後ろ髪を束ねた。 「出かけるよ。」 呼ばれて庭へ控えた従者が困惑顔で友雅を迎えた。 「この雨の中をどちらへお出かけですか、若様。雷まで鳴り出しましたが……」 「だからこそ出かけなくてはならないのだよ、約束をしたのでね。」 「では……」 友雅を乗せた網代が動き出した。友雅は重ねた袖の端を少しばかり御簾の外へはみ出させた。女車の振りをして門番の目をごまかすつもりだった。 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ (来てくださるのでしょうか。) 几帳の陰で震える小さな影は、友雅の約束を覚えていた。 (まるで後朝の別れのようだと言ったらあなたの乳母殿に叱られそうですね。) あの夜、冗談めかして笑いながらこの単衣を脱ぎ置いていった、優しいけれど悲しそうな色の目をした人。怖いことがあったらこの単衣を抱きしめていなさい、その香りが消える前にきっとあなたを守りに来ましょうと言った。 (恋人をしょっちゅう取り替えるような人です。私との約束なんかきっと覚えてなどいらっしゃいません。) それでもこの小さな姫は単衣にくるまらずにはいられなかった。歳よりも大人びたこの姫は、怖いからと仕える者を呼び立てることをよしとしていない。大雨も鳴神もしばらくすれば去る。本当に危険なときは乳母も頼久もきっと助けに来る。怯えに取り憑かれるのは己の修練が足りないから。けれど、怖いものは……怖い! 侍従の香りがほのかに薫る単衣をぎゅっと握りしめ引きかぶり、姫は几帳の陰に隠れた。暗闇を裂く稲光も静寂を打ち破る雷鳴も几帳を立て回した奥なら耳目に入るのはほんの少し。我慢できると思った。そのときまでは。 昼とも見まがうばかりに庭が白く光った。続いて地を引き裂かんばかりの雷鳴。 (ひっ……) 叫びたくなるのをぎゅっと食いしばって堪えた。侍従の単衣をいっそう強く引き被った。ぴりと絹の裂けるような音がしたがそんなことは気にならなかった。今はとにかく、あの鳴神から、身を、守りたい。逃げたい。避けたい。 (怖い……!!) 堪えきれない声が食いしばった唇から漏れる。堪えた分は涙に変わって目から溢れる。堰が切れたらもう我慢はできなかった。姫は泣き出した。激しい雷鳴は姫の声をかき消すほどだったから、姫はもう堪えることをしなかった。 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ 藤の馥郁とした香りが姫の目を覚まさせた。 あの激しかった雷雨がなかったかのように外は穏やかな光に満ちているようだった。姫は潜り込んでいた衣からおそるおそる顔を出してみた。 (あら……?) 確かに引き被り潜り込んでいたと思った衣は、明らかにはじめの物と異なっていた。なのに薫きしめられた香はあの衣と同じ匂いを漂わせている……あの衣よりも新しく濃く。 (何があったのでしょう……何も覚えておりません。) 立て回した几帳は一つも変わらず、変わっているのは確かに隅で小さくなっていたと思うのに、中央に敷かれた寝衾に常と変わらず横たわっていたことだった。そして上からすっぽりとかけられていたこの衣。昨夜引き被いた衣は桜を思わせる淡い紅だったのに、今手にしているのは姫の好む藤の色を映したかのような紫苑色だった。 「お目覚めですか?」 乳母が顔を出した。姫は尋ねた。 「これは?」 「あら、覚えていらっしゃらないんですか? 昨夜遅くにおいでくださいましたのに。」 あの雷鳴の中を乳母を訪ねてきた振りをしてやってきたのだと乳母が話した。几帳の奥で震える姫を抱え上げて寝衾に運び入れ、懐深く抱きしめて何度も背をなでていたと。 「ご覧なさいませ。」 文机の上に置かれた硯箱の中から、乳母が文をとりだして見せた。 開けて読むなり、姫は耳たぶまで赤くなった。 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ 土御門から文というので友雅は起き上がった。 (まるで後朝の文のようだね。) 乳母にはその心づもりがあるのかもしれないなとちらり思いながら、友雅は文を開いた。彼の姫の言の葉が歳よりも大人びた筆跡で、しかし多少の動揺を隠しきれずに並んでいた。 (ふふ。) かわいいねと、友雅は文を文棚にしまった。文殻として捨てる気にはなれなかった。どういうわけでこんなに心にかかるのか不思議なほどだった。 (これを「縁」と言うのだろうかねえ……。) まだ年端も行かぬ少女だというのに。友雅は持ち帰った単衣を横目で見やった。桜色のそれは一部湿りを帯び、袖の縫い目がほころびていた。さぞかし怖かったのだろう、小さな手は血が出はせぬかと思うほどに固く握られ、友雅の力でも容易にほどけぬほどに強ばっていた。呼ぶまで来るなと言われていると手をこまねいていた乳母が狼狽するほどに蒼い顔をして、震えていた。我を失っている姫をどうしてあれほどに愛しく思えたのか。何か温かい、しかし恋よりもずっと持ち重りのする感情を、なんと呼ぶのだろう。 我を失った姫を抱きかかえ、背をなでて添い寝した。清らかな乙女に暗い情欲など似合うはずもなく、寝息が穏やかに整うのを聞き届けて友雅は几帳を出てきた。激しかった雷雨もその頃にはすっかりなりを潜め、西の空低く輝く月がもの言いたげに友雅を見下ろしていた。 (目を離せぬとね。) 誰が誰にと独りごちて、友雅は文机に向かった。今宵行くよとさらりしたため、昨夜自分を駆り立てた藤の花穂に引き結んだ。 友雅はぱんと手を打った。御前にと従者が顔を出した。 「使いをしておくれ。土御門の小さな姫君に。」。 どんな顔で出迎えてくれるのか楽しみだった。お出かけですかと女房が差し出す衣に手を通した。
つんつんと袖を引かれてあかねは自分が寝ていたことに気づいた。はっと周りを見回すと、心配げに見上げる藤姫と目があった。 「神子様、お疲れですか?」 「あ、ううん、大丈夫。そういうわけじゃないんだけど……」 藤壷中宮に誘われて出席した、御所の管弦の遊びだった。帝の御前でもあるし、楽人の中には友雅もいるし、眠っていい場面では決してないのだが、ゆったりした雅楽の音色は思いの外心地よく、ちょっと油断して目をつぶっていたらそのまま寝ていたらしい。 御簾の向こうの舞台から視線を感じる。うつらうつらと影が動いたのを見られはしなかっただろうか。たどれば友雅がそこにいると知っているから、あかねはそちらを見なかった。打ち物の楽人の姿勢が改まり、新たな曲の始まりを知らせる龍笛が響いた。友雅の音色だと藤姫がうっとりとつぶやいた。あかねは、ここへ出席することになった顛末を思い出していた。 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ その日も、あかねは琴の練習に余念がなかった。 「精が出るねえ、神子殿。」 いつも通り、さぼる口実にあかねの部屋に隠れに来ていた友雅が呆れたように言った。 「だって、面白いんですもの。」 「そうかい? さっきから同じところばかり繰り返しているようだけれど、よくも飽きてしまわないものだね。」 「弾けないと悔しいです。友雅さんは悔しくないんですか?」 「私かい? そうだねえ……」 友雅はやおら身を起こしてついとあかねのそばへ寄った。あかねが身を翻すようにして座を移るのをふふと苦笑いで見送って、琴爪をはめた。 あかねが苦労していた節をいともあっさり弾いてのける。 しかも、華やかなきらきらしい音色で。 (すごいな。) あかねが寄せる感嘆の視線が心地よい。友雅が奏でる様子を食い入るように見ている姿がかわいくて、友雅は同じところを幾度か繰り返してみた。 「どうしてそんな風に弾けるんですか? 友雅さんも練習……」 「そんな面倒なことを私がすると思うかい?」 「……思いません。でも……」 「嘘だよ。小さい頃は私も人に劣るのはいやだったらしくてね、少しはがんばっていたのだと思うよ。でも、極めようとかさらに磨こうとかそういう気にはなれなくてね、そういうのも、飽きたと言うのだろうねえ。」 次々に恋人を取り替える今の友雅とイメージがかぶった。きっと同じように、次々と挑戦する物をかえていったのだろう。 友雅が琴の前を空けたので、あかねはまた琴の前に座った。友雅の手の通りに弦に指を置き、弾いてみた。 (あ?) 音が変わったと思った。 「おや、なかなか飲み込みがいいね。素直だからかな。」 友雅が横から手を出してきた。 「そう、もう少し軽くね。弾くというより掻く感じかな。」 無駄に力を入れていたところがこつを得て抜けたのだろうか。軽々ときらきらと弾けるようになってきたから、あかねの瞳も輝いてきた。 「最初から弾いてごらん、神子殿。今ならきっとできるよ。」 友雅が蝙蝠を開いて立ち上がった。あかねの奏でる音に合わせて舞い始めた。 (え?) あかねはあっけにとられた。嗜みなのだから友雅が舞えないはずはなかったが、管弦の才の方が目立つのか、所望されることもなければ自ら舞うなど言うはずもない。それが、あかねの琴に合わせて舞って……いる。 「友雅さん、急にどうしたんですか?」 「さあ、どうしたのだろうね。君の琴を聴いていたら、体が動いてね。」 やめないでとあかねに言い、友雅は舞い続けた。 体の中から何かが突き上げてきたのだ。呪でもかけられたかのように蝙蝠を開き、手舞を始めていた。不思議な心地よさを感じた。音に抱かれ、音を抱きしめる。面はゆいほどだった。自分のどこからこんな情熱がわいてくるのかと。 友雅が自分の演奏で舞ってくれるから、あかねもうれしかった。間違えて友雅が困らないようにと懸命に弾いた。友雅が打ち鳴らす蝙蝠のリズムに合わせて夢中で弾いた。 「少将殿が舞ってらっしゃいますわ!」 廊下で声がした。とたんに、周りの部屋から女房たちが集まってきた。 「おや。」 舞の手が止まった。がっかりした声が上がった。 「ではね、神子殿。」 ぱちんと蝙蝠を閉じると、友雅は部屋を出て行った。もっと舞ってほしかったとねだる声に「またね、姫君方」といつも通りに流す声が遠くなっていく。 「ねえあなた、どうして少将殿は舞ったの?」 「あなたの琴がよほどすばらしかったのかしら、ねえ、私にも教えてくださる?」 「もっとお弾きなさいよ、戻ってらっしゃるかもしれなくてよ。」 口々に言う声にあかねは困惑しながらも言われるままに琴を弾き続けた。押さえる手に弦の跡がくっきりついて痛かったけれど、友雅の舞姿を思い出すと、弾く手は止まらなかった。 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ 「実に参ったね、御達の噂話ときたら、あの後すぐにお召しがあって参上したらもう帝のお耳に届いていた。」 管弦が終わった後の宴で、友雅が近くに寄ってきて言った。 「居眠りしていたね、神子殿。」 「……ばれてました?」 「耐えられないというようにかくんと首が落ちたからね。笑いを堪えるのに苦労したよ。」 やっぱり見られていた……あかねは首まで赤くなった。 「ごめんなさい、寝ちゃうつもりなんかなかったんですけど、なんかすごく気持ちよくて……」 「いいよ。よい楽の音はよい眠りを連れてくる。酒と同じさ。あの楽が君に眠りをもたらしたのなら光栄だね。」 友雅が満足そうに言った。そのとき。 「橘少将、今宵は舞わないのかしら?」 中宮の声だ。参ったねと友雅は蝙蝠の先でこつんと額をついた。 「仰せのままに。」 中宮の意向が楽人に伝えられたらしく、舞台の楽が「青海波」を奏で始めた。「少将殿が舞われるぞ」と舎人が呼ばわる声がした。 翻り翻る袖。篝に照らされた友雅の顔は翳りを帯びていつにまして美しい。 ほうっというため息が庭に満ちた。 「今宵は珍しい物が見られることだね。これも神子殿の人徳かな。」 帝の声に、あかねはまたかあっと赤くなった。
夕焼け小焼けで 日が暮れて 公務を終えて帰宅した友雅の耳に入ってきたのは、あかねの澄んだ細い歌声だった。友雅の知らない歌。おそらく、あかねのいた異世界の楽なのだろう。 まるい大きなお月様 (お月様、ね……) 声をかけようとしたところへちい姫の声が聞こえたから、友雅は言葉を引っ込めた。妻戸の陰に隠れて、垣間見の姿勢を取った。気づいた女房が何か言いそうにしたのをしいっと制した。 「お母様、月にはウサギさんがいるのでしょう?」 「そうだよ、ほら、月に模様が見えるでしょう?」 東の空に浮かぶ月にはくっきりと兎に見える黒い影が見える。くまなく明るく光る月を見上げて話しているのだろう。とすればかなりの端近、直衣の端でも見えてはと、友雅は壁にさらに身を寄せた。 「お父様が、月には姫君がいるとおっしゃいました。お母様、お月様からいらしたお姫様の物語を聞きたい。」 吹き出しそうになるのを友雅は必死で堪えた。月の姫はちい姫になんと答えるのか。 「お父様が……?」 困惑げなあかねの声音。 (いったい、友雅さんは誰の話をしたんだろう。嫦娥のことか、かぐや姫か、もしかして……!?) 「はい、では、絵巻をお持ちしましょうね。」 乳母の声に友雅は大きく嘆息した。あかねには大きな助け船だったろうが。 (しかたないねえ……) 友雅は蝙蝠をぱちんと鳴らした。心得ましたと控えていた女房が妻戸を開ける。 「あ、お帰りなさい。」 極上の笑みが二つ、友雅を迎えた。一つは大きく手を広げてかきついてくる。 「お利口にしていたかい? ちい姫。」 「あい、お父様。お父様、月のお姫様のお話をして。」 「ふふ、すっかり気に入ったようだね。」 友雅はあかねに背を向け、ちい姫を膝に置いて低い声で話し始めた。 「お父様が帝のお召しで出かけるとね、空が不思議な色に光っていたんだ。八色の光というのをお父様は初めて見たね。何の徴だろうと思っていたら、空を割って、一人の姫君が降りてきたんだ。従者を二人連れてね。」 あかねの顔がみるみる赤くなった。 「友雅さん、それは……!?」 「何だね? 私は姫にちょっとした昔語りをしているだけだよ。」 「だって、昔語りって、それ、その話は……!」 「止めるかい? 姫が続きを聞きたがっているのだけれどね。」 ちい姫の期待に満ちた丸い目に、あかねは口をつぐんだ。友雅の目から見たその話を聞くのは初めてかもしれないと思った。 心のかけらの話、札を集める話、そして、最後の戦いの話。 「お父様もそのお姫様とがんばったの?」 「ああ、時々しかられてしまったけれどね。」 「しかられるって……お父様はまじめではなかったの?」 「はは、対の男があまりにもまじめすぎるからだよ。時には肩の力を抜かないとうまくいかないこともあるというのにね。」 年端も行かない姫に何を教えるのかと眉が上がるのを、傍らの少納言が止めた。確かに、友雅にブレーキをかけられて救われたことが何度もあった。「急いては事をし損じると申します」と頼久さんが頭をかいていたっけ。 「……それでそのお姫様は?」 「さて、どうされたかな。月に帰られたかそれとも……姫の近くにいるかもしれないね。」 友雅はあかねの方を見返った。慌てたあかねはつんを居住まいを正した。 「……こんなに冴えた月の宵は、何かを思い出したりしないかい?」 「何を?」 「ふふ、そうだね、君にはそういう感覚がなかった。時々忘れてしまうよ。」 月を割って降りてきたとしか見えない少女だったが、あかねは白い光に満ちてはいても何もない世界から押し流されて来たと言った。 ちい姫が不思議そうにあかねを見た。 「月からいらしたの……お母様?」 あかねはちい姫に腕を伸ばした。うれしそうに寄ってくる小さな体を抱きしめた。 「帰らないよね?」 「え?」 「月にはお帰りにならないよね? ずっとここにいるよね?」 目が熱く潤む。あかねはちい姫をさらに固く抱いた。 「ここにいるよ、ずっと。私はちい姫のお母様だもの。」 「うん……約束。」 約束と抱く腕に力を込めるのに、友雅がほおっとため息をついた。 「すっかりお株を取られてしまったねえ……」 にじり寄り、母子共に広袖の中に抱き込んだ。 「私のためにも残ってもらえるのかい? 神子殿。」 「当たり前じゃないですか……」 大寒の夜寒の空を照らす月が白い。まもなく、あかねが来て何度目かの春が巡ってくる。 庭の隅で、梅が一輪ほころびる……そんな気がした。
(まったく、元気のいいことだねえ……) 友雅は嘆息した。ふと思いついて立ち寄ったのだったが、かなりの早朝だったというのにあかねの姿はとうになく、藤姫が朝の勉めと手習いをしているばかりだったから。 「札探しかい? 精の出ることだね。」 「神子様はどなたかと違ってまじめでいらっしゃいますから。」 何を感づいたのか、御簾の内の藤姫の態度も冷たい……のはいつものことかと友雅は苦笑いしていつもの高欄に凭れた。 「久しぶりに、筆跡を見て差し上げましょうか、藤姫。」 「結構です。もう書き慣れたお手本ですから。」 「では、新しい手本はいかがかな? 見飽きたでしょう。」 「まだ飽きてなどおりません。」 とりつく島もないとはこのことだろう。何をそう不機嫌なのか、心当たりがないでもなかったが。 袂に投げ入れられた文殻をはたはたと振り落とし、一つ一つに薫きしめられた薫りをそれとなく香る。御簾の内から視線がくすぐったい。見ないように見ないようにでも気になって仕方がない視線。 (かわいいねえ……だから、かな。) 蝙蝠をはたとならして女房を呼び、文殻を渡した。 「姫君がごらんになりたいそうだ。御前に。」 「誰も申しておりません!」 「おや、そうですか? 先ほどからずいぶん気にしておられたようだが。」 「存じません!」 破顔して庭に目をやると、よく知る顔が眉をひそめて立っていた。 「おや、鷹通。」 「友雅殿、今日はずいぶんお早いのですね。」 「ああ、昨夜から休んでいないのだがねえ、これも早起きというのかい?」 鷹通の顔が一気に引きつった。 「どちらかの御殿で御宿直でしたか。お勤めご苦労様です。」 口調がとげとげしい。 「何か言いたそうだね、鷹通。」 「ええ、友雅殿ですから!」 「対である君にまで信じてもらえないとは情けない。帝の御前を先ほどようやく退出させていただけたばかりだというのに。」 疑いの目を向ける鷹通に、友雅は肩をすくめて見せた。 「……ほんとですか?」 「……君の想像にまかせるよ、鷹通。」 端正な顔がさっと紅潮するのを、友雅は見逃さなかった。友雅がもっとも気に入っている瞬間だったから。 「ふふ、かわいいね。だから君のことを放っておけないのだよ、鷹通。」 「友雅殿、あなたという人は!!」 「はは、まいったまいった、降参だよ。まったく、君たちにはかなわない。」 蝙蝠の陰で大きな欠伸を一つして、友雅は座を立った。沓がざりっと庭の敷石を踏みしめる音に、知らん顔し続けていた藤姫もさすがに目を上げた。 「また来ますよ。神子殿によろしく。」 ふわり立ち上る薫りに、藤姫はこわばらせていた表情をゆるめた。 「お伝えしますわ。友雅殿も、どうぞ首尾よく白虎の札を見つけてくださいませ。」 「ええ、心しましょう。この堅物の対の君にもよくよくお願いしておくこととしてね。」 厳しい表情を崩さない鷹通の横を、蝙蝠を打ち鳴らし小声で催馬楽を歌いながら通り過ぎた。 (……!) 鷹通の顔も、申し訳なさにゆがんだのを、友雅は見なかった。 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ (さて……神子殿はどちらへお出かけかな。) 朱雀の札というからには京の南の方角か、大内裏から遠いはずれは時に賊も現れるという。 (あの二人だけではおぼつかないからね。) 頼久の姿も見えないから、きっと警護に就いているに違いない。 (手柄を独占させるほど心広くない、か?) 殊に心奪われるほどの魅力がある娘ではないけれど、何故か心にかかるものがある。まるで雲井の月が隠した雲を照らす光に心惹かれるとでもいうように。見えないから見たい。異世界から来たという物珍しさか、それともこれが宝玉のなせる技なのか。 友雅は笛を取り出した。先ほどまで奏でていたそれはまだ少し湿りを帯びて、朝露の湿りと共に指にひんやりと心地よい。唇に当ててひょうと奏でた。朝ぼらけの光の中に澄んだ音色が吸い込まれる。 浄められる。 友雅には新鮮な感覚だった。あの少女が自分を変えていく。不思議にも心地よい感覚に、ふと酔いそうになっていた。
御簾の隙間からそっと差し入れられた箱に、幸鷹はしばらく見向きもしなかった。 嗜みとはいえ、薫きしめられたその薫りが、送り主の正体を告げていたからだ。 (何のつもりだ。) 贈り物を受け取る理由など何もなかった。が、使いの者が「四条の尼君のお屋敷から」と伝えてきたから、突き返せとも言えずにそこに置かれてしまったのだ。 (姑息な。) 正面からでは決して受け取らないと知るからこその仕業。よりによって、紫姫や神子の名を騙るなど。 御簾の合間に置かれた箱は少なからず人の出入りの邪魔をする。幸鷹を訪ねる部下たちが、いちいち怪訝な顔で箱を眺め幸鷹を眺めるが、幸鷹があたかも何もないかのように振る舞うので「いかがいたしましょう」とも聞けず、箱はずっとそこにあった。 日の暮れる頃、幸鷹の身の回りをする女房が掃除のついでに箱を手に取った。 「殿様、これは……」 「捨てておいてくれ。」 吐き捨てるように言われた言葉に女房は驚きの顔を隠さなかったが、言われるままにどこかへ下げに行った。 幸鷹はほうっと息をついた。部屋の中に染みついた穢れがようやく祓われたかのような気分になった。 するとそこへ、先の女房が慌てて戻ってきた。 「殿様、本当に捨ててもよろしいのですか?」 「本当に? どういうことだ。」 「尼君様の許においでの姫君様からの御文が入っておりました。」 「紫姫から?」 渡された文を幸鷹は半信半疑でつまみとった。小さく結ばれた結び目を爪の先でほどくと、確かに紫姫の筆跡だった。 神子様のお頼みで御文をいたします。 神子様のいらした世界では、一人一人の生誕を言祝ぐ習慣があるのだそうでございます。 こちらではそういうことはいたしませんと申し上げましたらとても残念に思われて、お気の毒なほどでございました。 何でも、お祝いの言葉を申し上げ、贈り物をするのが習わしとか。どうかお受け取りになって、神子様のお望みをかなえて差し上げてくださいませ。 「箱の中には文の他に何か入っていたのか?」 「はい、美しいお色目のつややかな布子が。」 「布子?」 「ええ、手巾と呼ぶには少し小さくて。」 幸鷹はそれを持ってこさせた。手に取った瞬間、幸鷹にはそれの使い道がわかった。 (眼鏡拭き。) どうしてわかったのか、幸鷹にもわからなかった。そして、それがどうしてあの薫りを纏ってきたのかも皆目わからなかった。 幸鷹は立ち上がった。訪ねるのが一番早いと思った。 *:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。 「本当に助かりました。香合わせは貴族の姫の嗜みと、お祖母様も教えてくださるのですが、香木を砕いて粉にするところはどうしても力が足りなくて。」 「ふふ、お役に立てたならうれしいねえ。楽しかったかい? 神子殿。」 「おもしろかったです。ちょっと粉を増やすだけですごく薫りが変わって。」 幸鷹の誕生祝いに、絹の端布を眼鏡拭きにして花梨は準備していたのだが、めざとく見つけた翡翠が「香を薫きしめたらどうか」と提案し、幸鷹好みの侍従の香を合わせることになったのだ。 「翡翠さんの言うとおりに合わせたんだけど、幸鷹さんの好みに合うかな。」 「大丈夫だと思いますわ。でも、幸鷹殿の侍従とは少し趣が異なるような。」 「それは、神子殿のお好みということでいいのではないかな? 合わせる者の手加減で異なる物だからね。」 ふふと含み笑いの翡翠に、花梨は一抹の不安を覚えた。 「翡翠さん、何か企んでませんか?」 「おや、企むとは人聞きの悪いことを言うねえ。何も企んでなどいないよ。」 「ほんとですか?」 「疑うのかい?」 じろりと見下ろされる視線に、花梨は肩をすくめた。 「……まあ、楽しみにしていなさい。きっとおもしろいことが起こるから。」 起こっていない証拠に花梨の頭をぽんと一つたたいて、翡翠は部屋を出て行った。紫姫は女房を呼んで幸鷹あての贈り物を言付けた。そうして、箱は幸鷹の屋敷へ届いたのだった。 *:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。 花梨の部屋を訪れた幸鷹は、そこに翡翠の姿がないのにほっと胸をなで下ろした。 「よかった、神子殿、私は……」 息せき切ってやってきたのを隠しきれない幸鷹に、花梨の方が驚いた。 「幸鷹さん、どうしたんですか?」 「どうしたって……あの薫りですよ。」 「ああ、あれ……」 花梨がほのかに頬の色を染めるから、幸鷹はまた、かっと熱くなった。 「神子殿、まさかあの海賊と……あれは危険な男だと言ったはずだ。」 「危険って……何も危ないことなんかしてませんよ?」 「じゃあ、あの薫りは!」 「気に入りませんでしたか……?」 花梨の目が潤んできたのを見て幸鷹は慌てて言葉の調子をゆるめた。 「……あの薫りは、どうしたんですか?」 「作ったんです。翡翠さんと……」 眉根がぎりっと上がって睨みそうになるのを幸鷹は懸命に押さえた。花梨の言葉を最後まで聞かなくてはと思った。 「……紫姫と3人で。」 3人で! 幸鷹はほうっと大きく息をついた。 「幸鷹さんの好きな侍従の香を作ろうと思ったんです。紫姫が作り方を教えてくれて、でも、香木をつぶすのにすごく力がいって、そしたら翡翠さんが手伝ってくれて、それでそのとき、幸鷹さんはこれくらいの感じが好きだって、翡翠さんが合わせ方を加減してくれたんです。ね、翡翠さん。」 同意を求める花梨の声に、幸鷹は目をむいた。 「翡翠さん……!?」 「おや、君にさん付けで呼んでいただけるとは光栄だねえ、別当殿。」 くつくつと、堪えきれないというように笑いながら翡翠が壁代の向こうから姿を現した。幸鷹の顔はこれ以上赤くなれないと思われるほどに紅潮した。 「気づかなかったのかい? 君ほどの人が、よほど動転していたとみえる。」 「私が、どうして!」 「ああそうか、風向きが悪かったのだな。私には君の薫りがありありとわかったけれどね。」 幸鷹の顔がどんどん険しくなるので、花梨はいたたまれない思いだった。 「あの、翡翠さん、けんかはやめてください。」 「けんか? 誰と誰が?」 「翡翠さんと幸鷹さんがです!」 「けんかなどしてはいないよ。おもしろくてたまらないだけでね。」 「何もおもしろくなんかありません!」 「そうかい? 私には、別当殿が慌てふためいてこの部屋に入ってくるのがこの上なくおもしろく感じられたけれどね。滅多に見られない光景だと思わないかい? 神子殿。」 花梨は勢いよく立ち上がった。笑いを止めない翡翠の横をつんと通り過ぎて、幸鷹のそばへ寄った。 「こんな翡翠さんは放っておいて、どこかへ行きましょう、幸鷹さん。」 幸鷹はうなずいて立ち上がった。翡翠の笑いは止まらなかった。 「翡翠殿。」 花梨と幸鷹を見送りにきた紫姫が静かに翡翠を睨み付けた。翡翠は軽く肩をすくめただけで、満足そうな笑みを消さなかった。 *:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。 幸鷹が件の絹の端布を出して眼鏡を拭いたので、花梨はびっくりした。 「どうしてわかったんですか?」 「こうして使うのではありませんでしたか?」 「合ってますけど……びっくりしました。」 「そうでしょうね。私も驚いています。この布を見たとき、こういう使い方しか思い浮かばなかった。」 幸鷹は花梨の瞳をのぞき込んだ。そうするといつも、幸鷹の脳裏に同じ風景が浮かぶ。京の建物とは似ても似つかぬ無機質な、目眩を覚えるほどの高層な建物群、牛車とは比べものにならないほど速く走る金属製の車。数え切れないほどの人が忙しげに行き交い、赤や青の明かりがともる機械が人の波を仕分けている……。 幸鷹はいつもの頭痛が襲ってくるのを感じた。 苦しげにこめかみを押さえた幸鷹を、今度は花梨がのぞき込んだ。 「大丈夫ですか?」 「ええ、すぐに収まります。ご心配かけて申し訳ありません、神子殿。いつものことなのです。」 そう、あの夢を見るといつも感じる、目眩のする吐き気、締め付けられるような頭痛。苦しさに飛び起きるとそれらは嘘のようにかき消されて、何事もなかったかのように眠りにつけるのが常だった。 (これの使い道が即座にわかったのも、この夢に関係があるのだろうか。) 見たとたんに、「いつも使っているなじみの物」という感じがしたのだ。眼鏡は単衣の端か懐紙で磨く物と思い込んでいて、それ用の布を使うなど思いもよらなかったのに。 花梨の手が、ぎゅっと広袖の端をつかんだ。その手を取り、抱きしめたい衝動を幸鷹はぐっと抑えた。 (まだ早い。) 何が早いのかはよくわからなかったが、わき上がる暗い欲望を抑え込むには十分だった。自分はあの海賊とは違う……そういう自負もあった。 「帰りましょう。あなたが冷えてしまう。」 幸鷹の言葉に花梨は素直に従った。西の空にかかる細い月を見上げながら帰った。沈む夕日に山々の峰や建物がくっきりした影になって、夜寒を避ける雁が鳴いて渡る、そんな宵だった。 「ありがとうございます。」 幸鷹がつぶやいた言葉に、花梨はうれしそうにうなずいた。心まで凍てつきそうに冷えていたけれど、今夜は暖かく眠れそうだと思った。
(千尋……どうしてあなたは……) 時の螺旋をぐるり回して、あなたがまだ誰のものでもない時空に戻したのに。 風早は悩んでいた。役目が終わるまで、永遠にでも千尋と共にあらねばならぬという白き龍との誓約とは別の次元でわき上がる熱い物を、最近、風早は持て余しぎみだった。 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ 常世での日々は、風早には苦しみ以外の何ものでもなかった。 千尋の心は日に日に常世の皇子に傾き、それは中つ国にとっては恒久的平和を約束される悦ばしきことだったが、その熱き想いに政治的思惑など何の関わりもなく、「千尋を我がものとせよ」と風早を嘖む。 (それは俺には許されていない……) 常世と中つ国は政治的手段として婚姻を結んだ。今の常世の混乱が収まるまでの形式的なものとして皇子も了解していた。婚姻の実質は伴わない、と。 ところが、それは日々形を変え、いつか千尋の中で恋に変わっていた。 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ 千尋は、皇子の妃として別室を与えられていた。 千尋が風早を手放すのを拒んだから、風早は今まで通り妃づきの武官として、そして、次の間を控え室にするという別格の扱いを受けることになった。 結婚は困ったことだが禍日神を倒して中つ国に帰るまでの方便と千尋が考えているうちはよかった。中つ国にいた頃、橿原の借家にいた頃と同じように、風早は思うままに千尋の側にいられた。 ……抱きしめればわかる。 千尋が何を考えているのか。 黒い悩みの影が広がる。 時が訪れたのを風早は知った。 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ その夜も、リブが千尋に茶を淹れに来た。 穏やかな眠りを誘う茶を、遠夜も千尋に用意していたが、アシュヴィンのための茶はリブが準備していた。ある日、アシュヴィンがどんな茶を飲んでいるのか知りたがった千尋がリブにねだり、それを千尋はいたく気に入ったところから、千尋の寝しなの茶はリブが淹れることになってしまった。 そんな頃からだった。千尋の様子が少しずつ、目に見えて変わってきたのは。 風早がいればすっきり落ち着いていた瞳が、時々誰かを探すように泳ぐ。アシュヴィンの姿を認めると慌てて逸らす。まったく興味を示さなかったのに、常世の……アシュヴィンの日常を知りたがったり……。 (恋を、してしまったのですか、千尋……?) 中つ国のため、中つ国の将来のため、人の世と人の本質を見極め、白き龍に報告するのが我が身に科せられた白き龍との誓約……。 言い聞かせても荒立つ心は抑えかねる。ふと顔に出たのを千尋が見とがめた。 「どうしたの、風早?」 「え、いえ、何でもありませんよ、千尋。」 「どこか痛いの? 遠夜を呼ぼうか。」 「大丈夫です。そんなに俺、具合悪く見えましたか。」 「ううん、ちょっとね、苦しそうだったから。」 この姫にはすべて見透かされる。 そんな会話を思い出していたら、目の前に千尋が立った。 何か言いにくそうに、でも、何かをはっきりと決めた目で、風早に告げた。 「アシュヴィンにお茶を届けてくる……」 言ったとたんに耳まで赤くなった千尋を見て、風早の心は物狂おしく揺れた。引き留めたかった。全力で止めたかった。 (いけません、千尋。行ってはいけない。) あなたを愛しているのは俺ですと、幼い頃から慈しんできた小さな手を握りしめ、腕の中に引き寄せて! 行かせてなるかと身動きもできないほど固く抱きしめて、本当に、それができるならどれほどいいか! 引き留める権利などないのを風早は知っていた。 「……わかりました。」 努めて平静を装ったつもりだったが、千尋はきっと何かを感じたに違いない。何よりも愛しいと思うその唇が「ごめんなさい」という言の葉を紡ぐのを風早は見た。小さな足音が外へ出た。ドアがぱたんと閉まったその瞬間に、風早はきっと唇を引き締めた。 時の螺旋が音を立てて巡る…… ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ 経巡った時空でも、風早は千尋の手を取ることはできなかった。 鳥船の中での千尋の常の居場所は、自室でも堅庭でもなく、書庫だった。 「ここに書いてあるのはほんとに事実なの?」 「ええ、我が君。竹簡は何でも教えてくれます。我が君のこれから歩かれる道、既定伝承です。」 「それを変えることはできないの? 柊、あなたは……」 「私の将来に何が待ち受けていようと、それが私の既定伝承です、我が君。」 「そんな……」 千尋の蒼い目から大粒の涙がこぼれ落ちる。何が書かれているのか、風早はよく知っていた。 (その男は危険すぎます、姫。) あなたを連れて常世へ向かったなら、きっとあなたは悲しい目に遭う。その男と一緒にいてはいけない。引き離さなければ。 しかし、近づけば近づくほど、千尋との距離が遠くなる気がした。柊の隻眼が自信ありげににやりと微笑む。 (これも既定伝承というものですよ、風早。) 千尋が柊の言う既定伝承にない運命を選択したと知った瞬間、風早の意思は迷いもなく時の螺旋を巡らせた。今度こそ、千尋がこちらを向く運命へたどり着くのだと…… ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ 「風早、風早!」 千尋の声がする。 風早は閉じていた目を薄く開けた。この家でもっとも日当たりの悪いあげくに窓際まで本棚を置いた部屋は昼間でも薄暗いが、それでも千尋が開けたカーテンから細く朝日が射し込んで、新しい1日が始まったことを告げている。 「ねえ、起きて。朝だよ! 遅刻するよ!」 いつもの仕返しとばかりに激しく揺すり起こす千尋に、風早は容易に応えようとはしなかった。これが望む運命でなければ、すぐにでも時を巡らせる……。 「ほっとけば? 先生が遅刻するなら僕たちには好都合だし。」 「そんなのダメだよ! ちゃんと起こすって約束したんだもん。」 (那岐、ですか……) 風早は渋い顔をして寝返りを打った。揺り起こしていた千尋の手がはっと止まった。気まずい空気が流れる。布団に触れた指が小刻みに震え、怯えたように離れるのを感じた。部屋を出る足音が重く響いた。 「……どうしたの。」 「何でもない。」 強がる声が涙を含んでいるのを感じて、風早は体を起こした。 (俺が泣かせたんですか? 千尋を。) 耳を澄ませた。 「風早の朝が不機嫌なのはいつものことじゃないか。どうせ昨夜も遅くまで本を読んでたんだろうし。寝不足だよ。」 「でも……あんな風に避けられたの初めてだもん。」 「千尋の気のせいだよ。たまたまだろ。」 「違う。気のせいなんかじゃない!」 「じゃあ、いつまでもそうやって悩んでれば? 勝手に思って勝手に決めて、千尋はバカだ。」 「バカじゃないもん!」 そのまま声が聞こえなくなった。風早はゆっくりと起き出した。すぐにも行って抱きしめたいところだったが、那岐の言うとおり寝不足の頭は思うように体を動かしてくれない。 「僕はもう行くよ。とばっちりで遅刻くらっちゃ敵わない。」 「私も行く、待って、那岐!」 「ごめんだね。千尋はあいつと来ればいいだろ。」 「もう、那岐!!!」 風早の足取りが止まった。千尋の心が今度は那岐に傾いているのを感じた。 (俺の姫はあなただけなのに……あなたは私だけのものではいてくれないんですね、千尋。) 白き龍との誓約が頭をかすめた。 (そういうこと、か……) 守りたいもの。守るべきもの。それは、人として愛の対象とするのではなく、神として守護するということ…… 玄関の戸が閉まる音。風早はようやく台所に立った。千尋の用意したと思われる朝食を食べ、上着に手を通して家を出た。 畝傍山から遠雷に似た音が聞こえる。 (ああ、またあの日……) 今度はどの運命を辿ることになるのか。 小さな印も見逃すまいと、風早は注意深く、学校への道を歩いていった。
京に涼風が立つようになった頃。 友雅はいつも思い出すのだった。 大堰の山荘で迎えたあの息苦しい夜。 守るだの支えるだの言葉にはしても、何もすることができず拳を握る、自分の無力さを思い知らされた夜。 そしてもたらされた大きな喜びに思わず涙する己に絶句し、守るべき者を得た自分がいかに変わったかを改めて感じた朝。 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ 「友雅さん♪」 愛しくてならない者が目の前にある。 「おとうちゃま。」 そしてもう一人、かけがえのない宝。 友雅は宝を抱き上げた。あかねが時々嫉妬するほどの優しいとろけそうな笑みを浮かべて。 「もう、ふたとせか……姫は三つになるのだね。」 生まれた年を1才と数えるのが京の習わしなら、二度目の誕生日を迎えた姫はこれで3才になったことになる。 「袴着のことを、そろそろ考えなくてはならないねえ……。」 東宮妃にと約されている姫だった。気兼ねのいらない大堰の山荘住まいで、五十日や百日といった誕生の儀式を簡単に済ませてしまっていたから、そろそろきちんとその手の儀式を執り行って、橘の家にこの姫有りと世間に示しておかなければならない。鄙育ちの姫よと軽んじられないために洛中に邸を構えたのだ。面倒だなどと言っている場合ではなかった。 土御門では昨年、その東宮となるべき親王の袴着が行われた。祖父である左大臣が袴親を勤め、土御門の威信翳ることなしと世間に知らしめた。そのまねをする気は更々ないが、「あの橘友雅」に、親王と釣り合いのいい娘有りと世間に知らせておくのは、姫の入内後の障害を取り除く布石になる……ちい姫が後宮ですぐれてときめくための。 急に黙り込んだ友雅の顔を、あかねがのぞき込んだ。 (友雅さんは変わった……) 出会った頃とはまったく違う。あかねが知らなかっただけかもしれないが、あかねの知る友雅はいつも飄々として、どこか投げやりな感じまでするほどだった。「変えたのは君だよ。」と友雅はいつも言うが…… (ほんとに友雅さんを変えたのはこのおちびさんだわ。) 土御門では決してみせることのなかった顔。 「それはそうでございましょう、お方さま。お殿様も橘のお方ですわ。」 少納言が言った。 「どういうこと?」 「お方さまもご存じであられましょうが、橘は古く南都からつながるお家、土御門の藤原と並び称されるお家柄でございます。ところが、藤原がうまく立ち回ったおかげですっかり日陰に周り、今では『落ちぶれた』とまで言われる家になってしまいました。」 あかねは静かに頷いた。学校で習った歴史の項目がちらと頭をよぎった。 「袴着を、するのね? 友雅さん。」 「ああ……面倒だがね。」 渋い顔を見せる友雅に、よく知っている友雅を見て、あかねはほっと安心した。 「君にもいろいろ頼まなければならないけれど、少納言とよく相談して……」 「心得ております。」 少納言がとんと胸元を叩いて微笑んだ。 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ しかし、友雅が大きく宴を張ることはなかった。 源平籐橘と並び称されるとはいえ、皇室につながる源平ならともかく、今の「藤」の威勢はあまりに強大だった。橘友雅個人の威勢だけで何とかなるものではない。それは、八葉の勤めを終えてもぴくりとも動かない友雅の位階がはっきりと物語っていた。 (土御門もこういうところは辛辣だからね。) 慰労として俸禄が多少増やされたほどで、役職もそのままだった。もっとも、昇進させてやると言われても友雅の方から断っただろうが。 ちい姫の袴親を、友雅は自ら勤めることにした。藤壺中宮から是非にとお声掛かりがあったが、丁重に辞退した。口ではわがままめいたことを言っても友雅の難しい立場を理解していないわけではない中宮だから、多くの祝いの品を名代の女房に持たせて寄越された。 「その女房を、そのままちい姫づきにしてちょうだい。入内の後も困らないように。」 友雅はありがたく受けた。女房は衛門と呼ばれて、西の対でちい姫に仕えることになった。和漢の学に秀で、楽もそれなりにこなす女房だったから、ちい姫の手ほどき係にうってつけだった。 どんなに大きな宴になるのかと北の方あかねはドキドキしていたが、御所から祝いの品が届いたのを聞きつけた公家仲間が挨拶に来たくらいで、宴と言っても連なったのは藤姫と鷹通、その他は庭で和気藹々と、まるで大堰の山荘そのままの宴になった。 「これでいいの? 友雅さん。」 「いいさ。袴着だからね。」 西の対の畳を積み上げた上にちい姫を立たせ、きゅっと袴の紐を結んでやって、友雅はちい姫に「とんと降りてごらん」と促した。友雅の膝ほどの高さの畳だったから、ちい姫は嬉しそうに頷いて元気よく飛び降りて見せた。 「うん、いいね。これで元気に育つ。」 得意顔のちい姫の頭を撫でてやりながら、友雅も満足げに頷いた。 今まで単衣だけでいたものが、小さな袴をつけ、脱げないようにと袴紐を両肩で華やかに結んでいる様子は、あかねの世界のジャンパースカートのようだった。 「可愛い。」 大人の着ける袴と違って、丈短く、足が抜けるようにしてあるから、今までと変わらずに、おぼつかない足取りながらよちよちと歩いて、あかねのところへやってくる。少し幅広に仕立ててもらった袴紐を蝶の羽のように広げてやるとそのかわいさは更に増した。 「まあ、なんて可愛い! 私にもこういう妹が欲しかったのですわ!」 あかねから藤姫を抱き取って、藤姫が言った。六条に友雅が邸を構えてから、暇さえあればここに来ているから、ちい姫もすっかり藤姫に懐いている。 「妹とは……いずれ藤姫も母上になられるのではないのかな? そろそろそういうお話があってもよい頃だ。」 「存じません!」 「おや、いろいろ聞いていますよ。私が中宮様の妹姫に近しいと聞きつけて相談を持ちかける公達が引きもきらずでねえ……」 「友雅殿!」 きっとにらみつけるのを、あかねと鷹通が止めた。 「この姫の入内の頃に、友雅殿がどんなお顔をしておいでか、是非とも拝見したいですね。」 「さて、入内と恋は違うからね。」 言葉の底に、ひやりと冷たいものを感じて、あかねは背中がぞくんとするのを感じた。 「友雅さん……?」 「ああ、大丈夫。ちい姫が不幸になるようなことはさせないよ。ちい姫には嫁ぐお方がどなたよりも大切で愛しいお方だ。誰よりもときめき、誰よりも愛されて後宮に君臨する、最高の姫君に育てなくてはね。」 鷹通が力強く頷いた。それでもまだ不安そうなあかねに、藤姫が囁いた。 「東宮様以外の男君なら決してこんな風にはおっしゃいませんわ。友雅殿は本当に変わられた……神子様のお力ですわ。」 ちい姫はよちよちと縁まで歩いていっては庭の仲間に愛嬌を振りまいている。イノリなどが「可愛いなあ、ほんとに可愛いぞ、あかねそっくりだ!」と叫んでいる。その声に喜んで庭に降りてしまいそうになるのを乳母が慌てて抱きとめている。 (最高の姫君に。) 明日からちい姫には后がねとしての手ほどきが始まることになっていた。日常の起居、手習い、楽、絵、香……基礎を学び、極めるべきことが山ほどある。13,4歳で成人の式である裳着を行うのだというから、あと10年ほどで、そのすべてをある程度身につけ、さすがと言われるほどのレベルになっていたいとすると。しかも、裳着の直後におそらく入内のことが待っているのだとすると。 あかねは身震いした。どう考えても、自分のしてきた程度のことでは間に合わない。 「大変だ……」 ぽつりもらしたため息に、友雅も、鷹通も反応した。 「大丈夫だよ、あかね。京の姫君なら当たり前のことだ。私と君の姫なのだしね。」 「だから心配なんじゃない……」 「お任せください、神子殿。私もお力添えをいたしますから。」 鷹通の言葉にあかねは安心して頷いた。 「まったく、未だ信じていただけないのかねえ……」 友雅の嘆息にあかねは少し慌てた。 「違うの、友雅さん、あの子の半分は私だから!」 「だからどうだっていうんだい? こちらへ来てからの君の飲み込みの早さは目を見張るものがあったよ。さすが龍神の神子だと舌を巻いたからね。」 「でも、でも、まだできないことがいっぱいあるし……」 「全部できなくてもいいのだよ、中宮様だって決してすべてに長じておられるわけではない。そうだね、藤姫。」 「ええ、神子様。姉上にもできないことはたくさんおありですわ。」 「中宮様が優れて見えるのはね、周りに優秀な御達を多く侍らせているからだよ。君の少納言と同じでね。」 少納言の目でしっかり者の乳母をつけ、中宮様からは衛門を賜った。友雅の才、鷹通の知。ちい姫に不足するものは何もない。 夜もすっかり更けていた。 庭の篝火が、ちい姫を見守る者の顔を、赤く照らしていた。 │<< 前のページへ │一覧 │ 一番上に戻る │ |