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◎異国のメロンが見つからない 1619年11月10日、23歳のデカルトは、ドイツ30年戦争中に旧教側の軍隊で参戦(ほとんど戦闘らしきものはなかったらしい)していたが、バイエルン地方のウルムというところの宿営にいた時に、連続した3つの夢を見た。 デカルトは、真理の探究の情熱が高じて、既に半トランスみたいな状態になっており、さあいよいよ今夜だとばかりに床についたのだった。 第一の夢。 デカルトが激しい風の中を右側に弱さを感じながら母校の神学校に向かって歩いて行く。 神学校の校庭には男がいて、異国から運ばれてきたメロンをもらいに行きなさいと言う。 風はまだ強かったが、校庭でおしゃべりしている大勢の男たちは、強風の中、何の力みもなく平気で直立していた。 第二の夢。 稲妻が落ちたような音を聞き、愕然として飛び起きたら、部屋が無数の閃光に包まれていた。 三つ目の夢。 自分の机の上に置いてある辞書と詩集を見つける。見知らぬ男から詩集について質問されて、詩集の中のある詩を捜しまわるが、なぜかその中には人物肖像の銅版画ばかりであった。なおも捜すうちに詩集も男も消え、目が覚めた。 当時ドイツでは、薔薇十字団のことが話題になっており、彼らは真の科学を知っているとされた。デカルトは彼らの持つ秘密の知識についてもっと知りたいと思ったが、薔薇十字団についてそれ以上のことを知ることはできなかった。 知性の部分は顕在意識である左側であり、デカルトは無意識である右側の部分が弱いことを感じていた。それが異国のメロンとしてシンボライズされている。この稲妻は無意識の側、真の科学の側から来るいわば浅い見神であったといえよう。 第三の夢でそのものを見つけようとしたが、見つからなかったのは、結局薔薇十字団にも出会えなかったその当時のデカルトの成熟がいま一つだったことに対応しているのだと思う。
◎恐怖感と不安感のコントロール 東北関東大震災では、水と食料の確保の他、情報も重要なことがわかり、大して被害のなかった地域に住む人でも、ミネラル・ウォーターや、非常食や、懐中電灯、ラジオなどを買い集めに走り、その結果今では、そうしたものの在庫品がホームセンターや電気店、雑貨屋などで安売りされる有様になっている。 水、食料、情報と並んで、サバイバル時に重要なのは、心理のコントロールである。生死を脅かされるショックの中で、生きようとする意志を失うと、人はもろいものだ。米国陸軍では、その心理コントロールは6種必要であるとし、それは、恐怖感、不安感、怒りと欲求不満、鬱の誘惑、孤独と退屈、生き残った罪悪感であるとする。 まずは恐怖感と不安感。 『恐怖感をコントロールする 「恐怖感」とは死や怪我、病気を引き起こす可能性が潜んでいると我々が信じる、危険な状況に対する情緒的な反応である。この害は身体への警告に限らず、人間の調和のとれた情緒と精神を脅かし恐怖心を生み出す。 無茶な行為で怪我をする状況下で、恐怖感が生きぬこうと努力する兵士を勇気づけ注意深くさせるなら、恐怖感は肯定的な作用を果たす。 しかし惨めなことに、恐怖感は人間を動けなくもする。 サバイパルに対するさまざまな基本行動に失敗するのではないかと臆病にするのである。わが身を呪う条件下、なじみのない環境で、ほとんどの兵士がさまざまな度合いの恐怖感を抱くことだろう。 これは恥ずべきことではない! 我々は1人1人が恐怖感に打ち負かされない訓練をしなけれ ばいけない。理想をいえば、より現実的な訓練を通してこそ我々は自信を深め、自信によって自分の恐怖感をコントロールするのに必要な技術と知識を得ることができるのである。 不安感を利用する 恐怖感と常に一緒にあるのが「不安感」である。なぜなら我々人間にとって、恐れるのは自然なことであり、不安を感じるのも自然なことだからである。不安感とは、我々が危険な状況(身体的、精神的、そして情緒的)に直面したときに現れる心配、気遣う感情である。不安感を健全な形で利用するなら、最後まで我々を行動させ続け、あるいは我々の存在を脅かす危険をついには克服させる力をもつ。もしも人類が不安感を抱かなかったら、生活方法を変えようとする気が少しも起きなかったことだろう。 サバイバル中の兵士は、生き延びるサバイバル術を実行することによって不安感を減らすことができる。不安感を減らすにつれて、その不安感(恐怖感)の原因をコントロール下に置くことができるようになる。 この方法では、不安感は強い味方だが、不安感は強敵として我々に破滅的な衝撃を与えることもできる。困惑させ思考が困難になるくらいまで我々をやすやすと追い込み、我々を制圧する力をもっている。一度このような事態に追い込まれると、良質な判断と健全な決定が徐々に困難になっていく。 生き抜くためには、不安感を静め、我々を害することなく我々を助けてくれる範囲に不安感を留めておくテクニックを学ばなければいけない。』 (米陸軍サバイバル全書/米国陸軍省編/並木書房P21から引用) ここでは、心の持ちようや呼吸法などの直接的なテクニックについては書かれていないので、水の確保、食料の確保、体温の維持などの知識、装備を準備することであると考えていることがわかる。ただし、その大前提になっているのは、なんとしても生き延びようとする強い意志である。現代人は歴史的に極めて知的な人類であり、知的であればあるほど、生きようとする意志は相対的に弱まっていくものである。その大前提は最初から揺らいでいる。 修羅場で生きようとするかどうか。 それは心理訓練や肉体の鍛錬や装備の充実でなんとかできるものなのだろうか。 この点が、実は現代人全般に与えられた公案みたいなものなのだろうと思う。
◎どこまでも自分を失わない ロバート・モンローは、体外離脱の研究者だが、3種ある体外離脱のうち、アストラル・トリップばかりやっていた。 彼は、晩年に、「死は終点ではなく出発点であることを示すこと」「人類の大規模な進歩を図ること」という2つの大きな目標を掲げた。 死の恐怖あるいは死のプロセスの解明の一端を担ったという点はあるにしても、アストラル・トリップ止まりでは、輪廻転生を抜けることがないから、カタルシスのないギリシャ悲劇みたいなもので、いまひとつしっくり来ないのではないだろうか。 肉体を失うのも恐怖だが、自分を失うのも恐怖。アストラル・トリップでは自分を失うほうには踏み込んでいかない。どこまでも自分を失わないように進むのは、霊能力者共通の特徴でもある。 自分を失う、その自分って何。自分にとって幸福って何。自分は何のために生まれてきたのか。そちらの疑問への取り組みが本筋ではないかと思うのだが。モンローは良いグルに出会わなかったというところだろうか。 ※ボブはモンロー、ナンシーは彼の妻。フォーカス27は、霊界のポイントのひとつ。 『『究極の旅』の終わりに記されているように、ボブはナンシーの死後、ナンシーのいる「フォーカス27」と、この世のわびしいわが家という2つの世界で暮らすことができないか考えていました。 そのときボプは、「お前や他の人の情報によると、移行が起きたあと、あとにしてきたばかりの物質人生にいつまでもしがみついているのは地球上の人生にひどく耽溺してきた人々だけである。 ほとんどの人にとって、あとにしてきた人生との共鳴、興味、執着は、多少の違いはあっても急速に薄れていく。 そういうものなのだ』 という〈向こうの私〉の言葉を思い出していました。』 (ロバート・モンロー伝/ロナルド・ラッセル/中央アート出版社P393から引用)
◎誰でも今このままで幸福になれる生き方 ベンジャミン・フルフォードの『闇の支配者に握り潰された世界を救う技術』/講談社は、タブーだらけな本である。 まず彼は、世界の人口を現在の10分の一に減らしてしまおうとする邪悪な勢力がいて、金と石油、原子力などのエネルギー、軍事力、情報(インテリジェンス)を支配しているという前提に立つ。 その技術が世の中に広まれば皆の役に立ち、我々もメリットを大いに受けるだろう新技術を、この勢力が、隠したり奪ったり、その新技術の発明者を殺害したりしているのではないかという疑惑が全編に亘って描かれている。 その握りつぶされた技術とは、例えば20世紀初頭のテスラの無線配電技術が実用化しなかったこと、あるいは水素と酸素が2対1で混合された水の電気分解から作られたブラウン・ガスが燃焼するとタングステンをも溶かす高熱を発するというもので、この技術により水を燃料として走る車を作ったスタンリー・メイヤーは謎の死を遂げたことなどなどである。 これらは、世間で役に立ちそうな技術を隠蔽しているという話だが、一方、単純に人類の人口を十分の一にするべく企画された事案もいくつかあり、その一つがエイズであるという。 ベンジャミン・フルフォードには、「闇の支配者」勢力が、新技術の普及を制限していることに対する義憤があるのだろう。彼は、それらの新技術を世間に解禁すれば、人類はもっと幸せになれると信じている。 しかし本当にそうなのだろうか。世界を救うには誰の役にでも立ちそうな民生技術を公開することで事足りるのだろうか 新技術などなくても、誰でも今このままで幸福になれる生き方があるのではないだろうか。 彼のような行き方は、「それを外に求める」という生き方であって、冥想修行者の生き方ではないが、こうした貴重な情報を提供してくれる人もいなければ、我々はどこに立っているのかもわからないということになるものだと思う。特に今の時代は。 欧州発の世界恐慌は、まだ発生していないが、助走期間が長くなっているだけに、発生すると本当に大変なことになりそうだ。「金でつぶれるこの世界」・・・ですね。
◎宇宙全体の仕組みも見えた ベンジャミン・フルフォードのブログもたまに見に行くことがあるが、ぶっ飛び過ぎていて読み続けられない。でも彼のアヤワスカ(アマゾンにある向精神性植物の一つ)体験を見ると、まじめな求道者な面があったことがわかる 『もともと若いころから、わたしは別次元の世界に興味を持っていて、その手の本を読みあさっていた。十七歳のとき、家出をした。南米のアマゾンに一人で出かけ、ある呪術師の弟子になった。師匠はインカ帝国の知識を引き継いだ人で、アヤワスカと呼ばれる超能力を体験できるような薬も飲んでいた。呪術と薬の両方を使って、いろいろな世界にアクセスしていたのである。 (中略) わたしはその呪術師に付いて、いろいろな神秘体験をした。たとえば、アマゾンにいながら、カナダの友達が今何をやっているか見に行くことができた。時間と場所を移動できるのだ。あるときは、川でカヌーをしている姿が浮かんできた。後でその友達に尋ねたら、本当にその日カヌーをしていたと答えた。 それから、ずっと遠い過去にも行ってみた。何度も例に挙げている、カンブリア大爆発の時代をのぞいた。初めて大きな生命が出始めるときで、どの生物も躍動し、喜びにあふれでいるのがわかった。それぞれの個体にとって初めての体験であり、いろいろな音を交換し合い、大合唱しているような雰囲気に包まれていた。 四万年後の未来も見に行った。しかし、全然状況が理解できなかった。縄文人を現在の東京にいきなり連れてきたら混乱するのと一緒なのだろう。ただ、地球は水と緑にあふれ、非常に健全で、人類がほかの惑星と連絡を取っている様子も見た。 自分の最期も見た。百八十歳くらいになって、瞑想状態になった身体から魂のようなものが抜けて離れていった。不老不死の延命技術が発達したのだろう。わたしたちはまだこれから百数十年生きられるらしい。 ほかに見えたのは、人類の終わりらしき状況。人類が一つの大きなエネルギーとなって渦を巻いている。ちょうど卵の中に渦巻きがあって、最終的にはその渦巻きが卵を出てどこかへ行ってしまう。まさに「産卵」である。この現実を完全に捨てていく場面だと思われた。 宇宙全体の仕組みも見えた。すべての現実が共存していて、プラスマイナスに忙しく切り替わっていた。 一緒にアヤワスカをやったベルー人は違うことを言っていた。彼が見た世紀末は、聖書に描かれているような場面だったという。この薬の特徴は、夢が起きている状態で見える こと。未来にはあらゆる可能性が存在するから、人によって違うものが映し出されるのだろう。』 (闇の支配者に握り潰された世界を救う技術/ベンジャミン・フルフォード/講談社P223~225から引用) これは全体として見れば、例の未来予知実験で見えた未来が4者4様だったのと同じ。人類の最後とか宇宙全体の仕組みを見て、その後の人生航路を転換するような感動があったかどうかわからないが、この本には書いていないだけだろうか。 記述が淡々とし過ぎていて、何か愛と感動が不足している印象を受ける。そういう感じでないと、あれほどまでに行動的には生きられないのだろうと思うけれども。 一緒にアヤワスカをやったペルー人と比べて結構すごいところまで行っているし、その土壇場で何が起きたかを知る感受性と冷静さがあると見るべきなのだろう。 ブログだけではわからなかったが、興味ある人物の一人となった。
◎チベット人の無私と国際化など 東北大学薬学部卒で、メンツィカン(チベット医学暦法学研究所)を7年かけて卒業し、インターンを含め10年をインドのダラムサラで修行した小川康さんの10年を中心に書いた本が、「僕は日本でたったひとりのチベット医になった」(径書房)である。 ダラムサラは音に聞くチベット人街で、亡命チベット人の大拠点の一つ。ただし最大のチベット人居住区は南インドにあるという。 薬草採集はヒマラヤの山中となり、高山の中でベースキャンプに帰る道を失い、遭難しかけたこともあった。チベットは月面みたいな荒涼たる土地が大半だから、薬草を採取するのも命がけである。 卒業試験の最後はチベット四部医典8万字を一人で4時間以上かけて暗唱させられるのは37歳の学生たる小川さんにとってとても大変だった由。 メンツィカンの女子寮のおばばが、全財産をダライ・ラマに寄付した後に倒れて介護が必要になる状態になった。これには皆で往生したが、全財産をダライ・ラマに寄付するという行為に対し、周囲のチベット人はすごいとか特段の感慨もなく、至極当たり前のことと受け取っていたというが、そのあたりにチベット人の無私が生きている。 チベット医学には何かあるというが、彼はその何かにはまだ出会っていないようだ。ただ小川さんの出会った周辺の人物の多くが最近になってドイツ、カナダ、ニューヨーク、ニュージーランドなどへ移住したり現地で活動したりしているのは印象に残った。亡国人はこのように国際的に活動すべしだと思った。そうした運命が日本に降りかからないとも限らないのだからと、私も英語の学習し直しを最近考えている。 ところでこのメンツィカンという学校では、冥想は教えてないみたいですね。ただ、暦法コースも併設のようだが、チベット占星術はそちらでやるのだろうか。この本では暦法にも冥想にも言及がなかったのが残念である。
◎沈黙のローブ お先真っ暗な見通しばかりなので、久々のクリシュナムルティ。 彼の1920年代の詩から。 『「探究 The Search」 風のように新鮮、熱烈に 谷間の隠れ家を探す そのごとく私もまた わが魂の秘密の住居を探す 自らをすべてのもの 過去と現在から浄めつつ。 突然沈黙のローブが 喧噪の世界におりる 瞬間、私は御身を見る 森羅万象と私自身の中、奥深くに。 山の小道 岩に腰を下ろせば 御身が傍らと私の内におられ 御身とわが内に万物はあり 幸いなるかな 万物に御身と私を見出す人は。 日没の光の中 春の樹木の綾なすレースを透して 私は御身を見たり。 またたく星々の中に 私は御身を見 素早く飛び去り 黒々した山へと姿を消す鳥らに 私は御身を見る。 御身の栄光は、わが内に輝きを目覚めさせたり。』 (クリシュナムルティとは誰だったのか/アリエル・サナト/コスモスライブラリーP246-247から引用) この詩では、御身という名で、表現しえないそれを仮に名付けている。後代の詩や散文では御身などとは絶対に言わない。いずれにしても体験とは言えない体験を表現してもらわないと、我々は何のことか想像すらもできないのだから、こうした詩文は貴重である。
◎千年王国の2説 次の時代が千年王国になるだろうという説には二説あって、この世に千年王国を創る説とあの世に千年王国を創る説である。 どちらの説も我々悟っていないその他大勢をどうするかが、対応の分かれ目になる。 まずこの世に千年王国を創る説は、聖書の黙示録や北欧神話や出口王仁三郎予言などで指摘されている世界のことである。 そして、あの世に千年王国を創る説とは、旧約聖書のイザヤ書にあるような一旦悟っていない大多数のその他大勢のすべてをあの世に送って、機根の上質な人間だけこの世に再誕させ、迅速にこの世に新たな千年王国を創造しようという企画である。 イザヤ書では、その目論見のため、「見るな、聞くな、感じるな、悟るな、更には癒されるな」と人間の感情を無視した方向性を打ち出して、人間のこの世が荒れるがままにして、速やかに滅亡せんことを期待している。 このタイプの期待・方向性は一見邪教のようではあるが、ノアの方舟や、ギリシア神話に出てくる何回かの世界的洪水などでは、一旦は人類は全滅させられたのであるから、悟っていないその他大勢は遠慮なく絶滅させるという残酷・無慈悲な神のポリシーの片方は、古来より存在してきたわけである。 イザヤ書以外でも最近のアセンション説の中には、よく見てみると霊界に楽園を造ろうとするものがあるが、それはイザヤ書型の悟っていない者全滅型の未来を語っているものであることに注意が要る。 更には、どういうわけか人間の健康を損ない、人間が快適に生活できないような広範囲に悪影響の出るようなことを人為的に行う者がある。原発などはその一例だが、エイズのような人為的に作られたと思われる病気もその類である。要するに人類の迷惑になるようなことを意図的にしでかして「あの世に千年王国を創る」ポリシーを積極的にやっているのではないかとしか思えない勢力があることも、(普通の社会人の常識では考えられないことだが)念頭におきたい。 要するに、この世に千年王国を創る説では、悟っていないその他大勢は、出来が悪いけれど何とか生かして悟るように持っていく、 あの世に千年王国を創る説では、悟っていないその大勢は一旦全滅、 という全く異なるポリシーがあるように思う。 ただし、この世に千年王国を創る説とあの世に千年王国を創る説の2種に共通する発想を想像してみると、ある文明全体に神を知る者が○人以上いればその文明は滅ぼさないが、○人未満ならば滅ぼさないみたいな足切り基準が存在するのではないかということに思い当る。 これは旧約聖書のソドムのロトが救出される際のいきさつに出てくる。 あの世に千年王国を創る説では、この足切基準は人間の都合を全く無視しているのに対し、この世に千年王国を創る説では、足切基準はやや人間寄りにできているとも言えよう。 この二つのポリシーのせめぎ合いは、古事記の伊邪那岐尊(イザナギノミコト)が黄泉の国の伊邪那美尊(イザナミノミコト)を訪問した後の、伊邪那美尊が一日に1000人殺すなら伊邪那岐尊は一日に1500人の子供を産ませましょうというやりとりの時代からあるので、昔からあるものである。 しかし、文明の終わりに生きる我々の日常生活の維持という点からは、のっぴきならない二つのポリシーのせめぎ合いである。その混乱の原因は我々が悟ってないことにある。悟らずして文明の精華もない。
◎ローマ法王に似る 皇族方の人数が急速に減れば、宮内庁の役人の人数を大きく減らすリストラが不可避などという役人の論理はさておいて、敗戦後に皇室の制度を定めて宮家を削減した頃から今日の事態は予想されていたことであり、GHQの読み筋どおりに展開しているということ以外の何物でもない。 ところが別の見方もできる。 第二次世界大戦後、核兵器による米ソの角逐が予想される世相を背景に、なぜか日本が、軍隊を持たない、あるいは戦争の放棄という21世紀風の現実離れした憲法を持ったのは、至福千年に向けての世界への巨大なアドバルーンであったといえる。これはいわば20世紀の七不思議のひとつみたいなものだ。 それに加え、GHQが当時意図しようがしまいが、将来あるいは近い将来に日本から天皇が消える可能性を置いたということは、いわば戦争の放棄とセットで、新時代の根幹として、先行して世に出てきたものだろうと思う。古神道風に言い換えれば、この2点は、三千年前からのビッグ・プロジェクトとして仕組まれたものと充分見ることができる。 新時代、至福千年では、人類は平等ではなく神を頂点とする181段階のヒラルキーで成る神主主義の時代。これまでは民は神を知らないのが大多数だったが、新時代は大多数の民が神を知る時代。過去の歴史では、大多数が神を知らない民向けの体制として、神の名代、大神官として日本には万世一系の天皇が存在していた。これから大多数の民が神を知る時代になってくれば、天皇の在り方は、自ずと変わってくるのではないか。 そうした無意識の大きな時代の流れを反映した動きが、今回の宮内庁長官が皇族減少の危惧で首相に直談判という扱いになっているのだろうと思う。女性宮家創設というアイディアはそうした大きな流れに掉させる力があるのかどうか。 さはさりながら、天皇の国の根幹。人臣位を極めれば天皇に近づくものであり、巨富を得れば次には名誉を望むものだが名誉の極みは天皇であるといえる。世の中には聖と俗があるが、天皇は日本の聖と俗の要であり、その要が変わる影響は我々にとっても極めて大きなものにならざるを得ない。 マラキの預言では、ローマ法王もあと一代。カトリックにとって法王の系譜が終わってしまうのは一大事だが、カトリックの置かれた状況はなぜか天皇家とシンクロしていると見える。
◎行の招く所は証(さとり)なり 何もしなければ、何も変わることはない。 何もしなければ、終末に予定されている天変地異やあらゆる混乱に巻き込まれるだけに終わる。 リターンを求めて坐ることは、あってはならないことだが、とにかく悟っていない自分でも迷いの中に坐らなければ何も始まらない。それが、たった一日5分でも。 そこで、道元の学道用心集から 永平初祖学道用心集の仏道は必ず行に依りて証入すべき事の段から 『知るべきである、迷いの中で修行を始めることは、〔そのまま〕証(さと)りを、覚(さと)る前に得ることであることを。 この時にはじめて、〔迷いの中の修行が、そのまま証りであることを知って〕こちら(迷い) の岸からあちら(証り) の岸に河を船や筏で渡るということが、昨日の夢のように無用になってしまうことを知って、永遠に藤蔓を見て蛇と見誤るような旧来の見方を断ち切るのである。 これは、仏が強引になされるのではない。自ずから仏のはたらきが熟してめぐりあわせたものである。言うまでもなく修行が招くところは証りである。〔招くと言っても〕自分の家の宝蔵は外からやって来るのではない。 また、証りが使い用いるところが修行である、〔修行によらなければ〕心の跡かたがどうして変わることがあろう。 原文 「識るべし、行を迷中に立つるは、証を覚前に獲るものなることを。 時に始めて船筏の昨夢を知って、永く藤蛇の旧見を断ず。 これ仏の強為にあらず、機の周旋せしむる所なり。 況んや行の招く所は証なり。 自家の宝蔵、外より来たらず。 証の使う所は行なり、心地の蹤跡豈に廻転すべけんや。」』 (道元禅師全集第14巻P54から引用) │<< 前のページへ │一覧 │ 一番上に戻る │ |
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