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根子岳仙人の分家 

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藤崎宮秋季例大祭 2

 【 藤崎八旛宮の「旛」:八幡宮は一般に「幡」と書くのに、藤崎宮は「旛」と書いている。なぜだろうか。それは石清水八幡宮を分請下向した時、即ち藤崎宮の起源であるが、三位左中将橘能員らが供奉した神輿の前後に「旛」を立てて神幸行列を盛んにしたことから「旛」と書くようになった。後奈良天皇奉納の鳥居の額も「八旛藤崎宮」なっている。ちなみに「幡」は矢旗のような半巾の薄い旗をいい、「旛」は刺繍した大巾の厚みのある旗のことである。

馬飾りに二流: 昔は陽陰を馬の背の鞍ばかりでなく、馬の頭にも付けていた。なかには馬の頭には陽陰の代わりに花を付けたのもある。この陽陰の作り方というか形には安藤流と小堀流の二流があって、現在の陽陰は安藤流のものという。そういえば江戸期の絵図には陽陰の立った部分が四本あるものや、今のようにピンと天を突くようなのではなく、どことなくグンニャリした感じのものもあった。それが小堀流であるかどうかは判らない。】

 【神幸コース今昔 : 西南の役以前は現在の藤崎台球場にあった社殿から坂を下り、井芹川の河原のお旅所までの短いコースであった。井芹川の河原で放生会が行なわれ、また休憩中に竹矢来の中で馬追いが行なわれた。藤崎宮が現在地に移って今日のコースとなったのだが、立町廻りは一年おきが慣例、それも平成 4年からは代表3団体のみになった。昭和59年からは岩田屋前や日銀前に馬追いコースが設けられるようになり、「観光桟敷も」の声もでている。

 能と狂言: お旅所では昼休みに能と狂言が奉納される。能は金春流と喜多流、狂言は大蔵流で、一流の方々が舞われるが、その演目は江戸時代以降わっていないという。昼休みに酔っぱらってばかりいないで段山の能場まで足を運び、しばし能と狂言を観賞してみてはどうか。】

 お祭りには役員がつきものですね。ここに見られるように、裃姿のお偉方がどこでも先頭です。



 部隊長は取締役といわれる人々です。さすがに、貫禄と威厳がありますね。





 子供の情景です。子供とはいえ、衣装代もバカにならないでしょうね。



 上腕の腕章をつけている人々がどうも上役のようですね。




 【 ラッパは戦後から? :馬追いにラッパはつきもののように思われているが、意外に新しく、昭和 6年にラッパの音を聞いたという記録もあるが、戦後復員してきた兵隊たちが持ち込んだものともいわれる。ボシタのラッパはいわゆる軍隊ラッパであるが、ただリズムは前からあった太鼓や竹のカチカチに合わせ音階をとったものと思われる。ラッパの音がうるさいと早くも昭和31年に規制が出ている。

 神輿の牛車:神輿が牛車に乗ってチャリチャリと音をたてながら進む風情は熊本の秋を思わせる。神輿が牛車に乗るようになったのは、恐らく明治10年以後、藤崎宮が現在地に移転してからのことに違いない。昔は三社祭りなどと同様に神輿はかついでいた。もっともワッショイワッショイなど景気のよいかけ声はなく、静々とではあったようだが・・・・・。神様は牛車の方が快適ではあろうが、車を引く牛は天草・倉岳から毎年苦労して調達しているとのこと。

 神様の昼御飯 :神様の昼御飯が意外に質素なことを御存知だろうか。確かに勝ち栗、川魚の干物、鯛の焼物、水前寺のり、茅の実、干し海老、干菓子など、今日ではなかなか手に入らない物も集められて御供物とされてはいるが、昼御飯は「菊膳」といって、いも、白米、鰹、大豆、菜に甘酒がつく程度で、神官さんたちもこのお流れを頂戴している。弁当を食べ余しては捨てる風潮は考えたいものである。】

 前回にラッパ手は登場しましたね。実はこの解説者、大魔人さんもラッパ手で出場していたそうですが、私は女性ばかりを見ていて気付きませんでした。

 今日の主役たちは県立K高校です。規律正しい、茶髪がほとんどいないなど紳士淑女の学校です。美人はわれわれのときからすく少なかったのですが.....。





 この高校と関係ありませんが、きれいな母親と子供を見つけました。





 整然とした隊列を組みわらべ歌の舞台、船場川を渡ります。



 裏方の車です。これが大変な仕事なのですよ。



 【馬飾りに二流 : 昔は陽陰を馬の背の鞍ばかりでなく、馬の頭にも付けていた。なかには馬の頭には陽陰の代わりに花を付けたのもある。この陽陰の作り方というか形には安藤流と小堀流の二流があって、現在の陽陰は安藤流のものという。そういえば江戸期の絵図には陽陰の立った部分が四本あるものや、今のようにピンと天を突くようなのではなく、どことなくグンニャリした感じのものもあった。それが小堀流であるかどうかは判らない。

 女性だけの馬追い:女性を主体とした飾り馬奉納の第1号は、昭和24年の二本木町特種飲食店であった。白短パンにハッピ姿で黄色い声をあげたが、沿道の男共はなるべく声をかけられないように隠れたという。その後、昭和55年に鳩女会が、続いて錦会が参加し、一時賑やかになったが、現在では錦会の孤軍奮闘となっている。】

 いよいよ夏祭りシリーズも終わりとなりました。2月余,飽かずにお付き合いいただきありがとうございました。正直疲労困憊までとはいかなくとも、何とか続けてまいりました。初めての祭りもあり、自分自身にとってもよいふるさと回帰ができたと思います。十分見返す間もなく,更新していましたから、誤字、脱字も多かったのではないかと反省しきりです。

 K高校には珍しい女傑タイプの後輩ですね。いやぁ、先輩かも知れません。





 このお祭りの参加団体は年々増え続け、60数団体にもなっています。1グループが百から二百名くらいですから、実に4時間ちかくもパレードが続くことになりますね。恐らく日本一の長い、なが~いお祭り行列ではないでしょうか?見物客もいい加減疲れてきました。



 一息入れて最後の行程に向かうところです。



 さぁ~。みんな身を引き締めて最後を飾ろうぜ!と発破をかけているところです。



 市内の中心地に入るところです。もう、やがて藤崎宮に戻り着くことになります。みなさん、御苦労さん!いよいよ、随兵寒夜を迎えて、長く暑かった夏ともお別れです。




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