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ツイッターは「他人の家の部屋の壁に落書きする」というイメージがある。 ブログは「自分の家の部屋の壁に落書きして、出入り自由」って感じかな。 だから、ツイートはためらうんだよな。 「他人の家の部屋の壁に落書きする」ことがあかんとは全く思わない。逆にオモロいんやないか、と。 家に帰ってきて、壁にちょっと笑えることとか、素敵なコトバとか、なるほどと思うこととか、ああ、あいつ、元気にしとるなあとかね。 だからね、これは自戒をこめてなんだけど、 自分のマイナスの感情を「他人の家の部屋の壁」に書き殴るのは、気をつけないかんね。 それは、ピンポンダッシュと同じやから。 それは、ペンキでね、感情にまかせて、ベタベタ描くわけやから。 それは、それは、気が晴れると思う。 気持ち良いと思う。 お金をつかわない素敵なストレス解消方法だからね。 しかしね、自分の快楽のために、他人を犠牲にするのは、獣のすることですからね。 うちのオフクロの名言のひとつですわ。 ブログもそうで、気をつけなあかんねんな。私は劇団員に何度も注意されてるんだけど。 だから、ツイートの回数が少ないんだな。 コトバを内に留めておくということも、劇作家には必要なんだけど。 言語化するっていうことと同じくらいね。 昔、ある人とツイッターについて話したことがあって、 百歩ゆずって、140文字に伝えたいことを凝縮することが、劇作家の訓練になるのかどうか、てことです。 我々の言う文体はリズムのことではないのか、 間のことではないのか、 コトバを発したあとの沈黙のことではないのか、 コトバを発する前の沈黙のことではないのか。 イジリーのツイートくらい、突き抜けるのは、アリだけどね。
宮部みゆきさんの熱心な読者ではないが、テレビでやってたからね、第1夜から第4夜まで続くらしい。 このミステリーの特徴は、オープニングで、三つの他殺死体と、一つの飛び降り自殺かもしれない死体が提示され、4つとも被害者の身元がわからない、ということである。 また、現場の防犯カメラに映った2人の人物もわからないといった風呂敷を広げて、始まる。 出だしは悪くなかった。 身元がわからないという「理由」は、マンションの「占有屋」だったというアウトプットが中盤にあり、一挙に解決する。 結論から言えば、物足りなかった。 悪い意味で、「お茶の間」ドラマだ。 事件を追う刑事は寺尾聰だが、ある「理由」で、彼は家族を捨ててきたのだが、 事件を追いながら、彼が「家族」について、考えていくという構造になっている。 こうなると、先がわかるじゃん。家族の再生ってね。 だからね、つまんなくなる。 私はストーリーが観たいわけではない、リアルが観たいのだということがわかった。 ニンゲンのリアル。 寺尾聰、杉本哲太らがええ芝居するので、最後まで観たが。 さて、第2夜はどうか? 観るよ。 だって、主演は柄本明やからね。
シリーズの中でも、良い出来だと思う。 青い肌をした他人に化ける能力のミュータントの女の子ミスティークの、プロフェッサーXからマグニートーに惹かれていく描写など、うまいと思う。 ミュータントの中にも、差別があり、見た目が普通か、そうでないか、が、サブテーマのひとつであるが、これはね、ちょっとね、重要なテーマだな。 機能的なことより、美醜てのは、危険なテーマだけども、あるもんね、ものすごくある。 マーベルのアメコミ作品の映画化は、「差別」に触れてきますな。そのあたりが、荒唐無稽作品に、リアリティを与えるんやろな。
この映画はね、「阪急電車」の長編CMだった。 良い話エピソードだけでは、私は揺れないなあ。 身近な「阪急電車」をゆっくり見ることができたので、二時間、観た。
大阪ビジネスパーク円形ホールにて、NODAMAP「THE BEE」、観劇。 脱獄犯に妻子を人質にとられ、自宅に籠城されたサラリーマンが、脱獄犯の妻子を人質にのり、脱獄犯の家にたてこもる。 シンプルな構造の戯曲は、多分に原作である筒井康隆色が強く感じられ、それはそれで、面白かったが、 野田秀樹さんのいつもの戯曲の方が私は好きやなあ。 演出は勉強になった。 出だしの15分が、とてもスピーディーである。 野田さんの演出は「見立て」ですよね。 例えば、紙、鉛筆などがいろんなものに「見立て」られる。 劇場は、小劇場サイズ。 いつもの野田地図公演より、小さい。 小劇場演出であった。 音、音、音。 ドアのポストから、ぽとりと封筒が落ちるのね。 封筒の落ちる音。 俳優野田秀樹さんが突出した芝居だった。独り芝居のよう。 狂気を孕む身体。
前半のクライマックスである保元の乱を描く今回。 ドラマチックではなく、スマートではなく、混沌を混沌のまま描いていて、それはある意味、リアルやなあと思った次第ではあるが、 平氏も活躍しないしね。 あれだ。平忠正の真意、サブテキストがわかりにくいのだ。 どっちなんだろう。 平清盛を信頼しているのか?見限ったのか? アウトプットは次回に持ち越しなんだろうけどね。 私は、忠正は頼盛を救うため、崇徳側についたと思いたい。その方が泣ける。 清盛に対して不信感を抱く池禅尼との対比にもなるし。
「打ち切り」で話題のこのドラマは、残すところ、今回を入れてあと二回。 普通のドラマは1クール12回やから、4回、当初より、端折ることになる。 つまり、終わらせるための、伏線のアウトプットが性急になるのだ。 まず、大きな変更は、主人公オダギリジョーの家に居候をする秀じいが、たぶん当初は、オダギリジョーの失踪した父親だという設定に違いなかったが(伏線は結構はられていた)、他人という設定に変更された(ような気がする)。 また、サブテキストのテキストへの流出、内面の外面化、つまり、劇的瞬間が、結構、安易に連発させている。 内面の外面への流出なんて、ダムの決壊の喩えがわかりやすいように、 登場人物同士の、また、事象とのテンション(緊張感)が高まってからの、ダムの決壊なのに、ね。 母親エピソードとか、息子エピソードとか、エピソードとかで泣けませんよ。 やはり、「引き裂かれた身体」に揺れたいよ。 なんだか文体も変わったなあと思っていたら、脚本家が変わってました。 あ、ロックのレジェンド出演ですが、EGO-WRAPPIN'でした。 EGO-WRAPPIN'は嫌いではないのですが、(私にとりまして)盛り上がりにかける微妙さでした。
保元の乱、前夜である。 後白河天皇と崇徳上皇の対立。 まず、摂関家は、後白河側に、藤原忠通、崇徳側に朝廷を追われた藤原頼長がつく。兄弟が分かれるわけだ。 頼長という人は切ない。 公家政治を改革しようとして、やりすぎてしまったために、他の公卿反感を買い、はめられたのだ。 悪左府と言われながら、その実、誠実な人だったのではないだろうか? 日本を想う気持ちは偽りがなかったのではないだろうか?想像しかできないが。 オウムを飼っていたのも、男色なのも、大河ドラマで使われているエピソードは、本人の日記が残っていて、本当らしい。 私はおこがましくも、自分が頼長とかぶるのだ。おこがましいけどね。 私は陥れられた経験がある。 源氏は、父と子が、敵味方に分かれる。 そして、子である源義朝の第一の部下、趙方豪さんの甥、趙たみ和さん演じる鎌田正清、 また、父である源為義の第一の部下、鎌田忠清、父子も敵味方に分かれるのだ。 為義に、「馬屋が混んでる」故、遅れてまいられい と、言われ、時間を与えられた父子のシーンはとても良かった。 ここにも、通じ合いつつ、袂を分かつ親子の姿がある。 平氏は、清盛の叔父の忠正が崇徳側につく。 伏線は前からはっていたのだが、 清盛を信頼しているのか、していないのか、わからない。 「兄(清盛の父忠盛のこと)が生きていたら(清盛と)同じことを言うたと思う」と、信頼を意味するセリフはあったのだ。 平氏も一枚岩ではなく、揺れている。 池禅尼役の和久井映見がピリリと平氏側のキャラクターのテンションの糸を張りつめさせている。 忠正のコトバとして、頼盛が叫ぶ。 「(清盛とは)はなっから、絆なんてないわ!」と。 このセリフは、強烈に響く。 我々は、あれから、何度、「絆」というコトバを聞いたのだろうか。 否定ではない。問い直すコトバだと思う。 独居老人より、同居老人の自殺の方が多いときく。 「家族」という幻想的イメージをひっくり返すようなことに触れている。 当然、お茶の間には、この大河ドラマは似合わない。
遅ればせながら、先週、想流私塾第16期生卒塾公演、終了しました。 私は塾生時代の3期、師範見習いの5期、師範として、6期から11期、師範が終わっての、12、14、15、16期と、関わらせて頂いており、 12回、全部で20作品くらいの短編戯曲を演出させて頂き、 この経験のおかげ今の私があると言っても過言ではありません。 今回も機会をくださり、本当に感謝しております。 私にとって、この卒塾公演は、エンゲキとはなんぞや?ということをとことん考える契機になっています。 今回、頂いた2作品は、双方、会話劇で、説明ゼリフがほとんどなく、無駄のないセリフで綴られた戯曲で、まず、好感を持ちました。 しかし、いかんせん、スケッチだなあと思いました。 まず、私の作業としては、セリフの行間からドラマを探し、浮き上がらせることでした、俳優と共闘して。 「洗う」っていう作品は、顔で笑って心で泣く芝居でありましたので、水の会以来、自分の中でまとまりつつある「引き裂かれた身体」を舞台上にあげるための「弁証法的」演出法が、合うのではないか?と思い、 また、俳優陣にもこの方法を面白がってもらい、実践しました。 「正義」は、シンプルな構造なんだけど、読んだときは、作家が一体、セカイの何を見てんのか?何が言いたいのか?つまり、作家の「思想」がわからなかった。 うむむ。 タイトルに戻った。「正義」というタイトルなんだから、「正義」の話なんだろう、と。 「正義」は、場所と時代変われば、コロコロ変わる代物で、勝てば官軍というコトバもあるくらいで、だから、「正義」というコトバを揺らそうと、んで、 塾生の許可をもらい、前編と後編をひっくり返し、最後に登場する先生の、セリフは一切変えずに、セクハラをさせた、と。 あと、「正義」というコトバは、観念であるので、舞台上では、前編は「大学ノート」、後編は「学校新聞」に具対物として集約させ、となると、くしゃくしゃにまるめたり、拾われ、押し広げる具体的行動が、再度、観客へ、観念として、伝わるのではないか、と。 これが、2作品の演出プランでした。 観念→具体→観念、の、一連の流れは、似たようなことが、 吉本隆明さんの「カールマルクス」に書いてある。 さて、 林慎一郎、高橋恵、両師範、本当にお疲れ様でした。 AI・HALLさん、本当にありがとうございました。 スタッフの皆様、本当にお疲れ様でした。 来てくださったお客様、本当にありがとうございました。 それから、私のチームの作家お二方、本当にお疲れ様、そして、機会を与えてくださりありがとうございました。 俳優の皆様、本当にありがとうございました。 私のチームはみなさん、本当に頑張ってくれて、良かったなあと思うのですが、 別のチームに一人、揺れた俳優がいてね、「良かったです」と、お伝えできて良かった。こういうことは、伝えたいと思った。 さて、 自分の演出方法がシンプルにまとまった感があることが、私の財産です。 はやく空駅で稽古をしたいなあと思いました。 その前に、まだまだドラマ探しと、「親鸞」と「吉本隆明」を私なりに身体に取り込めなければならない。 付け焼き刃でもね。 劇作も、演出も、付け焼き刃から始まったからね。 打ち上げの6割は、 私は「小笠原」君としゃべり、 うち2割は、他の人に、「小笠原」のことを話し、 どんだけ、自分が「小笠原」に取り込まれてしまったか気付き、愕然とした夜だった。 私は、いまや、「小笠原」部の部員ではないか。 「小笠原」風の服を着て、「小笠原」ご飯を食べ、「小笠原」電車に乗って、「小笠原」ツリーを見に行くのだ。 「小笠原」色のライトパフォーマンスを見ながら、「小笠原」しいね、と、つぶやくのだ。 あー、たくさん芝居の話をしたのに、彼は覚えちゃいないのだ。 私は覚えている。 「林君の演出のほうがのびのびできますねえ」とのコトバを。 元「初恋の嵐」というバンドの隅倉弘至というベーシストは、斉藤和義バンドとトータス松本バンドのベーシストである。 小笠原、俺と慎ちゃんと、どっちがトータスなんだ? どっちが斉藤和義なんだ? あー。俺をせっちゃんと言ってくれよ。 嘘でもいいからさ。
「相棒-劇場版2-」を観た。 シナリオは、1よりも良いような気がした。警視庁内で全て事が起こるからだ。 過去の復讐というのは、前作を踏襲しているが。 2よりも、1の方が良い点は、相棒、すなわち、ミッチーより寺脇さんの方が良いんでないかいという点である。 あまり、二人の補い合う関係性が描かれてなかった気がする。他は、2の方が良かったんだけど。 でも、それって、一番大切なことなんちゃうのかな。「相棒」ってタイトルなんやから。 テレビシリーズはほとんど観てないが、テレビではたぶんミッチーは活躍しているのだろう。話題やったからね。あくまでも、映画では、ミッチーは取り替え可能な感じがしました。 前半は、警視庁籠城事件、後半は七年前の爆弾テロ事件の真相を暴いていき、影の悪に辿り着く。 このストーリー構造は悪くないんだけど、後半、テンションが下がったように感じた理由は、 公安が、あえて、爆弾テロ事件の絵を描いた理由が、弱い気がする。 公安機密自体のテンションが低いような気がしました。 水谷豊という俳優は、とても興味深い。 しっかり(売れるだけの)キャラクターを作っているのだが、いわゆるキャラクター芝居ではない。 あのキャラクターはとても良い。「相棒」の人気の大部分は水谷豊である。当たり前であるが。 │<< 前のページへ │一覧 │ 一番上に戻る │ |
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