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2014年05月30日
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カテゴリ:信心出来レース
>>自分が注目される事を望んでいる人にとって
>>「師」の存在は上下関係や支配隷属でしか理解出来ません。
>>他人の意見は自分に対する命令であり
>>そんな他人の意見に同調している人は洗脳されていると理解している人が多いようです。

>>したがって「師弟不二とは相互補完関係である」などと
>>自分と「師」の境涯の違いを平均化し自分の存在価値をより
>>崇高なのものへと高めようとするのでしょう。





http://fboybbs.dip.jp/n2/?36922
http://megalodon.jp/2014-0531-0316-10/captivated.exblog.jp/19849507/)より



・・・・・・
だから、上矢印その意味で
『従って弟子なり師なりの発言に対し疑問が残れば 
 それは譬え御本仏の発言・・・であっても 
 今後の責任性も含めて 諌めなければいけないんです。』
・・と
富士宮ボーイには書いたんですけれどね

きちんと「意」を理解した上で記事にしていましたか?



まず 反論を始める前に 皆さんで
『師』・・と言う意味を wikiさんに聴いて確認をしてみたい・・・と思います。

wiki-2.png
http://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B8%ABより

確かに「字源」の部分に於いて「主従」を連想させるような意義や表現が成されておりますが
「意義」や「原義」を見れば そのwikiに書かれていた、項目4の・・・
  『人を先導又は指導する立場の人。かしら。リーダー。』
項目5の・・・
 『資格。(特別な資格や技能、学問を持つ人。医師、看護師、調理師)』など・・と書かれており
また類義文字として『士』を掲げております。
 
また その『士』と『師』の類義に対しても
『変な日本語、変と感じない日本人』・・と言うブログでは
筆者自身の主観が交わっておりますが それでも『師』の意味や用途を細かく分類しており
疑問点など 意外と的確に指摘していて ある程度は同意する点もあり、とても参考にはなります。

※「○○士」と「○○師」の使い分け-簡単な覚え方
http://nihongo.u-biq.org/?eid=132204

その上で、師の意味を厳密に解釈すれば やっぱり こちらが思った通り
「師」と言うのは 
    自ら切り開いた智慧の基礎にあたる部分・・・に該当し
また「切り開いた智慧」や「知識」は千差万別ですが あくまでも
    その切り開いた基礎を教えた人=師」であって
また、創価でも述べている「弟」・・と言う部分は
    「基礎に基づいた発展型」・・・に該当しており
従って、こちらも
    「師弟」=「主従関係」とは、まったく考えておりません。

更に 客観的に見た上で 師弟の違いがあるとすれば 時間差だけで
『雄鶏が先か雌鶏が先か?』の違いだけだと思いますけれどね

因みに 富士宮ボーイで書いた記事では
『師弟不二=対等な関係』・・と言う点も述べていた筈で
間違っても『師弟不二=主従』との結論は示していなかったのですが
如何読んだら 安逸に「彼らは主従で捉えているから云々」・・と言う結論に達するのか
そのプロセスも述べておらず また、こちらの意見と違う見解があるのなら
「真の師弟とは何か」の部分を具体的に述べれば良い話なのに その部分はしっかり端折られており
何が言いたかったのか 全く理解が出来ませんし 的確な反論にもなっていないのが、正直な感想です

更に それ等の的外れな推論も 過去にさかのぼれば
『自分の経験に基づいた推論や妄想だ!』・・・と そんな趣旨を 
あなた自身 過去に 富士宮の掲示板等にて発言をしている訳ですから
従って「師弟」=「主従」と捉えていたのは 
「阿部日ケ~ンさん自身」だったんじゃないでしょうか?

但し それでも『富士宮ボーイに記事を書いた時』は舌足らずの面があり
(部屋も糞暑かったしね、今もこの部屋は糞暑い)
その記事を書いた際 こちらも「諌める」・・と言う表現を用いた事から 別の方から

  意見の相違が出てきた場合 師匠は先んじて事を進められているのですから。
 「師を諫める」というより「師匠にその本意を伺う」・・・というのが先決で
 それは素直に、師匠に相対して「師匠のお考えには欠点があります」と述べればいいこと。


・・とのアドバイスを頂いており、概ねその通りで
『諌業』の表現を用いる点に於いては「時期尚早」の側面があった事は否めないので
その面で あの人が勘違いした・・と言う側面も考えられるのですが 
それでも 余りにも短絡的な判断だし 余りにも的外れな発言なので
その事も踏まえて、もう一度、富士宮に書いた記事を焼きなおして書くと・・・

何処の世界でも、そうなのですが
双方とも、凡夫であり、人間である以上、当然、師にも弟子にも、欠点があるわけで 
数式以外は『全知全脳』とか『絶対性』・・と言うのはありませんし
常に流動的だし環境も変化しているわけですから 譬え鎌倉時代は完璧な教えだった・・としても
現在に於いて その教えが 何処まで対応できているのか?・・は 皆目見当がつかないわけで
従って 師の義務としては その場しのぎの対応や処方や修正ばかりでなく
常に「先の事」も考慮しなければいけない智慧を、弟子に教えていかなければならないわけで
それを怠ってしまえば 師は その不測の事態に対し 常に修正をしなければならず 
客観的な見方をすれば 責任を負う形での弁証法にはなっているものの
それでも師の負担や リスクは非常に大きい訳で 我に返ってくる事には変わりが無いわけですから
依って 師の責任や母の責任は非常に重大で リスクを常に背負うわけです。

また、人間である以上、師もいつかは死にます。

従って その時代の師が完璧だった・・としても
残した文献も紙で記されて残していた・・としても 
伝言ゲームや記憶の干渉等々や偽書等々や知的財産権のはく奪等々 を考えれば
その時代には完璧だった師の教えも、いつかは劣化し
基礎とは まったく違った形で顕れる事も考えられます。

台密は典型的な一例ですよね 報恩抄をきちんと読みましたか?

その事を踏まえると 弟子が基礎に基づいた発展性が示し切れなかった場合 
或いは 弟子が伝言ゲームや記憶の干渉等等によって 基礎から逸脱した我見が生じた場合
つまり 師弟との間に『合意形成』が成立しなかった場合
結果的には 弟子が師を殺す つまり基礎をぶち壊す事にも繋がります。

阿部日ケ~ン氏等を始めとした 富士宮の論客達は
華果成就御書を 何処まで「身をもって読めた」・・のでしょうか?
あの御書には 合意形成の譬えを示した内容がしっかりと書かれていたのですが
阿部日ケ~ン師は、文上でしか読んでいなかったのか?
『合意形成』までは読み切れなかったし、比喩として示す事も出来なかったわけです

だから、それ等を防止する意味でも「師の欠点」や「弟子の欠点」など 
お互いに「切磋琢磨をして」指摘しあい 
また「補官しあっていかない」と 師弟不二は成立しない形となるんじゃないでしょうか?
弟子なり師なりの発言に対し疑問が残れば 
それは「譬え御本仏の発言」であっても 今後の責任性も含めて 諌めなければいけないし
師を助けなければいけないし 弟子を守らなければいけないんじゃないでしょうか?

そういった意味で師弟不二は『対等』じゃないと成り立たない・・と
富士宮ボーイのNo.36919では書いた訳です。


ところで 師弟不二・・と言えば、新人間革命23巻にて 池田氏が広島へ訪問された際
「幹部は俺の事をまったく理解していなかった」・・と言うような主旨の事が
しっかり書かれていた事を覚えているでしょうか?

では どの部分で その事を思ったのか?・・・と言えば こっちは身を粉にして動きたいし
会員にねぎらいたかったのが本音だったのに、広島の幹部どもは 
気遣っていた側面も考えられるのですが、しきりに休むことばかり進めていて
その事によって「全員、媚を売る事しか考えていなかった」と言った旨の内容で 
つまり 広島の幹部等も含め、創価と池田氏との間には 
一方通行的な意思疎通ばかりが先行していて 本当の事を誰も言ってくれる人が居なく 
いつの間にか軋轢が構築されていた事が言いたかったわけです。 

本当に 池田大作は さびしい人ですね
だけど皮肉な事に『弟子がそう言う方向』へと 何故か導いて軋轢をつくっていくわけです

そういえば創価以外の別の雑誌のインタビューでは御自身が「先生」と呼ばれる事が
ものすごく嫌だ・・と言う事を述べていた記憶がありますが 
その辺を創価の人は どれだけ存じていらっしゃるのでしょうか?
 
確かに その気持ちは良く解りますね 
何せ 相手をバカにする際にも その言葉を用いる事がありますし 
嫌味を言うには効果的で アメリカンジョークでも悪い形で
『sensei』なんて言葉を使ってdisる表現などがWWEの番組を見てても散見されます。

そのへんの構図は 創価学会自身でも良く分かっている筈なのに
それでも周りは「先生 先生」と言って持ち上げる訳です。
裸の王様のお話と同じように 創価自身が 名誉会長などと 
思ってもいない事を無理やり言わせる空気を作っている訳です。

その辺は「日蓮正宗(創価では日顕宗)と同じ思考回路だったり 体質もありますね

そういった意味では この人自身も ここに参加している人たちも
表向きは
  「先生」「先生」
  「大聖人さま」「大聖人様」・・と叫んでいても 
結果的には 何処まで彼の事を 本当に思っていたのか?正直わかりません。

寧ろ、池田先生の弟子なんかじゃない・・と言っている人の方が
逆に 正直な事を述べている訳ですから 師弟不二なんじゃないかと錯覚する事もあります。 

ま・・・ 師弟の出来レースをしているつもりはないし
開目抄や三世諸仏総喚問等々を 読む限り そんなのに奔走すればするほど 
師弟が崩れていくような気がするので 巻き込まれたくがないのが
こちらの本音ですけれどね(冷笑)



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Last updated  2015年05月31日 23時41分13秒
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