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明治の町屋、姫路の春霜堂 西国街道沿い、往時はこんな賑わいが。。 春霜堂蔵 吉田初三郎 姫路鳥瞰図より ◇ 明治の町屋 春霜堂 古くは藤吉郎時代の秀吉が楽市楽座にしていた姫路の旧西国街道沿いにある明治の町屋、春霜堂はかってロシア人将校捕虜が長逗留していた歴史を持つ姫路でも数少ない歴史ある町屋の一つです。 この漆喰の修復は世界文化遺産・姫路城修復の職人さんのよってなされました。 NHKや各新聞でも紹介されましたが、春霜堂は姫路の明治大正歴史資料館であるとともに大正浪漫の再現を目指し、 ボランティア的な運営で、歴史と伝統のある街、姫路において、文化発信基地でもありたいと願っております。 春霜堂にはかなりの数の古書籍がありますが、左の本は日露戦争を記念して時の日本帝国政府が発行した記念誌で、露人将校捕虜がいた春霜堂と色々な品を通じて歴史を共有しています。 姫路城の桜の季節には、当時はこんな花見があったのでしょうね。 これは明治の頃の子供風俗の浮世絵です。可愛いですね。。 ★ 画像は基本的に堂所蔵の作品から撮っておりますが、もし万一、差しさわりがある場合は、当プログのメッセージの欄から御連絡下さいませ。 明治の町屋、春霜堂日誌 [全1071件]
赤穂義士と姫路は何かと縁が深い。 あの赤穂四十七士の生き残り、寺坂吉右衛門も本懐後は姫路に長くいたということである。 先日、自ら育てた大根を下さった大石さんは、離縁されて豊岡に行かれていた大石りくの末裔にあたられる。やはり、りくを彷彿とされるような清廉で懐の深さを持っておられる方でもある。 それやこれやで、僕は子供の頃から赤穂義士の心酔者で、赤穂義士、吉田松陰、乃木大将系譜が大好きなのである。そして、自分なりに色々な資料も集めていたりもする。 内蔵助は普段は「昼行灯」のあだ名そのままの人であったそうだが、一旦緩急あれば、とても的確な信じられないような決断が下される人物であったという。 実録赤穂事件 赤穂義士には色々なエピソードが残っているが、あの討ち入りの後、吉良義央の首級を槍の穂先に付けて江戸市中を行進し、浅野長矩の墓がある泉岳寺へ引き揚げ、義央の首級を亡き主君の墓前に供えたとあるが、その行進中の首級は偽物で、本物は、取り返しに来るのに備えて、陸路を避けて海路を秘密裏に運ばれたのだそうだ。 この辺、内蔵助の用意周到振りがうかがわれる。 また、この時、泉岳寺への引き揚げの途、礒貝正久の母が往路にあり病床に臥せっておることを知る大石内蔵助が、「泉岳寺に入ると後はどうなるか分らない。母の病気見舞をしてはどうか」と勧めたが、これを正久は次のように言い固辞したといわれる。 「私は死を決意して母に別れを告げて参りました。今も見舞いたい気持ちはやまやまなれど、もし、母を見舞に行っている間に上杉の追手が来て、一戦交えるようなことでもあれば、終世の名折れとなります。かたじけございませんが、このまま泉岳寺まで行かせていただきたい。」 この時、正久まだ24歳の青年であった。 ☆ 大石良雄の辞世の句 あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし ![]()
江戸時代の偉大な観相家、水野南北は、 『食は命なり』 という名言を残している。 「食べ物により、人間の運命が変わる」という訳だ。 南北自身、若い時に悪い相を告げられたが、 食を改めることで、人相が良化したそうである。 「食を節することは 天地に陰徳を積むことであり それにより知らず知らずに天録が書き換えられ相まで変わったのだ」と教えられた事もあるそうである。。 歴史上の人物では徳川家康、上杉鷹山なんかは麦飯と、野菜、小魚のおかずの一汁一菜だったそうだし、 武田信玄、上杉謙信、徳川光圀、徳川吉宗等もまた、食を慎んだことで知られている。 ともかく、身をもって食べ過ぎは絶対良くないということを実感した二年間でもあった。 美食の摂り過ぎで脂肪肝からNASHに 酒は一切飲まないけど、超がつく甘党だし、規則正しくとは言い難い。 今から考えると一種のストレスでヤケ食いしていたようにも思う。 そして、この10年で約10kg太ったのがどうやら内臓にこたえたようだ。 そういう訳で、この二年節制&努力のお陰で、やっと体重は元に戻れた。 朝は人参と林檎のジュースをジョッキに1杯だけ。 昼は野菜ジュースをお茶碗に約1杯半とバナナとみかん。 なんでもバナナは摂り過ぎた塩分を若干減らす作用があるらしい。 夜は御飯を茶碗に七分目、味噌汁、オカズは野菜中心の軽いもの。 動物性たんぱく質はたまに摂るヨーグルト以外はほとんど摂らない。 これを90%はきちんと守っている。 それで、何とかかんとか、 体重は63.2kg、体脂肪は18.2、内臓脂肪10.5 あと1.4kg減で理想体重のところまでこぎつけた。 今週、知人と城崎温泉に出かける予定だが、蟹の類は御法度で、 専ら蕎麦と野菜サラダくらいですまそうと思っている。 水野南北は食以外にも、強運の秘訣として、以下のことを薦めている。 これも僕的には耳が痛いことが多い。 ● 毎朝、昇る太陽を拝む。 ● 朝は早く起床し、夜は早めに就寝する。 ● 夜に仕事をすることは大凶。 ● 衣服や住まいも贅沢すぎるものは大凶。 ● 倹約は吉であるが、ケチは凶。 ![]()
☆ ほぼ同年代の隆の里はあっという間に急逝されてしまった。 人のことは言えない。僕も節制の毎日でもある。 いや、ほんとうに食べ過ぎや食養生には注意注意である。 以前の食べる量は若い人にまったく負けない感じだった。これがいけなかった。 今から思い返すと、一種のストレス解消にドカ食いしていたようにも思う。 だいたい腸の長い日本人には本来、肉食は不向きであるのに、 肉食は頻繁に、しかも醤油やタレをジャボジャボつけて食べていたから、それは良くないのは当たり前だったのだ。 そういう訳で、今はできるだけ野菜中心の食事を心がけている。 体重は二年かけて10kg減の63.5kg、体脂肪は19.1、内臓脂肪10.5 あと1.7kg減で僕の身長では理想体重になる。 もう少しだから一つの目標として、出きれば今年中に達成したいものである。 塩分は徹底的に制限、動物性たんぱく質は控えめ、水分も控えめで、 ともかくデトックスというか、小食健康法を励行したいと思っている。 ■ 柔道の金メダリスト内柴が逮捕されたそうだ。 馬鹿なことをやったものだ。接骨院で頑張っている奥さんも子供もいるのに、いくらなんでも、それはないと思う。 さて、その内柴のブログだが、さてさて、まだまだ本人は懲りてない感じもするのだが。。 http://blog.livedoor.jp/masato_uchishiba/archives/.. http://blog.livedoor.jp/masato_uchishiba/ ![]()
12月10日、「ウルトラセブン」など手がけた脚本家の市川森一氏が肺ガンのため死去 70歳。ワイドショー番組にコメンテーターとしてよく出ておられたのに、しばらく見ないなと思ったら、ほんとうに人生ははかないもんです。 12月9日、フィギュアスケート女子の第一人者、浅田真央選手の母匡子さん(48歳)が9日早朝逝去。おそらく真央の為に疲労困憊されたのだろうな。それにしても若すぎる。。 12月7日、「うたのおばさん」・歌手の松田トシ(96歳)さんが7日午前4時18分、老衰のため東京都世田谷区の高齢者施設で死去。あの岩崎宏美は小学校入学時から師事を受け、厳しい松田をして「一番弟子」と言わしめたんだ。まぁ96歳なら天寿をまっとうされたといえるかとも思う。 12月5日、元公明党幹事長の冬柴鉄三元衆院議員(75歳)が5日夜、肺炎のため、兵庫県尼崎市内の病院で死去。09年衆院選兵庫8区で落選。高齢のため引退も取りざたされたが、そういうストレスもあったかもしれない。政治家の引き際はほんとうに難しいものだ。。 12月4日、サッカー=元ブラジル代表主将、ソクラテス氏、腸内感染症による敗血症のため57歳で死去。素晴らしい選手だった。医師免許を持つ彼だったが、酒に飲まれてしまったようだ。 11月25日、悲運の闘将・リーグ優勝8度のプロ野球名監督、西本幸雄さん(91歳)心不全のため死去。頑固者だったが、教え子たちに実の親父のように慕われた。元投手の山田は「今、自分があるのは西本さんのおかげ。感謝してもしきれない」と、福本は「亡くなられた新聞記事を読むたびに泣いている。こんなチビスケを一流にしてくれたのは西本さんやからね」 11月21日、落語界の風雲児・立川談志さん、喉頭がんのため75歳で死去。破天荒を最期の最期まで演じきった。「すべて自分の思い通りに人生を生きた」天才とも言えよう。弟子の志の輔は「どんなに怒っても、最後には笑みを浮かべて『うまくやれ』」と言われたそうだ。自らつけた戒名は、立川雲黒斎家元勝手居士「たてかわうんこくさいいえもとかってこじ」 合掌 人生のセイムスケジュール ![]()
姫路市立城西小学校21期生の第三回同窓会が 幹事、兼村さん&長浜さんで開かれます。 今回は姫路から山陰皆生温泉へのバス旅行を予定されているそうだ。 日時は5月13日(日曜日) 当地では、「白扇」での和食会席に舌鼓を打ち、温泉で日頃の疲れをとりたいものです。 よろしくご参加くださいな。 ![]()
東北の片田舎から二代目若乃花と夜行列車で上京したものの、若い時からの糖尿病で、なかなか幕内に定着できないなど苦労した。その後も辛抱に辛抱を重ね、入幕から大関になるまで12年を要した。大変な苦労をして綱を取ったことから、「おしん横綱」と呼ばれた。 自他共に認める実力者で、まるでポパイのような体格で、稽古場では大関貴ノ花も歯が立たないし、千代の富士にもめっぽう強く、全盛期は古の雷電、双葉山にも対抗できると豪語していた。 鳴戸親方となってからは角界一の厳しい無茶苦茶な猛稽古で知られた。学生相撲出身者を採らず、いわゆる叩き上げ力士を育てるのを信条に、若の里、隆乃若、稀勢の里等いわゆるガチンコ力士を育てた 親方自らの経験からか、弟子の食べ物に関してもうるさく、NHKの料理番組「きょうの料理」の講師を務めたこともあった。 が、その後、どういう訳か御本人の体重は節制の失敗か、現役時代より30kg増加の180kgになってしまい、これが半分命取りになってしまったようだ。 新弟子に「お前の怖いものは何か?」と尋ねたところ、弟子が「ゾンビっす!」と答えると、「そうか、トンビか、変わったものが怖いんだな。」と鳴門親方は一人合点。これには弟子衆は笑いをこらえるのに必死だったとか。 とにもかくにも純な人だったのだろう。 ともかく、引退後の急激な体重の増加と、今年10月下旬から週刊誌で、弟子に対する暴行や、太れない関取にインスリンを注射させたなどの疑惑が報じられてのストレスからか、あっという間に急逝されてしまった。 合掌 ☆ 同年代の隆の里だったが、 人のことは言えないので、僕も節制の毎日である。 いやほんとうに食べ過ぎには注意注意である。 体重は63.8kg、体脂肪は19.1、内臓脂肪10.5 あと2kgで理想体重になるのだが。。 塩分制限、動物性たんぱく質控えめ、水分控えめで、 ともかくデトックスというか、半断食を励行している ![]()
24日の深夜、なんだか急に三島由紀夫氏の本が読みたくなって書庫にこもっていたのだけど、後で調べてみると、25日は三島由紀夫氏の命日だった。 あの市ケ谷駐屯地で決起し自決した日だったのだ。 なんだか自分の予感と言うのか、直感というのも、まだまだ鈍ってないようだ。 付け加えるに、三島氏自身も吉田松陰の旧暦の処刑された日に決起の日を合わせたとされている。 ともかく、僕にとっては三島氏の自決は生涯最大の社会的な事件でもあった。 自国の防衛をアメリカに委ね、自国を守る事さえも放棄し、気概も誇りも失っても平気な自衛隊や日本国民にうんざりし「生命の尊重のみで魂は死んでも良い」という風潮に対し、命よりも大切なことがあるということを自死する事で示したかった 三島氏だが、 死後40年以上経って、次第にその慧眼と言われたことが立証されつつあるようだ。 やはり、まごうことなき天才だったのだ。 ☆ 「大内先生を想ふ」 ヂリヂリとベルがなつた。今度は図画の時間だ。しかし今日の大内先生のお顔が元気がなくて青い。 どうなさッたのか?とみんなは心配してゐた。おこゑも低い。僕は、変だ変だと思つてゐた。 その次の図画の時間は大内先生はお休みになつた。御病気だといふことだ。ぼくは早くお治りになればいゝと思つた。 まつてゐた、たのしい夏休みがきた。けれどそれは之までの中で一番悲しい夏休みであつた。 七月二十六日お母さまは僕に黒わくのついたはがきを見せて下さつた。それには大内先生のお亡くなりになつた事が書いてあつた。 むねをつかれる思ひで午後三時御焼香にいつた。さうごんな香りがする。 そして正面には大内先生のがくがあり、それに黒いリボンがかけてあつた。 あゝ大内先生はもう此の世に亡いのだ。 僕のむねをそれはそれは大きな考へることのできない大きな悲しみがついてゐるやうに思はれた。 平岡公威(三島由紀夫)、9歳の作文 僕がこの年になって感じることは、彼の美観、美意識の素晴らしさである。物腰、態度、立ち振る舞い、言葉、全てが美しい。 やはり、旧ローマ帝国、西洋の数々の王朝、我が国の雅の世界を通して、その根底にある美意識、美観が大切なのだ。 かって、大数学者の岡潔さんは「数学であっても、美しくないものは数学でない。」と述べられたが、実にこれは大切なことだったのだ。 自決の数日後、実父・梓氏がやっと重い口を開いて、デザイナー氏に「あんたが楯の会の制服を、あまりに格好いいものにしたからこんなことになったのだ。」と述べている。 これも実に納得である。 「楯の会」の運営には、当時の金で毎月2000万以上がかかり、これら全てを三島氏は自腹で払っていたようで、これにはいくら人気作家の三島氏も相当苦慮しただろうと思われる。 自決から約三ヵ月後、正式に「楯の会」は解散を宣言。そして、会の制服は集められ、三島の未亡人・平岡瑤子の元に託されたという。 ともかくも、日本人は古来、素晴らしい美意識を持っている。これを掘り起こし、後世に伝えておくことは最も肝要な我々の責務ではなかろうかと痛切の思っている次第である 関係者の証言その他によると、三島氏が最後の最後まで信頼していたのは、森田必勝氏だった言われている。森田氏は、3歳のときに相次いで両親を亡くしている。 生きておられれば、どんな人物になられたのかと悔やまれてならない。
昔、とある落語家は、刑務所に慰問に行った時に受刑者を前に「満場の悪党諸君!」とやったそうだけど、ともかく落語家には奇人変人の方々多いみたいだ。 その中の一人でもある、天才児・立川談志師匠が亡くなった。 死因は喉頭がんだけど、芸能界では不思議と最近、喉頭がんと白血病で亡くなる方が多い。 http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20100728/enn1007281634016-n2.htm 白血病なんかはTV局の電磁波が影響しているとか言われる医者の方もいるが、定かなとことは分からない。 師匠のライバルと言えば、古今亭志ん朝と桂枝雀だったと言われている。 「志ん朝はさっさと死にやがって、俺は死にたくても死ねないのに…。志ん朝と言い、枝雀と言い、俺がライバルと思ったやつはみんな先に死んでしまう。死なれちゃあ、勝てないじゃないか」と言う言葉を残されている。 ライバルいなくなった師匠は いつもどこか寂しそうだったとは、周囲の声である。 弟子によれば、談志師匠は「人格は最低だが芸は最高」ということである。 「芸人という消費文化の担い手である以上真っ当に働くな。 泥棒しろ、ただし、俺の家は駄目だぞ!」と言ったこともあるそうだ。 師匠は無鉄砲なまでのいたずら好きであり、洒落か本気かわからぬエピソードは数知れない。 神太郎が付き人だった時、地方興行の折、夜中に「トランプを買ってこい!」と無理難題を押しつけたが、神は、バーへ行き、バーテンダーからトランプを調達し、談志を唸らせた。 どんないたずらであろうと「洒落」の一言で済ませてしまうそんな乱暴な談志に対抗できるのは毒蝮三太夫だけであった。 鉄道駅のプラットホームで電車を待っていた談志を、電車入る間際に線路に突き落とそうとし、運良く落ちずに済んだ談志が「死んだらどうするんだ!」と怒鳴りつけたけれども、毒蝮は笑って曰く「洒落のわからないやつだと言ってやる!」と言い返した。 また、「笑点」の収録で大阪に行った際、暴漢に刃物で後頭部を切られた談志を見た毒蝮が「おい、貯金箱だな!」と言って頭の傷口に硬貨を入れようとし一緒にいた笑点メンバーたちは大笑いしたという。 落語家たる者、これくらいがまっとうで、フラがあるのが当たり前、真面目な普通人では話も面白くないと常々、僕も思っている。 立川談志師匠は江戸前の芸風だから、上方の大阪勢の芸風と肌が合わなかった、特にオール巨人のスパルタ育成が嫌いで、彼を辛辣に批判している。 そういうわけで上方落語に関しては、評価もしていなかったが、若手の頃、志ん朝と仕事とで大阪に来た折に、笑福亭松鶴の「らくだ」を聞いて、二人とも打ちのめされるほど感動し、評価を一変させたという。 やはり芸風が合うのだろう、というか僕もこの点では同じである。 一方で、東京では桂歌丸だけが唯一きちんとリアクションの取れる噺家であると評価していた。 これまた納得である。 生前、「おれが死んだら新聞の見出しは決まっている。上から読んでも下から読んでも“だんしがしんだ”」と語っていた。 知る人ぞ知る、談志師匠と石原東京都知事は古くからの友人関係であった。その石原都知事は寂しげにこう語っている、「亡くなる数日前に(電話で)話した。僕が一方的にしゃべって、(談志さんの)秘書に受話器を耳元に持って行ってもらって“おい、談志。おまえもそろそろくたばんだろ、ざまあみろ”って言ったら、言い返そうとして“ハッ、ハッ”っていうあえぐ声が聞こえてきた。無類の話術家と最後に交わした会話。僕の人生の中で極めて印象に残る、会話にならざる会話だった。」 談志師匠の戒名は、立川雲黒斎家元勝手居士だそうだ。 これは「たてかわうんこくさいいえもとかってこじ」と読める。 いやはや、最期の最期まで反骨で洒落を通された師匠だったのだ。
砂の器」の脚本を書いた橋本忍さんは、大正7年4月18日、兵庫県神崎郡鶴居村に生まれる。その後徴兵されるが、軍隊生活中に肺結核にかかり、その闘病生活中でシナリオ作家を志す。 映画監督の伊丹万作氏に師事。 昭和25年、黒澤明監督「羅生門」でデビュー。ヴェネチア国際映画祭獅子賞を受賞した。 そしてその後も、「生きる」「七人の侍」等で、黒沢明監督とともにシナリオの共同執筆に携わり、脚本家として地位を不動のものとした。 「砂の器」、「八甲田山」は橋本プロダクションの制作による作品で、ともに映画史に残る作品となった。 2000年には、故郷である兵庫県市川町に「橋本忍記念館」がオープンした。 http://www.town.ichikawa.hyogo.jp/forms/info/info.aspx?info_id=16339 先日、書棚を整理していたら、橋本忍さんの脚本集が出てきた。郷里だから、なにかと当地とも関係が深かったのかもしれない。 そういえば、あの「生きる」「七人の侍」の志村喬さんも、生野の出身だ。 映画『砂の器』は今では諸般の事情で、そのままリメイクするのは不可能になってしまったが、後世にいつまでも語り継がれるべき日本映画の不朽の大傑作だと思う。 橋本忍さんの言葉から、 「自分の作品のすべては、子供の時、郷里・市川の川の流れを仰向きに泳いで流されながら、見上げた空の雲、その様々な雲の形の中にすべてがある」 「映画は何百万人、何千万人の人に観てもらうものだ。自分だけの考えや好みを押しつけていては、多くの観客を納得をさせられる訳がない。 畑を耕す、種を蒔く、肥料や水の具合に気をつけ、天気を心配し、虫を除き、作物が育っていくのを、祈るような気持ちで見つめる。要するに忍耐だよ。 脚本家にとって才能というのは、忍耐力のことじゃないかな。」
やっと風邪が少し良くなったので、 知り合いのやっている『昔遊びフェスティバル』に出かける。 いつもの事ながら、喜多君の奮闘努力には頭が下がる思いがする。 『昔遊びフェスティバル』 主催:古今往来同好会 夢前蕎麦と焼きソバ、善哉などを美味しく頂く。 時折、突風が吹いて焼きソバが飛んでいきそうになったりしたけど、 それもまた、楽しからずやである。 イベントの合間に、近くにある美しいイチョウの下で、 銀杏の実を集めている方々があった。 これまた風情ある光景でもあった。 そこから間近の占い屋さんで、同行の者が手相で占ってもらう。 そして、そこからいつものように、磯部商店、塩楽荘のレギュラーコースを周り いつもの店で珈琲を買ってから帰途についた。 温泉でいい気分になったのか、後部座席は鼻チョウチンのオンパレードであった。 ![]() |一覧| |
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