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明治の町家   姫路の春霜堂  

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元田肇 1858-1938 政治家 80ht

元田肇 1858-1938 初代鉄道大臣、衆議院議長、枢密顧問官

伊藤博文が政友会を結成時に政友会総務となる。明治31年に衆院副議長、同44年の第2次 西園寺内閣では拓殖局総裁となる。

大正政変後の山本権兵衛内閣で逓信大臣になり、さらに 原敬政友会内閣のもとで大正9年、初代鉄道大臣となり、原敬暗殺後の高橋 是清内閣にも留任した。初の本格的政党内閣といわれる原内閣は、他方で地方利益配分を党略の具として用いたことも有名で、その最も大きな材料の一つが鉄道でもあった。その中で元田鉄相は鉄道会計法 同敷設法のそれぞれの改正案を提出、成立させ原の党略的鉄道政策の地ならし役をはたす。

高橋内閣では中橋文相らと内閣改造に反対して内閣総辞職を招き、政友会を除名される。
大正13年、清浦 奎吾内閣の成立に際して、総裁高橋是清が護憲運動参加を表明すると、元田は、 床次竹二郎 中橋徳五郎 山本達雄 ら反高橋派と語らって脱党し、 政友本党 を結成。その後も、 憲政党 の支持で税制整理委員長に就任した。
昭和2年田中義一政友会内閣が成立するや、元田は脱党するも、まもなく復帰した。昭和3年の初の普通選挙制による総選挙後、衆議院議長に選出され、議会人として一つの頂点にのぼりつめた。
翌年、田中内閣が倒れて浜口雄幸民政党内閣が発足し、いわゆる 金解禁 を断行して、当初のその歓迎ムードの中で衆院を解散した。

政界引退後も政党人としてめて枢密顧問官に任じられた。謹厳廉直をもって評されたが、政友会分裂以降の政治生活では政界の権謀術数に即応し得ず、政界主流からも孤立し、地元大分県の政友会との関係も稀薄化していたとされる。

元田肇の書は、いかにもその元田の謹厳廉直さに満ち満ちているように思う。


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