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24日の深夜、なんだか急に三島由紀夫氏の本が読みたくなって書庫にこもっていたのだけど、後で調べてみると、25日は三島由紀夫氏の命日だった。 あの市ケ谷駐屯地で決起し自決した日だったのだ。 なんだか自分の予感と言うのか、直感というのも、まだまだ鈍ってないようだ。 付け加えるに、三島氏自身も吉田松陰の旧暦の処刑された日に決起の日を合わせたとされている。 ともかく、僕にとっては三島氏の自決は生涯最大の社会的な事件でもあった。 自国の防衛をアメリカに委ね、自国を守る事さえも放棄し、気概も誇りも失っても平気な自衛隊や日本国民にうんざりし「生命の尊重のみで魂は死んでも良い」という風潮に対し、命よりも大切なことがあるということを自死する事で示したかった 三島氏だが、 死後40年以上経って、次第にその慧眼と言われたことが立証されつつあるようだ。 やはり、まごうことなき天才だったのだ。 ☆ 「大内先生を想ふ」 ヂリヂリとベルがなつた。今度は図画の時間だ。しかし今日の大内先生のお顔が元気がなくて青い。 どうなさッたのか?とみんなは心配してゐた。おこゑも低い。僕は、変だ変だと思つてゐた。 その次の図画の時間は大内先生はお休みになつた。御病気だといふことだ。ぼくは早くお治りになればいゝと思つた。 まつてゐた、たのしい夏休みがきた。けれどそれは之までの中で一番悲しい夏休みであつた。 七月二十六日お母さまは僕に黒わくのついたはがきを見せて下さつた。それには大内先生のお亡くなりになつた事が書いてあつた。 むねをつかれる思ひで午後三時御焼香にいつた。さうごんな香りがする。 そして正面には大内先生のがくがあり、それに黒いリボンがかけてあつた。 あゝ大内先生はもう此の世に亡いのだ。 僕のむねをそれはそれは大きな考へることのできない大きな悲しみがついてゐるやうに思はれた。 平岡公威(三島由紀夫)、9歳の作文 僕がこの年になって感じることは、彼の美観、美意識の素晴らしさである。物腰、態度、立ち振る舞い、言葉、全てが美しい。 やはり、旧ローマ帝国、西洋の数々の王朝、我が国の雅の世界を通して、その根底にある美意識、美観が大切なのだ。 かって、大数学者の岡潔さんは「数学であっても、美しくないものは数学でない。」と述べられたが、実にこれは大切なことだったのだ。 自決の数日後、実父・梓氏がやっと重い口を開いて、デザイナー氏に「あんたが楯の会の制服を、あまりに格好いいものにしたからこんなことになったのだ。」と述べている。 これも実に納得である。 「楯の会」の運営には、当時の金で毎月2000万以上がかかり、これら全てを三島氏は自腹で払っていたようで、これにはいくら人気作家の三島氏も相当苦慮しただろうと思われる。 自決から約三ヵ月後、正式に「楯の会」は解散を宣言。そして、会の制服は集められ、三島の未亡人・平岡瑤子の元に託されたという。 ともかくも、日本人は古来、素晴らしい美意識を持っている。これを掘り起こし、後世に伝えておくことは最も肝要な我々の責務ではなかろうかと痛切の思っている次第である 関係者の証言その他によると、三島氏が最後の最後まで信頼していたのは、森田必勝氏だった言われている。森田氏は、3歳のときに相次いで両親を亡くしている。 生きておられれば、どんな人物になられたのかと悔やまれてならない。 │<< 前日へ │翌日へ >> │一覧 │ 一番上に戻る │ |