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昨日は七草粥。 一日遅れのアップですが、お許しあれ。 ![]() 去年もそうだが、今年も近所で七草が摘めた。と言っても奥さんまかせだが。 ![]() 初詣は、近くの鷺宮神社。 暮の茅の輪くぐりでいった、由緒ある神社。 元旦はこんでいて車を止める場所がなかったので、引き返す。 3日に改めて出向いた。 さすがにすいていて、すんなりお参りが出来た。 終わって、近くの喫茶店へ。 マスターがなかなかの凝り性で、じっくり入れるので待たされる。 だが、その間のパフォーマンスが見ていて楽しい。 コーヒーの味もなかなか。 こういうコーヒーをお正月に味わうのは悪くない。 写真を撮り損ねたが、想像力を働かせて…。 その足で、新しい映画の脚本打ち合わせに向かう。 ずっと抱えてうろうろしていたものだが、スポンサーがつきそうで、 衣替えして始動し始めたのだ。 こんどこそ、是非とも実現しなくっちゃ。 いい年になりそうだ。
今年は、3月に新しい住処に越したので、高齢の茅の輪くぐりは、近くの鷺宮神社ですませた。 ![]() ここは、小さいながら、中野区で唯一の官幣大社である。 源頼義が前九年の役の際に勝利祈願をしたということになっている。 なかなか趣があってよろしい。 ![]() ただ、昨年までの赤坂日枝山王神社のように格式ばっておらず、神主の先導もなく、勝手に回ることになっているようだ。みんなはもっぱら、回り終わってのお神酒が目当てのようで、そっちにズラッとならんでいる。 だが、こういう鄙びた雰囲気もいい。 来年はきっといいことがあると思わせられる。 きたいしよう。
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アマゾンでは早くも予約募集していると聞いたのでみてみると、「あの頃映画シリーズ」第1弾とある。 「あの頃映画」って、なんだ?まあ、どんなネーミングでもいいか。 それで、きのうは、イマジカでDVDの作業を行なった。 松竹ビデオ部のMさんが送ってくれたアドレス入りの編集版は、両サイドが切れている感じで、色合いも赤が出すぎている。 それが我が家のモニターのせいなのか、そういう風に処理されているのかの点検作業である。普通ここまでやってくれるのはありえないことなだ。 だが、初めてDVDになることだし、慎重やりたかった。そのことを松竹のスタッフもよく分かってくれての、作業となった。 画額は、正しく、1:1.85のビスタサイズになっている。 やはり民生機(売られているTV=モニター)とプロ仕様との違いがあり、ある程度はやむを得ないそうだ。色合いも、モニターが勝手に調整してしまい、赤が出やすくなっているという。 ミキサーは、ここでやったとおりに出るといいんですけどね、と嘆いていた。 まあ、いろいろの疑問を話し合うことができたので、納得して送り出せる。 あらためて、間近にみると、ロケとセットのつながりが実にいい。これはやはりキャメラマンの坂本典隆さんの腕というべきだろう。改めて感心したので、スタッフにも大宣伝した。 特典映像は、予告編以外にも、スチール写真や撮影風景の写真などがスライドショーで見られるようにしたという。普通はこんなこんなことはないので、楽しみだ。 それにしても、「あの頃映画シリーズ」というくくりにはびっくりした。 その第1弾だというのだが、後にどんなのが続くのだろう。期待して待つことにしよう。
先日、松竹から連絡があった。
先日、「車椅子で見た練馬」(監督・岡本圭子)の上映会があった。
とても初めてとは思えない。
昨日、急遽、「大鹿村騒動記」を見てきた。 いずれ見ようとは思っていたのだが、『昨日行ったのは、もちろん原田芳雄追悼の意味だ。 市とは、ちゃんとした仕事はしていない。助監督の時、山根成之監督のテレビ映画でちょっと一緒になっただけだが、亡くなったのはショックだ。 T-ジョイ大泉に行ったのだが、人は少なかった。 まだ、追悼で見に来るには時間が短かったかもしれない。 映画は、原田芳雄追悼にふさわしい、ワンマン映画ともいえるものだった。 こういう軽妙さは、坂本順治の持ち味のひとつでもある。「ぼくんち」の赴きも感じられ、十分大人の楽しめる喜劇になっていた。 大楠道代の存在も、意表をついていて面白かった。 ただ18年ぶりに帰ってきたというだけでなく、認知症に近い病を抱えているというのは、なかなかのものだ。 塩辛の瓶詰めのラストシーンは、ちょっといただけないかんじだが、まあ、これもご愛嬌か。 やはり、これは、300年も続いているという村歌舞伎を見せる映画なので、それは良くやっている。だが、三味線や語りなどは村人なのだろうが、役者はみんな俳優なので、どこまで本物かは分からないところが惜しい。 しかし、いい気持ちになって帰れる映画であった。
先日、やっと「マイ・バック・ページ」を見た。 あまり見たくはなかったのだが、周辺の評判がよくぜひみろとすすめられたので、でかけた。 だが、見たくなかったというのは、間違っていなかったように思う。 ![]() 妻夫木聡も松山ケンイチも好演である。 妻夫木は熱演といってもいいし、松山の得たいの知れない狂気をはらんだ目つきはなかなかのものだ。 これは、監督の問題だと思うが、前半の学生たちのありようは、とても気になった。 美術の考証がしっかりしているといわれていたが、それほどでもない。 近い過去を描くのは難しいものだとつくづく思った。 後半は、自衛隊基地襲撃事件が中心になるのだが、松山演じる男になぜ妻夫木がのめりこんでいくのか、ロックが好きで、好きな曲が同じで…、ということでいいのだろうか。 事実がそうだたっとしても、ドラマとしては甘すぎるのではないか。 川本三郎の原作は読んでいないので、純粋に「映画」として見られるのだが、1971年の捕らえ方に疑問があった。 1971年はもはや全共闘の時代ではなかったはず。 全国全共闘なんて、まともには成立しなかったと思う。 東大全共闘のカリスマ的指導者といえば、山本義隆しかいないはずだが、彼はもっとカッコよかったのではないか。 日大全共闘の秋田明大と二大カリスマだったが、二人とも、実に鮮やかだった。 アジテーションがうまく、今風に言えばとてもイケメンだった。 山本義隆が地下にもぐっていて、久しぶりに日比谷公会堂の集会に現れたときの様子はとても鮮やかだったと、語り継がれていたのではなかろうか。 新左翼ってのは、カッコ付けが得意というか好きだったはずでで、それが魅力でもあったのではなかろうか。だから、あんな無様な捕まり方はしていないと思うのだが…。 まあ、そんなことは映画の本筋ではないというひとが多いと思うが、そうではなく映画の底流に流れるセンチメンタリズムがどうも居心地が悪いといえばいいのかもしれない。 監督はなかなか力のある人だとは思うが、何で今こういう作品を作ったのか、いまいちわからなかった。 ただ、週刊誌のポスターになった少女は、とても魅力的であった。
桜井秀雄さんが、6月5日、肺炎で亡くなられた。 撮影所に入った年に助監督としてついたことがある。それ以来親しくしていただいた。そのせいで監督協会の会報に追悼文を書いた。その引用を。(まだ発行日前だが、著者ということでお許しあれ)。 1965年、助監督になって2本目についたのが、桜井監督だった。 作品は、「馬鹿っちょ出船」。 ♪ 赤いランプを ともした船が~ で始まる都はるみの歌が主題の、いわゆる歌謡映画である。 ![]() 桜井さんはその年、ヒット曲「アンコ椿は恋の花」を撮ったのに続いて2本目の歌謡映画。まだ30代半ばの新進監督だった。 映画作りのことは何も知らずに撮影所に入ったぼくにとって、初めての長期ロケは、あの「二十四の瞳」の憧れの地・小豆島であった。 主演は竹脇無我と香山美子。二人は幼なじみの恋仲だったが、貧しい彼女は網元のボンボンに無理やり嫁がされることになる。そこで、無我は結婚式の前日、花嫁を奪って逃げる、というお話である。(名画「卒業」のパクリと思われるかも知れないが、それより3年前の作品である) ものすごく長い移動シーンがあった。 都はるみが二人を追って走るシーンだ。ありったけの移動レールが敷かれた。師の木下恵介監督譲りの大移動ショットである(と、後で知った)。 ぼくは、カメラから遠く離れたスタート地点の石垣に隠れて、合図を待っていた。 もちろんはるみと一緒だ。 彼女はまだ17歳。そこには付人も来ていない。二人きりだ。 なかなか合図は来ない。彼女は心配そうにぼくを見る。 ぼくにしたって助監督になったばかりなので撮影の段取りのことなどよくわかっていない。なぜ、なかなかスタートの合図が来ないのか、なんでこんなに待たされているのか。 もちろんアイドルの扱い方なんか知らないし、二人ともほとんど口を利くこともなく、ただただ黙って合図を待っていた。 (ケータイはおろか、トランシーバーすらなかった) でもその次の日、「お兄ちゃん」といって、はるみが話しかけてくれたのがうれしかった。 助監督の部屋が毎晩の酒盛りの場所となっていた。将軍という仇名のチーフのAさんが音頭をとり、監督の桜井さんはじめ、キャメラマンの荒野諒一さん、照明の飯島博さん等々スタッフが集まって、夜中まで酒盛りが続いた。飲めないぼくは、ビール1杯でダウン。宴が盛り上がる中、ガマンしきれずに部屋の隅でうとうとと船をこいでいた。寝不足が続いて翌日のロケバスの中で眼を開けているのが辛かった。 そんなことが続いたある夜、コックリコックリやっていると、桜井さんがスッと寄ってきて「ぼくの部屋で休んでいいよ」と言われた。ぼくはこれ幸いと、A将軍の目を盗んで抜け出した。監督の部屋は廊下の一番奥にあった。おそるおそる障子をあけると、真ん中にフワフワの布団が敷いてある。うれしくなって遠慮なく布団にもぐりこんだ。 それは、果たしてその夜だけのことだったのか、毎晩のことだったのか、その後の記憶がない…。もし毎晩だったら、お酒が入ると人が変わったようになるA将軍に厳しくやられたであろうに、何かを言われた覚えもない。きっと、その夜だけだったのだろう。 桜井組のスタッフはみな優しかった。カチンコを持ってどこで打とうかと、林立するライトの脚やケーブルを避けてうろうろしていると、照明チーフのFさんが手招きして「ここで打ちな」と場所を開けてくれた。おかげでライトを倒すこともなかった。新米なのに怒鳴られたこともいじめられたことも記憶にない。桜井さんの優しさがスタッフにもちゃんと伝わっていたのだろう。 そのころは、宿泊ロケだと、ロケ手当てなるものが出た。だから10日もロケに行くとかなりの額になる。月給2万円の新米助監督にはありがたかった。 だがそれがいけなかった。 帰りのフェリーの中で、小道具のS君(ちょっと年下だった)にドボンなるものに誘われて、全部まき上げられてしまった。はじめのうちは2倍にも3倍にもなっていたのだが、夜が更けるにつれてどんどん減って行き、港に着いたころにはスッカラカンになっていた。もちろん後悔先に立たず。こういう苦い思いも初体験だった。 なんやかやで、憧れの小豆島ロケから始まった桜井組の思い出は、いつまでも鮮明だ。 こんなことが最初にあったから、映画つくりの世界から離れられなくなったのだと思う。 桜井さんの思い出は、助監督になりたてのころの、ちょっと甘酸っぱい記憶とともにある…。
NHKが48分×8~10回のドラマの企画を募集していた。 夜10時台の女性向けドラマシリーズである。その締め切りが13日。 朝、Sプロに企画意図とあらすじと8回分のストーリーを送った。 夕方になって、OプロデューサーがNHKに持ち込んで来たという連絡がはいったので、やっと一仕事終わった。 先月の18日に話があって以来、ひと月たらずだったのと、同時にラジオの企画も考えていたので、結構せわしなかった。一段落してホッとしている。 うまく通れば、内容をあかせるのだが、まだ企業秘密だ。 その最中に、もう一本、ひらめいたものがあったので、その資料をTプロデューサーに送る。 これは、締め切りには間に合わないので、別ルートで提案してもらうことにした。 つい先日の新聞に出ていたもので、女性をターゲットにするには格好の素材だ。 あさってT氏と会って具体的に詰めることになった。 これも、内容は、企業秘密。 みんな実現すればいいいのだが、そうはいかない。 昔風にいえば、針の穴を通すようなものなので、あまり期待しないで待つのがいい。 とはいえ…、なのだが。 │<< 前のページへ │一覧 │ 一番上に戻る │ |
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