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東京なな猫通信

東京なな猫通信

発表詩篇

                
                   bara



  ◇◇◇二つの詩集以外で発表された詩篇たち◇◇◇




    子供の話



  一、万年筆

 子供は、よく笑ふのです。

 父が死んだ日に長いこと父の持つてゐた万年筆を貰つた。子供はたいへんうれしく思ひそれで字などを絵や模様などとまぜて書きました。
 しばらくして子供は賑かな葬式のあとで落書の紙を見るとすこしかなしくなりました。前にもお祭りのあとにはいつもかうだつた。あそびに来てゐた親類の女の子と子供の父とがゐないから今度はいつもよりさびしいのです。…………
 子供はなぜだかこんなことを考へながら、その万年筆でもう一ぺん落書きしました。子供はお父さんと万年筆とどつちが欲しかつたのか考へてゐます。落書したのは下手な形の人間の顔でした。誰にも似てゐません。子供は一しよう懸命にそれが親類の子に似てゐると思つてゐました。

  二、日記

 子供は寄せ算をまちがへました。
 それから彼はお弁当を食べました。
 学校の帰りに、路傍で涸れた草花を摘みましたが、すぐに捨てゝしまひました。手には今日返していたゞいた乙の図画があるのです。
 子供はうちへ帰るとお辞儀をしました。

 父はもう死んだので、母ばかりが青い顔をして窓の傍で明るい針仕事をしてゐます。子供はそのそばでお三時を食べながら、母とはなしました。母は返事をする度にやさしく笑ひましたからずゐぶん寂しく見え子供は不思議な顔をしました。
 晩御飯を食べると早く寝ました。時計はよく八時になることがあります。

  三、花の話

 子供はお母さんにトランプの兵士の持つてゐるやうな花が欲しいと申しました。赤い花だつたがよく見ると五枚の小さな花びらと[きいろ]い花粉までそれには書いてあります。
 そこでお母さんはよくその形や花をおぼえてしまふとさつそく町の花屋へ出かけました。みんな知つてゐるでせう。花屋の店にゐる花たちが、どんなにたのしさうな顔をしてゐるか。ちようど灯のともる時分でしたから。
 お母さんは花屋の人に花を見せて下さいといふと、もうこれきりになりましたといひながら、花屋の人は指さしてくれました。それはほんのすこしの黄や白や水色の花ばかりでした。そしてその人がいふには、ほかの花はもうしほれかゝつてゐますよ。おうちへお持ちになる頃はきつとだめになつてしまひませう。なぜつてあれはひるま買ひにいらした方のよりのこしなのです。
 で、お母さんはがつかりなさると、おうちへ帰りました。子供はそれをきくと、お母さんとおなじ位ずゐぶんがつかりしました。
 子供はすこし病気なのです。それで白い寝床から小さな顔ばかり出して、いろ/\なことを考へてゐます。それから暫くすると眠りました。
 お母さんはどうにかして子供をよろこばせてしまはうと考へて紙で造り花をこしらへました。お手本があるのでたいへんうまく行きました。

 そのよるおそく子供は眼をさましました。もうお母さんはお休みです。それなのに、子供はちひさな声でお母さんを呼びました。
 それからすこし顔をまげてあたりを見まはしました。すると、どうでせう。頭のところに、ぼんやり大きくあんなに先刻欲しがつた赤い花があるのです。子供はずゐぶんかなしいときのやうな気がしました。なぜつて、ちつとも自分ぢやわからなかつたけれど。するともうその花はいらなくなつてゐました。子供はもう一ぺん眼をとぢて眠りました。

 かはいさうに、その次の朝、お母さんはその花を上げようとすると、子供が、いや/\をしたのです。もうトランプの花なんかいらないと申しました。
 お母さんは指でその造り花をくる/\まはしながら見てゐます。
 ――いいですか。朝なんですよ。
 ね、みんな。窓のところで風がこつそり見てゐます。子供は花の方を覗いてきまりわるくなつてしまひました。

  四、ビラ

 子供は、いつもビラが降つてゐたらと思つて空を眺めるのです。ビラがあるときれいでした。空は明るく見えました。
 子供は、父がありません。母は、よい人だけれども、お金を多く持つてゐません。だから、ほんとうには子供をそんなによろこばせることは出来なかつたのです。子供はずつととほくまである家を欲しがつたのですが、家は子供たちが十人もはいるといつぱいになつて遊ぶことさへ出来なかつた。ビイ玉を埋めたいときにも砂のある庭はありません。庭のやうに見えるけれど、たゞ草花や石のあるものです。子供はよく日なたで、ピ・オ・ピに写真をやきましたが下手にくろくなり何もわかりませんでした。
 子供は、露路がいちばん空が高いと思つてゐます。
 或る日、飛行機が飛んで来ましたが、ビラをまきませんでした。子供はおこつた。ビラがあると、子供はそれで飛行機をつくるのです。
 子供はこの間かぜをひいたけれど、そのとき寝床のなかで咳をしました。自分では、それをビラが欲しくて出した声だと思つたやうでした。

 しばらくすると、子供は死んでゐました。
 母は、よい人だつたから、ながいこと泣いてゐたが、知りません。子供は今は、天にゐて、空をビラさがして歩いてゐるのです。子供は、生きてゐたときと同じ顔なので、誰にもよくわかります。子供は、まだビラを一枚だつて見つけないのでおこつてゐた。
 ビラには赤や青や草色のがあります。白や黄のがあります。黒のはありません。黒いビラは空がきたなくなります。

                        (1934年・3-4月)




    村ぐらし


 郵便凾は荒物店の軒にゐた
 手紙をいれに 真昼の日傘をさして
 別荘のお嬢さんが来ると 彼は不精者らしく口をひらき
 お嬢さんは急にかなしくなり ひつそりした街道を帰つて行く

   *

 道は何度ものぼりくだり
 その果ての落葉松の林には
 青く山脈が透いてゐる
 僕はひとりで歩いたか さうぢやない
 あの山脈の向うの雲を 小さな雲を指さした

   *
 
 虹を見てゐる娘たちよ
 もう洗濯はすみました
 真白い雲はおとなしく
 船よりもゆつくりと
 村の水たまりにさよならをする

   *

 あの人は日が暮れると黄いろな帯をしめ
 村外れの追分け道で 村は落葉松の林に消え
 あの人はそのまゝ黄いろなゆふすげの花となり
 夏は過ぎ…………

   *

 泡雲幻夢童女の墓

   *

 昼だからよく見えた 街道を
 ひどい埃をあげる自動車が
 浅間にかゝる煙雲けむりぐも
 昼だから丘に坐つた倒れやすい草の上
 御寺の鐘がきこえてゐた
 とほかつた

   *

 せかせか林道をのぼつたら、蟲捕り道具を持つた老人に会つた。彼は遠眼鏡をあてて麓の高原を眺めてゐた。もつとのぼると峡があつた。木の葉は、雲の形を透いてゐた。その下の流れで足を洗つた。すると気分がよかつた。草原に似た麓の林に、光る屋根が見えてゐた。またおなじ林道をくだつた。もう誰にも会はせなかつた。しばらくすると村で鳴く鶏を聞いた。はるかな思ひがわきすぐに消え、ただせかせかと道をくだつた。長かつた。

   *

 村中でたつたひとつの水車小屋は
 その青い葡萄棚の下に鶏の家族をあそばせた
 うたひながら ゆるやかに
 或るときは山羊の啼き声にも節をあはせ
 まはつてばかりゐる水車を
 僕はたびたび見に行つた ないしよで
 村の人たちは崩れかゝつたこの家を忘れ
 旅人たちは誰も気がつかないやうに
 さうすりやこれは僕の水車小屋になるだらう






    詩は



 その下に行つて、僕は名を呼んだ。詩は、だのに、いつも空ばかり眺めてゐた。

   *

 こはい顔をしてゐることがある
 爪を切つてゐることがある
 詩はイスの上で眠つてしまつたのだ

   *

 あかりの下でひとりきりゐると
 僕は ばかげたことをしたくなる

   *

 あゝ、傷のやうな僕、目をつむれ。風が林をとほりすぎる。お前はまたうそをついて、お前のものでない物語を盗む、それが詩だといひながら。

   *

 言葉のなかで 僕の手足の小さいみにくさ

   *

 或るときは柘榴のやうに苦しめ 死ぬな

   *

 詩は道の両側でシツケイしてゐる

   *

 僕は風と花と雲と小鳥をうたつてゐればたのしかつた。詩はそれをいやがつてゐた。

   *

 夜の部屋のあかりのなかで詩は
 目をパチパチさせながら小さい本をよんでゐた
 それは僕の書いた小さい本だつだが
 返してくれたのを見るとそれに詩が罰点をつけてゐた

   *

 小径が、林のなかを行つたり来たりしてゐる、
 落葉を踏みながら、暮れやすい一日を。

   *

 カーネーシヨンの花のしみついた鋪石を掘りおこすとその下で鼠がパンをかじつてゐた。パン屑はアスパラガスのやうな葉が茂つてゐるので、人は、水のコツプを手に持つてあちこちあはてて歩くことがあつた。

   *

 詩は道をステツキでためしてゐた
 長い道の向うまで日があたり
 衰へた秋のかげが脊中で死んだ
 詩は脊中をまるくして歩いてゐた






    初冬



 身動きの出来ない程の花のなかで、少年は死んでゐた。その形のまま柩は町を運ばれて行つた。寒い朝であつた。
  《天に行つて よそ見ばかりしてゐる
  天の先生に叱られてばかりゐる
 何度もくりかへし葬列はうたつてゐた
 そのはてを、花びらが幾すぢのあたらしい道を引いた。
  《かなしみはしづかであれ
  うたのとほくをゆけ

   *

 トマは仏蘭西の小説の描いた一人の少年のことだつた。彼はいつも友だちからその人に似てゐるといはれた。これはいけないぞと考へながら、ときどきはもう諦めて満足しながら。
 どの仏蘭西の少年の最後の言葉。
 ――ひよつとしたら死ぬかも知れない。

   *

 彼は詩を作るのがうまかつた。小さな声で呟くためのものであつたが或る人々はそれを愛した。

   *

  裸の小鳥と月あかり
  郵便切手とうろこ雲
  引出しの中にかたつむり
  影の上にはふうりんさう

  太陽とその帆前船
  黒ん坊とその洋燈
  昔の絵の中に薔薇の花

  僕は ひとりで
  夜が ひろがる

   *

  《郵便局で 日が暮れる
  《果物屋の店で 灯がともる
  
  風が時間を知らせて歩く 方々に

   *

 しよつちゆう自分をいけないものにきめてしまつた。それからあとで考へる。
 だから彼は叱られてばかりゐた。
 そのことを思ひ出すので、彼の歌は下手になつた。母のそばに寝ころんで、母の顔を見てゐると、歌なんか下手でもよいと思つた。彼はいつでも色紙いろがみに赤やエビ茶や緑の鉛筆で詩を書いた。十七歳であつた。

   *

 ――イワンのばか!

   *

 生涯の終りになつたらかなしい歌を一つだけ書いてみたいと思つた。叱つた人は皆かなしい気持の人だつたので、彼には絶望が人生の理想に近かつた。

   *

 秋 青い空の向うに
 かなしみは行き かへらず
 それらはしづかになつた

   *

 病室にあかりのまだつかない夕暮れ、母の顔の上に西洋の絵の女が映つた。母が見知らない人に盗まれる。その不思議を彼はどうしたらよいかわからなかつた。

   *

   黒い森にはつぐみがゐた
   小径に百合の日が待つてゐた
   枝のひとりがうたつてゐた
   《何と世の中はたのしいのだらう
   ちひさな花がきらきらしてゐる

   子供はだれも足踏みしてゐた
   鰯の雲と野鳩の雲と それを見てゐた
   村では泉がうたつてゐた
   《何と世の中はたのしいのらだう
   ちいさな花がきらきらしてゐる

   家を通つて向うに行くと 空のあぶくが光つてゐた
   野原と畑と川があつた 
   それから世界中の人がうたつてゐた
   《何と世の中はたのしいのらだう
   ちいさな花がきらきらしてる

 死ぬ朝は、母が彼のためにうたつてきかせた。目をとぢてきいてゐた、古びたうたを。これは病気になるすこし前に出来た歌だつたが、その繰返しルフランを彼はいちばんすきだつたのだらうか。
 母が、うたひやめたとき、窓かけが風に揺れてゐた。少年は死んでゐた。

   *

 ガラス窓に灯がはいる、乾いた靄の夕方。

   *

 墓に花がすくなくなり、粉雪が降つた。時をり訪れる母は、しづかな顔をして、祈つた。



                まつむし草





    小さな墓の上に


 失ふといふことがはじめて人にその意味をほんとうに知らせたなら。

 その頃、僕には死と朝とがいちばんかがやかしかつた。そのどれも贋の姿をしか見せなかつたから。朝は飽いた水蒸気の色のかげに、死は飾られた花たちの柩のなかに、しづまりかへつてめいめいの時間を生きてゐたから。

 すなほな物語をとざしたきり、たつたひとりの読む人もなく。骨に暦を彫りつけて。

 なくなつた明るい歌と、その上にはてないばかりの空と。ことづけ。

 墓の上にはかういふ言葉があつた――
 たのしかつた日曜日をさがしに行つた
 木枯しと粉雪と僧院に捕へられた
 それきりもう帰らなかつた。一生黙つて
  生きてゐた人、ここに眠る。






    燕の歌

          春来にけらし春よ春
           まだ白雪の積でども
                     ――草枕


 灰色に ひとりぼつちに 僕の夢にかかつてゐる
 とほい村よ

 あの頃 ぎぼうしゆとすげが暮れやすい花を咲き
 山羊が啼いて 一日一日 過ぎてゐた
 やさしい朝でいつぱいであつた――

 お聞き 春の空の山なみに
 お前の知らない雲が焼けてゐる 明るく そして消えながら
 とほい村よ

 僕はちつともかはらずに待つてゐる
 あの頃も 今日も あの向うに
 かうして僕とおなじやうに人はきつと待つてゐると

 やがてお前の知らない夏の日がまた帰つて 
 僕は訪ねて行くだらう お前の夢へ 僕の軒へ
 あのさびしい海を望みと夢は青くはてなかつたと

 




    静物



保塁のある村はづれで
広い木の葉が揺れてゐる

曇つた空に 道は乾き
曲ると森にかくれた 森には
いりくんだ枝のかげが煙のやうだ

雲が流れ 雲が切れる
かがやいてとほい樹に風が移る

僕はひとり 森の間から
まるい石井戸に水汲む人が見えてゐる
村から鶏が鳴いてゐる ああ一刻 夢のやうだ







    枯木と風の歌



私はうそをつき芝居をする
自分をゆるしたすべてのお前に
私は黙つて立つてゐる
ちょうどおこつた子供のやうに

枝は何と邪魔なのだらう
うつかりするとそれは裏切る
私はにくしみの言葉を捨てて
風にささやきかける

あれは祈りだ 誘ふ者に
そしてしづかにもう一度
水に映つたかげを眺める
いつまでも揺れないやうに

     *

私がそんなに駆けるときに
お前はなんと悲しさうなのだ
お前はぢつと残つて 唖のやうに
たゞ身を揺るばかりなのだ
―― ―― ―― ―― ――

私はもう次の木に行かう
それがお前にそつくりだつたら

私は身を投げる 光りながら揺れるものに
ここには扉もなく 姿もない
しづかに暗がりがのこりはじめる






    旅装



まぶしいくらゐ 日は
部屋に隅まで さしてゐた
旅から帰つた 僕の心……

ものめづらしく 椅子に凭り
机の傷を撫でてみる
机に風が吹いてゐる
――それはそのまま 思ひ出だつた
僕は手帖をよみかへす またあたらしく忘れるために

――その村と別れる汽車を待つ僕に
平野にとほく山なみに 雲がすぢをつけてゐた……







    一日は……



   I

揺られながら あかりが消えて行くと
鴎のやうに眼をさます
朝 真珠色の空気から
よい詩が生れる



   II

天気のよい日 機嫌良く笑つてゐる
机の上を片づけてものを書いたり
ときどき眼をあげ うつとりと
窓のところに 空を見てゐる
壁によりかかつて いつまでも
おまへを考へることがある
そらまめのにほひのする田舎など



   III

貧乏な天使が小鳥に変装する
枝に来て それはうたふ
わざとたのしい唄を
すると庭がだまされて小さな薔薇の花をつける



   IV

ちつぽけな一日 失はれた子たち
あて名のない手紙 ひとりぼつちのマドリガル
虹にのぼれない海の鳥 消えた土曜日



   V

北向きの窓に 午すぎて
ものがなしい光のなかで
僕の詩は 凋れてしまふ
すると あかりにそれを焚き
夜 その下で本をよむ



   VI

しづかに靄がおりたといひ
眼を見あつてゐる――
花がにほつてゐるやうに
時計がうたつてゐるやうだ
きつと誰かが帰つて来る
誰かが旅から帰つて来る



   VII


もしもおまへが そのとき
なにかばかげたことをしたら
僕はどうしたらいいだらう
もしもおまへが…………
そんなことをぼんやり考へてゐたら
僕はどうしたばかだらう



   VIII

あかりを消してそつと眼をとぢてゐた
お聞き――
僕の身体の奥で羽ばたいてゐるものがゐた
或る夜 それは窓に月を目あてに
たうとう長い旅に出た…………
いま羽ばたいてゐるのは
あれは あれはうそなのだよ



   IX

眠りのなかで迷はぬやうに 僕よ
眠りにすぢをつけ 小径を だれと行かう



          葉




    風のうたつた歌



   その一

最初の雪の日に私はちひさい火のやうに
ものの上にやんでゐた つぶやいて
それから私は出て行つた

眼をとぢて私を避けてしまふ木の葉
指の間から滑り落ちて見えなくなる木の葉――
その頃から 私がわからないのだ
笑はうとしたら 身体はねじれたまま
あはただしいかなしい声で呼んでゐる


   その二

人はみな小さな獣たちだ
心配さうに その窓や往来に善良な蝋燭をともし
風吹くな と祈つてゐる 私は額を垂れて聞いて行く

しかし私は不意に叫ぶ 諦める
私は黙つてゐる 汚れて たつたひとりぼつちなのだ 私は駈ける
私はやたらに駈ける 憎んでゐない


   その三

一せいに声を揃へた林の上に
私はひとり大きな声でうたつてゐる
すると枯木がついて来る
私はうたつてゐる 夏や秋を
枯木が答へる 私はまたうたふ……
樫のヴアイオリンは調子はづれだ

やがて長い沈黙が私に深くはいつて来る
うつとりとして思ひ出す
音楽のなかの日没 過ぎた一日
私は支へられてしづかに歩み出す


   その四

煙は白の上に 通つて行つた
もう形はなかつた
野づらは騒がなくなつた

わたしは窓のなかの幼児と
溢れて来る神を見まもつてゐる


   その五

私は見た 或る家の内側を
父と母と子の夜であつた 花の内部のやうにわづかなあかりに暖められかがやいてゐた
静かな話らしかつたが 私の耳は叫ぶ私の声をしか聞かなかつた
ほほ笑んだ顔であつた 眠つてゐる顔であつた

私はそのとき 直にかなしくなり
窓の障子を鳴らして過ぎた

   
   その六

洋燈に寄り添うても 洋燈は見えない

夜つぴて 悪い心を呼んで吠え 私の傷は怒りつづける
みめよい梢に手をさし出すと 瘠せた枝は一声叫んで崩れてしまつた


   その七

宿なしのあはて者の雁がうたふには
池に身を投げ 氷に嘴を折つてしまつた
春が来たなら どうしよう
宿なしのあはて者の雁は朝早く煤けた入江で泣いてゐた


   その八

雪に刻まれた月光は 言葉のない
別れの歌をすぢつけた
急いで立ち去る雲のかげに

曙 私に とざされた調べがうたふ
耳をとめてはならないやうに
林のなかに 枯木たちが
緑を流せ 緑を流せ


   その九

叫びつづけ ふと疲れたとき
私の瞼に見えない文字を彫つてゐる薄い陽ざし
埃がもつれ かげが遊んでゐる

私はそれを見たがまたただ一散に駈けてしまつた――







    風のうたつた歌



   その一

一日 草はしやべるだけ
一日 空は騒ぐだけ
日なたへ 日かげへ過ぎて行くと
ああ 花 色とにほひとかがやきと

むかしむかし そのむかし
子供は 花のなかにゐた
しあはせばかり 歌ばかり
子供は とほく旅に出た

かすかに揺れる木のなかへ
忘れてしまつた木のなかへ
やさしく やさしく笑ひながら

そよぎながら ためらひながら
ひねもす 梢を移るだけ
ひねもす 空に消えるだけ


   その二

森に不意にかげりだす それは知らない夢のやうに
水や梢はかげりだす 私がひとり笑はうとする
くらく遠くの叢に――

そのあとちひさな光が溢れ 葉は一面に顫へだす
森は風を待つてゐる 私は黙つて目をとぢる
私を逃げるうすい綿雲を見ないため
空に大きな光が溢れ 私はだんだん笑ひだす


   その三

いつまでも動いてゐたら かなしかつた

うたは消えて行つた

呟きはおんなじ言葉をくりかへし
よたよたと夜にまぎれた
――夜を待つたのに

すこし駈けたら

葉が息をひそめ それからあとはいつまでも笑つてゐた



        綿毛



    天の誘ひ



 死んだ人なんかゐないんだ。
 どこかへ行けば、きつといいことはある。

 夏になつたら、それは花が咲いたらといふことだ、高原を林深く行かう。もう母もなく、おまへもなく。つつじや石楠[しやくなげ]の花びらを踏んで。ちようどついこの間、落葉を踏んだやうにして。
 林の奥には、そこで世界がなくなるところがあるものだ。そこまで歩かう。それは麓をめぐつて山をこえた向うかも知れない。誰にも見えない。
 僕はいろいろな笑ひ声や泣き声をもう一度思ひ出すだらう。それからほんとうに叱られたことのなかつたことを。僕はそのあと大きなまちがひをするだらう。今までのまちがひがそのためにすつかり消える。

 人は誰でもがいつもよい大人になるとは限らないのだ。美しかつたすべてを花びらに埋めつくして、霧に溶けて。

 さようなら。






    風に寄せて



   その一

さうして小川のせせらぎは 風がゐるから
あんなにたのしくさざめいてゐる
あの水面みづのちひさいかげのきらめきは
みんな 風のそよぎばかり……

小川はものをおし流す
藁屑を 草の葉つぱを 古靴を
あれは風がながれをおして行くからだ
水はとまらない そして 風はとまらない

水は不意に身をねじる 風はしばらく水を離れる
しかしいつまでも川の上に 風は
ながれとすれずれに ひとつ語らひをくりかへす

長いながい一日 薄明から薄明へ 夢と昼の間に
風は水と 水の翼と 風の瞼と 甘い囁きをとりかはす
あれはもう叫ばうとは思はない 流れて行くのだ


   その二

風はどこにゐる 風はとほくにゐる それはゐない
おまへは風のなかに 私よ おまへはそれをきいてゐる
……うなだれる やさしい心 ひとつの蕾
私よ いつかおまへは泪をながした 頬にそのあとがすぢひいた

風は吹いて それはささやく それはうたふ 人は聞く
さびしい心は耳をすます 歌は 歌の調べはかなしい 愉しいのは
たのしいのは 過ぎて行つた 風はまたうたふだらう
葉つぱに わたしに 花びらに いつか帰つて

待つてゐる それは多分 ぢきだらう 三日月の方から
たつたひとり やがてまたうたふだらう 私の耳に
梢に 空よりももつと高く なにを 何かを くりかへすだらう

風はどこに 風はとほくに けれどそれは帰らない もう
私よ いつかおまへは ほほゑむでゐた よいことがあつた
おまへは風のなかに おまへは泣かない おまへは笑はない







    傷ついて、小さい獣のやうに



心は 歌は 渇いてゐる 私は 人を待つてゐる
私の心は 貧しきひとを 私の歌は 歓びを
もの欲しい不吉な影を曳き 私は索めさまよつてゐる
千の言葉を叫びながら 見かへりながら歌つてゐる

獣のやうに 重くまた軽く 私はひとり歩いてゐる
日はいつまでも暮れないのに 私はとほくに
不幸な[おさな]い心を抱き 私は求め追うてゐる
口ぜはしく歌ひながら 繰返しながら呼んでゐる

雲は 道は 乾いてしまつた 私は人を呼んでゐる……
それは来るかしら それは来るだらう いつかも
くらい窓にたたずんで 私は 人をたづねてゐた

だあれも答へない 誰も笑はない 私はひとり歩いてゐる
最後の家の所まで 私はとほくに 日はいつまでも暮れないのに
私はひとり歩いてゐる 私はとほくに歩いてゐる






    雲の祭日



羊の雲の過ぎるとき
蒸気の雲が飛ぶ毎に
空よ おまへの散らすのは
白いしイろい波の群

ささへもなしに 薔薇ばら紅色に
ふと蒼ざめて死ぬ雲よ 黄昏よ
空の向うの国ばかり………

また或るときは蒸気の虹にてらされて
真白の鳩は暈となる
雲ははるばる 日もすがら







    民謡
          ――エリザのために  



いとは張られてゐるが もう
誰もがそれから調べを引き出さない
指を触れると 老いたかなしみが
しづかに帰つて来た……小さな歌のうつは

或る日 甘い歌がやどつたその思ひ出に
人はときをりこれを手にとりあげる
弓が誘ふかろい響……それは奏でた
(おおながいとほいながれるとき)

――昔むかし野ばらが咲いてゐた
野鳩が啼いてゐた……あの頃……
さうしてえその歌が人の心にやすむと

時あつて やさしい調べが眼をさます
指を組みあはす 古びた唄のなかに
――水車すいしやよ 小川よ おまへは美しかつた







    手紙




秋 袖口につめたい風がじやれ

このさびしい村はづれの追分け道で

毎日 山羊が啼いてゐます

毎日 人が通ります 古びた次の村にまで




         空





    夏の旅





   I 村はづれの歌

咲いてゐるのは みやこぐさ と
指に摘んで 光にすかして教へてくれた――
右は越後へ行く北の道
左は木曾へ行く中山道
私たちはきれいな雨あがりの夕方に ぼんやり空を眺めて佇んでゐた
さうして 夕やけを脊にしてまつすぐと行けば 私のみすぼらしい故里の町
馬頭観世音の叢に 私たちは生れてはじめて 言葉をなくして立つてゐた


   II 山羊に寄せて

小さな橋が ここから村に街道は入るのだと告げてゐる
その傍の槙の木のかげに 古びて黒い家……そこの庭に
繋がれてある老いた山羊 可哀さうな少年の優しい歓びのやうに
誰かれにとなく ふるへる声で答へてゐる山羊――
いつもいつも旅人は おまへの方をちらりと見てすぎた


   III 田舎歌

村中でたつたひとつの水車小屋は
夏が来て 屋根を葺きかへた
一日たのしい唄をうたつて飽きない
あの水車小屋は何をしてゐるのだらう
小川よ 太陽と おまへらの緩い歩みにしらべあはせて
あの水車小屋は何をまわつてゐるのだらう


   IV 憩ひ――I・Tへの私信

昔むかし僕が夢を美しいと信じた頃、夢よりも美しいものは世になかつた。しかし夢よりも美しいものが今日僕をとりかこむでゐるといつたなら、それはどんなしあはせだらうか。信濃高原は澄んだ大気のなかにそばが花咲き、をすすきの穂がなびき、遠い山肌の皺が算へられ、そのうへ青い青い空には、信じられないやうな白い美しい雲のたたずまひがある。わづかな風のひびきに耳をすましても、それがこの世の正しい言葉をささやいてゐる。さうして僕は、心に感じてゐることを僕の言葉で言ひあらはさうとはもう思はない。何のために、ものを言ひ、なぜ訊くのだらう。あんなことを一しよう懸命に考へることが、どこにあるのだらう。Tよ、かうしてゐるのはいい気持。はかり知れない程、高い空。僕はこんなにも小さい、さうしてこんなにも大きい。


   V 墓地の方

露のふかい小径を よくひびく笑ひ声が僕を誘つた はじめての林の奥に

白樺の木のほとりで――ああ 僕のメエルヘン! (梢は 風に飛ぶ雲の歌をうたつてゐる)

薊の花のすきな子であつたが 知らぬ間に僕の悲哀を育ててゐた
みちみち秋草の花を手折りながら

帰るさ ひとりの哀しい墓に 憂ひの記念かたみ
僕らは 手にした花束を苔する石に飾つて行つた――


   VI 夏の死

夏は慌しく遠く立ち去つた
また新しい旅に

私らはのこりすくない日数をかぞへ
火の山にかかる雲・霧を眺め
うすら寒い宿の部屋にゐた それも多くは
何気ない草花の物語や町の人たちの噂に時をすごして

或る霧雨の日に私は停車場にその人を見送つた
村の入口では つめたい風に細かい落葉松が落葉してゐた しきりなしに
……部屋数のあまつた宿に 私ひとりが所在ないあかりの下に その夜から いつも便りを書いてゐた


   VII 旅のをはり

昨夜 月の出を見たあの月が
昼間の月になつて 朝の空に浮んでゐる
鮮やかな群青は空にながれ
それが散つては白い雲に またあの月になつたと

幾たびかふりかへり見 幾たびかふりかへり見
旅人は 空を仰いで のこして来た者に尽きない恨みを思つてゐる
限りないかなしい嘘を感じてゐる




           梅一輪



    

      離愁




慌しい別れの日には

汽笛は 鳥たちのする哀しい挨拶のやうに呼びかはし
あなたたちをのせた汽車は 峠をくだつた

秋の 染みついた歩廊のかげに
私はいつまでも立ちつくし
いつまでも帽子をふつてゐた――

失はれたものへ
幼きものへ



    

      雨の言葉




わたしがすこし冷えてゐるのは
糠雨のなかにたつたひとりで
歩きまはつてゐたせゐだ
わたしの掌は 額は 湿つたまま
いつかしらわたしは暗くなり
ここにかうして凭れてゐると
あかりのつくのが待たれます

そとはまだ音もないかすかな雨が
人のゐない川の上に 屋根に
人の傘の上に 降りつづけ
あれはいつまでもさまよひつづけ
やがてけぶる霧にかはります……

知らなかつたし望みもしなかつた
一日のことをわたしに教へながら
静かさのことを 熱い昼間のことを
雨のかすかなつぶやきは かうして
不意にいろいろとかはります
わたしはそれを聞きながら
いつかいつものやうに眠ります



    

      憩らひ

        ――薊のすきな子に――
       



風は 或るとき流れて行つた
絵のやうな うすい緑のなかを、
ひとつのたつたひとつの人の言葉を
はこんで行くと 人は誰でもうけとつた

ありがたうと ほほゑみながら。
開きかけた花のあひだに
色をかへない青い空に
鐘の歌に溢れ 風は澄んでゐた、
気づかはしげな恥らひが、
そのまはりを かろい翼で
にほひながら 羽ばたいてゐた……

何もかも あやまちはなかつた
みな 猟人かりうども盗人もゐなかつた
ひろい風と光の万物の世界であつた。



    

      夏の弔ひ




 嘗てのやうに、それはおだやかな陽気な日よりであつた。私はどこかで或る日さういふ日曜日に会つたことがあるやうに思つた。

 夜に入つてから、窓の外に霧が降りてゐた。私たちは集まつてゐた。燭火のまはりに。いくたびかおなじ言葉を編みかへながら、もうすくなくなつた話のまはりに。

 私たちの手に、昼の花束はのこつてゐない。……あれは何かとほい母たちの住む国の色のやうであつた。

 蟲が鳴いてゐた。鳴きつづけるこほろぎは逝く夏のしるべして。しばらく、一人は聞いてゐたが聞きさしてどこかに出て行つた。

 私は明日のことを思つてゐた。決して訊くことも語ることも出来ないものを。……窓ひらく。音もなくながれる霧に、月の出は明るく空にさしてゐた。

 
 

 

 

◆以下工事中◆





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