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コミュニケーションファクトリー ~演出工房~

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釜ヶ崎人情

「命があったら死にはせぬ~あくせくせんでものんびりと~

  七分五厘で生きられる~人はスラムというけれど~
    
ここは~天国 ここは天国 釜ヶ崎」

三音英次という歌手が歌う、知る人ぞ知るヒット曲「釜ヶ崎人情」

の一節です。

西成区の愛隣地区は昭和41年までは釜ヶ崎と呼ばれていました。

昔の地名は西成郡今宮村字釜ヶ崎・・・

ここが木賃宿で暮らす日雇い労働者の町として定着したのは江戸時

代は末期のこと、そう、この釜ヶ崎〔愛隣地区)は景気の良し悪し

によって昨日今日出来たようなスラム街ではなく、歴史に裏づけさ

れた、あるべくして存在する町なのです。

女装をする男性のことを「オカマ」と呼ぶようになったのは、この

町「釜ヶ崎」が語源になったとも言われています。

その昔・・

生活が困った釜ヶ崎の肉体労働者は、最後の手段として、女装をし

男娼となってお金を稼いだといわれています。

隣町にある飛田新地で女遊びをする男を横目で見ながら、お金のな

い労働者たちは、娼婦の代わりに安い男娼を買ったといわれていま

す。「仕方ない・・・今日もカマ(釜ヶ崎)で我慢するか・・」

と・・・・・

この釜ヶ崎が大きく変ったのはやはり1970年の大阪万博の年。

全国から大阪北摂地区開発のための労働者が集められ、今だかつて

なかった賑わいを見せました。

その時期にこの町に集まった、20代男性が今、50代後半とな

り、明日の命の保障のないという状態に追い込まれているのです。

当時、肉体労働者は羽振りもよく、毎日稼いだお金を飲み屋や料亭

(風俗営業店)に落としました、宵越しのかねは持たないというの

が彼らのステータスでもあり、明日も働くというモチベーションを

あげる方法でもあったのです・・・・・

不況の風は吹き・・・朝5時に並んでもほとんどの労働者が仕事に

あぶれるという時代が訪れました。

最初はまじめに並んでいた労働者も、10日も仕事にあぶれるとも

う並ぶ気力も無くなります。

そのうち、何のたくわえもないまま年をとり、働けなくなってしま

ったのです。

こういった場末の町には人情があるといいます。

厳密に言うとそれは間違っています。

どこにでも人情はありますし、どちらかというと裕福な人たちが暮

らす地域よりは人間関係は殺伐とし、他人にはかまってられないと

いう人が多いのが事実だと思います。

しかし、死と直面する毎日を過ごす人たちの社会ではちょっとした

人の情けがかなり重たく感じます。

毛布をプレゼントするだけで救える命があるのです。

人情の町、というより人情がなくては生きることさえままならない

町・・・

自業自得とののしり、軽蔑して横を通り過ぎる人もいれば、毎週木

曜日の晩に毛布をもってホームレスに声をかけて回っているボラン

ティアの会もあります。

これから冬・・・

すぐ横にあるレジャー施設「フェスティバルゲート」にはクリスマ

スツリーの灯がともり、恋人たちが思い出の時間を過します

そこから国道をはさんだ町ではたった一杯の炊き出しの雑炊にあり

つくために、100人以上の労働者がが行列を作っているのです。

「身の上話にオチがつき~ここまで落ちたと言うけれど~

   根性丸出し丸裸~義理も人情もドヤもある~

  ここは天国 ここは天国 釜ヶ崎」



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