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2009年01月06日
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放置ブログ 再開のお知らせ (52)

カテゴリ:滴滴的こころ

新年あけましておめでとう 平成21年元旦

 長らく放置していましたがぼちぼち開始しようかと

 ご報告に上がりました。

  いきなりどかっとはいきませんがぼちぼちフレームや設定をリニューアルします。

  難波屋






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最終更新日  2009年01月06日 14時02分57秒
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2008年05月17日

筑紫物語7 (49)

カテゴリ:とってもGood

筑紫物語 第7回

一妙丸山寺を出奔するの段その5

 父君の形見を抱き、赤子のように伏し転び泣きくれる一妙丸を狭霧御前は、とがめる様子もなくともに涙して泣いた。
 そして、一妙丸の背中を、成長を愛おしむよに、さすりさすり、諭すように言のだった。
「・・・・よいか、よいなよいな。そなたを山寺へ登せたわ、ただひたすらに父君と先祖の孝養のためじゃぞえ。仇や疎かに覚し召さるるな。仏に花も参らせよ。香も焚き申して法華経一巻を読みたて参らせることこそ、御釈迦牟尼世尊の御心にも叶い奉る孝養であらしゃるぞえ。
 ささ、一刻も早うお山に帰参申して、御孝養をつくされよ。よいな。よいな・・・」

 一妙丸は、忘れ得ぬ別れぬ時のような、むごい母の仕打ちをかき消すように、わっと、母者人の懐にすがりついて何度もうなずいた。
 それを叱りもせず、差し置くこともせずに、幼子をあやすように体を揺すって、一妙との最後の別れを惜しんでいた。
 未練を断ち切らんと欲すれば、別れのみぎわに我が子をしっかりと抱き留めることこそ、我が心の迷いを吹っ切れたものをと、今こそ心に染めてしみじみと思う。
 ”苦を逃れんとしてあさましくも苦を厭うて、かえって苦を重ねること、あまたにあることよ。苦をば苦と悟り、楽をば楽なれと思い合わせなば現世を渡る仏の知恵にも巡り参らせる”と、妙善和尚の説法が改めて迷いの心洗わせられるのであった。

 さてさて、一妙丸は、積年の障りを一気に取り払われたかのようよに、一点の曇りなき明鏡がごとく澄み渡っていた。
 母者人の御迷いこそが導いた仏智見か、はたまた仏意仏勅なのか。一妙丸は、心に一灯の望みが点されたのだ"この灯りをたどれ"といわんばかりの仏意仏勅が、今はっきりと聞き分けられたのだ。
 心わだかまりも消え一妙丸は狭霧御前にお暇乞いをすると、月夜の館の門を出た。そして、矢来の垣越しに、端座し、法華の要法方便寿量品自我偈一品二半を読誦しおわると、声なき声で母に訴えかけた。
『母御前。一妙丸は、必ずや御父君を探し出して、再び母者人の御前に帰参いたすつもりでござります。
 孝養にては必ずしも御仏の道に向かうばかりが孝養にはありますまい。父母共々手を取りおうて世を渡ることあらば、これに優れた孝養はありますまい。待っていてくだされよ。一妙丸はきっと、お慕い申し上げる母者人の御前に、見事、御父君をお連れ申し上げまする。
 帰妙し奉る稽首妙法蓮華経
 帰妙し奉る稽首妙法蓮華経
 帰妙し奉る稽首妙法蓮華

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 台家門外不出不相伝の女人成仏悪人成仏
の一玄の妙旨をとなえて静かに退去し、二度と山より舞い戻ることはなかった。
 
 狭霧御前は知っていた、一妙丸が去るつかの間、御父君の譲り状と伊勢平氏伝家の御形見、伊勢国の名工の鍛えの脇差しを、一妙丸が携えていることを。
 きっと倅は得度を待たず、急ぎ鎌倉へ上らせて、御父君、大橋太郎の消息を突き止めるのであろう。もはや、母者人とても、
その固く誓った一妙丸の志押しとどめるすべもなかった。
 比企ヶ谷の土牢に込められたと配下の馬廻りの家人が訪れて申したこと、にわかには信じがたい。右大将とても、もはや十年余も土牢に押し込めておること叶わぬであろう。
 だが、今、一妙丸が月夜の道を急ぎ山に帰りゆく姿を見て、妖しくも父君を馬に跨がせてその馬の手綱を引き引き、談笑しながら故郷に帰りくる姿が蘇るではないか。
 まったくもって狐狸あやかしの企みかと打ち払い打ち払っても、狭霧御前の胸を高鳴らせるのである。
 『願わくば日本第十六代の誉田別大王(ホムタワケのおおきみ)。その本地とや、霊山浄土に御法華経を説かせ給いき教主釈尊。涅槃入場して、発願して申しけるは、本朝法華最勝有縁の大乗国に、八幡大菩薩となして正直者の頭に宿り奉りて、法華経の行者をお救いもいうさんと誓願奉りき。
 願わくわ我が児の本懐を遂げさせ給える事、法華正直者の頭に宿り来りて、速やかに疾くと御守り奉らめ。帰妙し奉る稽首妙法蓮華経・・・』
・・・・と、夜の明けるのも忘れて一心に法華の玄宗、法華の妙旨を唱えるのだった。


 少し帰山が遅れた、もう寺では掃除は行き届いてあろうし、お灯明を上げ、樒(シキミ)を取り替える役目は未だ終えてはいない。
 一妙丸は、すこぶるバツの悪そうにこっそりと山門をくぐった。いぶかしくも稚児や寺小姓の声もしない。少し安堵して坊に戻れば、先輩所化僧も仲間も振り返って何事もなく用を伝える。
 詮索するまもなく矢継ぎ早に用を申しつけられ、やっと一日はくれていった。
 もはや、夕べのことは坊内どころか、すみずみまで申し合わせが出来ている。

 一妙丸の夕べの出来事を一部始終を見届けたすばしこい猿者が、和尚に委細を報告していた。勿論、叡生にも耳打ちされた。
 「よいな、これは、厳命じゃ。一妙丸のこと、お上人様の承知のこと、あれこれと詮索するまいぞ。普段と相変わらずいたすのじゃぞ」
 皆、なにやらただならぬ事と思っていたから、素直に服した。実は皆も早くから予想はつく。里人の噂が何より第一番にお山に届くのは、百姓にもよく尽くしてくれる和尚の精進でもあるからだ。

 「さてさて、いかがあいなるか。」
 和尚は楽しそうに言って、稗や粟を煎って鉢蜜で固めた菓子をほおばる。
 「もはや、元服の日をおいては好日なきかと存知まするが。」
 叡生は確信した。
 「うむ、拙僧も少し急がせばなるまいの」
 相変わらず旨そうに菓子をついばむ。
 「よろしいのですか?」
 叡生は知って知らぬ顔でとぼけて聞いた。
 和尚は煩わしそうに言い放つ

 「そなたも戯れ言をたしなむかや。皆承知じゃわい」

 「狭霧御前にはいかがなされましょうや・・・・・・」
 叡生は分かりきったことをくそまじめに和尚に伺う。
 そこまで言うと和尚はひらりと背を向けて言った。
 「今紫かといわしゃれた聡明な才女。今や賢母の風格ある御寮人におわす。一言申さわば立ちどころに了解するわ。」

 後は、和尚のサジ加減一つで、一妙丸は必ず出奔して鎌倉に向かうであろうと、叡生も知るものは見なそう思って語らった。
「さてさて、ぼやぼやしとられぬわ。これからが我らの日頃の精進が為されるのじゃ。」
 和尚は思いついたようにあたふたと巻紙をとってなにやら手紙を書き付けている。
 そして、振り返って叡生をにらみつける。
 「そちゃゆるりと気楽じゃな。何かいたすことあろうほどに・・・」
 あきれ顔で言う。
「和尚、一妙丸はまだまだ十歳に相成ったばかり、ちと、気働きが早うござりませぬか?」
 叡生は少しへ閉口して、真顔になって聞こえよがしに言った。
 「されば、叡山のご学友なりとも檄文をば差し渡し申して、叡山鎮守の山法師なんどかりたて、関所と関守を襲わしょうほどに・・・・・・」
 普段は堅物の学僧叡生のお茶目とも気づかず、血相変えて和尚が制する。
 「そちゃ物狂うたか。まるで、鎌倉方に討ち入らるるげな有りてい・・・・」
 叡生は久々に誰気兼ねなく、気分よく笑った。こんなにも豪快に笑うたのは、叡山留学以来である。
 何事も生真面目な者が慌てると、軸のぶれ方が尋常ではなく振る舞うもの。端で見るとはなはだ滑稽きわまりない事になる。
 「和尚様、戯れでござる。なにも、そのように真顔に受けられても・・・・」
 あまりの見苦しい有様に、互いに大笑しあった。
 今宵は、珍しくも二人の笑い声が堂内に響き渡った。時は静かに満ちるを伝えるように、何もかもが一妙丸の本懐を遂げさせようと動いていく。
 これが、ただ一途の信仰に支えられただけのことであることを、この十歳になるばかりの一妙丸に、この後、身で教えられることになるのだ。

 2008/05/17 13:59 難波屋滴水/マスターピン/T5号
 2008/05/18 0:27  本文改訂済み
 2008/05/18 15:35 
 






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最終更新日  2008年05月18日 15時36分59秒
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2008年05月14日

筑紫物語6 (1)

カテゴリ:とってもGood


筑紫物語 第6回

一妙丸山寺を出奔するの段その4

 一妙丸が山寺を抜け出してもう、丑の刻を過ぎ、寅の刻を小半時も過ぎた(午前三時過ぎ)。ようやく、懐かしい杉木立に見え隠れする屋敷の灯りが見えた。
 もう、胸の心の蔵が早鐘のごとく打つ。やがて、毎夜恋しく思う母者人の笑顔が今にも一妙丸を強く抱き留めてくれる幻影に、疲れた足は疲労も忘れたかのようにさらに早駆ける。

 「もうし、もうし、夜分押しかけ申し・・・。早う木戸を開けてくだされ、三年ぶりに一妙丸が帰参申しました。あけてくだされよ、母者人・・・母者人、血を分け申した倅の一妙丸にござりまする。」
 もう、騒々しくも木戸をせわしく叩いた。
 ガラリと木戸が開いた。せわしく取り急いで空けた気配がない。そこに立つのはあの御笠の虫の垂れ絹にうっすらと浮かび上がる美しい狭霧御前の面影はもはや見い出すよすがさえない。
 百姓暮らしで白雪のような美しい肌は浅黒く日に焼けてすっかり頼もしい地下女房のようにたくましくなっていた。
 すべし髪を麻糸で結わえ、決して耳止めさえもすることもない大名御寮人は、もはや一妙丸のまぶたの内に見いだす他なかった。

 「そこは外聞の悪かろうほどに、早う入ってくりゃ」
 誰そうかがい知れぬゆえ、外をうかがうように一妙丸を中へ入れた。

 狭霧御前は、一足先に寺小姓が先回りしてすでに知らせてあったから、随分と前から囲炉裏に薪を焚き部屋を暖めていた。

 「くどくどは聞きますまい、もはや、そなたは山寺にくれたもの、もはや二度と面映えをご覧ずることもなかるまいともうて忘れておったに。
 さてもさても、なんぞ木の葉の雨戸を打つ音かや、イタチ狐狸のさもしい物音かやと思うたに・・・・。」
 囲炉裏の赤く焼けた炭に照らされた母の姿は、成長した一妙丸を一顧もなく、ただ、囲炉裏の灰をかいでいる。決して目を移そうとはしないのだ。

「母者人、母者人はなぜ、成長した一妙丸を愛でて傍らに寄せてはくれないのですか?  我が肩を引き寄せて、母者人の胸にすがらしてはくださらないのですか・・・・。
・・・・・・・かようななさりようは一妙丸は母じゃ人を・・・・」
 黙っていればいるほど、我慢のつっかえ棒を払うような一妙丸の一途な声に気が狂いそうになった。
「ええい、黙りやっ。増長するにも体外にするものぞ。わらわをばをなんといたした。わらわは・・・・わらわは・・・・。」
 狭霧御前はもう、言葉が続かなかった。どこぞの国に我が子をば久しの別れに巡りおうて、これを喜ばずおるか。ましてや児を胸に引き寄せて、心鎮まるまで我が胸で暖めめたかったか・・・・・。それが出来るならば、何もかようなまでも、さしおくものやある。
 「ゆるせ、心の毒じゃ。そなたにただす。よいか、いかなる料簡ががおわして山寺を出奔いたしたか。これに直ってことつぶさに申してみよ。よいな、戯れ言に物見参詣で生家に舞い戻ったるならば、覚悟召されよ。ことによっては守り刀でそなたの喉掻き切って、わらわもお伴しようぞ、ささ参るか。」

 そういって、家伝の懐刀を抜き出して構えて見せた。その狭霧御前の目から止めどない涙がチラチラと囲炉裏の灯りに照らされていた。

 「母者人。お怒りごもっとも、一妙丸は承知の上でここに舞い戻りました。舞い戻ったるには、一言、母者人にもう尋ねる疑があってまかりこしました。どうぞ、お心しずめてお聞き届けくださいまし。」
 一妙丸は襟を正し、縁くだって敬礼して申し上げた。

 「山寺に上がってより、善き師匠、善き友達(ともどち)善き学寮に恵まれて申し分なく暮らしおりました。なれど、長ずるに、仏事から手習い教学を習うに付けて、いささか心に掛かりごとの日に日にふくらみ申して、仏事手習いごと行儀一切、疎かがちて致し方これなく、不審あること山の如し。急ぎこれをたださんとてもこればかりには問いいださん者、母者人以外にはこれなくそうろう。
 ここに参じて申し上げつるは、つらつら世をば見たてまつらば、父母のおわしてありつる事、天然自然の御理性(ことわり)なり。御理性を尋ね申さわば、天無くして雨は降らず。地無くんばいかで草木の育つること叶いましょうや。
 母なくして世に子の出でる理(ことわり)無く。父無くして人となる義理なし。父母あい立ちそろうてこそ、万物の世に現れるもの畜生にてもその数に加わる。
 しからば、この一妙丸に父おわさなば、人となる証が立ちませぬ。などて我が父君をばお隠し申されたか。この不審、疾くと晴らし給わりとうござりまする。」
 さすが、肥後守の忘れ形見。日本一の弓取り者と、平相国入道清盛様が御養子にと所望されるほどの御主君貞能侯の御曹司。隠し立てなどわらわの淺知恵と笑われよう。
 まったくもって、まだまだ和稚児や嬰児(みどりご)と、思いめずるばかりは母者人の子離れの難しくも悲しい母性の故であった。
 もう独り立ちを迎えたらば、あえて父の在処を教えるべきは母御前の勤めと深く己を責める狭霧であった。

「いつかは気づく、今日か明日かとおもうて夜を過ごし、はや七歳の節句に山寺に上がらす日ぞと覚悟申してあったに、その勤め疎かに差し置いた咎を許せよ。
 そなたにも随分に辛い思いをさせたな・・・・・・ちくと待ちや」

 そういって隠し置いた奥の納戸より一抱えあまりの漆塗りの金箔をあしらった葛籠(ツヅラ)を一妙丸の前に差し出した。
「これは、我が主君、肥後守大橋太郎平貞能侯のそなたへの譲り状と、先祖の由緒書きなどくさぐさの縁の文なれば、心ゆくまで手にとってご覧じよ。」
 母者人の顔はもう、険しい顔は消えただ、昔を思いめずる宮下がりの女房ばらのように"ああ、それはこうじゃ、彼はそれそれ。誰はなれよ"と、一つ一つ文の縁を語った。
 一妙丸はまるで懐かしい父君に逢うたように葛籠の、伊勢平氏累代の族譜と過去帳そして家督一切の譲り状や家禄分限帳を手に取り、父君の面映えを頬ずりなめるようにそれらをめくりめくっては涙をながした。

 まだ、尾張のの国熱田の里に食客して、同輩の館に隠れ住んでより、隠れてくれた狭霧御前に当てた手紙をいちいちに読むにつれて、十一歳になったばかりの一妙丸にもそれはよくよく理解できた。
 その、一妙丸は懐かしさと不憫な父の境涯に涙し、また、父を恋い慕うあまりに喜悦の声を上げながら文読む姿にもう、かき抱いてもうどこへとも離すまいぞと浅ましくも心乱される狭霧御前であった。
「・・・・・屋島壇ノ浦の西海に桓武平氏一門が没してより、右大将頼朝公の諸国追補使の詮議厳しく、鎌倉に出頭して頼朝公に恭順せよとの御教書を突き返しもうして、その使者の首まで切り落された。その後、筑紫の御館を打ち壊し、わらわと伴だって肥後の故地に戻ってから、そなたを身籠もったのじゃ。
 わらわは初産の喜びの内に高札定書のことを知った御主君父君は、わずかの寄騎と荷駄の供揃えを率いて伊勢平氏の本貫の地、尾張熱田に落ちて行かれた。
 そなたは未だ母者人の懐内にあるを案じ心砕きつつも後ろ髪引く思いなして退去されたのじゃ。
「"・・・男の児にせよ女の児にあるにせよ、これを捨て置くように退去することはいかんがしても去りがたい。もし女ならば手元に置かれよかし。そなたの意のままにいたされよ。もし男の児ならば、世継ぎとして家門を嗣ぐぎ家を栄えることもあろうが、ましてこのような家も主家も無きに等しい仕儀と相成った今、心苦しくもあるが、山寺に上がらせて命の永らえんことのみを遂げさせよ。』・・・かようにもうしてはや十年と一年をすぐる。 思えば、筑紫に入国のよし、あまたの旗本寄騎、馬廻り若党衆は言うに及ばず、荷駄の小者や手代下女(はしため)侍女を行列を為したものを・・・。
 おいたわしゅうあるは、尾張に隠れ申す時は寄り騎はわずか二人、荷駄掛けの小者幾ばくか、内向きなんどの側女も従えず、世が世なれば、あれ見よかし、なれぞ平相国が御曹司の家令大橋肥後守よと仰ぎ見る者あまた。京町をゆかれる御主君と同じ御方とはゆめゆめ思わざる哀れなる姿であった。
 尾張国の名主館に落ち延びたはよいが、右大将の内管領梶原源太数百騎に囲まれて、"おのが一人の罪科ならん"と自首して右大将の軍門に下ったと伝え聞く。
 そのまま鎌倉に引き立てられこそすれ、生きておわすものやら死しておわすものやら、伴の者すら戻り来る者は一人とて、おわさなんだ。」

 それを聞いていた一妙丸は、父の忘れ形見の脇差しを頬ずり抱くように抱えて、人とは思えぬほど泣き乱れた。その見苦しいほどの嘆きを狭霧御前は押しとどめる気力もなく、ともに不憫な親子のごとく泣き濡れた。

 2008/05/14 18:44 難波屋滴水/マスターぴん






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最終更新日  2008年05月14日 19時52分58秒
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2008年05月03日

筑紫物語5 (3)

カテゴリ:滴滴的こころ

 筑紫物語 第五回

一妙丸山寺出奔の段 その二

 叡生は、一妙丸が到底このひなびた山寺で僧となる器ではないと見抜いていた。僧になる才覚も才能もないというのではない。たとえ世に憎まれた平相国清盛入道が嫡子、正二位内大臣重盛公の家令(執事)にして名だたる平家の侍大将、肥後守平貞能侯の御跡取りなれば、伊勢平氏の家名をここに絶やすことを惜しんでいた。
 聞けば右大将頼朝公とて、伊勢平氏肥後守貞能に軍門下ることを督促したほど関東にも第一の弓取り者の名声を聞き及ぶほどの剛の者だった。
 ただ、未だに首級にも及ばず、家人の屋敷の土牢に込めて捨ておくことを何かいぶかしく思っていた。その御曹司を手元に置いて育むにつれ、その非凡な才知と聡明さに照らされて、きっと、彼の者は鎌倉に尋ね行きて、御父君をお助け申されると確信にいたっていた。
 これは、妙善上人には明かすことの出来ない叡生の胸の内だった。ならば、我は生涯を賭して一妙丸のお家再興に手を貸そうと誓ったばかりのことだった。
 
だが、今ではない、今その時には無いというのは、どうしても一妙丸に必要なものは教養知識ではなく、いかなる大事にあっても決して揺るがない胆力を鍛え強靱な信仰心を培っていなければ、平相国入道が一門のごとくに世に憎まれる。
 もはや、やんごとなき公達の世は終わったのだ。武辺のにわか公達がいくら殿上人になりすまし取り澄まして取り繕うとも、行い賤しからずんば、終には所領の百姓も家人従者も従わず、やがては運も極まって西海に没することになる。

 『ならぬぞ、こらえるのじゃ。そなたにとって、今やここが己の生きる家ぞ。十二の歳に得度出家するまでは、まだまだ、習い覚え身に修めることはやまとある。ゆめゆめ、気をゆるめさせまいぞ。こたびのこと、悪党童(わっぱ)のことは戯れ言とおもうて、しばし捨て置け』
 叡生とても、一時とはいえど腹にも違う言葉を掛けることは、いまし方便とはいえ、断腸の思いをかくせなかった 。
「・・・・・承知、・・・承知つかまつりまいた。もう、かような私事はおたずね申しませぬ。以後、仏事に身を粉にして従いまする」
 地に伏せているのは涙を見せまいとして、慇懃にわびを乞うのはどうにもいかぬゆえに健気に振る舞うゆえであった。、
 『今ひとたび時の未だ時のいたらぬゆえ。夏にウグイス鳴いて秋に蝉の鳴くことは叶わぬ。春来たらずして冬にありなば、いかでか春の芽の地を這い出て春の水に帰るを見参らせようか・・・』
 叡生もまた、世の理(ことわり)に習い従って、大望をに叶う時を読むのだった。

 

 あれから、一妙丸も十歳を迎えた。父君に似て、伝家相伝の五人力滋籐の弓をばつがえるほどの体の成長とともに、ますますもって細事についても異能を発揮しいった。また、何かのことにつけて村の若い娘や後家が寺に顔をだす。まるで婦女子のように色優れて眉目麗しい面映(おもば)えは、男とても正視せざるを得ないほどの美貌に育っていった。
 つとに最近は、村の女達が仕事や童遊びに歌に一妙丸を読み込んで、親しんだ。それを、たとえ名は乗らずとも、母の耳にもその成長の噂が春風に運ばれてくる。
 峰さす霞か山寺の 
        妙善和尚の寺小姓 
               花も実も咲く梅の花

 最近は、奇妙な掛け合いが書院の間と廊下で、襖越しに交わされる。和尚と学頭の掛け合いが今日も交わされる。
 「叡生殿。未だ来たらずか・・・・・。」
 妙善上人がそっと行き過ぎる足音に語りかける。
 「未だその時には及ばず。未だ春の夢の如しかと・・・・」
 襖越しに行き過ぎる叡生が立ち止まってそう答えると、また、他に悟られぬうちにそれは去ってゆく。
 この掛け合いは、この寺の者で知るものは限られている。
 もう、あと二年も過ぎれば一妙丸は稚児髷を落として出家得度の一人前の所化僧となるのだ。主受けをいたさば、現世との縁を今度こそ断つのだ。ただそれを二人が望んでいるのではない。
 あたかも臥竜伏竜が天命を知って、岩と為す惰眠を打ち破りて、黒雲沸き立ち雷鳴轟く天空を駆け上る昇り龍をひと目まみえんとして、それは毎夜、毎夜ごと交わされるのだ。
 そして昇龍は、八幡大権現、八幡大菩薩の御使いとなって東国に急ぎ急ぎ駆け上らせて出生の本懐を遂げさせよと、恋いし願っている。

 幾日かして、叡生が深夜、和尚の臥所に忍んで参った。
 「なにやら兆しが・・・・」
 その知らせに、
 「守り本尊は如何に・・・・」
 と、和尚が返す。
 「 守り本尊も、隠しおいた旅具足も空櫃に置いたままにございます。」
 ・・・・・。叡生はおちついて言う。
 「・・・・いよいよでござろうかの」
 妙善上人の子供のようなときめいて一妙丸に心砕く姿は、およそ叡山で山法師ばらとなって、ここに押しかけ、かしこに押し寄せて、本朝勅許の根本道場に一歩も武士を寄せ付けなんだ荒法師の無骨さはなく、孫を抱くような好好爺でしかなかった。
 叡生は、まさかの時に、後に先に、信用のおける腹心に付けさせているとのことを告げた。
 おそらくは、懸念懸想した通りに、御父君の所縁(ゆかり)を訊ねに実家に舞い戻ったのではあるまいかという結論になった。二人が想定したとおり、先祖の由緒や譲り状を尋ね求めるために母者人の元に参るということは、いよいよその天命の時が近いことの予感に、もう寝てはいあられない二人は、少々早いが、供養の澄酒を挟んで、祝杯の予行とばかり互いに酌み交わしながらその時の来たことを喜びあった。
 
 その頃、皆寝静まった深夜、最後の灯明消しの廻り番を済ませた足で、三年にぶりの生家に向けて、一妙丸は早駆けで向かっていった。

 三年前のことはもう、十年も昔のように微かな記憶となって今、その来た道をたどたどしくたどるように、忘れたことが少しずつ取り戻され引き戻されてゆく。
 夕方に降った雨も上がり、雲居にかかる満月には、もう遮る雲はない。
 まるで一妙丸が家に続く道が白く浮き上がって、あたかも、大いなる意思に導かれるようであった。

2008/05/03 18:29
2008/05/03 21:01 改訂済み
2008/05/04 19:19 加筆修正済み






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最終更新日  2008年05月04日 19時20分05秒
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2008年04月24日

筑紫物語4 改訂 (1)

カテゴリ:とってもGood

筑紫物語 第四回(改訂版)

一妙丸山寺出奔の段 その一

 憔悴して館に戻った狭霧御前は、その日からふさぎ込みがちになった。何かをすっぽりと抜け落ちような虚脱感だった。
 あの時、どうしてしっかりと抱き留めてやらなかったのか。一妙丸が最後に甘えて見せた心優しい我が儘を、どうしてもっと素直に包み込んでやれなかったのか・・・・・。
 そのことが今も狭霧御前の心を締め付けるのです。
 それは、一妙丸の泣き叫んで母者人を乞い求める声が、山門に隠れてしまう時、我慢できず、来た道を急ごうと背を向けた刹那、侍女の一人が放った何気のない言葉が、狭霧御前の心の内にわだかまった死角を突き刺したのだ。
 「御寮人様。なにゆえ御曹司をお抱きあそばせなんだか。」
 強い口調ではなく、絶望したような寂しい響きだった。
 本来ならば下女の分限をわきまえぬ増長であったが、今に落人同然の身なれば、伴に生き抜く殿軍(しんがり)のように頼もしい家人の問いかけだった。
 狭霧御前は、ハッとして振りかる山寺の方を見上げる顔は、もはや、高貴さも威厳もない一人の女性(にょしょう)そのものであった。
 誰もが仰ぎ見ずにはおれない狭霧御前の、悔恨にゆがませた口からは、何年も押し殺してきた女性の哀号がほとばしり出たのだ。
 
 
もう、一妙丸を山寺に上らせてから一月もたとうかという日、山寺から住職が訪れた。一妙丸が山寺に上がってからというもの、魂の抜けたような狭霧御前を気遣い、少しは元気づけようと訪れたのです。
 突然和尚のお目もじに色めいて、臥所から起き上がり、とりもなおさず見繕いもほどにお目通りをした。 和尚は狭霧御前の様子を見て安堵した。ただ、愛し子と別れて、すっかり気を落としているだけで、時がまた解決することなのだ。

半年ぶりのお目もじ、息災でござったか。少しは百姓なりも慣れ申したかな。一妙殿はなかなか賢いお子でな、寺の暮らしもずいぶんとなれ申したぞ。
 寺に参ったおりは、一晩中泣いておったが、三日もたてば寺小姓と仲良うしてござった。日一日年ごとも覚え、習い事は御前の手ほどきがあった故、読経の折には、他の若稚児小姓にも漢字を教え授けるほどじゃ。
 今は兄弟子や学僧の給仕をさせておるが、特に兄弟子にせがんで史記や略記の講義を受けているそうじゃ。
 一妙丸ほどの*奇貨(きか)まこと山寺のに捨て置くには惜しいと申しておる。出自は言うおよばずと委細を秘して内々にと一妙丸に言い聞かせてはおるが、「栴檀は双葉より芳しい」とは申す通り、早くも見抜かれもうしたわいな。じゃからによって、我が弟子随一の秀才には委細を話し申し付けて、一妙殿が得度出家までは学僧の叡生が元でしっかりと修行させる所存じゃ。」

 その和尚の言葉に、狭霧御前はすっかり安堵し、ただただ、一妙丸の山寺の修行の日々を思い描いているうちに、いかにも偶然のようではあるが、何か大きな意思に導かれているように思えてくるのです。
 そもそも、一妙という幼名は、この妙善和尚に命名していただいた。その縁浅からぬほどに絶大の信頼を寄せている。間違いはなかった。すべからくは、日夜欠かさぬ法華信仰の精進ゆえに、遠回りのように御仏の御心に導かれたことだとだと悟らざるをえなかった。子が親に法を説くがごとくであった。

 その日を限り、狭霧御前の心にとりつく暗愚迷妄の霞は払われて、一筋の光明に導かれ日増しに凛とした御寮人の姿に戻っていった。
 一日の百姓仕事にも慣れたし、物を作り育てる難しさがあればこそ、実りを迎えて労苦の貴いことを学ばせられもした。あらゆる世の中の物が自分を守り育ててくれたことを、百姓仕事でありありと教え導かれる。労働の中から人の在処を探ることができたのも、朝一日のはじめに、今日まで永らえる喜びに感謝し、夕なには、今日一日を精一杯生き延びたことに感謝の祈りを捧げ、読誦三昧によって御仏の慈悲に浸る心地よさに包まれている。
 添え物の信仰は、いつも当たり前のように満たされた中で堕落して形骸する。
 困難のない信仰は生きることを放棄すように愚かしいことである。
 本当の信仰は、苦しみを厭い災いを払いのける物ではない。むしろ、その中にあって困難を堂々と乗り越えることこそ信仰者の本懐なのである。
 狭霧御前は、一族の繁栄の為に一門の総領の言うまま気ままに武家の御寮人として他家に嫁ぎ、弓取り者の身代を守り、子を為して面目を果たすことが女人の生きるすべてだと信じて、そのほかのことは別儀として心にもとめなかった。
 先の大戦で一門の主家を失い、官位官職も停止され、受領国も所領分限身代一切を失った。まして殿は生きておや死にてをやゆく方も知れず。あまつさえ愛しい子を手放した。以前の狭霧御寮人ならば覚悟と、一妙丸共々、自刃して果てるであろうに。
 ただ不思議にて思うことは、善からんは不思議。悪からんは一定(いちじょう)と思し召して、ひたすら法華経の功徳を信じることは、かかる大難も一乗妙典の大船に乗せられて難儀の大嵐をば常楽我浄の波に分け入って、現世安穏、後生善処の彼岸の人生行路を渡らせ給えた。まことにまことに不思議に思うた。
 だが、この時、狭霧御前も妙善上人にとても真の奇跡に巡り合わせることは夢にも思わないであろう。


 朝日の差し込む木漏れ日をぬって、一妙丸は元気よくお使いに精を出している。先輩所化僧の書物を運んでいる。
 『やい。やいやい。』
 突如、けや木の陰から稚児の仲間が飛び出してきた。はたと、立ち止まって見やれば、札付きの不良が一妙丸にちょっかいを出そうと待ち構えていた。
 「何かご用でございましょうか?手前は、ただ今所用にて、暇もござりません」
 そう言い逃れてやりすごそうとしたが、いきなり手下に胸倉を捕まれた。
 逃れようともがく一妙丸の顔を睨みつけ、
 「やい、そちゃ近頃、兄さんに贔屓にあづかっとるそうじゃが。少し読み書きが出来るゆえ、得意になってわしらに何かと見下すような面ををする。今参りの和稚児らしからぬ故に、ちと、仕置きをいたそうと待っとったのじゃ」
 そう言ってしなりのよい桑の枝を振り上げた。
 「なにか粗相ががあったならお詫びもつかまつりましょうが、思うに、いささかも責められる咎は身におぼえはござりません。どうかご勘弁くだしゃり・・・・くだされ。」
 はっとした、決して身分出自を口外しないと約束したが、やはり、生活に慣れ親しんだ言葉は、所作のようには直ぐに改められない。
 「こやつ、奇っ怪な物言いじゃな。だれぞ大名小名のゆかり者のようなナメリ(訛り)を言う。お前はててなし児と聞き及んだ。皆ゆかりの者がたずね来るが、そちゃ、ゆかりの者すらも来ぬではないか」
 そう言えば、確かにそうだった。お山に上がってからこの方、一度はお寺にも参ってもよかろうにと、仲間が諫めも聞かず甘えてすがる姿を見るに付け、母者人のつれないなさり様に心痛みもした。
 だが、ててなし児とはいかなることか?
 一妙丸は、夫婦と夫唱婦随というように、ともに一つ屋根の下に暮らすということを知らなかった。生まれたとき~母者人と次女の元で育ったのだ。
 「ちくと訊ねまするが"てて無し子"とはいかなる者ぞ? 有り体(ありてい)にお聞かせくだされ」
 そう仲間に尋ねた。何でもよく知っている賢い一妙にも知らないことがあるのがよほど功名でもあるのか『わーい、わーい、ててなし児、ててなし児』と、囃子たてる。
 「一妙丸・・・・そちゃ阿呆か? ててなし児とは、寺一番の愚鈍と言われたおいらでさえ知っていることを・・・・。おぬし、われを愚弄するのか」
 力一杯に桑の枝で打擲した。その痛いこと生まれて初めて人に打擲されることもなかった一妙丸は声は出さずともぽろぽろ涙が出て仕方なかった。
 「どうか、どうかお許しを。知らぬのは咎ではありますまい。知らぬであれば教えればすむこと。ひとたび聞いたことを忘るるならば誹りも受けましょうぞ。どうか、ご教授・・・」
 いじめっ子の稚児は息を粗めて言う。
 「知らぬのか。ならば教えて使わす。己は父親もおらん片親ということぞ・・・。よう覚えて忘するな。」
 そう言うと気配をさとってどこかに消えさった。
 なにやらと騒がしく叱ってやろうと叡生がやってきた。
 「一妙丸どの。用を済まされたか?」
 そう言って一妙丸を見た。はっとしてみやれば、ほほに打たれた跡もあり、悔し涙にも暮れている。
 「見苦しいところをお見せして申し訳ありませぬ。すぐさま用を・・・・」
 「まて、なんぞあったようじゃな。ここは、近在の里人が人減らしのように児を捨てにくる。中には仏事にも染まれず所化にもあがれぬ者も多く、破門した悪党さえあまたいる。なんぞいじめられ殴られて痛いところはあるか?」
 そう優しく言う叡生に、すがるように一妙丸は訊ねた。
 「叡生様、あなた様のご縁で、この山寺に入ることが出来たのは、よくよくのご縁と母者人も申して降りました。それを頼んでのお願いがござります。一妙丸は、生まれて初めて、てて無し児と知らされました。どうか、何か我が父のゆかりを知っているならばお教えくださいませ。」 
 叡生は顔色が失せた・・・いつかは一人悟って心に深くとめるであろうと高をくくっていた。油断であったと後悔をした。
 知らずとも、一妙丸の振る舞いといい物腰といい、あまたある和稚児にも見あたらぬゆえに和尚に問い詰めて、有り体に大橋太郎という元大名のことを知らされたばかり・・・入らぬお節介が今に仇なすとは。
 後悔はあったが叡生は誰にも話せぬ存念を秘めていた。叡山修行の学林で机を並べる鶴岡八幡宮にゆかりのある者から、寝物語に清盛公の御曹司の執事で、大橋肥後守某が捕まって六年あまりも比企谷の土牢に押し込めてあると聞いて、鎌倉公方の怖気たつ話を今に忘れられずあったことだ。
 それが、まさかこの一妙丸の父親だとは。和尚から聞いてその縁の深からんことを思い知らされた。
 ならばと委細を咬み含んで教えるものか、言わずに叱りつけて急場を凌ぐか、はたと思い悩んだ。

 以下次号に譲る
2008/04/25 0:33
2008/04/25 21:23 改訂 






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最終更新日  2008年04月25日 21時40分24秒
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2008年04月20日

筑紫物語3

カテゴリ:とってもGood

筑紫物語 第三回

 一妙との別れの段  

 春はようやく根雪を溶して青く連峰の山々にかえた。

 一妙丸は三日も前から家の軒に登っては、山の端に隠れる道を見ながら、寺からの迎えを待ち遠しく待つのが日課となっていた。
 それを見るにつけても狭霧御前を悲しませるのは、なんと世の見苦しき有様か、我がもとよりに愛しい者を皆はぎ取ってゆくと、詮無いこととはいえ心乱されている。
 『そのようになさらずともお迎えは参りまするぞ。ささ、母者人(ははじゃひと)の傍らにきてそなたの猿面を見せてたもや・・』
 そういうと、一妙丸は猿物のような真似をして家中の者を笑わせて、ともすればふさぎがちになる母御前の胸に飛びついて無邪気にじゃれついた。そんな一妙丸の機転で廻りがぱっと明るくなる。母も子も等しく睦まじくあることの幸せをなにより感じる一時であった。

ただ中では、「あのように甘やかせますると、別れのみぎりには、さぞや見苦しきことにもなりましょう。心あらば、とかく差し置いて遠ざけることもあろうに」と、眉をひそめて、案ずる者もいる。だが、一向に、暇あらば一妙丸と一緒に過ごすことが多くなった。

 狭霧御前は、もう七歳(とせ)もゆく方もわからぬ夫、貞能殿を思い起こすことは、別れのみぎりに方々一妙丸の行く末に心砕いたこと、親として何事か施すべきこともなく断腸の思いで子別れとなったこと。
 その思いが今ほどよくわかるのは、このいとけなき幼子を愛しているばかりではない。 我が母者人の『現世安穏・後生善処』と望んで山寺に行くと言い切った。我が思いはただただ殿のご供養とただ一子の愛の結晶を守り育てること。
 "これは後生失っては済まされぬ殿と妾(わらわ)の証"だと、周囲にも己にも言い聞かせてきた。か弱き命をわらわが守り育てる後生ぞと、力んでは見たものの、その苦しみから無理に遠ざけようとしたが、一妙丸の心を知ってから、まだ和稚児であろうとも、立派なる男児と思う故に、あえて、生涯の善き思い出と定めて、覚悟にあるまじき様を見せているのである。

 「恩は教えられるものにはあらじ。親を慕うて思いなすのが恩ぞ・・・・・
 報恩感謝を教える親なれば、いかでか親も子に徳をばほどこさんか」

 お目通りのつもる話に狭霧御前の先祖にかこって話された言葉は"わらわがことじゃな"と、毎日のように心に浮かんでくるのです。

 三月も足らぬ日だちに、お山から、まだ幼さの残る得度を受けた先輩僧(所化)と小間使いの稚児を伴って館を訪れた。
 母御前と一妙丸は、伴に殿居の仏壇に早暁から勤行をしていた。母が幼い頃から守ってくれた守りご本尊を一妙丸に託すために、法華経の題号を唱題している。

 帰命し奉る稽首妙法蓮華経
 帰命し奉る稽首妙法蓮華経
 帰命し奉る稽首妙法蓮華経
 ・・・・・・・・・・・・
 女人成仏として台家不相伝の妙秘と累代に伝えられた密事を、守り本尊とともにこの日初めて一妙丸に託した。

 気づけば、お山からの使者も居住まいをただし、殿居の、お目通りの庭先で、黙念として手を合わせている。
 お山から輿を寄こすのを拒んで、狭霧御前はお山までのしばしの伴揃えに加わることになった。

 一妙丸は母を気遣い一人で行けるといったが、"母者人も参る"と言ったら、うれしそうに笑みを浮かべてうなずいた。

 気丈にも健気なれども未だやや児のように母を恋しがるのを誰ぞ責められますまいぞ。
 ただ、寺の使いも従う下女もいぶがしかるほど、狭霧御前のお召しの大内掛けの色あでやかなことよ。およそ、山寺に出す母者人の出で立ちには不釣り合いなほどの朱色の錦に金糸を綾にこしらえたるお召しは、大名御寮人の風体まさしくそれであった。
 里人のが見送る中、あまりの色あでやかに、傘に垂れたる”虫の垂れ絹”に包まれて歩く狭霧御前の美しさにため息が漏れた。
 分別も思慮も教養もあるに、田舎面の姫様育ちと笑わば笑えよう。これは、他人のうかがい知れぬ狭霧御前の心遣いであったことを後に知ることである。
 
 行く道すがら一妙丸は先頭を歩いてはいたが、やがて母御前の手を取って童歌を歌いながら歩いた。次第にクスクスこそこそと笑い声が漏れ、道行く物はどこぞのご参詣かと見間違うばかりに物見遊山のような賑やかさになった。
 山里は春に誘われて、山かすむまにまに山桜の咲き匂う様の、しばし、一妙の今生の別れとなるやもしれぬのを忘れさせるのでした。

 程なく肥後の国境、昔、清盛入道様より受領した筑紫国にはいる峠に、一妙丸が一生を過ごすであろう山寺に行く一本道にたどり着いた。
 そして、
山寺の参道が山の頂上にまでよく見える橋の川端で、今生の最後の別れとなった。
 『もう、おいとまの時となりました。一妙はきっと立派な御坊となって母者人を迎えに参ります故、心静かにお待ちくだされ』
 そう、元気よく言った。聡明で他をまずに思いやる、何から何まで大橋太郎平貞能に生き写しの一妙丸。
狭霧御前は、一妙丸のリンとしたちっちゃな肩を見ていると、忘れていた主との別れを急に思い出して、気の眩むほどの悲しみが襲ってきた。
 その一妙丸が狭霧御前の内懐に潜り込んでくる気配を感じて急に身をこわばらせた。御笠の「虫の垂れ絹」に包まれた狭霧御前は美しくたたずまい、柔らかく見守る母御前とと打って変わって、一妙丸を追い払うように言い放った。

 『早うゆかれよ。別れは長々と遊ぶ物ではないぞえ。はよいかっしゃれ。はよう・・・』
 一妙丸は、もう一度だけ母者人にすがって、ぎゅーっと痛くなるほど抱いて貰いたかった。そうしてくれると思って手をさしのべたその手をむげにはらわれた。
 やがて、寂しそうな目で母者人をそろりと伺い見ると、諦めて合掌礼拝して使いの者に手を引かれるように別れた。

 中途、一妙丸は振り返り振り返り母者人の方を見た。
 春霞にたたずみじっとたたずみ、御笠を上げて一妙丸を目で追っている。それは、山の木立をぬって中腹に至っても母の姿が望めた。
 やがては頂上になんなんと達するに及んでさえも、
母だけを浮かび上がらせるように春のたなびく霞が、狭霧御前のあでやかな姿を浮かび上がらせるのだった。
 その時、母者人の朱のあでやかに浮き上がる姿が目にとまり、初めて、狭霧御前の心中の深からんことを知って一同が涙した。
 一妙丸は、母の所にも聞こえるほど「わーんわーん」と声を上げた泣いた。始めて親と別れることの切なさに泣いたのだ。
 先輩所化僧も泣いた。小間使いの稚児も、我が母を思い出したのか、一妙丸の寂しげな鳴き声に誘われて泣いた。
 出会うことのすばらしさを上回るほどの苦をば、早七歳にして身を切るように習い覚えた一妙丸であった。
 『ははじゃひとー、ははじゃひとー・・・・。』
 そのたえだえになりそうな幼子の声は山々に里にまでも鳴り響いた。やがて山の頂上に、そして山寺の山門の中へと、そして消えていった・・・・。

 狭霧御前は伴の下女にすがらなければ歩けぬほど泣いた。もう一歩もここから立ちますまいぞと言うほどに嘆き悲しんだ。
 まもなく里人に頼んだ駄馬に乗せられた母は、来たときとは入れ替わったように、もぬけの殻のようになって呆けてあった。
 して、そのに紅を引いた口から漏れてくるのは、"静香の舞"今様の吟ずる声だっ。
 しづやしずうーしずーのおだまきくりかえしィ~
 むかしをいまにー なすよしもがな~

 いつまでもいつまでもやむことはなかった。

 次回は山寺出奔の段につづく

2008/04/21 0:19 T5号
2008/04/21 19:17 改訂 難波屋滴水/マスターぴん






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最終更新日  2008年04月21日 19時19分18秒
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2008年04月18日

筑紫物語2

カテゴリ:とってもGood

筑紫物語 
第二回

 一妙との別れの段

 あれから六年もの月日を重ねた。
 一妙丸もたどたどしくはあるが、
節句を迎えるごとに大きく成長を重ねた。
 母の傘を編む傍らに千字文をならい、四歳にして習った論語もはやそらんじるほどになっていた。中でも、釈迦八万宝蔵一切経中最勝王経たる釈迦出世の本懐経、妙法蓮華経一軸八巻は、輿入れの儀に持参した伝家の宝経だった。狭霧御前を迎えるために持仏堂に納めて大切に守り供養してきた。今は荒れ
るばかりとなった館の殿居に善き高座をもうけて経巻を安置した。してその後背に久遠実成実習実証の如来仏にして脇士には本門四菩薩の本師仏を拝し奉りて、一妙も母御前も仲良く法華経の要法を朝夕に勤行読誦した。

 ほどなくして、狭霧御前の実家累代の菩提寺から住職の和尚が訪れた。家人に任せて家を空けた暇のこと故に、急ぎ知らせてきた下女に手を引かれて館に帰る間中、一人残してきた一妙丸が気がかりでなず、うわごとのように"まろやまろや、ゆるしてたも許してたもれよ"と、肝冷える思いで館にもどった。
 納戸口から隠れるように化粧部屋に入った母御前を慕って一妙丸を見て安堵すると、急ぎ軽装から正装に着替え髪を整えて、殿居で待ちわびる住職にお目通りした。
 狭霧は幾度か父母また送付に伴われて幾度か参った折には精悍な青年僧ではあったが、今や初老の老僧の威厳を増すばかりであった。
  「こたびのこと案ずるまいぞ。鎌倉より下し置かれた地頭の下知ゆえに参ったのではないぞ。そなたに昵懇(じっこん)に申し渡したきことがあってな。なあに、寺の差配の者には法事に参る伝えておるゆえ安堵めされよ。」

 和尚の包み込むような笑みにさそ誘われて、緊張の糸が切れた。もう、筑紫国の大名御寮人ではない。一妙丸を艱難から守り育てた慈母になっていた。

「お上人様とは、久方のお目見え目出たくあらしゃれまする。女人が館の不浄なる所に罷り越したること、あな、恐縮至極に存じ奉ります・・・・」
 慇懃ではあるが、答礼である。
 和尚はじれったそうにして
「ささ、面をあげられよ。さ、こそ、拙僧に今一度かんばせを拝み奉らされよ。ささ。」
 互いに目を合わせば、昵懇の間柄、昔話に少し時がすぎた。
 狭霧御前にもようやく、こわばりもさって昔なじみの美しい笑みがこぼれた。それを待っていたかのように和尚は存念を切り出した。
 「さてさて、つもる話に花咲申しましたな。拙僧がこ度参らせたは、先に叡山根本中堂より研鑽修学に上らせた修学僧が帰山の途におもしろいことを言う。
 さても、日暮れ近きよって逢魔が時、灯り無き道すがら、ふと、耳を澄まさば見事に経を参らせる和稚児の声を聞き及んだのじゃ。
 いぶかし。かかる山里にいとけき和稚児が、貴き法華経を讃ずることは、しばし聞かぬ話。妖しと思うて礼のおろそかを恥じ忍んで垣根越しに見やれば、まこと、すざまじく滔々と経を讃じておる和稚児の信心に気圧されて、おもわずにその場に居住まいを正し拝し奉って、勤行唱和いたしたと申す・・・・・。」
 狭霧御前は、目をつむりじっと聞き入りながら「さもありなん。さもあろうてや」と、見事にまでも成長した我が子の姿を思い描き、えもいわれぬ悦に浸っていた。しかしなが、我に返ればなんと不用心な、未だ世も定まらず、鎌倉の密偵や追補使の目にも止まり耳にも聞こえ無いとも限らない。ましてや、地頭の介や地下代官が功をあげんとて密告のあるやも知れぬ。なんとなれば、空恐ろしくもあり、親の冥利にほうけてすっかり殿の戒めを忘れるところであった。

「どうじゃ、狭霧御寮人殿、一妙丸を我が元に預けてはくださらぬか。市井に埋もれ山野に朽ち果てさせるは、謗法(ほうぼう)に堕する。昔も聞かずかようなる神童をばいかに隠そうとも、仏意仏勅に導かれて世に顕るるをつらつら見そうらえば、衆を済度し宗旨を専らに興す本懐を深く抱く瑞相と覚えそうらえば、悪い話ではござらぬよ。御身のため疾くと御思案召されよ。」

 和尚の説得に、狭霧御前は頭の中は真っ白になって、走馬燈のように巡るは殿との別れ。して一妙丸との今生の出会いと、めくるめく人生の思い出が影絵のごとく幻灯に映し出されていく。
 返事は即答できなかった。いや、すがりついてでも願うことは殿と我との愛の結晶が、ただ、功名の首級と消える悪夢を見るよりは、出家して山寺に上がることの意味は大きかった。
 ただ、ただである。ひとたび山寺に上がらせることは二度と母子の情愛を交わすことは謗法であり仏法の誹りは免れぬ。己の欲情の欲しいままに、我よりは永らえる子を終生、朽ち果てもし終生恩賞首と生きることを望むことになる。
 
 あくる年の、七歳の節句を迎える年に、一妙丸を山寺に上らせる誓紙状と、ご供養の果物と高価な蝋燭を添えて下男下女に託した。
 そのものが見えなくなるまで目で送る間にも、取り急ぎ文を奪い破り捨てようかと千々に心乱された。
 さて、その夜、赤飯に尾頭付きの川魚と屠蘇をそえて膳を振る舞った。一妙丸が好きな餅菓子もある。かような目出度い膳にけなげに喜ぶ一妙丸のかわいいかわいい姿をみるにつけ、止めどもなく涙で顔を衣でに隠すのだった。
 「母上様。今宵の膳はなにやら目出度きようでうれしゅうござります。」そういって喜ぶ子に、かつて、殿との別れに舞った今様を舞って見せた。

 金箔烏帽子に白拍子の狩衣赤袴に金蛭巻きの太刀をはいで、檜扇と桜を模した飾りで舞を見せた。
 
 これは静かなる白拍子にて今ひとたび舞をまいいずる~口上の後、舞った。
 『吉野山みねのしら雪踏み分けていりにし人のあとぞ悲しき』と義経を慕う歌を詠み舞った。今ひとつは、
 『しずやしず しずのおだまき 繰り返しむかしを今に なすよしもがな』
 九郎判官と静の前の悲劇は、彼の白拍子が舞う「静の舞」として童の遊び唄さえも唱われていたほどに諸国に瞬く間に民間に流行ったものだ。

 狭霧御前の思いは、吉野で生き別れた愛しい殿御。今は罪人となれども愛しいあなたが恋しいという一途の恋情に我が身の一生を重ね思うのである。
 時が時き場所が場所での右大将頼朝公の面前で所望されて舞い踊ったがこれである。いずれもご存じの通り勘気を蒙るには十分だったようだ。
 今ひとつは、日本の古典歌謡史に残る今様の名歌謡である。
 しずやしず~・・・賤しい身分が着る「賤」の着物。それは私。静は賤しい白拍子でありながら源氏の御曹司の恋人でしたわ。その衣をたぐる苧環(おだまき)の糸車のように、くるくるとめぐりめてくる楽しい日々よ。嗚呼、昔のように、あなた様と二人の時に戻りたいわ~"
 これ以上に、狭霧御前の心情を照らす唄がないほど、垣根越しに盗み見る里人の紅涙を誘ってやまなかった。

 一妙丸はすべて了解した。和尚が帰り支度の暇に、お節介な弟子が一妙丸をあやすを見計らって、山寺のことや諸経や唐天竺の典籍古典のあることをさかんに自慢し、山に上がらせることは母の孝養にもなって神仏の御心に叶うことをさんざんに植え付けた。もう、後にはどうにかして母君に山寺に上がることを願おうかと思って思案しているほどだった。 ただただ母に喜んでもらえることに心奪われた一妙丸であった。

続く

2008/04/19 1:56
2008/04/19 18:44 難波屋滴水/マスターぴん/T5号






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最終更新日  2008年04月19日 18時46分07秒
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2008年04月17日

筑紫物語1 (1)

カテゴリ:とってもGood

仮題 筑紫物語

 第一回

 筑紫の国に大橋太郎平貞能(おおはしのたろう・へいのさだよし)という大名がいた。平 家貞の嫡男で清盛の嫡男・重盛の家名に仕えたが、平家滅亡を知って筑紫の領国を離れて肥後の大橋へと隠れ住んだ。
 同僚や多くの者達は所領安堵と後生の安穏を思い、右近衛大将頼朝公に恭順して降ったが、思うことあって大橋太郎は出家僧に化けたり神官になりすまして、鎌倉の追補使の厳しい詮議を逃れて尾張の大名にかくまわれていた。

 その原太夫高春の館で久々に仰ぎ見る望月の名月を見るにつけても、正室、狭霧(さぎり)と、まだ腹にいた子このことを思いをはせては源家の追補の詮議を受けて捕まえられてはいないか、一時も心休まる時はなかった。
 太夫の館で浴びるように飲む澄酒の酔いにくれると、若く美しい狭霧との別れの夜を思わずにいられなかった。
 ここも長くはない、鎌倉にはなった猿(間諜スパイ)が、追討軍五百騎が鎌倉を発って三河に向かったという報が届いたてはいたが、やはり、酒に浸るのも今夜限り、明日の身も誰にも予想のつかぬほど頼朝の執拗な平家一党への追補詮議は想像を超えて恐怖をともなって迫りくる。

 話は肥後大橋の郷にあるときに戻る。
 大橋太郎貞能は久々に篠笛を吹いた。そして、正室、狭霧の前は烏帽子狩衣袴の出で立ちに金蒔絵の太刀をはいで、京よりはやりの今様を歌い舞った。   
 片田舎には不釣り合いな白拍子の京舞は狭霧が舞えば、かなう者さえいなかった。
 久しく舞うこともなく、珍しく所望した殿の心中をおもうにつれ、狭霧は舞ながらハラハラと泣いた。家中の女房衆のササラ囃子や鼓も曲にはならないほどに千々に乱れた。

 さても添い寝の臥所に入り、大橋太郎は狭霧の前に意中を告げた。
 「よいか、筑紫を出でてこの肥後大橋とても隠れるにはちと心許なくなった。我は伴揃いを引き連れて尾張の原太夫の元に落ちる」
 そう言って相思相愛の女房を抱いた。笑えば周囲に華が咲くと領民にしたわれた狭霧の前の面顔は、いつまた会えるともわからぬ別離の涙に暮れてゆがんだ口もとからは嗚咽が漏れていた。もう、この日をいつくるかと怯えながら迎えれば、なんと憎らしいほどにそよそよと日は過ぎゆく。
 人待ちに暇とて惜しむように長くあるものを、どうして、幸せなときは思わずに突然に訪れてしまうのだろう。
 我が胸の思いを口にして幸福な時を迎える希望も頼りも無きいま、ただ涙をもって見送るばかりなのです。
 清盛公の嫡男重盛の執事として権勢を助けた大橋太郎の首は、功一級の首級となっていた。しかも、恭順を促す鎌倉右大将の御教書を破り捨てるのみかその公方の使者の首を刎ねた。
 少しやり過ぎたが多くの平家の家人や寄人も恭順して武威に服するをみて、主家に清廉の忠義を示すには見苦しい様の出来ないのが家人のあり方。
 褒められもしようこそ、あっぱれなる仕儀であるが、もはや朝敵になった平氏一門の再興さえも断れたのだ。いかなる主家の忠義さえ武勇の数には数える風流さえもないのである。
 『狭霧殿。くちおしや。腹の子が生まれ、男児であろうと女児にしても、その愛しい顔を見ずに別かれゆくことのつらさよ。
 してやその腹の子が長じて物覚える頃には、父なき子と内にあっても外に人に指されても愛おしい腹の子が嘆き悲しむことを思えば、何の力にもなれぬふがいない我が身を呪うばかりじゃ。』
 大橋太郎は最後まで腹の父として苦悩し別れたことがついこの間のごとくに蘇ってくる。聡明で賢き狭霧はきっと、家族一党の困難を切り抜けてくれるという安堵が大橋太郎の面目と志を支えているのだ。

 受領国筑紫を出て、狭霧御前の舅の庇護を頼り本貫地を蟄居先に定めた。その肥後の国大橋郷に身を寄せた伴揃えや家人も、またもや落ち行くときにはわずかばかりであった。
 その、寂しく落ち行く主を送る狭霧の前の暗澹たる思いを察してあまりある。
 
さても、また主も去り、馬廻りの伴揃えはもとより、荷駄の小者や小間使いとても尾張に向いてよりこの方、一人として帰りきたる者はなかった。幼いときより付き従う者幾人ばかりで後に帰り来る者はなかった。
 やがて、狭霧御前はにわかに時満ちて産気づき、初産の中、不安と絶え間なく襲うあまりの痛さに、"この腹の子が生まれたならば、その手をつかんで床に叩きつけようぞ"と物狂うほど難産であった。
 一昼夜にも及んだ出産は難産であった。狭霧は、春まだ遅い如月のはじめ、玉のような男の子を産み落としたのです
 それが、出産の痛みに気を失いながらも、『よし、生まれ出でたらばそなたをこらしめようぞ。ゆるさまいぞ。こらえまいぞや。』と叫んでいたが、真っ赤な小さな頭一杯に口を開けて泣く我が子を見るや、すぐさま下女の手から我が子をかき抱くと、はち切れんばかりに張った乳房を与えた。その、無心にしがみついて乳をむさぼる愛児にを眺めていると、人目もはばからずに大声で泣いた。その姿に無事つとめを果たした狭霧御前が幼女の時からお仕えした下女は、感動のあまりもらい泣きをしたほどでした。

 しとやかで麗しい肥後の領主の姫であったときから、手習いといえば歌舞に連歌やお香に貝合わせ。たまさかの物見遊山にて野草を摘み押し花に歌を連ねて、およそ下人はした女のような飯炊き洗濯なぞ及びもつかなかった。それが、この人の親と為したときから、田に畑や菜摘みから川ニナ取りと、すっかり、百姓が生業も苦にもならなくなっていた。
 はやに三年の月日は去った。
 やがて、源家の軍略家九郎判官義経一党と奥州藤原一門を滅亡させた頼朝公が征夷大将軍に叙任される頃、主人の馬廻りとして伴揃いの若侍が、物乞いか願人坊主のような出で立ちで訊ね来た。
 その若侍の言葉から聞かされた殿の消息は覚悟はしてはいたものの、気を失わんばかりのありさまであった。

 蟄居先より、舅殿に詮議あることを厭うて、尾張の国熱田の大名、原の太夫高春の居城に匿くまわれてはいたが、とうとう、頼朝の耳に知れることとなった。頼朝公は子飼いの腹臣梶原源太景季に命じてこれを攻めさせた。
 大橋太郎も原太夫の一党もよく凌いだ。だが、
たとい、一時は頼朝の軍勢をのけたとはいえ、必ずやまた軍勢を立て直して攻めくることは必定と、大橋肥後守平太郎貞能は原太夫に退去の礼をつくし、自ら単騎で頼朝軍の陣に自首して捕まえられた。
 内管領にその人ありと恐れられた梶原源太景季は第一級の首級者を引き据えて鎌倉入りをしてそのまま、なんの詮議すらも暇もなくして、問答無用にも比企谷の土牢に押し込めたのである。
 たとい憎き父義朝公の怨敵とはいえ、清盛公嫡男の手代奉行として名をなした従五位大橋肥後守平太郎貞能である。御大将みづから吟味あるべきところを如何にも罪科の詮議あってしかる弁明の暇あるものを・・・。

 そのいきさつをこらえて聞いていた狭霧御前も感極まって、その場に泣き伏した。そこへ、奥の部屋で寝ていた未だよちよち歩きの嫡子一妙丸が、母にとりついて顔をのぞくと、翻ってこの若侍の方を向くと拳をあげてにらみつけた。
 きっと母を苛む地頭の手下と思ったようだ。それを見て、思わず後退すると、床にひれ伏して一妙丸に主従の義礼をとった。
 「おお、なんとひとかどになられましたなあ。ああ、せめて館様に目あわしとうござりました。」と伏したまま、この者も切なさに泣いた。

 狭霧はお別れを乞うて去る若侍の後ろ姿に、
 「わけても男ででもいれば何かと心丈夫、また家人のごとく家を守ってくださらぬわけにはいかぬか」と訊ねたが、この若侍は追補を逃れての身、いらぬ詮議をかけられぬともかぎらないと、
慇懃に辞して彼の者もまた行く方知れずになった。

 次号に続く
2008/04/18 0:02
2008/04/18 21:10 改訂






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最終更新日  2008年04月18日 21時11分30秒
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筑紫物語 (1)

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筑紫物語 紹介篇 

 チューラパンタカ物語に触発されて、今度は日本での仏法物語をご紹介します。

 舞台は我が国の平安末期から鎌倉幕府創建直後頃の実在の物語です。
 今から七百年以上も昔、一妙麻呂(丸)という十二歳の男子が、まだ見ぬ父を慕って筑紫の国豊後の地より一人で鎌倉にたどり着き、ついにはまだ見ぬ父と再会を成し遂げる。一途な父への恋情と篤い信仰心に心奪われた頼朝公から、父の罪科も許され、召し上げられた所領も安堵されるという奇跡の物語を今に残している。その業績とゆかりの地には立派な石碑も由緒碑も残っています。

 一妙麻呂の父の出自は伊勢平氏の庶流ではあり、清盛入道等桓武平氏に付き従い嫡男の寄人であった。幕府将軍右大将頼朝公の恭順の御教書を破り捨ててまで鎌倉の侍所に出頭しなかった。
 この大橋の太郎平貞能は鎌倉からの追補使に伴われて十二年もの長き間、比企谷の土牢に閉じ込められてしまうのです。

 当時、総追補使を諸国に派遣しその過酷な詮議や誅求のすさまじさは、各地の伝承や伝説となって、芸能伝統に受け継がれてもいます。


 /時代の流れ/
 以後、後白河上皇のによって保元平治の乱で源氏一党はことごとく打ち払い所をはらわれ、首魁の源氏の長者、河内源氏八幡太郎義家の嫡流、源義朝は討ち取られる。して、その嫡子、頼朝は伊豆伊東に流刑となった。
 詳細は周知の通り。"おごる平家は久しからず"一門一党の繁栄ばかりが世に為す有様にやがては、寄騎加勢をしてもりたてた板東武者はにわか公達の平氏に不満と怨嗟を募らせる。
 それは、希代の大天狗と揶揄された後白河上皇は、つとに頭が高くなる平氏一門に、悪心を抱いて失脚しようと、院宣を出して官位官職を停止して追討した源氏の一党に勅宣をばらまいた。
 詳細は御存知のとおりなので省く。やがて 屋島壇ノ浦に追い詰めた平氏は皆海中に没し幼帝安徳天皇以下とも揃いも海中の竜宮に遷化した。

 完全に平氏を滅亡させた板東武士団は、頼朝という血筋を金看板に冷や飯を食わされ京人からさげすまれもしたが、平将門以来の武士の共同体を京の以東に開くことになる。
 以後、藤原摂関家の絆に支えられた公家政治も、ぶけにとってかわられるにいたる端緒を開いた。

 頼朝は武官としての最高官位、正二位右近衛大将に上り、諸国総追補使・総地頭の大権を認められるにいたって、実質的、全国の武士の総棟梁と仰がれることになる。
 後に征夷大将軍職を追贈されるによって名実ともに伝家伝来の名誉、源氏の長者に返り咲いた。
 戦国乱世に終止符をうった徳川家康は、この”源氏の長者”の金看板がほしくて力も無くなった豊臣家を徹底的に滅ぼした真意は、実は、諸国に比類無き武家の棟梁の証に生涯を懸けたことは有名な話。
 正統な源氏の嫡流の証こそ武家の頂点に君臨する絶対条件だったのだ。

 ちょうどその頃、源氏一門を追い払ったが、まだ頼朝や関東武士団に恭順しない土豪や国人領主に、官軍として武力を持って討伐する権限がなければ、頼朝は後白河院や後鳥羽上皇などの朝廷の喉のトゲをとっただけに終わってしまう。
 諸国総追補使の大権と全国武士団の棟梁として、総地頭職をもって所領の受領没収によった管領統治の大権で統治する。
 そして、征夷大将軍職を持って朝敵討伐の絶体権限を行使し、その行使において幕府直轄として、朝廷の勅宣勅許為しに武士の官位官職を贈位停止をわが者に出来た。
 その、大権を手に間に朝廷からあろうことか朝廷の警察兼と裁判権を持つ判官という官位を兄に相談無く就任した義経は、頼朝達が目指す幕府開幕を阻む以外の何者でもなかった。

 朝廷の役人としては判官と同僚になるんだよね。このからくりの陰に後白河や公達の黒い思惑をかぎつけたんだな。

 さておき、件の大橋太郎こと、平貞能の物語はこのような状況のなかでおこった奇跡の父子の麗しい奇跡の物語として今に伝えられた。

 では、次号は、この物語を鎌倉時代の名文家であり、最高の学識者であり古今の有職故実、内典外典、四書五経から和漢の古典・典籍・書簡に通じた希代の名僧。その、立宗開祖日蓮大聖人が、在家信徒である御家人南条氏に送ったお手紙に記された物語を紹介いたします。

 出自も所領地も事績もはっきりしている古代の伝承は極めて珍しく、彼の日蓮大聖人の御遺文にも乗せられるほどに、当時は広く流布されたことを思い知らされます
  私、難波屋が得手勝手に現代語訳したという少し怪しげではありますが、文献や参考書や関連サイトのURL付きで凡才の責に返させていただきます。

南条南条殿御返事     /建治二年三月 五十五歳御作
http://sgi.daa.jp/gosyo/title/G382.HTM
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100165.html

2008/04/17 20:06 難波屋滴水/マスターぴん






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最終更新日  2008年04月18日 01時04分49秒
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2008年04月06日

チューラパンタカ物語、追補記 3 (5)

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チューラパンタカ物語
追補記 3

前回の続きから

出典文献資料

妙法蓮華経巻四 五百弟子受記品第八
<抜粋>

爾時千二百阿羅漢心自在者作是念我等
歓喜得未曽有若世尊各見授記如余大弟
子者不亦快乎仏知此等心之所念告摩訶
迦葉是千二百阿羅漢我今当現前次第与
授阿耨多羅三藐三菩提記於此衆中我大


弟子?陳如比丘当供養六万二千億仏然
後得成為仏号曰普明如来応供正遍知明
行足善逝世間解無上士調御丈夫天人師
仏世尊其五百阿羅漢優楼頻螺迦葉伽耶
迦葉那提迦葉迦陀夷優陀夷阿ヌ楼駄


離婆多劫賓那薄拘羅周陀莎伽陀等皆当
得阿耨多羅三藐三菩提尽同一号名曰普
明爾時世尊欲重宣此義而説偈言

http://www.saigyo.org/cgi-bin/cr.rb.cgi?hokekyo04-txt

<和訓>

 仏、此等の心の所念を知しめして、摩詞迦葉に告げたまわく、
 是の千二百の阿羅漢に、我今当に、現前に次第に、阿耨多羅三藐三菩提の記を与え授くべし。
 此の衆の中に於いて、我が大弟子キョウ陳如比丘、当に六万二千億の仏を供養し、然して後に、仏に成為ることを得べし。
 号を普明如来、応供、正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏、世尊と曰わん。
其の五百の阿羅漢、優楼頻螺迦葉、伽耶迦葉、那提迦葉、迦留陀夷、優陀夷、阿ヌ楼駄、離婆多、劫賓那、薄拘羅、周陀、莎伽陀等、皆当に、阿耨多羅三藐三菩提を得べし。尽く同じく一号にして、名づけて普明と曰わん。


=ぴん訳=

 ブッダは此方の弟子阿羅漢たちの沈思して考えた事と知って、マハーカシャーパに次のように仰られた。
 ここに集える千二百の聖者たちに順を追って、この世に生まれた本当に果たすべき、”最高の悟り”を得るであろうという予言を与え授よう。
 この会座に集う中の大弟子、カウンディーニャ比丘は、間違いなく六万二千億のブッダを奉仕と身をなげうって供養し、そのようにして後、ブッダとなって多くの衆生を導くに違いあるまい。
 そしてその仏の御名を、サマンタ・プラバーサ、タタガータ(普明如来)と申される。
 その御方(の世尊の十号)は、完全無欠のブッダであり、明らかなる智慧と実践が備わって世に出られ、行いは正しく揺るぎなく、いかなる世界をもつぶさに見通す、最上無辺の人。人々の美しい調教者、天人・人士の師匠様、ブッダ・バカバーン(仏世尊)と称されよう。
 そして、そのサンガ五百のアルハト(聖人・阿羅漢)であるウルヴィルバー・カシャーパ、ガヤー・カシャーパ、ナディー・カシャーパ、カーローダーイン、ヴダーイン、アニルッダ、レーヴァタ、カッピーナ、バックラ、チューダ※、スヴァーガタ※
 これらのアルハトたちは、皆必ずや仏法最高の完全無欠な悟を得て、皆ことごとく同一のサマンタプラヴァーサの仏号を宣べるだろう。


※カウンディーニャ比丘は、釈迦出離のみぎり、スーッド・ダナ王の言いつけで、釈迦の愛馬ともに出家した、釈迦一番弟子。十大弟子の一人。

チューダ※、スヴァーガタ※
 増一阿含経巻11、根本説一切有部毘奈耶巻31、善見律毘婆沙巻16、法句譬喩経巻2、小乗経や権大乗経典。説一切有部派のテーラーガータ南方伝に記される。

2008/04/06 9:16 難波屋滴水/マスターぴん
  






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最終更新日  2008年04月06日 09時41分17秒
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