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2011.07.09
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般若心経と聖書と、共産主義の関係はどうなるのでしょうか

共産主義という思想は、一種の宗教というべきものです。なぜかと申しますと、中国の共産党をひきいていた故毛沢東の思想は、教条主義だといっているのです。マ~クス・レーニン主義といっていますが、これは、マ~クスの教えの根本的なドクトリンを重んじることが、中国共産党の主張なのです。ロシアの方は、中国は修正主義だといっているのです。教条という考え方が、共産主義が宗教であることを、おのずから告白していることになるのです。
 宗教は、すべて教条なのです。人間の造った思想、人間の造った教え、これが宗教の根源になっています。そういう意味で、共産主義は神や仏を信じるのではありませんが、マ~クスの考えた弁証法的唯物論を信じているのです。
 ここで、弁証法的唯物論について簡単に述べておきますと、弁証法というのは流れ動いているということです。物質は固定した状態で存在する孝はない。流動する形で存在する。流れるような形で存在するということです。
 弁証法とは、流れ動くという形で物事が完成していく状態をいうのです。正、反、合という形で、とが、経済、政治思想の根源であると断言しているのです。この思想を信じることが、共産主義者であるというのであって、これはやはり、宗教であることに間違いありません。
 ところが、このことと、聖書、仏典との関係はどうなるかといいますと、聖書や仏典は人間の命、人間の死を考えるものです。ところがマルクスは、生活のことだけを考えています。現世に生きていることが人間だとマルクスは考えているのです。これは一種の俗念です。
 般若心経でいいますと、現世に生きている人間は空なのです。人空なのです。ところがマルクスは、空なる人間が実体だと思っているのです。だから、生活さえすればよい、生活が豊かになること、いわゆる階級がなくなって、自由平等の状態になることを、マルクスは理想としているのです。自由の王国が実現すること、世界中に共産主義が広まることが、マルクスの理想です。これは生活だけを考えているのです。現世における生活だけを考えているのです。
 ところが、人間存在は、生まれてきたと言いますように、どこかから来たのであり、死んでいくといいますように、どこかへ行くことなのです。つまり人間は、生まれる前の過去生があり、現生があり、死んだ後の来生があります。過去、現在、未来の三つの人生全体を人間というのです。
 マルクスは、現世、現生だけしか考えていない。この点から考えますと、マルクスは人生についてまるで勉強していないのです。人間とは何であるか。人生とは何であるか。これについての説明を、全然していません。ただ生活のことばかりを問題にしているのです。これがマルクス思想の浅薄な点です。
 同じ宗教でも、般若心経の方がずっと深いのです。般若心経の方がはるかに偉大です。聖書はもちろん深いのです。マルクス思想は死んでしまえば終わりです。ところが、人間の本当の存在は、死んでからが問題なのです。生きている時の生活は、何とかできます。しかし、死んでからが問題なのです。このことを、マルクスは全然考えようとしていない。そこに、マルクスの考え方に、非常にうすっぺらな面があることを述べておきたいのです。
 弁証法といいましても、なぜ物質が弁証法的に存在するかということを、マルクスは全く説明していません。弁証法はヘーゲルが言い出した思想なのです。それをマ~クスは利用しているのです。人の説を利用しているのです。唯物論といいましても、実はフランスにあった思想を利用しているのです。マルクスは他人の思想を利用して、この思想をつくりあげたのです。このユダヤ人は、世界をひっくりかえすという革命思想のために、弁証法的唯物論を展開したのではないかと思われるふしがあるのです。
 マルクスの思想を宗教とすれば、現世主義、生活主義の宗教です。人間は生活するために生きているのではありません。命が人間の一番大きな目的です。命の本源を捉えることが、人間の目的です。




般若心経は誰が書いたものでしょうか。それから、心経のご利益は何でしょうか

 大乗経典を書いた人は誰かということですが、はっきりしたことは分からないようです。多分、第二結集の時代、釈尊がなくなられてから、五、六百年後に、編集されたものであって、その時の弟子達の思想がこういう形で書きしるされたのです。しかし、般若心経の思想そのものは、釈尊の悟りの中心となるべき命題が現れているのではないかと思います。色即是空ということが、大乗仏教の根本的な思想になっていますので、般若心経の意味が本当に分からなければ、本願も分からないようです。
 他力と自力は違ったように見えます。色即是空、空即是色の思想と、阿弥陀如来の本願という思想とは、離れているように思われるのですが、実は同じものなのです。これはなかなか難しいのです。
 一体、自力という宗門と、他力という宗門とが、対立しているような形になっているのですが、その本当の精神は何かということについての詳しい説明をしていますと、非常に長時間を要しますので、割愛させて頂きます。
 般若心経の中心思想は、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静です。これは仏法の三方印ですが、涅槃寂静が仏教の最終結論です。弥陀の本願も、実はそれと少しも変わらないのですが、説き方が違っていますので、自力と他力に分かれています。
 般若心経のことを申し上げますと、これは実にご利益があるようです。ところが、そのご利益というのは、般若波羅密多が本当のご利益なのです。般若波羅密多というのは、彼の岸へ渡る上智ということです。
 上智というのは、阿頼耶識(あらやしき)とか、九識とかいう言葉を使っているもので、分かりやすく言えば、現世の常識をふみこえて、自分が生きている本当の姿を見つめることなのです。これが般若心経の中心思想です。しかし、ここまでいかなくても、毎日般若心経を、三回でも五回でも唱えていると、般若心経を友人のように扱っていると、自然に色即是空という感覚が分かってくるのです。
 はっきりとは分かりませんが、素読百回意おのずから通ずという言葉がありますように、何か分かったような気がしてくるのです。それが、現世にご利益があるというのです。
 例えば、仕事をしている最中でも、お金を落としたとか、家が燃えたとか、失恋をしたとかいう事件が起こっても、般若心経を唱えていると、何となく心がやすらぎます。そうすると、災難をのがれるようなこともあります。
 人と仲良くつきあうこともできるでしょう。自然に、世間の信用もできてくるようになりますから、そういう意味で、般若心経を唱えるだけでも決して効果がないとはいえません。しかし、本当は現世に生きていて災難をのがれることが、般若心経の目的とは違うのです。そういう付録があるということなのです。現世に於けるご利益というものは付録であって、実はあってもなくてもよいものなのです。
 先に言いましたように、人間は現世に生きるために生まれてきたのではありません。現世をこえて、彼岸へ渡ることが目的なのです。その本当の目的のために、般若心経の精神をよくご理解頂きたいのです。
 ついでに、少し聖書のことを述べておきますと、新約聖書マタイによる福音書の中の、山上の垂訓という有名な所に、「求めよ、そうすれば与えられるであろう」という言葉があります。(7・7)
 求めよとは、英訳でアスクという言葉になっています。これは、向こう岸をさがし求めるという意味なのです。人間が何のために生きているかということを捜し求める気持ちになること、そうすると与えられることになるのです。
 本当の永遠の生命というもの、本願というものは、皆様方の魂の中にあるのです。魂の中にある本願が、弥陀の本願として、阿弥陀の本願として、外に見える形になっているのです。これが他力ということなのです。
 実は、人間がこの世に生まれてきたのは、本願を成就するためなのです。これが永遠の命を獲得することなのです。ただ、仏説阿弥陀経に出ています本願と、新約聖書に出ている本願とは、本質的に違いがあります。とにかく、本願というものは、如来が人間を代表する形で、如来の中に本願があるというように釈尊は説かれていますけれど、実は人間自身の本当の願いのことを言っているのです。求めよそうすれば与えられるというのも、このことを言っているのです。
 本当に求める気持ちになること、これが般若心経というものなのです。
 そういう意味では、歎異妙に現れている本願を求めるという親鸞の気持ちも、般若波羅密多と同じことになるのです。







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Last updated  2011.07.09 20:15:10
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