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2月2日未明のパリ地方の気温はマイナス13度。私が今自分の新たなる門出に対するイメージにぴったりだと思う。生ぬるい風よりは、自分の目を覚ますような冷たい風を好む。風向きがころころ変わるのは、フランス人の性格そのもののよう。 「自らの羽で羽ばたいていく。」 独立する時にフランス人が好んで使う表現。人生はよく航海や演劇に例えられるが、私には「道」という言葉が相応しい。 「もうここから先はお前独りで歩むんだ。」 荒野のような場所に辿り着き、師フィリップは少し脇へと歩いていった。42年間の闘争の日々、その荷をようやく降ろし、技術の伝承の役割を終えた他のメートル・ダールの方々と合流した。 「ゆっくり休んでいいんだよ。『時代の流れのためにバラバラにされた職人たちのかつての結束力を取り戻す』という使命を続けたいなら好きにしていい。後は残された人生を奥さんをはじめ家族のためにできるだけ使って欲しい。もうすぐ生まれる新しい楽しみがあんたを待ってるから。あんたが創った『アトリエ フィリップ・ロウ』は俺が守る。10年間育ててくれてありがとう、師匠。」 この職業に出会って以来職人のあり方を貫き通した師の背中に私はつぶやいた。 「職人の役割は技術の伝承というバトンを渡すようなもの。」 私にはそれは終わりのない駅伝やリレーをするようなもののように思える。そして私の右手には一本のバトンが握られている。手放すわけにはいかない、この国の楽器製造の伝統技術が詰まった重いバトン。「やるしかない」と決めたとき、そのバトンの重さと感じていたプレッシャーは少し軽くなった。 「厳しいだけでは師足りえず。」映画「ミリオンドラーズベイビー」より。 「師なくして弟子はなく、弟子なくして師にはなれません。」メートル・ダールの弟子の一人、ヴァレリー・コラ・デ・フラン。 前を見れば、険しい山も深い谷も迷宮のようなトンネルも、藪も深い霧も見える。曲がりくねって障害だらけの道。それが私の門出のイメージ。ところで「急がばまわれ」に類似する格言は世界中にあるらしい。 「迂をもって直となせ(中国の格言)。」 「回り道が最も近道(イギリスの格言)。」 フランス語でまだこのような格言を見つけていない。この国は多くの人がお金も苦労もかけずに成功する道を探しているが、そんなものはありえないというのが、私が10年の修業で得た答え。その他の言葉はあるようなので以下に抜粋。 「成功に王道なし。」 「全ての道はローマに通ず(意訳:成功する方法はひとつだけじゃない)。」 以上、白水社仏日辞書『Le Dico』より。 そして、 「自分の道は広いと思え。」 弘謙兼史氏の言葉を思い出した。 休む暇も無いが、少しだけ後ろを振り返った。自分の過去が見えた。「怒鳴られながらの修業時代」と自ら称した10年間はたくさんの思い出に満ちていた。 そして音楽を始めるずっと以前の頃が見えた。そこには膝を抱えてうずくまっている一人の少年がいた。楽器に出会う前の私自身だ。もし過去に戻れるなら自分自身に言ってやりたい。 「うずくまってすねて、泣いてばかりいないで立ちなよ。世の中には面白いことがたくさんあるから。」 そう言って手を取って立ち上がらせてあげたい。 2008年、職業見学に来たエリアスという一人の少年がアトリエを訪れた。自分に全く自信を持てない少年だった。私の少年時代と違う点は「プロのドラマーになりたい」という夢があるだけ。自分の夢を語ったときは顔を輝かせたあと「でも僕自信ないから」と顔を曇らせた。私はその少年エリアスに言った。 「君が15歳というその年で夢を諦めるなんて早すぎる。」 かつての自分のようにしてはいけないという想いに駆られ、無責任かもしれないがこの少年を焚きつけた。 「この見学の内容をクラスで発表するんだろ?そのレポートの書き方と発表の仕方は俺が教えてやる。君はそこで最高点を取って先生やクラスメイトを見返してやれ!」 小さなことでもいいから何かこの少年に自信というものを与えたかった。そして数ヶ月後。 「企業見学の発表で、クラスで最高点を取りました。40点中38点です。」 「ブラボー!よくやった!!」 後にこの少年はフランスのプロのドラマー養成専門学校に入学し、私たちに挨拶に来た。身長は180cmに達するほど成長し、気力に漲った顔になっていた。 「お前には競争相手が多い。でも負けるなよ。いつか有名になったらうちのアトリエを宣伝してくれ。」 「そうだ、打楽器製造もしくはヘッドの交換はぜひ『アトリエ フィリップ・ロウ』にご相談くださいって言うんだぞ。」 師と私はこの少年の未来を祝った。 ひとつだけ私が誇りを持って言えることは、「ドジで不器用」ということを自他共に認めていて、「努力のどの字も知らなかった」と実の母親に言われた私でもここまでは来れたということです。私の技量ぐらい誰にでも辿り着けます。 「努力は才能を凌駕する。」小学館少年サンデーコミックス「史上最強の弟子ケンイチ」より、ふたつ名「ハーミット」こと谷本夏。 10年間という時間、思い出すことはあっても、もう振り返ることはないだろう。 前に向き直った。いくつかの言葉を思い出した。 「あなたはまだ人生のスタート地点に立ったばかりです。」大前春香(遥?)「ハケンの品格」より。 そして昨年京都タワーの一階のお土産コーナーで買った一枚のTシャツに綴られた言葉。筆で書かれた「道」という言葉の後に以下の文章が続く。 「この道を行けば どうなるものか 危ぶめむなかれ 危ぶめば道はなし 踏み出せば その一足が道となり その一足が道となる 迷わず行けよ 行けば分かるさ。」 何かの道を志す方には必須のTシャツ。京都観光の折には購入されたし。 私は右足を一歩前に出し、反対の左足をさらに前に進めた。 「2世代目の進路は?」 誰もいないところから声が聞こえた。かつて大学の構内で卒業後の進路について思い悩んだ時にある声を聞いた。後にそれは自分の心の中から来る声だと気付いた。 「進路は、自分の夢を叶えるための道。」 私は自分の中に住むもう一人の自分に答えた。 「創造の女神に再会しに行こう。後継者探しとその育成はその後だ。」 「・・・。」 かつて夢の中で自分の夢にうなされたことがあった。目覚めるとびっしょりと前身に汗をかいていた。「いつになったら俺をこの世に生み出してくれるんだ?」という問いかけに聞こえた。 「だったら、私に作ってよ。」 2001年に夢をくれた女の子はそう言った。 「アトリエの屋台骨の修理、あと少し残ってる免許皆伝のための課題、打楽器製造強化、楽器開発資金と時間の捻出、やることがたくさんあるぞ。」 多難であろう道を歩み始めながら私は笑った。 「自分が本当になりたいものになりにいく。そしてこの世で最高の褒め言葉をもらいにいく。」 その時は、私の夢実現の証明となるだろう。 「夢、それはこの世で最も強くて純粋なエネルギー。自分を見失いそうになったときの道標。」 目を凝らして前を見た。私より先に独立して自らの道を歩く「フランスの人間国宝メートル・ダールとその弟子たちの会」の仲間たちが見える。皆困難な情況の中、独りで、あるいは二人、もしくはグループを組んで歩んでいく。 弟子「エレーヴ」たちの定義を考えた。一人一人がフランスという国の伝統技術の次世代への継承を託された「次代を継ぐ者」だと思う。 そしてこの国で出会った、夢追う人たち。そのような人たちの中にいることを誇りに思うと共に、まずは彼らに見習おう。 ある歌のフレーズが頭に浮かんだ。 「ハイホー、ハイホー、行けばいい、自分の選んだ道を」: 読売テレビ「グッと!地球便」主題歌、カラーボトル「ハイホー」。 私の道は楽器がくれた道。 「俺をはじめ、皆が見ているぞ。」 師はきっとそのように思っていると思う。私が2代目の役をどのように演じるのかを皆が観察している。何年か前に放映された映画「ラ・モーム」、歌手としてそして女として名を馳せた往年の歌手エディット・ピアフの人生を主題にしたこの映画のポスターを思い出した。おそらく舞台に立つ直前の舞台袖の場面だろう。カーテンの隙間から漏れるスポットライトが彼女のシルエットを映し出していた。横顔はどのような表情であったのか。 私は、「2代目」を凛々しい顔で演じたい。モデルは、宮崎駿監督の作品「風の谷のナウシカ」のトルメキア王国のクシャナ王女、あるいは別の作者の作品で銀河を駆け抜けた二人の女傑。現実世界のモデルは、フランスのラグビー選手であるモルガン・パラー。国際試合では背番号10番を背負うキッカーであり司令塔。左足での美しいフォームによるペナルティキック成功率80パーセントを誇る。特に私が惚れ惚れしてみるのはキックのフォームに入る前の「必ず決める」という自信にあふれた顔。かくありたいと私は思う。 聖飢魔II EL・DO・RA・DO この話を終えるためにこの曲を選んだ。 「速く行け、速く行け、見失わないうちに辿り着け、消えてしまわないうちに辿り着け。」 何度も繰り返されるフレーズが自分の心の中から聞こえてくる声とぴったり合致するから。 自分の胸の内にあるものがその誕生を待っている。 「あなたの夢はすばらしいものですから是非叶えてください。」 大阪在住のプロのトランペット奏者から励ましのお言葉を頂いた。多くの人を待たしているのかもしれない。 「夢に、世界に、そして未来に追いつくにはどうすればいい?」 そんなことを思いながら駆け出した。そして一瞬だけ脇に目を遣った。ずっと横に置いているものが見える。 「いつの日か、あれが獲れるようになりたいな。」 再び前を見て私は駆け出した。『2世代目』はもう始まっている。 「それは遠い海の向こうの、 ある一人の若者の物語。 そして彼が出会う、 夢追う者たちの物語。」 『ひとつの終わり、ひとつの始まり』編、終了。 私の人生の第一章、『例外なる人事』あるいは『怒鳴られながらの修業時代』終了。 次回「あとがき」をもって、「Naoya,フランスでブラス!!」を終了いたします。「日出ずる国から来た弟子」と名乗るのも今回が最後です。 Naoya「日出ずる国から来た弟子 トロンボーン製造を志す者」 皆様の清き1クリックをお願いします。
『中谷章宏名言集』 以下抜粋、 「世の中には運が良い人と悪い人がいるんじゃない。運が良いと思う人と悪いと思う人がいるだけだ。 24歳の時に書店で初めて中谷章宏氏の著作を手にしたのは『20代でしなければならない50のこと』でした。それから同氏の文体に引き込まれて100冊以上は読んだと思います。そのうち1冊を選びました。 『カーネギー名言集(創元社)』 以下抜粋 「恐怖と悩みを克服するには、脇目も振らず働くことだ。」デール・カーネギー 「幸福になる義務ほど過小評価されている義務はない。」 ロバート・ルイス・スティーブンソン 2010年の夏には日本に帰れませんでしたが、この本に出会いました。 以下の二冊はこれから留学を志す方には必読の書です。 『留学で人生を棒に振る日本人』栄陽子著 扶桑社 700円+税 『パリ症候群』太田博昭著 トラベルジャーナル 1600円 2冊とも留学、海外滞在に関する危険性を説いた著作です。私のフランス滞在は計画的に考えられたことではなく運が大きく左右したことは認めていますが、下手をすれば自分の人生を棒に振っていたでしょう。後者に書かれている「和魂洋魂、日本刀とサーベルの二刀を使いこなせ」という言葉は私にとって生涯覚えておくべき言葉。 最後に、 『一流たちの修業時代』野地秩嘉著 光文社新書 760円+税 「世に認められるのに必要なことは何か?認められるまでひたすら描くことです。」千住博 「自分で自分のスポンサーになるのが一番いい。」横山剣 Naoya「日出ずる国から来た弟子 トロンボーン製造を志す者」 皆様の清き1クリックをお願いします。
「You Tube」にたくさんの名言集がありますが、少し真似をしてみました。私のお好みのBGMは以下の2曲です。 強く生きる者たちの言葉 vol.3 Lord of the Rings ~ Arwen/Eowyn もしくは皆様がお好みの曲を選びならお読みください。 「青年よ、大志を抱け。」 歴史の教科書より。私も数年前にこの言葉をある少年に贈った。 「君たちの人生の主人公は君たち自身です。」(1991年) 高校二年時の担任の先生の言葉。 「スペシャリストを目指せ!!」(1993年) 1993年春に入部した花園大学吹奏学部の先輩。 「現代は模倣と創造の時代だ。」(2010年) その花園大学吹奏学部の同回生であったY君。良いでいてくれよ。 「働く場所は日本だけとは限らない。俺は世界に舞い戻る。」(1997年) 専門学校時代に出会った異質の同級生の言葉。あんたと同じ志を持った人に一人出会った。 「不言実行と言うけれど、これからは有言実行の時代だ。自分の夢を堂々と語って自分にプレッシャーをかけて夢を叶えていくんだ。」(1997年) 専門学校時代の恩師。先生、ありがとうございました。初心に帰れましたよ。初志貫徹ですね。 「もし君が望むのなら私は君に対して優しくも冷たくもなるよ。(1998年)」 フランスのある楽器店の主人の言葉。私にとって最初のフランス人の友人。 「直也がフランスにいる間に、一度でいいからフランスを見て見たかったなあ。(2000年)」 病床の父がつぶやいた最後の言葉。そして翌日、もと同僚の方から次の言葉を聞いた。 「君のお父さんは君の決意を大変喜んでおられたよ。」 私に勇気という遺産を残して父は天に召された。父へ。生きている間にフランスは見れなかったかもしれませんが、今天に召されたのでしたら、そこから地球を見渡せますよ。怒られてばかりいる愚息ですが、今は世界で一番好きな会社の社長です。 「じゃあ、Naoyaはフランスに残るんだね。」(2001年) 2001年フランスのリヨン、私は一人のフランス人のトロンボーン奏者に出会う。思えばこれは予言だったかもしれない。そしてこの言葉の後に夢が生まれた。 「お前の夢は10年もしくは15年かかるものだ。だから絶対に諦めるんじゃないぞ。良く働く手、好奇心、観察眼、尽きせぬ体力、それが職人の宝だ。(2002年)」 後に私の師となるフィリップ・ロウ。 「1年という限られた時間を死ぬ気で燃焼してみろ。そうすれば道は開ける。(2002年)」 専門学校時代の恩師。 「職人という人たちはなあ、自分の作品のためにその命を懸けるんだ。だから人を感動させられるんだ。自分の職業と自分自身に誇りを持て。」(2002年) パリの親友ミッシェル。公務員で、数多くの異性と色恋に明け暮れる、自分とは全く対称的な人に出会い、6年半をともにすごすことになりました。落ち込んでいた私を叱咤するためにこの言葉を言った時には、ミッシェルの目に涙が浮かんでいた。投げ出さずにここまで来れたのは、5週間のパリでの住居探しが私の人生で最も地獄のような時期だったから。 「夢、それは最も強くて最も純粋なエネルギー。人が自分を見失いそうになったときの道標。」(2003年) 2003年4月25日金曜日、パリのフランス語学校での最後の授業で発表した文章の一節。 「ほら、あなたは自分で答えを出せるじゃない。(中略)直也、私はね、あなたに本当に強い男になって欲しいの。解る?!(2003年)」 2000年にリヨンで知り合ったクラスメイト。男勝りの体力と精神力。その強さを見習いたい。この人に何度も精神的に救われた。そして、この人から男女間の友情が成り立つことと嫉妬への対処法を習った。いつか成功したら美味しい酒をおごるよ。 「楽器を作るなんてたいして難しいことじゃない。もっと難しいことは、どんどん苦しくなる社会状況に対して闘うことだ。」(2003年) 師フィリップの言葉。 「どうせなら、一流と呼ばれる人になりなさい。」(2004年) 母の言葉。後に母の本心を知った。それは守れないけど、この言葉に込められた母の思いだけは叶えられるようになりたい。 「お前が本来あるべき姿に戻るんだよ。」(2005年) 私がどうして無口なのか、その理由を説明したときの師の返答。 「どうかあなたの息子さんを私に預けていただきたい。立派な職人に育て上げて見せますから。」 「宜しくお願いします!」(2005年) 「一度でいいからお前のお母さんをフランスに連れて来い。ぜひともうちに招いてお礼を言いたい。」 至上命令を2004年に受けた翌年、母は初めてパリの観光旅行に来た。メゾン・ラフィット町にある師の家に母を連れてきて私が通訳を務めて師や奥様との会談の後、上の師の言葉に対してフランス語は「ボンジュール」しか知らない母は日本語でお願いした後師に深深と頭を下げた。 「あなたは何度生まれ変わっても厳しい修業に身を捧げる宿命にあるのです。」(2006年) 故郷大阪心斎橋にある占いのお店「ルビーの館」で出会った龍霞先生の言葉。宿命を知ると少しは楽になった。 「世知辛いこの世の中を逃れるために仏の道に入るものが多い。だがそんなものは修行でも何でもない。どんなに辛くとも自分の想いを叶えることが本当の修行だ。」(2007年) 吉川栄治氏の作品『宮本武蔵』より。舞台は席柄の合戦の後の江戸時代初期。混沌とした世界という点においては17世紀初頭も現在の21世紀初頭も何一つ変わらない。この言葉は現在にも通じる。 「私の主は私自身だ。」(2008年) 「技の伝承とは模倣から始まるのだよ。」(2008年) 小学館少年サンデーコミックス『史上最強の弟子ケンイチ』より、南条キサラと甲越寺秋雨。 「日本人である前に、あなたは職人という名の地球人ですよ。」 「一本道を行け。」(2009年) 読売テレビ。「グッと!地球便」より。 「乗り越えられない試練はないよ。」(2009年) 母の言葉。 「神様ってのはな、乗り越える力のない奴に試練なんて与えないんだよ。」(1999年?) 集英社少年ジャンプコミックス「ホイッスル」よりおでんの屋台の親父さん。 「あなたが御自分の夢に着手されるときはぜひ私を呼んでください。協力は惜しみません。」(2010年) プロのトロンボーン奏者。 「失敗しないで済む修業時代があるとは私は思わない。」(2010年) クラリネット奏者の友人。 「他人を変えることは出来ない。変わるのは自分です。」(2010年) この国の現代の「愛と性の女神」ブリジット・ラエ。 「寒い北風が屈強なヴァイキングを作った。」(2010年) 『カーネギー名言集より』 「今やり直せよ、未来を。きっと10年後、20年後、50年後から戻ってきてるんだよ!」(2010年) どこのどなたか存じませんが、「読み人知らず」さんへ、とてもかっこいい言葉です。 「真似されるということはそれが良いものである証拠だと思いますよ。」(2010年) 友人のサックス奏者Makiさん。またしても自分の価値観を破壊する人に出会った。 「君なら出来るよ。」 トロンボーン奏者の友人。 「私には工具が手に従っているように見える。しかしそれを導くのは手ではないだろうか?」 ラ・フォンテーヌ。 以上。 Naoya 皆様の清き1クリックをお願いします。
もう2月になってしまいましたが、まだ書き終えていない思いが幾つかありますのでもうしばらくお付き合いください。 昨年下旬。 「気分はどうだ、Naoya?もうすぐ独立するんだぞ。」 「うん。」 「なんだ、嬉しくないのか?」 「嬉しさの前に、緊張感でいっぱいで・・・。」 実際、一昨年ほど前から毎朝強烈なプレッシャーに襲われていました。 (まだ免許皆伝にもなってないし、ユーロ経済危機が騒がれているし、外国人への風当たりももっと強くなるかもしれないし・・・) 新年が明けて、ヴェルサイユ市商工会議所に提出した書類に記載されたとおり、今年1月1日に個人会社を設立して社長に就任。「アトリエ フィリップ・ロウ」の使用権を得て師の業務を継続する旨をまずは「フランスの人間国宝メートル・ダールとその弟子たちの会」に通知。 「Naoyaへ、10年間の修業を終えたことに対してまずはおめでとうと言わせてもらいたい。そしてこれからはもっと長い道のりになるから、心してかかりなさい。(からくり人形製造家のメートル・ダール、レナトー・ボアレット師)。」 「これから未来への長い航海が始まるんだ。頑張れ、新艦長!(ピアノ・フォルテ製造家のメートル・ダール、クリストファー・クラーク師)」 「困ったことがあったら、いつでも言いたまえ。君には私たちがついていることを忘れるな(ブーツ製造家のメートル・ダール、レイモン・マッサロ師)。」 様々な祝辞を頂いたとき、ようやく皆様が言う「おめでとう」という言葉の意味を理解しました。10年という一定の修業期間を終えたことへの祝辞と未来への門出への励ましであることを。皆様からの祝辞をメールで読んだとき、ふたつの目から涙がこぼれていました。 「これからもいい仕事をして音楽家たちを喜ばせてくれ。」 昨年の夏から始めたfacebookで頂いた応援です。 「あなたの勇気に敬意を表します。この国の伝統技術のひとつが生き続けるのですね。」 先日新しく設定した料金表と共に「アトリエ フィリップ・ロウ」の業務継続の旨をお客様へお伝えしたところ、お褒めの言葉を頂きました。勇気なんていうたいそうな言葉を頂くような身分じゃない、ただ自分の我がままを通しただけなのに。 つい先日、二人の人物が残してくれた言葉を思い出しました。 2002年8月前、大阪。 「何を怖気づいている。君の本当にやりたい事が目の前にあるんだぞ。死ぬ気で食らいつけ。そうすれば道は開ける。」 師の下での1年間の研修を始める前に、かつての専門学校時代の恩師にご挨拶に伺った時のこと。1年どころか期せずして10年を過ごしてしまいました。 1993年12月某日、京都市のある市民会館のコンサートホールの袖、午後6時25分。 「どうした、緊張して泣いてんのか?みんな同じだ。誰だって不安を乗り越えて舞台に立つんだ。お前が一年間学んできたことを見せてやれ。」 花園大学吹奏楽部第二回定期演奏会の舞台袖での出来事。その年初心者として入部した私には初めての定期演奏会。舞台に上がる緊張が高じて涙が止まらなくなったとき、当時の副指揮者の先輩が勇気づけてくれたことを今でも覚えています。 ぎりぎりのところでまた踏みとどまることができました。プレッシャーは無くなりませんが、「もうやるしかない」という心境です。 2011年9月末日、「アトリエ フィリップ・ロウ」にて。 「一応書いてくれ、まあ形式的なものだから。」 師から言い渡されたのは「不本意な」辞表届け提出。同年12月30日をもって師は定年退職。私は事実上退職ということになりました。 「2012年1月1日付けをもって個人会社を設立して独立するために退職します。」 というのが理由です。幾つかの漫画で新社長就任という場面を見たことがありますが、なかなかそのようにはいきません。 「12月30日をもってフィリップ・ロウは定年退職。『アトリエ フィリップ・ロウ』は閉業。そして10年勤続した三宅直也は解雇処分、新たに会社を設立し2012年1月1日より『アトリエ フィリップ・ロウ』の商標使用権を得て業務を継続する。」 以上の内容に二人は署名。私は「フランスの人間国宝メートル・ダールの弟子」の証であるスタンプを初めて押しました。事実上この世でたった1日だけ『アトリエ フィリップ・ロウ』は業務を停止したことになります。 師は技術の継承というひとつの役目を終えました。外国人を弟子にするという賭けに勝ちました。そして、一人の職人がつきに何十本の楽器を製造するという時代もまた終わりを告げたのです。そして、「アトリエ フィリップ・ロウ」の2世代目が始まります。 技術継承という名のバトンは手渡されたのです。 「それにしても、住み込み弟子のまま社長就任って変じゃない?」 ある友人の言葉。 Naoya「日出ずる国から来た弟子 トロンボーン製造を志す者」 皆様の清き1クリックをお願いします。
時は2001年暮れの12月上旬。ル・マンにある楽器分野就職技術訓練機関ITEMM(イテム)に一年間在籍し研修を行う傍ら2度の3週間にわたる企業内研修が義務付けられていた。研修願いの手紙を方々に送ったもののどこからも受け入れられず、学校側に研修先探しを相談したところ、後に私の師となるフィリップ・ロウのアトリエを紹介される。それは12月第2金曜日、約束のアポイントの時間は午後4時、遅れないようその日の午後にフランスの新幹線TGVを使いパリに到着、首都圏高速鉄道RERのA線を使いメゾン・ラフィット町に到着。駅から並木通りに入るともう空は暗くなり始めていた。 「こんな住宅街に楽器製造のアトリエが本当にあるの?」 疑問を抱きつつも地図を頼りに並木通りを進むと右手に鉄格子上の門が見え、その傍には狩猟用ホルンが描かれた看板がかけられていた。 「ここか。」 深呼吸をしてインターフォンを押し門のあとに続く石畳の通路を進むとガラス張りの扉に手をかけた。その向こうには一人の男が事務机に座っていた。フィリップ・ロウ氏であった。絵に描いたような気難しい職人というのが私の第一印象だった。 フィリップ・ロウは事務室の緑色の扉を開けて私を導いた。約9m2の工具整理の部屋には古くは19世紀前半から生き続けている工具が壁にかけられ、その奥にある入り口をくぐると、約150m2の広さを持つ金管打楽器製造修理工房に導かれる。天井にはトランペットのベルが数十本吊り下げられ、奥の床には曲げられる前のベルが林立していた。失礼にならないようにフィリップ・ロウの仕事の様子を私は声を発することなくじっと見つめていた。約4時間の間ごく僅かな会話しか交わさなかったことを覚えている。時刻は午後8時をすぎようとしていた。 「ところで日本から来たっていうお兄さん、あんたいつからうちに来たいんだい?」 フィリップ・ロウはおもむろに口を開いた。 「は、はい。年開けの1月2日からお願いいたします。」 二人は思い出したかのようにITEMM(イテム)側に提出する研修契約書にサインをした。 まだ初歩的な技術しか知らず、フランス語の会話力もまだまだであった私には簡単なことしかさせてもらえなかった。ほとんどフィリップの傍に立ってその仕事を見ているだけという日々が続いた。そんなある日。 「お前さん、ITEMM(イテム)での研修が終わったら、やっぱり故郷の日本に帰るのかい?」 「いや、そうじゃなくて、この次の4月の研修はコルトワ(正式名アントワンヌ・クルトワ、フランスの金管楽器製造メーカーの老舗)で研修を受けるつもりで、いつかトロンボーン製造技術を習いたいです。」 「・・・。」 予想外の返答を聞いたのか、フィリップ・ロウはしばし無言であった。そして一言、 「そりゃ長いことかかる夢だな…。」 この後、フィリップ・ロウは私に対して饒舌になった。そちらが本来の性格であるということを後から知った。 2月中旬、「俺が働く場所は『アトリエ フィリップ・ロウ』にありますか?今年の6月にITEMM(イテム)での実習が終わったら、『アトリエ フィリップ・ロウ』で働かせてください。」 フィリップ・ロウに頼み込んだ。 「お前の意思は評価する。だがそれとお前が俺にとって利益になるかどうかは別問題だぞ。」 2002年9月より1年間の無給の研修生時代が始まった。同年11月25日、フィリップ・ロウはフランス文化省よりフランスの人間国宝「メートル・ダール」に任命される。ところが自分の後継者として目していた21歳の若者は師の厳しさのために泣いて辞めた。フィリップ・ロウは後継者として育成する弟子の必要性のため翌日私に白羽の矢を立てた。フランス文化省を4ヶ月かけて説得し、たった一つの条件と共にその意向は承諾された。「メートル・ダール、フィリップ・ロウの技術を完全に習得し、そして次の後継者を私自身が育成するまで日本には最終的には帰れない。」 2週間悩んだ末決断した。 『怒鳴られながらの修業時代』が始まった。 まず最初に悩まされたのは工具や材料の名前と用途を覚えることだった。日本でも普段日常会話では登場しないものばかりだった。ペンチという言葉一つでも何十種類に分類するほどあった。 「何度言ったら解るんだ、お前俺を馬鹿にしてんのか!!」 怒鳴り声がすぐとんだ。 前述のコルトワ社から30本のトランペットのベル製造の依頼が入り、ようやく金管楽器製造の修業に入った。師フィリップが手本を見せて私がまねるというものだった。人一倍不器用で怖がりな私の動きはおどおどしていてぎこちなかったに違いない。 「お前いったい何を見ていた、寝てんのか?何だその動作は!!」 間違った動作をするとすぐ手を止められた。材料を無駄にしないためにもう一度師の動作を見て真似をした。それでもできない。何度も手は止められ、手に持っていた工具は奪われた。悔しくてあふれる涙を必死にこらえていた。電話が鳴り事務室に師が事務室に戻っている時間が練習時間だった。 とにかく反復して体に覚えこませるしかなかった。しばらくして振るわれるハンマーに呼応して真鍮板と鋼鉄製の工具が心地よい音を奏でるようになった。 心も体も震えていた。 「これや、これが俺が探してた職業なんや!」 遮二無二手を動かし、ハンマーを振るった。疲れて握力が無くなりハンマーが手からすべり落ちるまで続けた。 「アトリエ フィリップ・ロウ」の売り上げの6割は金管楽器修理で成り立っている。私にはまず戦力になるように金管楽器の修理を習得することが急務であった。修業を始めた頃、練習台はいつも物置に放置されていた19世紀後半から20世紀前半のコルネット。いつもベルは凹みだらけ、マウスピースや転調用のクルークはもとより現代より多い抜き差し管やピストンは乾燥した唾液や汚れで固着、支柱は折れていて交換が必要、大半を分解して凹み直しを行った後組み立て直した。このようなコルネットを1本修理するだけで金管楽器の修理の基礎のほとんどが習えた。ただ覚えるまで相当の時間を要した。 修業を始めて3年目のある日、付けられたコルネットのオーバーホールを行った。師に何度も駄目だしされてはやり直した。2週間経っても終わらなかったある日、いつものように師に怒鳴られたとき、ついに忍耐に限界が来てフランス語で叫んだ。 「自分の実力に誇りなんて持てるか!!」 涙がボロボロとこぼれた。 「もういい。今日は帰れ。明日また来い。」 翌日。 「夕べは良く眠れなかった。お前の涙のせいだ。」 「・・・すみません。」 普通の企業だったら即座にクビだったと思う。社会人として恥ずかしかった。 それから数日後そのコルネットの修理は終わり、お客様の手に引き取られていった。 「おい、Naoya見てみろ。」 師は一通のメールを私に見せた。そのコルネットの持ち主の女性からだった。 「良い仕事をしていただき、ありがとうございました。」 師は続けた。 「俺もお前みたいに最初は勝手が解らなくて、師である親父から良く怒られたもんだ。尻を何度も蹴られた。泣いて出て行った事もあった。独立してからもな、ある日60本の楽器のベルの加工の最後の行程を外部に依頼したときだった。返事が返ってきて愕然としたよ。60本中良い状態のベルはたった2本だけだったって。はらわたが煮えくり返った。あの時の悔しさは生涯忘れん。」 師フィリップの師であるジャン・ロウ氏の修業時代を聞いたことがあった。 「14歳で楽器の道に入った。最初は銀製のクラリネットのキーの製造だった。組み立てていく行程の中で100分の1ミリでも誤差があったときは容赦なくゴミ箱に捨てられた。あれは悔しかったぞ。」 自分が苦しんでいる状態なんてまだまだ甘いことを知った。修業30年目を超えた頃、師はジャン・ロウ氏から初めて褒め言葉らしい言葉をもらったという。その時は驚きで膝が震え、その場に座り込んだという。後にメートル・ダールに任命されたときよりも嬉しかったそうで、通知を受けたときは真っ先に自分に厳しく接したジャン・ロウ氏に報告したという。 「なあ、Naoya、俺はおそらく仕事に関しては自分の子供よりも厳しく接しているかもしれん。だがそれ以外はお前の友でありたいと思う。頑張れ。」 「はい・・・。」 ナチュラル管の金管楽器の中で最も簡単な構造である軍隊ラッパ・クレホン。金管楽器製造の練習として40本を自分で作ったが半数以上ができが悪く、中古品として売られた。マウスピースリードパイプの製造で溶接がうまくいかず、何度もやり直していると師がやってきて悪い出来であるそのパイプを膝で折って地面に叩きつけ足で踏み潰した。そんなことが何度もあった。 「修業って、やっぱり厳しいものなの?」 「修業を始めて最初の3年間は、一年間のうち、休日、休暇を除いて怒鳴られなかった日なんて指折り数えるほどしかありませんでしたよ。」 今では笑い話として語られる、私が犯した最も恥ずかしい失敗。 2006年にパリで開催された「音と音楽の展示会」、その準備をしていたとき、展示用の楽器にふき取り用の布がベルの内部に入り込み放置されたまま展示会へと運ばれた。展示会中、その楽器をお客様が手に取り、マウスピースを取り付けて吹き込んだとたん、お客様の頬が膨れ顔が真っ赤になった。中を覗き込むと布がベルの置く深くまで押し込まれていた。 「バカヤロウ、さっさと取り除け!!」 毎日聞いている怒鳴り声が展示ホール全体に響き渡った。 「お前って、本当に不器用だな。」 あるとき師にしみじみと言われたことがある。 「知ってるよ。自分でも嫌になることがある。でも俺はもう自分の不器用さと一生付き合っていくことに決めている。」 「・・・。」 「お前、よく笑うようになったな。」 約2年前からお客様を向かえる役目、電話の応対、メールの応対、見積もりの計算などなどが私の責任になったとき、どうすればお客様と旨くコミュニケーションが出来るかを考えた。師のユーモアや話すときの勢いは持つことも出来ないかもしれない。師のような持って生まれた性格は持ち得ないのなら、せめて笑顔を浮かべて心地よく私たちのアトリエに足を運んでいただこうと考えた。その結果、 「私はもう引退する身です。ですがアトリエは生き続けます。私の下で10年の修業を続けた弟子のNaoyaが引き継ぐからです。ご安心ください。私とは違って丁寧な対応をしてくれるいい男ですよ。」 と師は周囲に言うようになった。それにしても自分の欠点をよくも揶揄できるものだ。 「偶然とはいえ、私は師フィリップの弟子となった。数え切れないほど怒鳴られ、反対に人前では褒めすぎというほど褒められた。そして理不尽な事を言う行政に対しては何度守ってもらったか判らない。怒鳴りながら育ててくれたようなものです。もし師のように人を育てるには時間がかかるということを理解している人に出会わなかったら、今の私は無かったでしょう。そうでなければ私はどこに行っても3日でクビにさせられるような男です。この10年は私の誇りです。」 「怒鳴られながらの修業時代」は終わろうとしていた。 Naoya「日出ずる国から来た弟子 トロンボーン製造を志す者」 皆様の清き1クリックをお願いします。
![]() フランスの金管楽器職人の人間国宝、フィリップ・ロウ。1949年11月19日、父ジャン・ロウと母ドゥニーズの間に生まれる。他の赤ん坊とは違って、「母親の体から取り出されて産声をあげるまでに30分を要したらしい」。 「後にその話を両親に聞かされたときに、俺は思ったよ。俺の人生は生まれた瞬間から困難に立ち向かうことを宿命づけられたとな。」 その時のエピソードを語るたびに師フィリップは最後に言う。 青少年時代はサッカー少年であったらしい。今はプロのチーム「パリ・サンジェルマン」の熱烈なサポーター。 1969年、18歳の時、大学受験に失敗。師のご両親は1年間だけなら大学受験のための浪人生活を許可したが師は拒否。勉強に見切りをつけて働きたいと話したところ、師の父ジャン・ロウ氏は提案した。 「お前が働きたいというのなら、明日俺のアトリエに連れて行ってやる。丁度今見習い弟子が欲しかったところだ。」 翌日、現在パリの11区ペール・ラシェーズ墓地の北にかつてあった「職人の界隈」という300人から400人の職人たち集う場所があり、ジャン・ロウ氏はそこで4人の職人を率いていた。そこに一歩足を踏み入れた瞬間、師フィリップは職人の世界に魅了されジャン・ロウ氏の楽器製造のアトリエで修業を始めた。ジャン・ロウ氏の下で15年の修業を積んだ。 「親父は相当厳しかったよ。一回しか俺に手本を見せてくれず、見せてもらったように俺ができなかったら尻に蹴りが飛んできた。泣いて出て行った事もあった。修業時代に『にいちゃん、良い仕事してるじゃねえか。その調子で頑張れよ。』といわれるのが嬉しかった。」当時そのアトリエでは毎月百本以上の楽器を製造していたらしい。そして1984年独立。パーカッションのヘッド製造会社「Mori’s Plastic」を買い取り独自にヘッド製造にも着手。1986には自分のアトリエを生まれ故郷であるメゾン・ラフィット町に移す。それが後に私が修業を積む場所となる「アトリエ フィリップ・ロウ」。 笑いを絶やさない、独特なユーモアを持つ人だと私は思う。2008年4月1日にフランスのテレビ局TF1の5分間のルポルタージュのために同年2月にアトリエの中で撮影が行われた。師は作業台の上に敷かれていた畳一畳の大きさの厚さ0、3mmの真鍮板を両手で持ち上げた。 「ほら、こうやって持ち上げただけで真鍮版はしなってビヨンビヨンと音を鳴らすじゃないですか。わざわざ苦労して楽器を作る意味なんてないでしょう。」 師はカメラに向かって笑った。10年間の修業中未だに理解できない師のユーモア感覚のひとつ。 誇りの高い人で誰に対しても思ったことを口にせずにはいられない性質。苦境を理解してくれない取引銀行の担当者をアトリエに呼びつけて怒鳴りつけたこともあった。 その道のりは順風満帆なものではなかった。かつては7人の従業員と事務員まで雇ったことがあるという。だが90年代に入り次々と苦境が襲った。91年の湾岸戦争を境に景気は後退、軍縮により主要な卸先であった軍楽隊の減少、かつて村にも必ずひとつはあったというオーケストラの減少、そして世界にも名が知られている某音楽隊は楽器の発注先を1994年を境に師ではなくスイスの業者に発注。そして90年代終盤、師は背中の病に冒された。 「無理の利かない体になっちまった。銀行の借金がかさなって、しかも働くのは俺独り、にっちもさっちも行かないときに思ったよ。せめて体に負担の少ない打楽器製造の注文がたくさん舞い込んだらなって。そんなある日、打楽器数十台、ヘッド数百枚の発注の仕事が入った。願ったり叶ったりだったが、俺一人ではできない仕事なので旧友の楽器店の店長が『俺の弟を使ってやってくれ』と申し出てくれた。1ヶ月半後にその商品を発注し赤字から黒字へと盛り返した。俺の元に送り込まれたその男は一切の金を要求しなかった、俺は無神論者だが、常に誰かが見ているものだと思う。」 約5年間独りで働いたという。今私が経験している情況だが、およそ350m2もの空間に独りというのはたしかに寂しいと思うときがある。1997年、先のTF1より取材を受けた。 「今日も良く働いたと思いながら眠りに着く。そして明日はどうなるんだと思う。」 今とは見違えるほどその頬と体は痩せこけていた。TF1のナレーションは続けた。 「フィリップ・ロウ氏は自分の後継者となるべき人物が現れることを願っている。」 「フィリップ、残念ながらお前がこの職業をする最後の一人かもしれんぞ。」 「いいや、俺が最後じゃない。きっと俺の後を継ぐ者が現れる。」 かつて父ジャン・ロウ氏と言い争ったことがあるという。 1994年よりフランス文化省は日本の「人間国宝」の称号を例に取り、卓越した技術であるとともに次代の流れに消え去りつつある職業に従事する職人を「フランスの人間国宝」メートル・ダール」に任命しその技術を後世に伝承するために支援することに決定。師は2002年11月25日に金管楽器製造職人の「メートル・ダール」に任命された。その日私は研修生として師に随行していた。 「その時師の傍らにいた俺が跡継ぎ?『日出づる国から来た弟子』?偶然としか言いようがない。」 後に1997年に放送されたTF1のビデオを見せてもらったときには不思議な気分だった。後継者不足に悩む師と後にそれを見る弟子である私。 今週の月曜日、師の最後の事務処理の手伝い。 「フィリップ、ひとつ質問。」 「何だ?」 「42年以上のキャリアを終わらせて引退するのはどんな気分だ?」 「ふむ・・・。」 師は書類にサインをして手を止めた。 「いとつの役目を終えた満足感かな?最後に、Naoya、お前という後継者を育てた。残念なのは、景気の後退で売り上げが落ちたことかな。」 師は続けた。厳しい司令官という顔つきであった。 「心得ておけ。優しさ、実直、誠実、それは良い事だ。俺もなるべくそうしてきた。優しすぎたかもしれん。だが甘えは見せるな。お前を利用しようとする相手には手厳しく接することも覚えろ。」 「・・・心得ておきます。」 自分は優しすぎたと師は評しているが、その優しさに奥様を始め多くの人が救われたはずである。私もその一人。 「良くも悪くも人間的、絵に描いたような職人気質、そして懐かしさ。」 これが10年間師の下で修業をした私の師に対する評。 冒頭の写真は、昨年の9月15日に発行されたフリーペーパーのために撮影されたもの。残念ながら掲載されなかったためこの場を借りて掲載させていただきます。撮影したのは、友人のサックス奏者であるMakiさん。 今回の記事は師に捧ぐもの。そして次回は「三宅直也、怒鳴られながらの修業時代」。 Naoya「日出ずる国から来た弟子 トロンボーン製造を志す者」 皆様の清き1クリックをお願いします。
「フランスでの生活は気に入っている?自分の国とは違う文化圏で生活していて戸惑うことはないかい?」 「おおむねは気に入っているんですが、役所での手続きが煩雑なのが困ったもので・・・。」 年配の方からよく質問されることなのですが、上のように答えると、 「いや、それには同情するよ。何も君のような外国人だけの問題じゃない。我々フランス人にとっても同じことだから・・・。」 という返事が返ってきます。 「文化と芸術の国」と呼ばれるフランス(内情を知る者にとってはけっしてそうではありませんが)、様々な側面を持ち合わせていることが解ります。「職人の国」、「学歴社会の国」、「ストライキとデモの国」、「公務員の国」、そして「書類の国」。 パスポート一枚と航空チケットがあればフランスに3ヶ月以内なら滞在可能ですが、それ以上滞在するつもりで渡航する場合は日本のフランス大使館または領事館で渡航ビザを申請した後にフランスの滞在先の所定の警察署で「滞在許可証」を申請することになりますが、おそらくここでほとんどの外国人がカルチャーショックを受けることになるでしょう。なぜならここで「申請書類が通るか通らないかは窓口のお役人のさじ加減で決まる」ということを理解するからです。美しいイメージだけを抱いてこの国に来ないことをお勧めします。 2000年のリヨン、2001年のル・マンでの学生身分での滞在許可証申請は比較的スムーズに行えたのですが、2002年の秋からパリに在住してからは「悪夢」とも言えるようなことをしばしば経験することになりました。2002年の秋、パリの15区での住所変更を行った時には朝から警察署の前に並び、自分の順番が記入されたチケットを手渡され自分の番を待っていると正午には窓口の職員たちが昼食のために退出。2時間待たされた後で手続きが再会されるという有様。この間退出すると順番の一番最後に回されます。 忘れもしない2004年の春。師の弟子として、そして正式に給料をもらえる社員としての身分変更を労働省管轄化の外国人労働者担当局に師弟された約30枚の書類と同じく同数のコピーを持って同年2月にそれらを提出。外国人に対して正規の労働者身分を証明するための「労働許可証」申請後返事を待つことになりました。そして役3ヶ月後の5月上旬、「お役所はせかさないと動かない」と言われて再び外国人労働者担当局に出向き提出した書類の手続きが行われたかどうか確認に行ったところ、 「あなたが提出した書類は無くなりました。」 という、自分の耳を疑うような返答を聞きました。「捨てられた」と言われていたら、おそらく窓口の上に上がりこんで目の前の人の首をつかんでいるほどに怒りがこみ上げていたでしょう。結局3回目の提出の後の2004年の9月末、労働許可証を受け取る事になりました。 それから4年後の2008年2月、外国人労働者担当局にて更新された労働許可証を持ってパリの警察署で滞在許可証の更新手続きを行った後、受け取ったのは「1ヶ月以内の国外退去命令」。「自分は指定された書類を全て提出しているのでこの命令の撤回を願います。」という内容の手紙を6回にわたり裁判所に提出。約半年後の同年9月に撤回されました。 警察署に師弟の書類を持っていっても、窓口で突然指定されてもいない書類の提出を求められて、用意していないと申請が却下されてアポイントの取り直しなど日常茶飯事。そして書類の処理が遅いのです。10年以上の滞在で書類の処理が驚くほど早いうら若き女性に出会ったことがあります。しかもうっかりして書類が足りなかったにもかかわらず自分の書類申請が許可されました。外国人担当窓口に座らせておくにはもったいない人材です。 さて話は昨年の12月に戻ります。上旬に「アトリエ フィリップ・ロウ」の取引銀行に出向き担当者と相談。 「まずはヴェルサイユ市にある商工会議所で商業登録番号を発行していただかないといけません。」 すぐさま商工会議所で申請手続きをするためにヴェルサイユ市へ直行。」 「外国人であるあなたはまず個人事業主としての身分変更を行い申請手続き証明を持ってきていただかないといけません。」 その後ヴェルサイユ市の警察署へ。 「この電話番号に電話してアポイントを取ってからもう一度来てください。」 私の滞在身分変更手続きを行う警察署にいるにもかかわらずその場でアポイントを取れず追い返されます。 同年12月27日、ヴェルサイユ市警察署。その日を遡ること約10日前に滞在身分変更に必要な書類のリストを郵送で受け取り、説明不十分なリストから必要と思われる書類を師と用意し、『悪夢再来』に備え、内容が複雑なので難癖をつけられたときに的確に説明できるように師に同行してもらいました。滞在許可証更新程度のことなら私一人でも構いませんが、煩雑な手続きの場合、フランス人の同行を願うと窓口の対応が「少しはまし」になります。 これは何もフランスの問題だけではありません。8年間日本に滞在したという韓国人のジャーナリストの女性が著した日本に関する書籍には成田空港の税関や外国人入国管理局の係員の態度が第一章に描写されておりましたが、下手をすればフランスよりも母国の入国管理局の態度の方がひどいように思えます。私は一度故郷の大阪関西国際空港で外国人窓口に並ぶように英語で誘導されたことがあります。菊の紋が入った赤い日本の10年パスポートを提示して「これは日本人が所有するパスポートですけど何か問題ありますか?」と質問するとその係員の人は謝りもせずそそくさと退散しました。 さて12月27日15時、師と私は15時に受付窓口に召喚状と必要書類とそのコピーおよそ80枚近くの書類を提出。少々複雑な事情であるため師が窓口で説明し始めた後でやはり窓口の係員の方が難癖をつけ始めたため師は頭にきて怒鳴り声を上げそうになりました。 「まあまあ、フィリップ、ここは少しの間俺に任せてくれ。ムッシュー、私たちは何もあなたたちを困らせたくてここにいるわけではありません。師も悪気があるわけではないのですよ。必要書類は全て用意しておりますのでもう一度ご説明お願いできますか?私はただ商工会議所に提出するために必要な滞在身分変更届け申請中の証明が欲しいだけなのです。師を手で制すとこの間師は外で待つことになりました。外国人の手続きの同伴のために向く人と向かない人がいるようです。 「いや、時折外国人の付き添いであるフランス人の方が無理難題を言うことがあって困らされることがあるのですよ。それにしてもムッシュー、あなたはとても辛抱強い方ですね。」 忍耐は師と警察署で鍛えられましたが褒め言葉にはなりません。ちなみにその係員の方が預かった書類はたった10枚弱。 16時前、外で待っていたしと合流。個人事業主としての身分変更届け申請中という証明書を首尾よく受け取りメゾン・ラフィットへ帰ります。 「俺が外国人であったとしてもあそこには居たくはない。外国人の子孫が外国人を窓口で裁いている。フランスの恥だ。」 何はともあれ29日には商工会議所に商業登録番号を申請、年明けには銀行で事業主用の口座開設を申請します。 Naoya「日出ずる国から来た弟子 トロンボーン製造を志す者」 皆様の清き1クリックをお願いします。
「一人の人間の人生を表すのはたった3行で済む。どのように生まれ、どのように生き、そしてどのように死んだか、それだけだ。」 私の好きな漫画家兼エッセイスト弘兼謙司氏の言葉だったと思います。昨年の10月19日に師と私はパリのフランス文化省庁に赴き1年ごとの修業の成果を報告するために呼ばれておりました。2003年に師フィリップの正式な弟子として承認されて以来約8年間の修業の成果を全て報告するために用意した書類はおよそ30枚。60年、70年もしくは80年の人生を表すのにたった3行で済むのに何十枚もの書類を用意することはないでしょうと、上の言葉を思い出したものでした。 それより約1年前の2010年11月17日、同じくフランス文化省庁に呼ばれたときは議題がある一点に集中したと書きました。その議題の焦点はいつ師が引退して後継者である私が独立できるかということでした。約1年弱という期間を経て私たち二人が協議した末に出した返答は、師が作ったアトリエに残り個人事業主として工具や機材そして材料を師から借り受けて事業を継続させることでした。一階と二階あわせて400m2近くの広さを持つアトリエをどこかに再現する資金が私には用意できないこと、私が師のアトリエを離れて独立した場合誰も使用しない空白の訓間が出来上がってしまうこと、自分の名で事業を行うよりは師のアトリエを継続させるほうがこれまで得たお客様の理解を得ることが容易であること、などが主な理由です。最後に付け加えるなら外国人排斥意識が高まっているフランス人の感情を逆撫でしないことも考慮したうえです。日本の製品が世界に進出し経済成長を遂げた1970年代もしくは1980年代、「我々の製品を真似し最後には我々の市場を奪っていく存在」として嫌われたそうです。一人の日本人として今更日本人が悪く言われるような材料を作りたくはありません。そして私自身はフランスの伝統技術を奪っていくためではなく次の世代にその技術を残す約束を果たすためにいるということを周囲にアピールするためでもあります。 師と苦心して考えた方法は、今ではとても合理的であることがわかるようになりました。そしてその後は手続きのために奔走することになります。 Naoya「日出ずる国から来た弟子 トロンボーン製造を志す者」 皆様の清き1クリックをお願いします。 全国から注目されているサイトが大集合!音楽
昨年の夏、7月下旬と8月上旬にヴェルサイユ市の商工会議所で行われた職人たちのための研修に5日間参加。会議室のホワイトボードに向かってコの字型に並べられた机には私を含めて男女14名が席に着きこの研修を受けました。 参加した人たちの職業を列挙すると、楽器製造・修理業(私です)、庭師、左官工、電気技師、美容師、惣菜店経営希望者、運送業、室内改装業などなど。奇遇にもピアノの前身であるクラヴサンの製造家である二人の知り合いと再会。 国籍を列挙しますとフランス人はもとより私日本人、中国人、セネガル人、チュニジア人、モロッコ人など国際色豊かな研修となりました。歴史上多数の移民を受け入れてきたフランスならではの光景。私はこのような様々な人種が入り混じった風景大好きです。 5日間の講習内容は会社の形態、銀行との取引の仕方、付加価値税、社会保険制度、年金積み立て、会計、マーケティング、環境問題、法律、商標登録の仕方などなど。各々の疑問や問題点を、講師陣を交えて熱い議論を交わしました。 「ところでラジオでのコマーシャル依頼する場合、依頼料はどのくらい必要なのかご存知ですか?」 不思議なことにテレビやラジオというメディアにおける楽器業界のコマーシャルは皆無に等しく、自分の素朴な疑問を商工会議所代表の講師に投げかけてみたところ、広告を打つならインターネット上で、高速道路沿いに大きな看板を立てろなど様々な意見が飛び交い、数分後には議論の内容が環境問題に移行。分単位で議題が変わるのもフランス人の特徴。 失業率が常に10パーセント前後で推移するフランス。転職先が見つからない人もしくは独立を希望する人たちのためにこの国も様々な会社の形式を用意しています。私たちが受けた研修は独立して個人事業者になるためのものでした。 Naoya「日出ずる国から来た弟子 トロンボーン製造を志す者」 皆様の清き1クリックをお願いします。 全国から注目されているサイトが大集合!音楽 │<< 前のページへ │一覧 │ 一番上に戻る │ |
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