80年前より―その51(『近きより』をなぞる)親善のための戦争
日本にも移民制度が導入され、今後列島外にルーツに持つ人や混血の人の割合が増えて2・30年もすれば、人種差別もその根拠が失われるかもしれない。この時代にあって、人種差別のマインドは未だ保持されている。このマインドは80年前とあまり変わっていない。紅毛人はホテルで支那人を使い、支那人は街頭でウドン粉の饅頭にブタの油肉をつけ、相変わらずニンニクを喰っている。旅行者の眼には上海はその土地と同じく支那人が僅か一万人の紅毛人に使役されている以外の何物でもないように映ずる。p.131 昭和14(1939)年「近きより 一 上海風景(東京に擬えて) 3 上海の文明」『近きより2』第三巻第五号<六月号>大陸紀行号 その二イギリス商人からアヘンを没収した林則徐による西洋研究を魏源がまとめた『海国図志』(1842)は日本語に訳され、幕末の知識人の間に欧米の帝国主義に対する警戒心を喚起した。1862年に上海を訪れた高杉晋作は英仏人に使役される中国人を目の当たりにして危機感を抱いた[1]。大川周明は英国の植民地下のインドについて書かれた Sr.Henry Cotton, New India or India in Transition(ヘンリー・コットン卿『新インド』)という本を読み、インドでの人種差別に憤りを覚えた[2]。人種差別は多くの人の心に違和感、嫌悪感、怒りを起こす。日本人は、支那人を使役する紅毛人とは違う存在となることができたのか?南京攻略時の蝗軍兵士の陣中日記では、捕虜を使役して、用が済むと殺したことが書かれている。 未明油座君支那の工兵大尉を一人とらへ来る。 年、二十五才なりと、R本部は五時出発、吾は第五有線班の撤収をまちて八時半出発。 午後一時四十分敗残兵一人を銃殺。 敵の銃をひろひて打てるものなり。 第一大隊は一万四千余人の捕虜を道上にカンシしあり(午前)。天気よし、彼の工兵大尉に車をひかせて南京へ向かふ、鹵獲銃は道路に打ちくだく。 一丘をこえて南京の城壁目〔間〕近に見ゆ。 城壁千米手前にて彼の工兵大尉を切る、沈着従容たり、時午後四時也。p.78 小野賢二ほか編「堀越文男陣中日記」(1937/12/14分)『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』五族協和と謳っていた日本人は、中国人を友人と見做すべきだったと思うが、当時書かれたものの多くに、中国人に対する侮蔑と憎しみの感情が表れている。以下は日中戦争に従軍したある中佐の陣中日記の一節。事変は案外早く片づきませう。うんとやっつけます。徹底的にやられるでせう。支那も馬鹿にも程がある。p.41 小長井信昌 編著「輸送途上より家族への手紙」(1937/9/5分)『オ父サンノセンサウ』《小長井鑑重中佐の陣中日記》これは、膨大な中国蔑視の一例に過ぎない。このような中国人に対する憎しみと侮蔑の感情は、日本人兵士の行動となって表れた筈だ。その場面に正木氏は遭遇する。改札口はバラックの外にあって、そこも長蛇をなしている。やがて日本軍人が二三名やって来て改札を始めるかと思っていると、改札口の構内に積んであった手荷物をポンポンと外の泥濘の中へ放り出した。雨が降って来ていたので、支那人が手荷物を雨のあたらないように構内に積んでおいたのであった。蝟集していた支那人はそれを拾うので大騒ぎをやっている。切符を切り始めた。群がる支那人を剣附銃をもった兵士が二三人で整理するのだが、言葉が分からないせいか、兵士は泥靴で支那人の腰脚の辺を蹴り、胸を突く。また頭の上に支えている支那人の荷物を銃剣で突くので、群衆の顔には恐怖の色がありありとみゆる。私はその精悍な兵士の顔を見た時、身体中がゾッとした。殺戮の形相だ。殺すか殺されるかという緊張感だ。初めて見た私には周囲の気の抜けた光景とはおよそ不調和な感を抱いたけれど、さんざん支那兵に悩まされて来た軍人には支那民衆に対しても極度の憎悪の念が燃えるのも無理はないのであろう。犬に噛まれた者は、子犬に対しても極度の緊張を感ずるものである。(私自身は成長した鼠を見ると命がけな敵意を感ずる。)しかし、この朝この光景を見た私はゾッとした寒気に似たものが終日離れなかった。「戦争をしたからには絶対に負けてはならない」と、現地を見て帰って来る人が言うのは、こういう光景をしばしば見るからであろうと思った。「親善のための戦争」という命題を考えているうちに汽車は出た。p.139-140 昭和14(1939)年「近きより 二 杭州行 1 北停車場」『近きより2』第三巻第五号<六月号>大陸紀行号 その二この事件が正木氏の日中戦争に対する見方を変える転機となったようだ。「五族協和」「親善のための戦争」「本当に提携するための悩み」。言い方はいろいろできるが、この戦争が協和、親善、提携に結び付かないという事を認識した事件だったのだろう。明治国家をつくった人びと【電子書籍】[ 瀧井一博 ]価格:810円 (2019/3/24時点)楽天で購入[1] 高杉晋作は1867年(慶応三年)の徳川昭武使節団に加わった。使節団はフランスへの途上、上海に立ち寄った。(p.149-152, 瀧井一博『明治国家をつくった人々』参照)[2] p.80-82, 大塚健洋『大川周明』参照。にほんブログ村