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カテゴリ:哲学本
「現象学入門」竹田青嗣(NHKブックス) フッサールの現象学、学生の頃読んだんだけど如何に字面を追っていただけかがわかった。こういう風に読むんだよ、という指南書。もちろん著者のフィルターがかかるのは仕方ないこと。でもそれでもいいんだ。ちなみにこれは妻の本。すごくわかりやすいよと言われて手に取ったが・・・さて。 P19 「人間の認識を一種の認識装置として考えるかぎり、認識の原理はいま見たような事情に還元される。<客観>とはここで、コードの『正しさ』を判定するためのオリジナルなものになるが、コンピュータ(人間)は原理的に一定のコード(認識装置)にしたがって考えるから、このコードの<外>に出てコードの正しさを検証できないのである。自分の認識が<客観>に『一致』するかどうか<主観>にはけっして決定することができない」 P27 「<神>のような存在をもち出さなければ、<主観>と<客観>の『一致』を確証することは原理的に不可能だということを、彼(註:デカルト)も認めていたことを示している。」 P29 「カントの考えは、人間の認識をたとえば虫メガネのような一定の能力を持つ道具のようにみなしている。しかし人間の認識の特質は一定の能力を持った『道具』ではなく、いわばファミコンゲームの主人公のように、どんどん自分の能力をレベルアップしていく点にある。そうヘーゲルは主張する。」 P31 「すなわち、<主観/客観>という前提から出発するかぎり、わたしたちは、論理的には必ず極端な『決定論(註:ヘーゲル的な意味で)』か、それとも極端な『相対主義』、『懐疑主義』、『不可知論』かのどちらかにいきつくことになるのである。」 P41 「だから問題は、人間が考えるコンピュータとは違った仕方で存在していること、夢と現実とを区別するある原理を、<主観>の内側に内在させていることを明らかにする点にあることになる。フッサールの考え方の順序をたとえて言うと、およそ右のようになるだろう。」 P43 「<主ー客>の『一致』ではなく、なぜ人間は<主観>の中に閉じられているにもかかわらず、世界の存在、現実の事物の存在、他者の存在などを『疑えないもの』として確信(註:フッサールの『妥当』)しているのか、と問うべきである。」 P53 「カント的な発想からは、感覚器官による<知覚>は、悟性(判断)→理性(推論)へと進んでいく『認識』のいわば構成要素である。(中略)ところがこの(註:<知覚>の)定義はいうまでもなく<主観ー客観>図式を前提しているのであり、客観から主観のなり立ちを”説明”するにすぎない。現象学では<主観>の立場を徹底するという前提がある以上こういう方法はとれない。そこで、主観の内省の中でなにが<知覚>であるかを言い当てることが問題となる。」 P56 「ところが、じつは唯一<知覚>と呼ばれる息子だけは(註:<想起><記憶><想像>などと異なり)、父親の専制(註:独我論の比喩表現)を脅かす息子なのである。(中略)自我を超えて自我の自己原因ではなくものとして現れるこの<知覚>こそ、自我に、自我ならざるものがたしかに<外側>に存在することを告げ知らせる唯一の根拠となるのである。」 P65 「肝心なのは、わたしたちの具体的知覚体験におけるこのような特質、つまり<私>と他人とは同じものを感覚しているという直感の不可避性こそが、人間世界にある共通了解を生じさせ、またそのことによって言葉一般を可能にしている土台だ、ということなのである。」 デカルトは「神」に頼り(というか「神の存在証明」がデカルトの目的)、カントは人間の理性は原理的に客観それ自体を認識できないと証明し、ニーチェは客観などないと言う。フッサールは独我論的に<主観>の立場から出発することで問題を解ける形にしようとした。現象学的「還元」の意味がここまでではっきりした。しかし<主観>の中にあって”制御”できないものとして振舞うフッサールの<知覚>が、<外側>との”窓”になっているという感覚は否めない。形而上学的問題がより具体的な問題になったと著者は言うが、<イデア><神>が<知覚>と置き換えられただけという気もする。もちろん方法論は大きく変わったけれども。まだ理解しきれていないかもしれない・・・。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017年01月17日 01時43分58秒
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