科学の世界と心の哲学
「科学の世界と心の哲学 –心は科学で解明できるか」小林道夫(中公新書)その著書のリストから見てデカルトに傾倒している哲学者による、心の哲学に関する書籍。平易な言葉で書かれているので、哲学に造詣のない自分でも無理なく読み進めることができた。「はじめに」から 「しかし、これらの考え(註:心の諸問題に対する科学主義と相対主義)は、反対方向のものでありながら、そのあいだには共通の根があ(中略)る。その共通の根とは、近現代の科学の成立の事情やその条件・本性を十分に踏まえていないのではないかということである。それを踏まえる作業を行えば、近現代の科学が及ぶ射程とその限界とを理解することができ、そのことで、科学的知識の客観性や進歩を認めながら、『科学主義』に陥ることなく、科学的によっては原理的に汲み尽くしえない事柄として『人間の心』の次元があるとが了解できるのではないかと思われる。」ここに本書における著者の言いたいことが全て込められている。「はじめに」から 「(註:本書では)まず、『デカルトの心の哲学』と彼が提起した『心身問題』の展開を見ていく。これは、デカルトがまさに近代の科学的世界像を設定した人物であり、しかもその心の哲学が、近代の心の哲学の原点をなすからである。実際、デカルトの心の哲学は、現代の心の哲学でまず初めに言及されるものなのである。現在では、しばしば批判的に紹介されるが、きわめて豊かで重要な洞察に富むものであることを示したい。これを踏まえたうえで、『心の哲学の自然化(科学化)』に対する批判を手がけよう。」これも同じく。P12 科学の歴史を振り返るということでまずはアリストレテスから。「『加速度(運動の運動)』も、アリストテレスにおいては、原理的に認められない。というのも、物体の加速度(中略)の概念を導入すると、物体がそれに固有な目的地に向かうという、『本性上の方向性』が棚上げされてしまうことになるからである。加速度という二次的概念を持ち込むことは、経験される絶対的な方向性のもとに、目的論的に構成された宇宙の秩序を、無視することになるのである。」「このように、アリストテレスの自然学は、われわれの日常の知覚経験に基づいた存在論、認識論、分類学に従って、きわめてよく組織されたものであった。」本筋には関係ないけど、面白かったので犬耳。P32 「自然学(物理学)は数学と異なり、この物理的感覚世界を超越するものではなく、あくまでこの感覚世界の実在の構造を探求するものである。しかし、ガリレオやデカルトが興した近代科学は、その理論構成の素材を直接的に感覚経験に求めるのではなく、理論構成は数学的対象を素材とし、ただ、そうして構成された理論の妥当性の審判を、最後に感覚経験に求めるものである。」「このように、アリストテレスの自然学の体系と、ガリレオやデカルトによって興された近代科学とは、理論の内部が異なるというのではなく、よって立つ存在論や認識論、さらに基本原理自体が異なる。これが一七世紀における『近代科学の形成』が、『革命』と呼ばれる理由である。」P54 「ヒュームによれば、火と熱の間に『原因・結果の関係」が実在的にあるからではなく、われわれはこれまでの人生で、その二つの事象がつねに随伴していたと経験しており、この『恒常的随伴』がわれわれの内に、「火を見れば必ず熱がある」という推論を習慣化させたのである。」「このヒュームの因果関係についての『規則性説』は、日常経験からすると非常に自然な『われわれの知識の起源は感覚の印象にある』とする立場に立ち、『しかし因果関係を示す印象はない』とする点で説得力をもつ。」このような考え方は「ヘンペルのカラス」で有名なカール・ヘンペルに受け継がれ、科学的説明は「認識上の、『演繹的・法則的説明』であって、必ずしも『因果的説明』」にはなっていないという立場が今でもあるそうだ。P65 「理論負荷性」のテーゼ(これも説明が必要だろうが・・・)「に加えて、二つの異なる理論のあいだで、その核心となる概念の『意味』が異なる場合は、それらのあいだに共通項がないということになり、比較不可能になるという『通約不可能性』のテーゼも主張された。たとえば、古典力学と相対論的力学とは、それぞれの核心を構成する、時間や空間や質量といった基本概念の『意味』が違うのであるから、そのあいだでは比較不可能であり、一般に信じられているような『物理学の進歩』は、実は論証できないのだ、と主張された。」そしてここから「科学的相対主義」が帰結されることになるという。ここにはなんとなく納得しかねる部分があるんだけど、反論してみろと言われてもできない。ここまでは「科学の目的と規範」について述べられてきた第一部。ここからいよいよ第二部「心の哲学」について。P81 「この『コギト』(『私は考える』)が、認識論や形而上学の領域のみならず、近代における『心の哲学』の原点ともなった。ただし、そこで考えられるのは、たいてい、『心身二元論』の『コギト』であり、物理的対象や身体機能から独立の『実体』であるとされる『心』である。(中略)現代の哲学の世界、とりわけアメリカの哲学界では、心の哲学(philosophy of mind)というものが、大きな領域を占めるに至っている。そこでは、(中略)たいてい、『心』を『物体から独立な実体』とするというのは、現在大きな影響を行使している『物理主義』や『自然主義』のもとで、悪い意味で『形而上学的』、場合によっては『神秘主義』と裁断されてしまうのである。」言語哲学者のジョン・サールは「われわれはデカルトの二元論に陥るのが怖いのだ」と単刀直入にいっているそうだ。P87 「ここには、二元論と唯物論の原理的対立が、すでにはっきりと示されている。デカルトが、事象の記述や命題内容に還元されない、むしろそれを意図的・方法的に疑う『能動意志の意識』を自分の活動の軸とするのに対して、ガッサンディやホッブズは、精神の活動そのものが、精神には意識されず、また精神によっては指定しえない『微小な物体の運動』から説明されうるとするのである。」P102 心身問題に対する「デカルトの究極の回答とは、精神と身体とのあいだの二元論とは独立に、それとまったく異質な事態として、心身の直接的合一(『心身合一』)を認め、その合一自体は、『日常の生と交わりを行使することによってのみ』知られる『原始的概念(それ自身によって以外は知られない概念)』であるというものである。」P107 「デカルトが、情念の源(中略)といっているのは、心身合一の事態において、目や手や耳などによって与えられる『感覚の対象』のことである。それも(中略)「われわれを害したり利したりするもの」として、われわれに対して価値的意味をもった対象である。つまり、情念についての徹底した機械論的生理学を展開しながらも、デカルトが情念の『第一の原因』とするのは、『人間の心身合一体』に与えられる価値的意味もった『感覚の対象』なのである。いいかえれば、一方で、身体をも物理的自然に含ませて、その全体を徹底した機械論の体系で説明しながら、他方で、感覚知覚や感情や情念の内実の説明は、そうした体系からは引き出しえないとし、その説明のためには、『環境世界』にあって、精神と身体の合一体に与えられる『感覚の対象』の『価値的意味』を取り上げなければならないと考えるのである。」ここにおいて「価値」とか「意味」とかは何なのかを考えなければならないし、それは科学の範疇ではないということが言いたいのだろう。P114 「いずれにしても、一七世紀における哲学上の主要問題の一つは、『心身問題』であった。それをめぐって、提起者であるデカルト自身の心身合一の見解のほか、唯物論や、非還元主義的物理主義、二元論を継承した心身並行論、機会原因論、予定調和説などが豊かに展開されたのである。」P115 ポール・M・チャーチランドは「心的活動の説明も科学に取り込むことができ、『心の哲学』は、『心の科学』へと『自然化(科学化)』させられると考える。(中略)その『自然化』が遂行されれば、われわれが『日常言語の常識』に従って行っている『心的活動の説明』、つまり『素朴な心理学』(folk psychology)は、進展した『科学的心理学(神経科学)」によって消去されることになるだろうと、「消去的唯物論」(eliminative materialsm)を唱える。」「ちょうど、化学史において、燃焼とは物質の内にある『フロギストン』が空気へと逃げさることだという『フロギストン説』が(中略)化学の世界から消去されたように・・・」P147 「ここで、『心の能動性・主体性』の意識について、認知神経科学の専門家からのたいへん注目すべき指摘を紹介しておこう。それは、通常の神経科学の方法で、脳の『中枢』に攻めていって、そこに何らかの『(心の)能動性や主体性』を担う領野を求めても、それは蒸発してしまう、ということである。どういうことかといえば、『中枢の定義』とは、当の中枢を刺激すれば、その機能が作動する、ということであって、宿命的に『受動的』であり、さらには、神経科学の方法そのものが、本質的に『受動的』なものである、ということである。したがって、神経科学の方法や中枢の定義に従って、脳の内部に攻めていくと、『能動性』『自発性』『意図』『主体』が蒸発する。これは、『意識の自然化』の試みの本質的困難を指摘するものである。」P153 「二元論をとった場合、必ずしも、その創始者であるデカルトのように、精神の軸は能動的な意志にあり、意識はとくにその働きが直接もたらすものであると考えることはない。スピノザにとっては、精神は、もろもろの観念の必然的連結の理解に解消されるべきものであり、マルブランシュにとっては、精神は、われわれの個別的精神(魂)のレヴェルを超えて「叡智的延長」の理解へと一体化すべきものである。また、ライプニッッにとっては、われわれの魂は個体的で単純な実体を構成するが、その活動はつねに『優勢な理由』に従って宇宙を表象することにあると考えられるのである。」P163 「ここで、ごく最近の神経科学上の研究成果に言及しておこう。それは、アメリカの脳神経科学者ベンジャミン・リベットが(中略)報告していることである。リベットは、動かしたいときに急に手首を動かしてくれるよう、被験者に要請し、そのときの脳における『準備電位』の始動の時点と、「動かそう」とする意図の『気づき』(アウェアネス)の時点と、実際に手首を動かして起こる『筋肉の活性化』の時点を記録する実験を行った。(中略)結果は、準備電位は『気づき』よりも、(中略)前に発生するというものであった。(中略)このことは、一見すると、物理主義(唯物論)が主張するような、『自発的行為』と思われるものも、それに先んじる脳の活動(準備電位が示す活動)に起因するという決定論を正当化するものであると受けとめられる。しかし、この実験結果によってリベットが指摘するのは、『気づき』の極小時間前に準備電位が発生するということのみならず、『気づき』から『筋肉の活性化』のあいだに、二〇〇ミリ秒あるということである。リベットは、この二〇〇ミリ秒間のあいだに先に意図された行為の実行を拒否したり、それを制御することができるという。(中略)そこでリベットが強調するのは、むしろ『自由意志』の存在なのである。」この著書の最も重要な主張とは違うかもしれないけど、この本の中ではここが一番面白いなと感じてしまったのは、やはり自分が科学者寄りの人間だからだろう。この部分はもっと色々知りたいと思った。例えばこのサイト(人は気づく間もなくブレーキを踏んでいる)にさらに突っ込んだ議論がある。P167 「われわれが面する、この物理的・感覚的世界も、身体の両義性に応じて両義的様相をもつ。第1部で述べたように、一方で、それは、科学的探求の対象としてあり、その普遍的構造が究明される。しかし、その場合は、われわれの身体の五感による感覚経験の内実は捨象され、観測装置を介して、対象の数量的に記述可能な側面のみが取り上げられる。他方で、その世界は、われわれの五感を介して、身体感覚と一体となって、感覚される世界である。それは、われわれにとっての『環境世界』である。われわれは、そこに、科学的究明の見地の場合と異なって、色や香りや音などの知覚性質を感覚する。そして、知覚の対象を、われわれに対してある波長や振動や刺激を与えるものとして受けとめるのではなく、そのような知覚性質をその対象に帰属させて知覚する。のみならず、われわれは、その環境世界に存在する事物のなかに、『美しいもの』や『価値あるもの』を見出す。つまり、われわれが五感と一体となって面するこの環境世界に、われわれにとっての『意味』を見出すのである。むしろ、この場合は、われわれの心は、身体との一体性を介して、そのような『意味』へと差し向けられているといってよいだろう。」【中古】 科学の世界と心の哲学 心は科学で解明できるか / 小林 道夫 / 中央公論新社 [新書]【メール便送料無料】【あす楽対応】