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藤橋城(ふじはしじょう)は、現在合併後の揖斐川町となった旧・藤橋村が村おこしのために造った町営のプラネタリウムです。揖斐川町は日本有数の天体観測スポットとして知られています。 藤橋城は、南北朝時代に杉原砦として築城された。今から600年前、越前に勢力を奮った南朝方の雄・新田義貞が、北朝方・美濃の土岐氏に対抗する最前線の砦として配置した。 「美濃諸日記」によると、「大野郡杉原の住民に杉原六郎左衛門家盛」と書かれていて、この家盛の家系から、木下藤吉郎秀吉の正室・ねねが出ており、高台院ゆかりの地でもある。 所在地:岐阜県揖斐郡揖斐川町鶴見332番地1 ビジネスホテル | カップルステイ | 家族旅行 | ペットホテル | ANA+宿泊 | JAL+宿泊 |航空券 | 高速バス | レンタカー | ディズニーホテル | いい湯だな♪温泉宿予約 | 岐阜県の宿
駿府城は、大御所徳川家康の隠居城に相応しく、駿府城の本丸には五層七階の壮麗な天守閣が築かれ、天守閣は富士山と並びたって見えたそうです。 駿府とは駿河の国の中心を指し、徳川家康が幼少期に岡崎城主の身分のまま、今川義元の人質になっていたところでもあります。 桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れるまでの、8歳から19歳までの多感な時期を過ごした徳川家康が、終の住いと選んだのも駿府です。
徳川家康銅像 駿府城本丸跡地に銅像があり、家康が趣味の鷹狩りをしているところです。江戸から駿府に隠居した徳川家康、いかにも大御所らしくかっぷくが良いですね。武田信玄に悩まされた若かりし頃の、浜松城の家康像とは見た目が違います。 静岡はミカンの生産地として有名です。
(左)内堀から中堀の外へ向かって水を流す水路と、(右)中堀。 右の写真の柳は徳川家康が、伏見銀座を開設し、この地にも銀座を開設したが江戸に移した。 銀座の街路樹は柳で統一されたが、関東大震災や東京大空襲の被害に遭いながらも、市民の手で立派な並木が蘇った。 しかしながら高度成長の折に柳が姿を消し、銀座の有志の手により、挿木で増やし寄贈されている。 静岡市も銀座のとりもつ縁で、駿府城跡地に柳二世を植え、後世に伝えるものである。説明文より。 駿府城所在地:静岡県静岡市葵区駿府城公園1-1
登呂遺跡は、第2次世界大戦中(昭和18年)、軍需工場を建設中に、数々の遺跡が発見されました。
登呂遺跡・登呂博物館の館内にいたキャラクター「トロベー」 登呂博物館では体験型コーナーがあり、小さな子供達が水田稲作体験の玩具で田植え遊びをしていました。 登呂博物館の隣に染色家・せりざわけいすけの美術館があります。 登呂遺跡所在地:静岡県静岡市駿河区登呂五丁目
三保の松原の羽衣の松(はごろものまつ)は、天女が羽衣を掛けたという伝説があり、海の向こうから神様を迎える御穂神社の御神木です。
まぁ、その前に売店で、お土産の試食になるけど。(^^) 昭和11年、与謝野晶子が、「春の夜の三保の航空燈台が井の底のごと白きなりけれ」と詠んだそうです。 灯台隣の建物は、三保園ホテル 三保の松原で泊まった宿です。 静岡県の宿
水木しげるロードJR境港駅(さかいみなとえき)には「鬼太郎駅」と書かれていました。JR境線には他にも「米子駅(ねずみ男)」など、16駅すべてに妖怪の愛称がついているそうです。
鬼太郎列車と仲間たち、「鬼太郎列車」「ねこ娘列車」「ねずみ男列車」「目玉おやじ列車」が走っているそうです。
お土産用に、こしあんに蜜漬けの栗を練りこんだ高級和菓子の「妖菓目玉おやじ」とか、ベーカリーでは妖怪達の顔をしたパンが売られていました。 妖怪探しのウォークラリースタンプもありました。 しかし、すごく人気がありますね。小さな商店街に人が溢れていました。
松江城(1611年築城)は千鳥城ともいい、全国に現存する12天守の一つです。日本三大湖城の一つに数えられています。松江城は、天守の平面面積では2番目に広く、3番目に高く、4番目に古い城です。城跡は国の史跡に指定されています。松江城は、昭和10年には国宝に指定されていたが、文化財保護法制定により重要文化財となりました。「松江城を国宝指定に」したいところですね。 京極忠高が、若狭小浜城より(26万4千石)入城(26万4千石)したが世継ぎなく1代で絶えました。 松平直政(徳川家康の二男、越前福井藩主結城秀康の三男)が、信州松本城よりが入城(18万6千石)し、以来、松平氏が続きました。 織田信長が稲葉山城に進攻するときは道案内役を務めた。 豊臣政権では三中老の一人となる。 関ヶ原の戦い前、三河刈谷城主・水野忠重(徳川家康の叔父)が催した、三河国池鯉鮒(愛知県知立市)の宴会中、美濃国加賀野井城主・加賀井重望が水野忠重を殺害、吉晴も槍傷を負ったが重望を討った。 堀は宍道湖と繋がっています。 松江城所在地:島根県松江市殿町1番地
縁結びの神・福の神様として名高い出雲大社は、大黒様で知られる大国主大神(オオクニヌシノカミ)をおまつりしています。出雲大社主祭神のオオクニヌシノカミは須佐之男命(スサノオノミコト)の子孫で、多くの兄弟の末っ子として出雲に生まれました。神話に出てくる「因幡の白兎」のオオクニヌシノカミは有名なお話です。 日本神話に登場する神スサノオノミコトは、高天原で乱暴を働いたお詫びに、のちに熱田神宮の御神体となる草薙の剣を、姉アマテラスオオミカミに渡します。そして出雲の国に降り、八重に重なり合った雲を見て、日本最古の和歌「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」と詠みました。八雲山が和歌発祥の地といわれる由縁です。
出雲大社の、うねった大注連縄って、ご利益ありそうですね。出雲大社は結婚式を挙げられるので、新郎新婦が拝殿前で記念写真を撮っているのを見かけましたが、尚いっそうオメデタイ感じでした。 「八雲そば」のお店はどこも行列が出来ていたので、「八雲そば」をお土産にして家に帰ってから茹でて食べましたが、太目の固麺で付属の露も風味よく美味しかった。行列が出来るはずですね。 「君が代は 千代に八千代に さざれ石の巌となりて 苔のむすまで」 この石は国歌に出てくる岐阜県春日村のさざれ石です。岐阜県揖斐川町で発見されたそうです。 出雲大社所在地:島根県出雲市大社町杵築東195 出雲大社のオオクニヌシノカミ(大黒様)には、多くの兄弟たち(八十神)がいた。兄弟皆が因幡の国(鳥取)のヤガミヒメを妻にしようと思い出かけた時、荷物をすべてオオクニヌシノカミに持たせた。オオクニヌシノカミは荷物を大きな袋に入れて肩にかけ運んだ。(大黒様の姿ですね)。因幡にはサメを騙したため丸裸にされた兎がいた。兎はオオクニヌシノカミの兄たちに助けを求めたが、兄たちは「海水を浴び、風に当たると良い」と言ったので、兎がその通りにしたら傷が酷くなった。重い荷物袋を持ったオオクニヌシノカミは遅れて来て、傷だらけになり泣いている兎に「真水で塩水を洗い流し、ガマの穂に包まると良い」と教えたところ兎の傷は治り毛が生えた。兎はオオクニヌシノカミに「ヤガミヒメは兄たちではなく貴方を選ぶ」と言い、そのとおりオオクニヌシノカミはヤガミヒメと結婚できた。このときの兎が、「因幡の白兎」で、白兎神社の祭神となった。 この白兎神社の前には道路を挟み、美しい白い砂浜の白兎海水浴場があります。 白兎神社所在地:鳥取県鳥取市白兎603番地
道の駅・ゆうひパーク三隅、国道9号線沿いにある道の駅です。
吉浦港「ゆうひパーク三隅」の名前の通り、海岸の美しい夕日が楽しめるそうです。景色が綺麗なので、いつまでも海を見ていたくなります。 海をバックに電車が撮れたら素敵だな、と思いつつ、帰ろうと後ろを向いたら電車が通過していった。あわててカメラを向けたら右側のトンネルに消えていった。そんなものなのだ~残念。
山陰の海沿いなので、ここはウニ丼をウニウニいただきま~す。 2005年に浜田市、金城町、旭町、弥栄町、三隅町が合併したそうです。 ゆうひパーク三隅住所:島根県浜田市三隅町折居220-1
萩城は、関ヶ原の合戦に敗れた西軍総大将の毛利輝元が、防長二州・36万石の居城として、慶長九年(1604年)工を起し同13年(1608年)完工しました。萩城は標高143mの指月山の山麓に本丸が築かれたことから指月城(しづきじょう)とも呼ばれます。 萩城跡は国の史跡に指定されています。桃山初期の形式を示す白亜五層の天守閣でした。解体までの270年間、毛利氏13代に渡り萩城の象徴として威容を誇っていました。
左は萩城入り口の写真です。指月山は花崗岩で出来ていて、日本海の上に突き出すような格好の独立山です。月が似合いそうな山ですね。指月山の原生林は国の天然記念物に指定されています。萩城跡地は指月公園として整備されています。
左の画像の上部が萩城入り口で城下町が残っています。旧厚狭毛利家萩屋敷長屋があります。 右の写真は明治初期、萩の小野為八氏が撮影したそうです。 萩城は日本100名城のひとつに数えられています。 自然の形をそのまま生かしてます。萩・すえます製菓の夏みかん丸漬け【菓子】3個入り
旧厚狭毛利家萩屋敷長屋、旧厚狭毛利家(きゅうあさもうりけ)は毛利邸。 毛利元就の五男、元秋を始祖とする厚狭毛利家の屋敷。 厚狭郡厚狭(現山陽小野田市)に8370石の知行地を持っていたのでこのように呼ばれました。 安政3(1856)年に建てられたもので、主屋などは維新後に解体され長屋のみが残ります。 国の重要文化財に指定されています。
毛利元就の三矢の訓は、毛利元就の嫡子・隆元、次男・吉川元春、3男・小早川隆景の三人の息子に宛てた教訓状を元に作られた説話です。 「1本の矢なら簡単に折れるが、3本まとめて束にすれば折れない。それと同じように、3人が力を合わせれば、誰にも負けることは無い。」 と、諭したと伝承されています。 毛利輝元(1497年ー1571年)→隆元(1523年ー1563年)→輝元(1553年ー1625年) │<< 前のページへ │一覧 │ 一番上に戻る │ |
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