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おめでたいことに水を差したくもありませんが、最近多い東京スカイツリーの話題に接するたびに、「手段が目的と化す」という言葉がなぜか思い浮かびます。 スカイツリーの本来の目的は、今日ではすっかり忘れ去られているのですが、地上波デジタルを遠くまで送り届けること。もちろん、スカイツリーにはそのためのアンテナが設置されているのですが、地上波デジタルへの完全切り替えは、スカイツリーの完成するはるか以前に完了しているのですね。 つまりは、他の手段で既に目的は果たされている、と、、、 と、いうことは、この巨大な建造物は全くの無駄、ということにもなりかねないのですが、なに、目的がなくても手段を目的にすればよいのですね。少なくともこれだけのものなら、手段も十分に目的となり得ます。ま、それで採算が合えばよいのですが、、、 しかし、我が国の電波行政の非合理性が、我が国の家電業界の息の根を止める元凶ともなりえないということを考えますと、スカイツリーの喜劇的な成り行きを単に愛でてばかりもおられません。 なにぶん、今日ではあらゆる産業が国際的な競争の元にあり、最後に生き残るのは普遍的に優れた技術。その方向性を定める際には、我が国の特殊性は、可能な限り排除しなくてはなりません。と、なれば、テレビも電波に頼るのは少々問題だし、放送局を中心に据えるのも問題であるかもしれません。 まあ、我が国の電子業界も大きな流れに身をゆだねている以上、ここでなにを書いてもどうなるわけでもないのでしょうし、自己責任でもあるのでしょう。しかし、ソニーあたりはわが国の筋を多少外れた方向を検討してもよいのではなかろうか、などと、私などは思ってしまいます。 東京電力の言ったことは、恐らくは「社員全員を退避させる」ということ。で、官邸は、福島第一発電所が無人状態になると解釈したのでしょう。 でも、東京電力の原子力発電所におけるこれまでのやり方は、社員を危険な場所に置かないこと、危険な作業は下請けにやらせていたのですね。だから、社員が全員退避したところで、発電所のオペレーションは下請けがきちんとやるし、津波被害の後始末も下請けがやる。何の問題もないという認識だったのでしょう。 まあ、事ここに至っては、本当の話は東電にもし難い。危険な作業を下請けにさせるのが標準などということを天下に向かって公言するわけにもいかないのですね。 なら最初から、社員撤退などという情報を首相官邸などに伝えなければよかったと思うのですが、これは東電サイドの責任回避。おそらくは保安院あたりに社員撤退を伝え、後で問題になった際には保安院の了承も得ているということで己の責任を回避しようとしたのでしょう。 で、その情報がめぐりめぐっているうちに、東電の事情をよく知らない人々の所に言葉が独り歩きして、わけのわからないことになった、といったあたりが実情ではないか、と思いますよ。 真相を究明したいなら簡単。全員退避の形容詞が「社員を」だったかどうかを確認すればよいだけの話。おそらくは官邸も、東電も、yesというのではないでしょうか。
最近のアニメに関して、押井守氏が苦言を呈しております。 私は、これはもっともであると思うと同時に、どうでもよいことではないか、などという思いも抱いてしまいます。 つまるところ、屑アニメは見なければよいだけの話であって、そんなアニメを喜ぶ人がいたところで、それは自分とは関係のない世界の出来事だという、至極当たり前の分別をすればよいだけの話だと思うのですね。 そもそも、同監督のデビュー作に掲げられております「うる星やつら」などは、今日私が見てしまいますと少々恥ずかしい思いを抱く作品でして、「ああっ女神さま」のOVA版と同じく、男子の欲求の赴くところが白日の下にさらされているのですね。これは少々恥ずかしい。 これがまともな姿に(今にして思えば、ということなのですが)なって来たのが90年代でして、フェミニズムが興ったこともありますが、アニメ制作者の側に自らを顧みる余裕も生まれてきた、ということもあったのでしょう。 とはいえ、私も最近のアニメはあまり見ていないのも事実。確かにろくなアニメはありません。しかし、屑は見なければいいだけのことですし、アニメ制作に携わる者ならこういう時代は得難い時代。まともなアニメを作ればよいだけの話ではないか、などと私などは思ってしまうのですね。 「ないんだったら、自分で作ればいいのよ(by ハルヒ)」というお言葉を押井監督には進呈したい、などと不埒にも考えている次第です。
本日ご紹介いたしますコンテンツはB.J.ThomasのRock And Roll Lullaby、日本語に訳しますと「ロックンロール子守唄」ということになります。 “Lullaby”が“子守唄”であることが理解できればこの歌詞(日本語訳はこのあたりか)は比較的容易に理解できると思います。つまり、16歳で私を生みおとした母親が、厳しい現実の中でわたしを抱きしめて歌ってくれたのが“ロックンロール子守唄”であるという意味でして、ものがなしい内容ではあります。 BJトーマスは、ヒット曲も数多く出しているのですが、エルビス・プレスリーの陰に隠れて知名度はいま一つ。でもこの曲は、70年ごろのFENで繰り返しかかっていたのですね。 その当時、厚木基地にはベトナムで戦死した若いアメリカ兵の遺体が続々と運び込まれておりまして、そこで流れておりました曲がロックンロールララバイ。ララバイ(子守唄)というよりはレクイエム(鎮魂歌)というほうが適切であるような感じもいたしますが、この場合にはどちらも似たような意味合いではあります。 この曲にはそういう時代が分かちがたく結びついておりまして、これを聞くたびに心の奥底が小さく痛む気がいたします。
池田信夫さんのアゴラの記事はなかなか参考になるものが多いのですが、対抗文化の敗北と勝利と題する記事は少々首をかしげたくなります。 池田氏の主張したいことは、おそらく、「エコロジー運動の求めた「純粋な自然」などというロマン主義は、対抗文化の夢見たユートピアにすぎない」の一言に集約されているのでしょうが、対抗文化(カウンター・カルチャー)がすなわちエコロジーではないことは池田氏自身が書かれたとおりでして、ここでジョブズをもちだしてエコロジー運動を云々するのはお門違いであるように思われます。 カウンターカルチャーが指向したのは、反権威、反統制、反管理であって、そういう意味では自然が一つの理想的状態であることは確かです。だからカウンターカルチャーを標榜する人たちの中に自然を指向する人々がいたところで何の不思議もありません。しかし、人工物の中にも権威もあれば反権威もあるのが現実です。 コンピュータに関しては、厳格に管理されたメインフレームの時代にユーザが自由に扱えるシステム(マイコン)が登場したわけで、これは素晴らしいことと受け止められたのも当然でしょう。マイコンの初期の時代を最近の方にご理解いただくのは難しいかもしれません。このあたりを読んでいただくと雰囲気がつかめるかもしれません(Stay foolishというのはこういうことを言うのでしょう。これは決して悪口ではございません。) 重要なポイントは、ユーザが自由にいじれるということ、内部がユーザに見えている、ということです。「ソースが共にあらんことを」はgnuやlinuxを手掛ける人々の共通の願いなのですね。 人間が動物と違う点は道具を操ることだ、などと言われるのですが、猿はロープを上り、イルカはボールをはじき返し、猫はくぐり戸を開け、ラッコは石で貝を割ります。人間が動物と違うのは、道具を使うことではなく道具を作ることです。道具を扱う対象を理解し、道具の成り立ちを理解し、はじめて人は道具を作ることができます。 管理が徹底した世界で人に許されるのは道具を使うことだけであって、新しい道具を作りだしたり、これを改良したりすることは許されません。このような状況に我慢できないと感じるのは、ある意味当然であると言えるでしょう。 アップルは、営利企業ですから、コンピュータの内部情報をあまり公開してはいません。しかし、初期のアップルの内部はかなりの程度まで知られており、ハードウエアを直接操作することもある程度熟練したユーザなら容易に行うことができました。 で、APPLE IIのCPUは6502という、あまりメジャーではないチップを使用していたのですが、同じチップをなんと初代のファミコンが使用していたのですね。 と、なりますと、ファミコン開発の背景がおおよそ透けて見えるというものです。つまりAPPLE IIに嵌ったfoolishな奴がいた。で、ファミコンができた、と、そういう憶測が成り立つわけです。実際のところがどうだったかはわかりませんが、そういうことであったといたしますと、我が国が何も生み出さなかったなどということはなく、きっちりジョブズの精神を受け継いだ人たちもいたということも言えるでしょう。 実のところ、上で引用いたしましたリンクはソニーコンピュータエンタテイメントの方、つまりはプレイステーションを作っている会社の方でして、似たような人々はわが国のそこらじゅうにいるであろうこと、想像に難くはありません。 つまるところ、日本もそれほど捨てたものではない、と言えるのではないかと思いますよ。 ところで、ジョブスの“stay foolish”、良い言葉ですね。foolishなんて言いますと日本語に訳せば馬鹿、決して良い意味ではないですし、stayということはつまり現在のお前は馬鹿であるといっているわけで、こんな言葉を投げかけられたら怒り出す人がいても不思議はありません。 しかしこの文脈での“馬鹿”は決して非難されるべきような状態ではありません。ジョブスの言葉は「ディオニュソス的であれ」といっているわけであって、ニーチェが唾棄した畜群とは異なる人生を歩むことを、若い人たちに説いていたのですね。 ジョブズの人生なり思想は、このブログとも相通ずるものがあるように私には思われます。夭逝した天才のご冥福をお祈りいたします。
本日ご紹介いたしますアニメは機関車岩ちゃん。デッサンの狂ったシーンもないわけではありませんが、かなり丁寧な作りの短編で、藤島アニメファンだけではなく、銀河鉄道フリークや鉄男鉄子の方々にもお奨め、「ヨーロッパSL鉄道の旅はどうなったですだ~!!」には思わず笑ってしまいます。 ああっ、女神さまっ(Oh my godness)は藤島康介氏のライフワークともいうべき作品で、OVAや劇場版さらにはテレビアニメにもなっているのですが、遊び心たっぷりの「小っちゃいって事は便利だねっ」もなかなかご機嫌な作りになっています。 このアニメ、実はYouTubeに全作品が公開されています。右側のウィンドウが作品選択画面で、たとえば第44話を選ぶと機関車岩ちゃんが再生される仕組みです。 その他のお奨めは「17話:大雪原SOS」など。この女神さま、宙に舞うこともできるのですが、そういった理屈は一切お構いなしのこのお話、お遊びとしては非常によくできたお話であると思います。 釣りバス日誌も面白い。この題名は「釣りバカ日誌」を土台としているのですが雰囲気は「釣りキチ三平」。このブログのリンクだけからご鑑賞の方々にはOPとEDも堪能していただくのが良いかと思います。 この時代、コンピュータのアニメ制作への利用が一気に進んだのですが、この時点では「デジタルペイント」つまり領域の塗りつぶしがその主たる応用分野だったのですね。で、上のエンディング(ED)をみていただきますと、マウスはワンボタン、つまりアップルといいますかマッキントッシュなのですね。これもある時代の輝いた部分。そういった背景も、このアニメの特徴ではあります。 その他の気になるお話は、第15話「新婚さんいらっしゃい、ですだ」。なかなか刺激的な内容なのですが良い子はみてはいけません。で、ここにはリンクを張りませんでしたが上のリンクから簡単にたどれる仕組みとなっておりますので、大人の方は大いにご堪能ください。ちなみにこんなことになりましたいきさつは、その前の第14話をご参照ください。
こんなものもアップロードされていたのですね、というわけで、まずThe WhoのTommyから。30分過ぎあたりにこの曲が収録されています。 ビジュアル的にはエルトン・ジョンがよさげです。正ちゃん帽をかぶった人たちは関係者でしょうか。 で、音楽的に一番ご機嫌なのがNew Seekers。この人たちはメラニーの曲ばかりを歌っていたのですが、まさかこれもメラニーでしょうか? まさかね。 メラニーといえば、Lay Down。Beautiful People(New Seekersの方が良さげですが)をひっさげてウッドストックに乗り込みましたメラニー、このコンサートに(ステージ側から)いたく感動して作ったのがこの曲だとか。民主党関係者の方々には、一度じっくりとこの曲に浸ることをお勧めしたい曲ではあります。(ちなみに仙谷さんには紅の豚のエンディング。獄入り意味多いなどというフレーズをみんなが覚えた時代もあったのですね。) レイダウン、歌詞はこちらなのですが、この繰り返しに出てきます“ones who stand and frown”に関連いたしまして、このライブが面白い。おそらくは東ドイツ追記1でのこの公演、最後の部分でしかめつら(frown)した人をしつこく追うのですが、最後までこの人手拍子をとらない。メラニーたち、ちょっと意地になっているようなところが御愛嬌です。 結局のところ、70年代に日本の若者たちが敗北する一方で、米国の若者たちが勝利したベトナム反戦運動は、共産主義国家と同じ方向ではあったのですが、精神が全く別であったわけで、その事実を如実に物語るようなビデオクリップではあるのでした。 追記その1:ビデオクリップのタイトルが“Melanie Lay down 1970 doing her thing for enthousiastic dutch audience”となっていました。これは「メラニーのレイダウン。オランダの熱狂的(?!)聴衆を前にしての1970年の公演」といった意味で、上の理解は誤りです。でもまあ、共産主義者も似たようなものではあったのでしょう。 追記その2:同じくビデオクリップの終了画面に、最近のメラニーが歌うLay Downが出てまいります。これは見ない方が良いような、、、 追記その3:音楽の力に関してはこちらの記事もご参照ください。「ランプの光が日の光によって消されるように、文明などというものは音楽によって消されてしまう」とニーチェは語っております。ウッドストックで起こったことはまさにこの現象だったのですね。 追記その4:この敗北と勝利の明暗が、80年代、90年代に米国にIT革命が起こる一方で我が国には何も生まれないという悲惨な状況を招いた、と私は認識しております。 あ、メラニーといえばこれ(Look what they do to my song)がありましたね。 最近のネットというものはすごいものです。チューインガムの「北に消えゆく二人」も聞けるのですから。 ネットのコンテンツ、現れたり消えたりいたします。上にご紹介いたしましたリンクも、いわば生もの。ご鑑賞されるならお早めに。
ドイツ気象台が日本周辺の放射能拡散予報を発表していますが、非常に参考になります。 不思議なことは、なぜこれくらいのことが日本でできないのかということで、天気予報の最後にでもこのような情報を伝達すれば、放射能に対して国民が無用の恐怖心を抱くこともなくなるのではないでしょうか。 まあ、この手の情報は隠すべし、との縛りが政府部内にあるということなのかもしれませんが、、、
今回の原発事故をめぐって言葉の使い方に違和感を覚えることがしばしばあります。 「水を注水」したら「白い白煙」が上がったというのも変ではあるのですが、問題は「事象」です。 「事象」という言葉の意味は「出来事」とか「現象」といった意味で、放射能漏れに対してこの言葉を使うのはあまりにも無責任、万引きで捕まった人が「出来心」と言っているのと何ら変わらない印象を受けます。 地震や津波は自然現象ですから「事象」と言っても間違いではありませんし、事故が起こった後で炉の温度が上昇したり白煙が上がったりするのも出来事であると言えるでしょう。 でも、爆発してけが人が出たり放射能が漏れて大勢が避難するに至った状況下で、これを「事象」すなわち単なる現象であると東京電力の役員が語るのを聞いてしまいますと、その当事者意識のなさ、無責任さには唖然とするばかりです。 ところで、「事象」と「事故」、英語に訳しますと“incident”と“accident”ということになるのですが、この用語はIAEAによります定義がなされております。つまり、深刻度がレベル4以上でアクシデント(事故)、レベル3以下がインシデント(事象)とされております。 東電関係者は、当初この事故がレベル3以下の、大した問題ではないと言いたかったのかもしれませんが、上記発表がなされておりました当時のレベルは既に4を超えておりますこと、自他共に認めておりましたので、もしもそういう意味で使用された言葉であれば不正確極まりない言葉であったということになります。(こちらもご参照ください。)そう言いたい気持ちは分からなくもありませんが、「盗人の三分の理、以下」であったと申し上げておきましょう。
Popula(@populajp)さんから「意識を持った機械の詳細」の議論の前の気になることと題して以下のご意見を頂きました。 「意識を持った機械の詳細」文中の「意識」というものも人間の「感情表現能力」のことであれば、問題ないのですが、そうでもそうでもなさそうなので、一言すみません。 意識を「実感(あのような赤さの実感、あのような苦しさの実感、ここに居るという実感)」ということの理解であれば、本文はすこし先走りがあるように感じます。 <理由> 都合上、私の名前をPopulaとします。 (1)意識(実感)の非対称性 Populaの「意識(実感)」は、全ての他人とは異なる、Populaを唯一の特別な「自分」として存在させている属性を持っています。 (2)意識(実感)の対称性 ところが、他人にも、その「意識(実感)」がある。とすると・・・ --- (1)(2)を同時に満たす論理はありません。もし、(2)が正しいなら、Populaは、他人のことも「意識(実感)」できるはずです。他人もPopulaにとっての「自分」でなければならないのですから。 結論は ア)(2)は実は幻想である か、 イ)「意識(実感)」は相互に存在を確かめる方法がない(言い方を換えれば、個々人の「意識(実感)」は、相互に覗けない別の「世界」に棲んでいる)。 のどちらかです。 ⇒ ア)であれば、他人のことを考える範囲においては、「意識(実感)」は幻想(あるいは存在しないもの) ⇒ イ)であれば、論理的空間の外にある世界を(もちろん科学的にも)扱う方法はない。 であり、どちらにしても、論理的に(哲学でも、科学でも、物理学でも)取り扱える範囲を超えています。 この整理を先にする必要があると思うのですが、どうでしょうか? これにつきましては少々複雑な内容を含みますので、こちらに私の意見を書かせて頂きます。 まず、私の論は、「人を客体(対象)としてみた場合、そこには何ら超自然的要素はなく、全てが物理現象として説明される」という確信を前提としています。この部分に異論があっても不思議はないところですが、少なくとも現在の自然科学はこの確信に基づいている、と私は理解しています。 この前提を受け入れる限り、人の精神活動と同じ働きをする装置は人工的に作成することが、少なくとも原理的には、可能であると言えます。それが現時点で作れない理由は、人の脳の複雑さにあるのであって、同様な機能を有する装置を製作することがその規模のゆえに技術的、経済的に困難であるからに過ぎません。 では、意識なりクオリア(質感)なりはどのように説明されるかといいますと、これらは意識をもつシステム内部で生じる「状態」である、と私は考えています。つまり、「赤の質感を感じている」ということは、「特定のニューロン(群)が活性化した状態」ということに対応します。 意識もこれに類似した現象なのですが、意識は質感に比べますとかなり複雑であり、もう少し説明が必要でしょう。 人の精神活動には、意識的な活動と無意識的な活動の二種類があります。ここで、無意識的な活動とは、フロイトがいうような「無意識」とは少々異なり、半ば反射的な精神活動を意味します。 たとえば英語で語るとき、ネイティブの人間であれば、文法などを考えることなく自然に言葉が口をついて出てくるのですが、外国語として英語を学び始めた人であれば、記憶を探って適当な単語を選び出し、文法規則に合うようにこれを変形し並び順を考えたうえで言葉をつくりだすことになります。 この場合の前者が無意識的な精神活動であり、後者が意識的な精神活動である、と呼ぶことといたします。同様な二分法は、スポーツでの身体の動きや、将棋などのゲームにおける判断においても、あるいは議論における対応やさまざまな問題に対する解を見出す際などにもあてはめることができます。 無意識的な活動は、それが正しく習得されたものであれば、意識的な活動よりもはるかに効率的です。しかし、その習得には長期間の訓練が必要であり、通常は限られた分野のみに適用は限られます。 これに対して意識的な活動は、遅いし一度に複数の問題に対処することも難しいなど、無意識的な精神活動に比べて劣る面も多々あるのですが、多くの問題に応用可能で、新しい問題にも対処が可能という優れた特徴があります。特に、書物やネットなどの補助的な情報源を活用することで、その適用分野は無限に拡大することができます。 おそらくは人の脳には、多目的な精神活動を行う部分と特定の活動を行う部分があって、前者が意識的な活動に、後者が無意識的な活動に対応しているのでしょう。そして、無意識的な精神活動を行う部分は、生まれながらにしてプログラムされた部分もあるのでしょうが、意識的な活動を繰り返し行うことで新たなニューラルネットワークが形成され、無意識的な処理が新たに可能になるといったことも人の脳の内部では行われているのではなかろうか、と私は想像しています。 そして、意識的な精神活動が、文字通りの「意識」に対応していると考えれば、意識も特定のニューロン群の作用であると考えることができます。 さて、以上のことは人の精神活動を客体として考えた場合、自然科学の対象として扱った場合にいえることなのですが、ではお前の意識は何であるか、何がかようなことを考えているのか、という点が次の問題になるでしょう。つまり、脳を客体とみなし、自然科学の対象であるとすることを認めるとしても、そう考えているのは自分自身の脳の作用だというのはおかしい、というわけですね。 しかし、この二つの間には何の矛盾もありません。人の脳は客体としてみれば物理法則に従う自然現象に他ならないのですが、その自然現象の結果として私の意識が生まれ、他の人の内部にも私が意識している自らの主観と同様の精神活動が存在すると考えたところで何の問題もありません。 対象が持つ意味は唯一であるわけではなく、同じ対象に対してもさまざまな見方ができます。 私たちが漫画を読めば、そこには豊かな物語の世界を見出すことができるのですが、コミック本の物理的実体は紙の上にインクが付着しているだけの存在であり、自然科学の対象としてみればそれ以上でもそれ以下でもありません。漫画家が漫画を作る際には、紙とインクを用意し、紙の上にインクを付着させるという作業を通してはじめてそこに漫画を描き出すことができます。 もちろん、漫画家はそれ以外に漫画のストーリーや構図などの作品内容に心を砕いていることは言うまでもありません。漫画は物理的実体と作品内容の双方があってはじめて存在できます。その漫画について考察する際には、いずれの側面に注目して考えることもできますし、両側面をともに受け入れても何の矛盾も生じません。 物理的実在としての人と、その人の意識についても同じことが言えるのではないか、と私は考えている次第です。ご納得いただけますでしょうか?
最近時間が全く取れず、このブログの更新もほとんどなされていないのですが、本日は少しだけ。 まず、ブルームバーグのコラムをお読みください。海外の人が日本の現状をどのようにみているかという、一つの参考にはなるでしょう。 リンク先が消えることも考え、このコラムでのペセック氏の論説の要旨を、以下に何点か引用しておきます。赤字にした部分は、非常にみっともない話です。 ミイラにした遺体は、皮膚と重要な内臓が保全される。これは日本経済の現状にぴったり当てはまるではないか。……日本株式会社の皮膚(形)と重要な内臓(優良企業)を保全するために、日本は世界での地位を犠牲にした。 …… 問題の1つは日本の旧態依然とした起業環境。もう1つは、革新的な製品を世界の他の部分から切り離された環境で作り出す日本の「ガラパゴス症候群」だ。……キティちゃんは先週、ニューヨーク証券取引所の取引終了のベルを鳴らした。生みの親のサンリオ社の創業50周年を記念してのことだったが、30代半ばの年齢に達したキティちゃんの商品としての寿命は終わりに近づきつつあるのか、国内の売り上げは縮み始めている。世界の中で自らのイメージを変えていけない日本の象徴かもしれない。 …… 消えた高齢者問題が第二に浮き彫りにするのは、貧困層が増えているという事実。日本人は日本が平等社会だという神話にしがみついているが、……07年の時点で日本人の約6人に1人が貧困層だったというのだ。……遺体を30年間、家の中に放置するという行為は、邪悪というよりも絶望に駆られた行動に思われる。 …… 第三にあらためて示されたのは、国民の金が無駄にされているということだ。……わたしはかねて、省庁が世界中の国際会議に送り出す下級官僚の数に憤慨していた。彼らは皆、ビジネスクラスに乗り豪華ホテルに泊まる。……東京のわたしの家の前の道路は年に何回も舗装し直される。わたしが見る限り、全く不必要なことだ。いらない橋を建設する公共事業計画を白紙にしようという議論の裏で、今この瞬間にも国中で大量のセメントが工事現場に運び込まれている。 …… 支出を制限する大胆で真摯(しんし)な取り組みが必要だ。これらの課題を押し入れの中の遺体のように放置しておくことは、もう許されない。 │<< 前のページへ │一覧 │ 一番上に戻る │ |
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