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荷風○人さんの日記 [全55件]
お師匠さんの教え また、昔話、同じ話の繰り返しで申し訳ない。まだ~その3~なんです(笑) なんで今頃8年の前の話をもちだすのかね?いや、もうそろそろ時効のころだと・・・・ハハハァ・・・・そうだよね! 2001年3月1日、あいかちゃんが、あさくられみとしてKNA舞台にプロとして帰ってきた。デビュー週にかかわらず、堂々と”カリスマ性”まで感じるものでした。当時まだ二十歳。いまでもあさくらさんのステージは私にとってスタンダードです。 あさくらさんは、ダンス、ベッド全部自分で振り付けしてました。チェリーさんにもみてもらってたのかな。まだ現役女子大生だった彼女も、この12月で28歳になられたことだと思います。『とりまき隊』は、ご本人から、ミニサイン色紙貰った方々です。 ![]() 「とりまき同士仲良くしたらダメよ!!」とのことでした。 昔、オアシスにあさくらさんのポスターや写真がぺたぺた張ってありましたよね。 彼女は、天才かもしれないと、本当に感じてたし、どこをどうしたらあんなに輝けるのか。一瞬の輝きを見れただけでも自分は幸せだった。 同じ輝きは、13のあみちゃん、れいなちゃん、まきちゃん、ちあちゃん(ちえちゃん)、まなちゃん、ゆきなちゃん、りりちゃん、るいちゃんのステージでも感じます。 上記の実力のある方ならもっと複雑な振り付けも出来ると思うのですが、みなさん割とシンプルな振り付けに押さえておられるような気がします。見てて力を出し切っておられるのか、まだまだ押さえておられるのかは私にはわからない。ただ単にあきらかに手を抜かれているというのはわかる。でも見てて、振りの形が綺麗とかはわかりますよね。この前拝見したまきちゃんのように。ちょっとした脚の角度とか腕の角度とか、中々それを作って踊れる方いないように思うのですが、かなり意識して練習しないと難しい事なんじゃないかと…。まァ、プロじゃなく素人さんなんだから、細かい事よりも、自由に、のびのびと元気よく踊れればいいんじゃないかと思ったりもします。 言えるのは、お立ち台でのステップ、振りを見てて、あっ、この子は手を抜いているなとか見ていると、やっぱり素人ステージでも、見えちゃうところがありますよね。 自分には出来ない事。踊りの最中に、なつちゃんがこちらに微笑んでくれることがあるのですが、それに対しポーカーフェースでにっこり微笑み返すことができないんですね。いつも無愛想で、寡黙で、怖い顔で真剣に舞台見てるので多分みんな話しかけづらいんだろうなァと思うんだけど、これは自分の性格なんでそう簡単には直せそうにない。にっこり微笑み返すとか、ショーを見て感じた気持を素直に顔で表せればと思いますが、たぶん無理でしょう(笑)。 いつも負の部分を背負いながら、今週の仕事はダメだった、ボロボロだったとか、もう限界とかぎりぎりの状態でやっていて、いつ爆発してもおかしくない私なんですけど、そんな中、土曜日劇場に行って、今日の誰々ちゃんの踊りは素晴らしかったとか、今日はなつちゃんいい踊りしてくれたなァ、と見るにつけ、彼女が輝いていた分、自分が輝けていないことを知り、彼女の頑張りを見て、自分も頑張ろうって思えた部分がすごくあった。 KNAのももちゃんみたいに、新作を意欲的に出される踊り子さんもいて、きっと何か表現したいことや、やりたいことがあって、その踊りされているのでしょうが、自分にはなんで今回はこの踊りを選ばれたのかなぁということまでは、思いもおよばなくて、ただ真剣に見てあげて、彼女が意図するところのほんの一部でも、体の五感全体で感じてあげることができれば、思っていました。 お客さんに何かを伝えるのが踊り子さんの仕事だし、見るのはお客さんだから、その立場にいる自分達が思った事を言ってあげるのはとてもいい事だと思うし、それが踊り子さんを成長させることになるのではと思います。 でも違うんですよね。同じキャリアでも、普通の娘ではでは考え付かないだろうし、またできないだろうなって振り付けが随所に出てきて、その振り付けっていうものの、センスの良さを感じさせるものがありました。ファンから見ると、ちょっと手をさっと前に差し出すところだったり、自分の好きな振り付けっていうのがある。そういうのを生み出すことができるのは、練習よりかは、最初から持っているものなのかもしれませんね。でも、そういうセンスの良い子や純粋にショーが好き、踊るのが好きっていう子(例えば、れいなちゃん、ちえちゃん、まなちゃん・・・)は、予想通り戻ってきてくれたので嬉しかったです。 ※※※※※※※※※※ あさくらさん、2001年6月頭ホームKNAの出し物は、あの伝説の『ペッパー警部』だった。私の一番好きな出し物。1曲目『Ohh! Paradise Taste!!』(赤)、2曲目『ペッパー警部』(青)。赤から青への変身。楽しかったですよね。あいかちゃんは、お正月にも『ペッパー警部』やられていて、まあ、それまでの素人ステージでもだされていたのかもしれないけれど、デビュー以降のプロのステージでもドキドキしながら見させて頂いてました。 ※※※※※※※※※※ 今でも、あさくらさんの一つ一つのポーズ、振り付けがよみがえってくる。永遠に不滅。 ※※※※※※※※※※ 十三には、新しい子が入ってこない感じですよね。新しい子が入ってくるという意識がお姐さんたちを違う風に見せるというのがあると思います。オーナーの考えもちょっとだけお聞きしました。何人かの女の子はダンスの先生に教えてもらって練習しているみたいですが・・・、いずれにせよ、いい方向に変ってくれることは嬉しいことです。
水上勉『宇野浩二伝』上下(1979年 中央公論社 中公文庫)より。 大正12年1月、「思ひ川」の女主人公となった村上八重を知った。文学の鬼、宇野浩二の永遠の恋人、富士見町の待合「新住吉」の女将小はんこと村上八重。富士見町の芸妓・村上八重(三重次)と浩二との三十年近くにわたる関係、プラトニックな愛はモデル小説「思ひ川」に描かれる。 「これは一口にいえば三十年間の長い恋物語である。一人の作家と一人の芸妓とが偶然出会い、互に好意を持ち合い、互い互いの生活を辿りながらも、その間終始変らぬ真心を互いに通わせ合っている記録である」(広津和郎) 他に「思ひ川」「湯河原三界」「如露」「四方山」「晴れたり君よ」「千万老人」など。 富士見町の叔母は吉田といった。待合の名は「住吉」。靖国神社横の電車通りから、三味線屋「柏屋」の手前角を入ってすぐ右側にあった。八重は上京すると叔母の世話で、新橋に「小はん」と名のって出たが、半年後に身請話が出て叔母のところへ逃げ、叔母の説得で「住吉」の抱え妓になり、九段に出ることになった。当時「住吉」には十数人の抱え妓がいた。直木三十五の恋人「清」はこの一人である。叔母から八重が看板を分けてもらって独立したのは十九歳。浩二が直木三十五につれられて登場した年の二年前である。八重に看板をもたせた旦那は近江長浜の人で、八重はこの旦那を「月給さん」と呼んでいた。八重の待合は「新住吉」と名づけられ、のちに八重が開いた「三楽」に近く、「柏屋」を入った薬屋の角を曲って間もなくの狭い通りに面していた。浩二が八重を知る頃は、この「新住吉」に三人の抱え妓があった。八重は二十一歳で女将をやっていたのだから、浩二の眼に、八重が海千山千の待合女将や芸妓たちとのつきあいのできる利口者で経営の手腕もある一面、純情家でもあり、薄幸な少女時代を送ったのにもかかわらず、明朗で、無邪気なところがあったので、魅了させられたのであろう。 (震災後)八重の建てたバラックは、富士見町の元の位置であったが、震災後の復興地に見られた粗末なもので、四間しかなかった。大正十三年三月から、八重は「新住吉」と看板をあげここで開業している。 昭和6年、村上八重は、「思ひ川」に「千万」として登場する九段の茶屋「三楽」によく出かけていた。八重はその「三楽」の女将から「三楽」の権利と看板を譲り受け開業に乗り出す。
水上勉『宇野浩二伝』上下(1979年 中央公論社 中公文庫)より。 諏訪湖の東南岸(上)と北岸(下)にいで湯する温泉場。芸者に青春のあったのは何といっても大正琴の奏でられた時代だ。宇野浩二が「我が日我が夢」で切々とおもいを傾けた夢路姐さんは諏訪芸者である。(渡辺寛『夜の女性街・全国案内版』より) 湯田町花街 下諏訪駅から東北5町。温泉旅館や浴場などの軒をならべた狭い坂道で、夕方などはそこを脂粉の女が艶めきつゝ上下している、坂を上り切れば即ち諏訪明神の下社である。(中略)湯町全体が即ち花街で、芸妓は自由に旅館に出入する、故に、夜間旅館の浴室に忽然と天女が天降り、朦朧たる湯気の間に脂粉の香を漂はせて、不案内の旅客をおどろかせることが此では往々ある。温泉(いでゆ)と炬燵に依って醸さるゝ濃厚な情調、上諏訪とさして異るところはあるまいと思はれるが、詳しいことは宇野浩二氏へ問い合されたし。(松川二郎『全国花街めぐり』) 宇野浩二は、大正8年9月、下諏訪の「かめや」に滞在中、芸者鮎子(作品では「ゆめ子」)こと原とみを知った。その芸者ゆめ子に惚れ込み、「ゆめ子もの」といわれる「人心」「甘き世の話」「夏の夜の夢」「一踊り」「心中」「山恋ひ」などの作品を発表し始める。 この旅館(「かめや」)は、下諏訪の町なかにある諏訪大社の門前から、西へ約半町ばかり歩いた北側にあった。当時のままとはいえないが、今日、大半の面影の残っている温泉宿である。もっとも、温泉宿といっても、湖畔の宿と比べてこのあたり街道筋になっているので、たたずまいはちょっと変っている。古風な格子をめぐらせた表造りと、雪のために軒庇を長くせり出した暗い二階。窓も障子なら階下玄関も障子という、いたって地味で、また、どの二階にも、申し合せたようにタオル掛けの手摺がのびている。そんな二階屋が両側から櫛比する狭い町だ。「かめや」は、あたりで一、二を争う格式があった。 鮎子の家は、「かめや」からほど近い湯田坂町で、坂の途中にある「梅の家」といった。温泉町の芸者屋にしては古風な建物で、坂通りに門口の広い二階屋を張っていたが、その二階は庇が長く、陽のささない低い窓で、やはり手摺と障子戸があった。内部は暗かったが二階は広く、鮎子の叔母である女将が抱え妓三人に芸事を教えていた。 原とみは一時東京の東片町に住んでいたが、ふたたび諏訪へ戻って、以前は「鮎子」といった源氏名を「夢二」と改名して芸妓に出ていた。これは、浩二の作品「ゆめ子」の「夢」と浩二の「二」をとったものである。 芸者ゆめ子--鮎子は浩二にとって、まったく夢の女性であったようだ。 昭和四十五年八月某日、水上勉、二度目の諏訪ゆきのこと。私はとみさんの案内で「かめや」や「梅の家」のある下諏訪を訪れ、下諏訪の大社から湯田坂の芸妓町を歩いてみたが、そこにはまだ戦前の古い建物が荒廃したまま残っていた。「梅の家」も、虫喰いの手摺や障子戸がそのままあった。もっとも持主は変って芸妓屋ではなくなっていたが、坂の町はほとんど変っていないために、ふと眼をつぶると、着流し姿の長身の芥川龍之介、宇野浩二のご両人が、風を切って坂を降りてくる錯覚をおぼえた。湯田坂から来迎寺の墓地へ行き、「梅の家」の女将の墓に詣った帰りに、私は、かつて宇野先生が「ゆめ子」「小竹」「くれ葉」「喜扇」をつれて散歩された山や、町のあらゆる路地をくまなく廻った。町はありふれた山に囲まれた温泉町にすぎない。歩いていて感じたことは、どうしてこのような、とりたてて名所のあるとも風光の絶佳ともいえ湯の町に、先生が三十歳の独身を遊ばせたかということだった。
水上勉『宇野浩二伝』上下(1979年 中央公論社 中公文庫)より。 宇野浩二の「軍港行進曲」に戦前の色里くわし。(渡辺寛『よるの女性街・全国案内版』より) 「軍港行進曲」は、大正5年8月ごろ、横須賀の芸者屋に身をうった伊沢きみ子に、宇野が人目をしのんで横須賀まで会いにいく話である。 「浩二の貧乏をみるにみかねたきみ子が、自分から芸者になると言いだしたので、浩二はつとめている蜻蛉館の主人加藤好造の行きつけの待合の世話で桂庵の吉田を知り、その仲介でこの町の芸妓家へきみ子を売るわけである。(中略)きみ子のつとめた置屋は「富の家」で、経営者は大田原富松という。坂の町にあった。そこへ行く途中の横須賀の町は、水兵であふれていた。」(水上勉『宇野浩二伝』) 浩二は「房州屋」という宿屋に休憩し、そこから使いを出してきみ子を呼び出すようになる。 秋の一日、とうとう大田原富松の家「富の家」を駆落ちしてしまうのである。 昭和23年3月、水上勉は宇野浩二のお供をして横須賀の町を訪ねる。 横須賀は、占領軍海兵の根拠地であったから、駅を降りると白黒の水兵でいっぱいだった。私たちは、街娼や靴磨きの少年がチューイングガムを噛みながら屯ろしているのを眺めながら、駅前から、いまは星条旗の翻える楠ケ浦の基地と、同じく米国のマークのついた軍艦が停泊している岸壁を左に見て、一方は坂になった狭い町筋を、南に向って歩いた。私は先生に、「房州屋」がどこにあったか「富の家」がどのあたりだったか、それから「橋立」がどのあたりに停泊していたかなどを訊いた。先生はいちいち説明してくださった。驚くほど記憶は確かだった。考えてから返事なさるということはなく、すぐ、そこはどこどこですといって、高みへ来ると立ち止り、「房州屋」のあった日の出町のあたりを指さされる。日の出町は、官公庁街の建物がまだ迷彩を残して高くそびえていた。やがて繁華街の丁字路にあるコーヒー店で休憩してから、むかしの花街であった方角へ向った。そこはいまの若松町のあたりであった。丁字路の南へ下る道が急に狭く登り坂になっていて、すぐ国鉄のガードがあり、そこをくぐると次第に道が急になっていた。間もなく右手へ入る細い小路があった。両側に二階屋が並んでいる。先生はゆっくり家並みを見ながら歩かれた。古い建物ばかりだ。どれも二階屋で、むかしは商店だったと思える家もあるが、戦後は商う品物もないところから、みなしもた屋となって戸が閉っている。どの戸もガラスがなく、板が打ちつけてあったりした。二階を仰ぐと、階下の貧しさとは表裏をなした華やかなピンクのカーテンなどが、開けた窓に揺れていた。貸間とみえる。ぎっしりと干し物が窓や軒の竿につるされ、それらがみな若い女性の肌着や靴下であることがわかった。たしかにこの一角はまだ占領軍の海兵が来ない以前、つまり日本海軍が旺盛であった頃、「橋立」や「金剛」やその他の艦員や水兵が遊興にきた花街であることがわかった。敗戦後は、街娼や町の女たちの宿泊所になった。私は一種の嗅覚から、この町が一流の町でなく、二流か三流の花街だということを感じた。先生は、とある二階屋の前で足を止めると、 「ここです、ここです」 といいながら、その家が表通りと裏通りの間に一戸建てになっているために、裏側にも入口がある特徴のある構えであるのをしげしげと眺められた。隣家を三軒ほど迂回し、さらに裏へまわってまで、その一軒のしもた屋を、まるで憑かれたように調べられた。通る人もまばらだったが、主婦らしい二、三人がかたまって私たちを不審そうに見ていた。 「富の家ですね」 「そうです、富の家です」 「大田原富松の家ですね」 「そうです」 先生は、そこにむかしながらの建物が、トンネルが近いせいかいやに煤煙にまみれ、家並みに紛れ込むほどに古ぼけて残っているのを懐しげに眺められた。黒のインバネスに、光った大島の細かい柄の袷に羽織姿、例の中の高く盛りあがったグレーの春ソフトを深くかぶっておられた先生は五十六歳だった。口さきをちょっととがらせ、猫背をまるめて、じっと坂道にたたずんでみつめておられた眼を、私は横から凝視していた。あの三月の真昼の一瞬を、今日も忘れていない。 二十六歳の夢の跡だ。きみ子は横浜で死んだ。本郷三丁目で買った黒と緑色の飾りのある白地の洋傘をくるくるまわして、売られてきた家がここにある。桂庵の吉田と大田原と三人で、先生は検番へ出頭してもいる。それもこの近くだったろうか。もちろん経営者の大田原や、当時働いていた勝栗や、その他の芸者連中も、戦後その日までそこに住んでいようはずもない。だがむかしどおりの古ぼけたたたずまいで、「家」だけがそこに残っていようとは、先生流にいえば、移り変る世とはいえ、これはまさしくむかしの帝国海軍の夢の跡ではないか--。(水上勉『宇野浩二伝』)
水上勉『宇野浩二伝』上下(1979年 中央公論社 中公文庫)より。 「この頃、白首と称される私娼が跋扈し始め、大正4年(1915)年には東京の92ケ所に約2000名の私娼がいて風紀を乱していた。特に蛎殻町辺りに出没するポチと呼ばれていた最下級の私娼と組んで営業していた芸妓置屋や待合」が多く存在していた。「大正芸妓とは芸に精進しない「転び芸妓」のことで、枕を専門に座敷に出る芸者のことをいい、時代の風潮を反映した。」(上村敏彦『東京 花街・粋な街』より) 「浜町を抜けて明治座前の竃河岸を渡れば、芳町組合の芸者家の間に打交じりて私娼の置屋また夥しくありたり。浜町の女と区別してこれを蛎殻町といへり。」(永井荷風『桑中喜語』) 宇野浩二は、大正5年の春、場末の私娼街蛎殻町の銘酒屋で伊沢きみ子と馴染むようになった。きみ子は「苦の世界」のモデルとなる。 「この当時の蛎殻町の遊興街は東京では三流以下であった。水天宮近くにあったこの花街は、広津氏には勤め先の近くだったので馴染みだったかもしれぬが、浩二が本郷から通うとなるとかなり遠く、市電を乗り換えて行かねばならない。正宗白鳥氏や近松秋江氏の小説に出てくるように、文士たちがよく遊んだ町である。現今の水天宮電停の角から蛎殻町寄りに少し歩いて新川の方へ折れた一角が、その街筋である。戦火を逃れたとはいうものの、いまは、このあたりむかしの面影はないが、それでも櫛比(しつび)した古家のなかに、むかしはそのような妓のいた家でもあろうかと思われもする古い二階屋があって、どこかに下町情緒が感じられる町だが、大正時代でもいわば新橋、柳橋のような一流の芸妓はいなかった。芸妓のいる館(やかた)はあるが待合風の家で、妓とは名だけの、躯をひさぐ女もいて、玉の井、洲崎といった純然たる遊廓とも違った三業地風の一角である。この花街の灯が消えるのは、昭和十五、六年であったろうか。浩二が二十五歳の大正五年は、まだこの一帯は紅燈が並んでいて、田舎からぽっと出たての十七、八の娘がいたり、東京生れの家出娘が女中見習していたりした。金のない職人、丁稚や、景気のよくなかった文士、記者などの恰好の遊び場所であったとみていい。」(水上勉『宇野浩二伝』) 伊沢きみ子は、横須賀で芸妓に出ていたが、斡旋屋を通して蛎殻町へ夜逃げ同然で鞍替えしてきた。きみ子と西片町の家で同棲、母と三人で暮した。きみ子は、横須賀で再び芸妓に出るが前借踏み倒しで夜逃げを決行。追ってを逃れる必要があって、中渋谷の竹屋の6畳貸間に移った。大正6年、中渋谷の竹屋から上渋屋の引越す。しかし生活苦からきみ子を横浜につとめさせることにする。年末、伊沢きみ子別れる。 「これから二年、否、今となったらもう一年でいい、一年辛抱してくれたら、お兄ちゃんは屹度一人前の小説家になって見せるから。」 「あたし、もう一度芸者に出ようか知らと思ふの、元の土地は厭だけど・・・・・・」と彼女はいつた。「そしたら、お兄ちゃんに月月お金を送つたげるわ。その代り今度はお兄ちゃんも辛抱して会はないでね、月に一度位にして。そしていい小説を書いてね。カフエエの女給もいいけど、君子はもう着物がなくなたもの、それに収入も少ないし。・・・・・」「お兄ちゃんが、一生懸命小説を書いて、有名になったら迎えに来てね」「一年後には必ず『中央公論』や『太陽』に小説を発表する作家になってみせる、それまでは辛抱して働いていてくれ・・・・・・かならず迎えにゆくから」と指切りをして別れていった。 「お兄ちゃんが一生懸命小説を書いて、有名になったら迎えに来てね」と言い残して身売りをしていった哀れな伊沢きみ子は、大正8年12月(?)横浜で西洋人の家の小間使をしていた時、殺鼠用の猫イラズの入った団子を食べたのが因で死んだ。 彼女と別れてから2年、宇野の小説がだんだんと売れ出し、一躍して中々引手数多の小説家となった。自殺したきみ子が「お兄ちゃん」の輝かしい文壇進出を知っていたかどうか。(水上勉『宇野浩二伝』)
広津和郎『続年月のあしあと』より 私を入れて四人を乗せたシボレーは、兎に角横浜あたりまで行って見ようというので、先ず品川から京浜道路に出た。自動車の往来の少ない時代であった。前に若い男女を乗せた車が走って行くが、どうやらそれは銀座あたりの女と客とらしい。期せずしてその後を尾けて行くような恰好になったが、向うでも尾けられているものと思ったらしく、多分大森あたりの待合にでも行くつもりだったらしいのに、そのまま大森を通過して、非常な速力で走って行く。 (中略) 横浜に行くと、誰もちゃぶ屋を知らないというので、先ずそこを見物しようと、本牧のそういう店の一つに寄ってビールを一本飲み、そこから東京へ引っ返すつもりであった。 |一覧| |
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