真理は言葉では表現できない
ピラド(ローマからの使者)は、イエス・キロストに尋ねた。「お前は神の子か?」イエスは答えた。「その通り!」再びピラドはイエスに尋ねた。「真理とは何だ?」すると、イエスは黙り込んでしまった。 この場面は、イエスが本物の聖人であったことを証明しています。今までピラドの質問に答えていたイエスが、「真理とは何か?」と尋ねられた途端に、沈黙してしまいました。もし、イエスが答えていたら、イエスは真理を体得していなかったことになります。なぜなら、真理は言葉では表現できないからです。しかし、イエスは答えませんでした。言葉では表現できないから答えなかったのです。その証拠に、答えられる質問には答えています。よく、これこそが絶対真理だ、という人がいます。が、「これが真理だ」というのは間違いです。どんな説明も真理全体を指してはいないのです。あくまでも、真理の一面的説明にすぎない。例えば、コップを言葉で説明してみましょう。「円い形をしている」「長方形である」「ガラスである」この3つの全く違う説明は、実はどちらも正しいのです。真上からの角度で説明すると円形であり、真横からの角度で説明すると長方形であり、本質という角度から説明するとガラスなのです。つまり、説明をするときは、どこかの角度から説明しないと出来ないのです。真理の説明も、必ずどこかの角度から説明しているのであって、全体を指すものではないのです。あくまでも一面的な説明なのです。未だに結論がつかい論争の1つに、「運命は変えられる」、「運命は決まっている」という正反対の主張があります。実は、「運命は変えられる」、「運命は決まっている」という正反対の説明は、どちらも正しいのです。角度の違いなのです。どの角度で説明するかによって、まるで違う説明になるのです。イエスは、そのことを知っていたので、「真理とは何か?」と尋ねられても答えなかったのです。「お前は神の子か?」という質問には答えました。なぜなら、すべての生きとし生けるものは神の子だからです。イエスだけが神の子という意味で答えたのではないのです。中村天風先生の話を聞けば気づくと思いますが、天風先生は「これが真理である」とよく言っています。が、天風先生の「これが真理である」というものが、たくさんあるのに気づくはずだです。やたらと、「これが真理」と言っています。決して、1つを指して、「これが真理である」とは言っていません。なぜなら、どの説明も、どこかの角度から説明したもので、一面的な真理だからです。だから、聖人の話には矛盾を感じる話が多いのです。が、どれも正しいことを知ってください。そうすれば、混乱することはなくなります。ヘーゲル弁証法の大家、許萬元先生は、「言葉による真理の説明は、全て一面的な事実であって、絶対的なものではない」といっています。自分の信じているもの以外は、間違っていると思い込んでいる人は真理をわかっていない人なのです。