秦氏はヤマトウからきた日本渡来の第一号、公式記録は、応神天皇の283年弓月君が連れてきた127県の18,760人の人たち、彼らが秦氏である。 第一号かもしれないが、これは公式記録であり、その前にもその後にも 続々渡来していたことは、確実。 学者の皆さんは、秦氏は朝鮮、中国から来たとおっしゃる。 そしたら彼らがもたらした風習、習慣、宗教の影響を考えると中国と朝鮮に その根源がなくてはならないはずだ。もちろんことばにも。 そのことをなぜもっとまじめに取り扱わないのか、勉強不足ではないはずだが 何かもっと他に原因があるのかもしれない。先輩の教授に認めてもらえない 学説は自分も教授になれないからとか。そんなこと考えたくないが・・・・。 カザフ共和国東南部、キルギス共和国、天山山脈の北麓の地を昔は クルジアといい「弓月城」とも呼ばれていた。 この弓月(クンユエ)が秦氏のふるさとである。 この地に「ヤマトウ」と言う地名がある。この地は現在地図にはない。 この地を「ニューヨーク・タイムズ社発行の70年前の地図帳をみて その位置を確認した」と私の友人のヴアンミーター・美子氏が 彼女の「幻の橋」(レムナント出版)の中で述べている。 「ヤマトウ」はへブル語でもアラム語でも「神の民」という意味なのだ。 (ヘブル語は旧約聖書が書かれた言語、アラム語はイエスの語られていたことば) 秦氏が最初に神社を建てた伊勢神宮の元伊勢が奈良の天孫降臨の地で、 その地を日本人は「ヤマト」と呼んでいるのは、周知の事実だ。 それだけでなく、日本全体をヤマトと呼ぶようになった由来は、 この秦氏の故郷の名前ではないか、これは十分根拠のあるお話であると 私は考えている。 ちなみに伊勢神宮は今の三重県に落ち着くまで26回も遷宮を繰り返して いるが、初代伊勢神宮は秦氏の建立した笠縫村(奈良・当時ヤマト)であり そこから、京都の天橋立にある籠神社に移動する。 もっとも歴史ある神社であり、その神社の隣にアマテラス大神の食事を つかさどるマナイ神社があるのはその名前と聖書に書かれている民族 イスラエルの民が荒野で食した食べものをマナというのは、ヤマト民族の 出自を考えるに避けて通れないように思えてならない。 |