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ゴジラが北京に来る夜に [全24件]
北京のブロガーが集まるブロガー会を私が幹事でやることになった。 みなさんよろしくお願いします。 Be−Bloggers12.0の開催のお知らせ 北京は11月にはいり、秋も深まってきました。みなさんいかがお過ごしでしょうか。 このたび11月21日(土曜日)正午よりBe−Bloggers12.0 を開催することになりました。 時間:11月21日(土曜日)集合時間、午前11時45分、開始12:00終了予定14:00 場所:和飲輪飲(朝陽区大望路SOHO現代城A座35階3512) 地下鉄一号線大望路駅降りてすぐ、一階エントランスで警備員に「3512」とお伝えください。 電話:010−8589−4383 会費:コース料理、フリードリンクで大人50元・子供30元 今回は、幹事をゴジラと北京のかかわりを研究するゴジラ@北京がつとめますので、なにとぞよろしくお願いいたします。 今回は、幹事にちなんで15分ほどのゴジラクイズが、用意されています。 (賞品を提供できる方はご協力ください)ふるってご参加いただければ幸いです。 【申込み先】11月17日までにbeblogbj@gmail.comへメールにてエントリーお願いします。 当日参加者一覧を配布する都合、申込みの際、以下について記載をお願いいたします。 ・ブログの場合→ハンドルネーム、ブログ名、ブログのURL。 ・mixiの場合→ハンドルネーム。 そして一、二行程度の自己紹介。 また、ご自分の著作、芸術作品等がある方は是非お持ちください。 みなさんの前で展示&紹介させていただきます。
<訃報>中国の宇宙開発の父・銭学森氏が死去、享年97歳―北京市 http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1007116&media_id=31 2009年10月31日午前11時(日本時間正午)、「中国宇宙開発の父」「ロケット王」と呼ばれた中国の物理学者、銭学森(チエン・シュエセン)氏が北京で病気のため死去した。97歳だった。中国新聞社が伝えた。 銭氏は1911年生まれ、浙江省杭州市出身。上海交通大学を卒業後、1935年から1939年まで米マサチューセッツ工科大学で航空工学を学び、1936年から1939年まではカリフォルニア工科大学に学び博士号を取得。1955年に帰国後、中国のロケット工学の発展に尽力した。 生涯、数多くの賞を受賞し、1957年には中国科学院自然科学1等賞、1979年には米カリフォルニア工科大学優秀校友賞を受賞。2006年には中国宇宙事業50年最高栄誉賞が授与され、建国60周年の今年8月6日には温家宝首相の訪問を受けた。(翻訳・編集/本郷) (以上引用) ついに銭学森氏がなくなった。 高齢なのでいつかこの日が来るとはおもっていたが、、、。 それにしても長命であった。 50年代アメリカから中国に帰国しようとしたとき銭学森氏はアメリカ政府から軟禁されて帰国できなこともあった。 冷戦体制のもたらした出来事である。 70年代に日本では中岡哲郎、山田慶児氏らによって著者が訳されたり研究もある程度でていたが、その後、続く人がいない。 実は、銭学森氏の書簡集もすでに中国では出版されていてかなり研究はしやすくなっている。
もう二週間以上前になるが、「南京!南京!」の陸川監督らが北京大学でトーク番組の収録を行った。 この収録のあとコメンテータの一人だった人と夕食を食べに行った。 そのとき思いがけなく上原淳道という名前に遭遇した。 一緒に食事した人は、なんでも1966年に東大で中国語を専攻していた人でその当時、中国語を専攻していたら就職の責任は持てないといわれたという。 その人が、上原淳道氏とかかわりがあって「読書雑記」というものをおくってもらっていたというのだ。 そこで印象深かったのが、貝塚茂樹氏など学会の重鎮がすごく批判されていたのだということだ。60年代はまだそういうことがそれほど違和感なくやれた時代だったようだが、だんだん70年代、80年代と進むにしたがって学会の重鎮に疎まれ、上原氏は時代の主流からはずれていくことになったという。 実は私は、南アフリカの反アパルトヘイト運動をやっている先生の研究室に出入りしていたことがあるが、そこではじめて上原淳道氏の名前は知った。 父親が一橋大学の学長をやったことがある上原専禄氏だというのもそのときしったように思う。上原淳道氏の専門は古代中国史だが、生前には一冊の本も刊行していない。だが90年代の死の直前まで商業ベースにのらない読書雑記を続けていたようだ。世の中売れればいい本という風潮がこれほど蔓延している時代にこんな人もいたんだなと改めて思った。 「読書雑記」はぜひ入手して読んでみたいが、ちょっと入手方法がわからない。 以下は、上原氏のゼミに出ていたことがあるらしい人の文章。 ネットでみかけたので引用する。 「読まないことを薦める本 上原淳道 「読書雑記」 郵便小包で分厚く重たい本が届いた。「上原淳道 読書雑記」( うえはらただみちと読む)とある。出版社も値段もない。あとがき には、「上原淳道 読書雑記、発行日 2001年11月27日、著者 上原淳道、発行者 上原勝子(とご自宅住所)」だけが記している 。この本は、どこにも売っていないので買うことができない。読書 案内するだけ無駄なのだが、それでも書かずにおられない、私の心 に染み入る本である。 目次はいたってシンプルで、 読書雑記 1期1号(1963年9月3日) 〜 100号(1967年4月21日) 2期1号(1967年6月12日) 〜 50号(1971年8月20日) 3期1号(1971年10月2日) 〜 50号(1976年3月14日) 4期1号(1976年5月21日) 〜 50号(1981年1月13日) 5期1号(1981年3月12日) 〜 10号(1982年2月26日) 6期1号(1982年5月22日) 〜 90号(1990年8月19日) 7期1号(1990年9月7日) 〜 50号(1995年5月7日) 8期1号(1995年6月12日) 〜 41号(1999年9月22日) (通号441号) とだけなっている。 「あとがき」に、奥様の言葉がある。 「本書は、夫・上原淳道の個人通信『読書雑記』の全号を、縮小し て複製し一冊にまとめたものです。 上原は、生前つぎのように書いています。 『読書雑記』という個人通信(「個人新聞」とか「個人雑誌」とか よぶ人もある)を出しはじめてから12年以上(あしかけ14年) になる。創刊は1963年9月3日。1967年4月21日に第100号を出したが 、ここまでが第1期である。第2期は、第1号が1967年6月12日、 第50号が1971年8月20日。第3期は、第1号が1971年10月6日、 第50号が1976年3月14日。通算すれば第200号を出したことになる。 「不定期刊」のつもりだが、最初の1年間は平均して月に3回、 最近はほぼ月に1回である。体裁は、わら半紙1枚、謄写版(ガリ 版)ずり、横書き。左半分に標題一行と本文20行、右半分に本文 21行。本文1行は30字だから、1号分の本文は1230字( 400字づめ3枚強)となる。毎号、数項目から成るが、どの項も 原則としてピタリを行の終りで終るように(つまり、30字の倍数 になるように)字数を工夫している。 発行部数は、誰にも言わない。個々の配布さきも、その人が死亡 しないかぎり(つまり、生きている間は)、原則として明らかにし ない。配布の方法は原則として郵送。私が送ろうと思う人に一方的 に送るだけである。たまに「購読」を申し込む人がいるが、売りも のではないのだから、購読はできない。 原稿書き、原紙切りから、あて名書き、切手貼りまで、すべて 独力でやる個人通信を12年以上も続けているのは、大げさに言え ば、私なりの闘争であるが、闘争というよりは宗教的な「苦行」に 似ている。世の中にはいろいろな団体があり、出版物があるけれど も、どの団体もどの出版物も取上げようとしない問題で、しかも私 にとってはきわめて重要であるような問題も存在するのである。私 の『読書雑記』をミニコミと言う人もあるが、私としては、ミニコ ミではなく、さりとてむろんマスコミではなく、「ナグリコミ」だ と思っている。 (雑誌「文藝春秋」昭和51年7月号・巻頭随想「個人通信14年 」より抜粋) これは、通算200号を出し終えた時点で書かれたものですが、 結局『読書雑記』の発行は上原の死去によって終刊となるまで36 年間つづけられました。最終号は、1999年9月22日付けの 第8期41号でした。通算すれば441号までとなります。この間 、体裁は全く変わっていませんが、印刷はある時期から複写機によ る印刷(コピー)に変わっています。謄写版刷りの時期のものは、 インクの濃淡や文字の不鮮明な個所がありますが、本書は複製版で すから、それもそのままにせざるをえませんでした。 * 『読書雑記』の発行は、「私なりの闘争である」と上原は言って いますが、世間の評価はともかく、本人にとっては、特別な意味を もつ大事な仕事だったと思います。それだけに私としては、この仕 事をきちんとした形で遺しておきたい、また、そうすることが遺さ れた家族の務めでもあると思っていました。 このたび、上原の没後二年を機会に、本書の刊行によって、遅れ ばせながらこの宿願を果たすことができ、肩の荷が降りた思いがし ています。 本書が、故人を偲んでいただくよすがになれば幸いです。(以下略)」 ***** ***** ***** 実は私は1978年度の上原ゼミの学生だった。大学に入学した ての教養学部1年生のときに、「南方アフリカの現状について」と いう全学一般ゼミナール(教養学部の学生ならば誰でも参加できる )に参加したのだった。上原先生がどのような先生かも知らずに、 テーマに惹かれて申し込んだのだった。 これは地味なゼミ(土曜日の午後に図書館の中のゼミ室で開かれ ていた)だった。ゼミでは、国連の反アパルトヘイト特別委員会が 作成した南アフリカの黒人が置かれた状況についての報告書を読ん でいた。 コンパの一回も開かれることもなく、ゼミ生の名簿が作られたわ けでもなかった。それでも当時のゼミの仲間のうち3人とは今も親 交がある。そのうち2人は、いっしょに「グループアフリカと日本 」(のちに「アジアアフリカに学ぶ会」と改称)というクラブを作 って、学園祭の催しや文集つくりなどいっしょにした。 大学を卒業して商社に入社して、2,3年したとき、私の参加し ていた市民運動団体が、南アフリカから亡命してタンザニアに住ん でいる子供たちのための募金をした。そのときに、上原先生にもお 願いしたところ、東横線の学芸大学にある仕事場に招いてくださり 、匿名を条件に1万円のカンパを下さった。それが印象に残った。 実は学生時代に、2,3回『読書雑記』を送っていただいたのだ が、どうお返事していいのかわからなかった。お礼の葉書1枚、 当時の礼儀知らずな私は出せなかった。中国古代史のことが中心だ った『雑記』の内容にピンとくるものがなかったこともある。それ で先生は私への『雑記』を送付停止扱いにされたようだ。この卒業 後の出会いから後『読書雑記』を最後まで送り続けていただいた。 先生が一昨年の11月にお亡くなりになったことは、昨年の年賀 状のお返事として奥様に知らせていただいた。一昨年送っていただ いた『読書雑記』を読みながら、そろそろ『雑記』も終るのではな いかと漠然と感じていたので、奥様名義のお手紙をいただいたとき に、来るべきものが来たという直感があった。一昨年、先生の死を 予感したその時に、お目にかかってお礼を申し上げなければならな かったと後悔した。 昨年4月に有志の呼びかけで「上原淳道を偲ぶ会」が開かれた。 死んだときに初めて「公開」される読者が一同に会した。みんなの 話題は、当然先生の一本筋の通った気品のある生き方と『読書雑記 』についてだった。その時に、私は『読書雑記』のバックナンバー が読みたいと痛切に思った。その願いが、このたびかなえられた。 こうして、この連休に441枚の手書きの個人通信を読んでいる 。手書き原稿は暖かく、読んでいて疲れを感じない。原稿用紙にす れば1300枚以上になるので、結構読みでがあるが、1号1号読 んでいくのがとてつもなく楽しい。 上原先生は、東大闘争のときの、教養学部の第六委員長(学生担 当)であられた。雑記2期18号(1969,3,3)によれば「私は昨年4 月1日、東大教養学部の第6委員(学生の自治活動に関する問題を 担当する委員)に就任、9月30日までは全学の学生委員を兼ねて いました。10月1日、第6委員長に就任、任期は本年3月31日 までの予定でしたが、任期が短縮され、2月3日、委員長(ならび に委員)を解任されました。」という記述がある。 その背景でどのようなやりとりが行われたのか。実に興味深い。 けっして権力や時流におもねらず、思想のもっとも深いところで正 しい判断をされる先生が「解任」されたというところに、東大闘争 の終り方のいびつさ、いやらしさを感じるが、そこで何が議論され 何が決定されたのかを先生はけっして暴露されないので、読者は 推測するのみだ。 こういった深読みが必要な記述はそこらじゅうにある。日本の平 和運動や中国との国交回復裏話、歴史学会の実情(とくに貝塚茂樹 氏のドン体質と、それを容認する岩波書店ほかの出版業界の体質) については、私は門外漢であるが、多少だが実情を飲み込めてきた。 中国古代史がご専門であられたこともあって、論語や韓非子に関 するさりげない記述や論文が紹介されているのを見つけるのも楽し い。先生の生き方は、まさに論語を地でいくようなものであるが、 実際に先生が論語や韓非に思い入れがあったことを発見したのは、 うれしいかぎりである。 これは些細な事であるし、私が先生の影響をいつしか受けて勝手 に先生の真似をしているだけなのかもしれないが、私が東京の留守 宅で購読している新聞(毎日新聞)も、きらいな新聞社や出版社も 、ある本についての書評も(石田保昭「インドで暮らす」に蝋山芳 郎が書いた失礼きわまりない序文への嫌悪)、人からの後ろ指の指 され方(「人格的に問題がある」)までも似通っていて、先生との 不思議なご縁をあらためて感じている。先生の反骨精神や勉強熱な どはまだまだ私の及ばないところで、深く恥じ入り、これから少し でも改めなければと思った。
CCTVニュース 「ただいまオリンピック開幕式直前ですが、臨時ニュースを申し上げます。 突発性大怪獣ゴジラ15号が、天津から上陸し、徒歩でおよそ時速50キロのスピードで北京にむかっております。周辺にお住まいの方は、戸締りなどに十分、気をつけてゴジラに警戒を怠らないようにしてください。繰り返します。突発性大怪獣ゴジラ15号が、天津から上陸し、徒歩でおよそ時速50キロのスピードで北京にむかっております。」 中国人民@北京「突発性大怪獣ゴジラ15号ってなんだ。そんなの聞いてないぞ。でも中国人民解放軍がやっつけてくれるからだいじょうぶだよ。」 中国共産党首脳部「なに!突発性大怪獣ゴジラ15号だと。ウイグルの組織が送り込んできた新たな新兵器なのか。それとも日本帝国主義のあらたな侵略なのか。どちらにしてもオリンピックの開催を邪魔するものは中国の総力をあげて撃滅する。なにせ中国は、原爆も水爆も開発に成功している。いざとなればその使用も辞さないつもりだ。」 山根博士(志村喬)「私は日本からゴジラのことを聞きつけて北京にやってきた山根博士です。 昔は、北京大学の教授をやっていたこともある古生物学者です。だから中国語はわかります。 あなたたちはゴジラ撃滅のために原水爆を使うことを考えておられるようですが、それはやめたほうがいいです。ゴジラはもともとアメリカによるビキニ環礁における水爆実験で誕生した怪獣です。水爆に被爆しても死ななかった怪獣です。そのゴジラをどうして原水爆で葬り去ることができましょうか。 それより、まずはあのゴジラの不思議な生命力を研究することが先決です。それからゴジラに光をあててはいけません。ゴジラは光をあてるとますます怒るばかりです。」 尾形(宝田明)「先生、私は父親が満鉄の技術者をしていて昔はハルピンにいたことがあります。 私はハルピンからの引き揚げ組みです。だから中国語が話せます。だから先生の中国語を聞き取ることができました。 先生、しかしあの怪物をそのままほうっていくわけにはいかんでしょう。中国政府はウプノールで核実験を繰り返しているとはいえ、このオリンピック開幕時にあらわれたゴジラは中国人民に覆いかぶさっている原水爆そのものではありませんか。」 山根博士(志村喬)「尾形君、君までがゴジラを抹殺しようというのか。帰ってくれたまえ、日本に帰ってくれたまえ」 CCTV「ゴジラがやってきました。北京の東側からやってきました。」 悲痛な中国人民の声とともに中国人民解放軍の砲撃の音がまじりはじめる。 CCTV「砲列が一斉に火を噴き始めました。中国人民解放軍がゴジラを鉄条網区へ追い込まんと猛烈な砲撃を開始しました。」 声はとぎれ爆撃の音だけは続いていたがまた CCTV「爆撃機群も必死の攻撃を加えています。しかしゴジラは平然とすすんでいます。あ、鉄条網にかかりました。五万ボルトの電流が、、あ、激しいスパークが、、、。ゴジラを、あ、ちがう。ゴジラは平然と鉄条網をはらいのけました。五万ボルトの電流もついに効力を発揮しません。」 現場をにらんで中継していた放送局の車は後退した。 CCTV「お聞きになったでしょうか。ゴジラはすごい叫び声をあげて、ゴジラはたけり狂い、何もかも破壊しています。もはやゴジラに立ち向かうべきものはありません。その巨大な姿が徐々に近づきつつあります。」 マイクやカメラは移動を続ける。 CCTV「警戒司令部発表、警戒司令部発表、朝陽区の住民はただちに海淀区に避難してください。」 もはやなすすべはなかった。テロ対策はしてもゴジラ対策の準備はなかった。 砲撃や爆撃がはげしくなるほどゴジラは、凶暴性を発揮し、口から白熱線をはきだして建国門はたちまち火の海と化した。ゴジラは中国の伝統的な建築物も最新の鉄骨の高層ビルも同様に体当たりでぶつかり、噴出す白熱線で破壊していった。 対策本部は容易ならぬ事態に関係方面一同に集まり協議を重ねたが、とるすべもなく情報は悪化の一途をたどった。 ゴジラは、建国門、王府井をとおってついに天安門の故宮に足をふみいれた。そしてその近くにある人民大会堂を体当たりで破壊した。 ゴジラの脅威を信じなかった一部の人々は逃げ遅れて破壊された建物の下敷きとなり白熱線で焼き尽くされ、おびただしい死傷者をだした。しかしゴジラは北京をさらず依然として猛威をふるっていた。 CCTV 「信じられません、信じられません、まったく信じられません。しかもその信じられない事件が今、われわれの眼前において展開されているのであります。、、、いまやゴジラの通過した跡は炎の海と化し、見渡せば、建国門、王府井より、東単、天安門、西単などはまったくの火の海です。あ、ただいまゴジラは移動を開始しはじめました。どうやら五道口方面に向かう模様です。テレビをごらんの皆様、これは劇でも映画でもありません。現実の奇跡、世紀の怪事件です。われわれの世界は一瞬のうちに200万年の昔に引き戻されたのでありましょうか。この恐るべき怪物は、もはや人力をもっていかんともしがたく、警備に配置された中国人民解放軍も戦うことができません。今や中国の首都北京は完全にゴジラの荒れ狂うにまかせ全滅をまつばかりです。なぜゴジラはこのオリンピック開催の時期の北京にあらわれたのでありましょうか。」 しばらくの沈黙。 CCTV「お待たせいたしました。ただいまの放送場所に危険が迫ったためマイクとカメラをCCTVのテレビ塔にうつします。ゴジラはいまや長安街をへてあたりをさまよっております。このテレビ塔も危なくなってまいりました。もし右に向かってくるとすると逃げる余地はありません。 あ、ゴジラがむかってまいります。ますます凶暴な形相をしてまいりました。やけに前肢をふりまわしています。」 ゴジラのものすごい叫び。 CCTV「あ、こちらを向きました。まっすぐこちらにやってまいります。」 ゴジラひときわ大きくほえる。 CCTV「お聞きになりましたでしょうか。あの叫び声、あいよいよ近づいてまいりました。もう絶体絶命です。この鉄塔めがけて突進してまいりました。あと二十メートル、十メートル、あ、右手を塔にかけました。折れます。テレビ塔が折れます。もう最後です。みなさん。再見、再見、」 こうして北京の都市機能はゴジラによってずたずたにされることとなった。 このあとゴジラは五道口からオリンピックセンターへと進路をとり「鳥の巣」に向かうこととなる。 そこには四川省で行方不明になり漏れた放射性物質で巨大化した真のジャイアントパンダの姿が、、、。 『ゴジラ対パンダ』第一部(完)
加々美光行『鏡の中の日本と中国―中国学とコ・ビヘイオリズムの視座』(日本評論社2007年)は非常にいい本だ。 「中国を含めて途上諸国から日本に学問習得、学位取得の目的で来日する留学生は近年、多数に上っているにもかかわらず、逆に日本から途上国に学問習得、学位取得を目的に留学する学生は極端に少数に限られている。つまり今日どれほど日本と途上国の間で人的、物的国際交流が隆盛を極めていようと、学問留学に限っていえば、日本と途上諸国の関係は一方通行的(uniliateral)性格を一歩も超え出ていないのである。」(113−114頁) これはそのものずばりである。この人は本当によくものが見えている人だと思う。
昨日、北京の大望路の「和飲輪飲」までいって北京のブロガーたちとはなしをしてきた。 実は、北京にはBe-Bloggersという会があって年何回か実際に顔をつき合わせての交流会を開催している。今回は第9回目だったのでBe-Bloggers9ということになる。 そもそもこのBe-Bloggersの成立のきっかけは、2005年4月の北京や上海での「反日デモ」のときにメディアが報じる報道とは別の側面が存在すると感じた北京のブロガーたちがブログによって生の情報を発信し、ネットワークをつくっていこうとしたことだと紹介された。 たしかに私も2005年4月は北京にいたが、あの報道がすべてだと思うとしたら大きな誤解だなとかんじていたので、このブロガーたちの感覚は確かだと思う。 実は私はこの会への参加は三回目なのだが、ブログの名前を紹介したのはこれがはじめてである。 普段あまり会えない人に会えるというのもこの会のメリットである。 『兄弟』とか『北京再造』の翻訳者とも少し話ができた。 『兄弟』の翻訳者のIさんとは大使館の研究会以来、『北京再造』の翻訳者のTさんとは初対面である。『北京再造』というのは建築家、梁思成についての本なのだが、非常に重厚な本だという印象を持った。この本を3ヶ月で訳したというTさんはやはりただものではないのではないか。 フリーペーパーの編集長も私の読みのとおり来ていたので、借りていた本を返した。 野村総研のMさんとは、満鉄調査部のことなどではなしこむ。 野村総研の創設者は、もともと満鉄調査部にいたとのこと。戦後日本のシンクタンクの源流は、満鉄調査部にあるのだということをあらためて確認する。 その野村総研が、いま清華大学のなかに研究所をもつにいたっているのは、なかなか興味深いことだといえる。 全体でクイズをやっていたが、答えられずに終わる。 最後に「グエムルー漢江の怪物」のおもちゃとか「ガメラの服」とかがもらえた(これはクイズに勝った人に譲ってもらった)のでまるで私のために用意されたものなのかと錯覚したぐらいだ。 準備して下ったみなさんご苦労様でした。 帰りは北京日本人会の図書館によって本をみていた。 三菱商事に関する面白い本があったので今度借りることにした。 以下、参加ブロガー: 「北京ガア子の朝陽区な日々」ガア子さん http://plaza.rakuten.co.jp/chinadego/ 「北京のジウ。トホホな日々。」ジウさん http://plaza.rakuten.co.jp/beijingjiu/ 「Emmy Broad Band Cast」KOMAさん http://koma.cocolog-nifty.com/emmy/ 「丁未堂画室」丁未堂さん http://blogs.yahoo.co.jp/teibido 「週刊中国的生活」ともこさん http://weeklychinalife.blog103.fc2.com/ 「中国さんさんぽ」ソウコ http://blogs.yahoo.co.jp/souko_otokozawa 「奈良人 in CT」巳波さんhttp://yusukeminami.blog58.fc2.com/ 「北京の足音」ひろちゃいなさん http://blogs.yahoo.co.jp/hirochina55 「DIARY IN BEIJING」Tammyさん http://blogs.yahoo.co.jp/tamami122013 「日々海量北京報」あんどぅさん http://blog.livedoor.jp/beijingando2007/ 「mayusaya@北京ヒルズ2」mayusayaさん http://plaza.rakuten.co.jp/mayusaya888/ 「マダムと力宏な日々」陸太太さん http://plaza.rakuten.co.jp/timtimbeijing/ 「北京いつも上天気」Xiongmao07さん http://plaza.rakuten.co.jp/beijingxiongmao/ 「北京メディアウォッチ」しゃおりんさん http://pekin-media.jugem.jp 「北京逍遥」多田さん http://dongxiang24.spaces.live.com/ 「ゴジラが北京に来る夜に」ゴジラ@北京さん http://plaza.rakuten.co.jp/ngodzilla21 「脳天気の北京deあれこれ」doramiさん http://myhome.cururu.jp/doorami/blog 「Chai ( Fei Fei )'s Blog」ちゃいさん http://blog.360.yahoo.com/chaichai6 「北京で起業、五年目の日記」平田さん http://www.blog-grandslam.com/ 「ENTERO独立革命記」ガミさん http://entero.jp/ 幹事 「北京五彩繽紛」xiaomiさん http://plaza.rakuten.co.jp/xiaomi/ 「みどりの果敢な北京生活」みどりさん http://blogs.yahoo.co.jp/yorinotorimidori 会場 「和飲輪飲」蔡さん http://wainwain.blog108.fc2.com/
mixiの日記がメインでこちらはあまりまじめに更新していなかったのだが、ブロガー会にこのブログのことがでてしまったので、少しまじめに更新していくことにしたい。 「北京大学日本人留学生学術交流会」のHPhttp://beijingacademicexchangemeeting.schools.officelive.com/default.aspx ができたので見ていただきたいなと思う。 地味なので北京でもまだあまり知られてはいない。 こういうところから少しずつ知ってもらうきっかけをつくっていかないといけない。 とにかく中国の日本人留学生は、研究留学の人が少なすぎる。 もっと学術や学問のことをまじめに考えていかなくてはならないだろう。 そのための「明日のために」の会なのである。 |一覧|Recommend Item |
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