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思い出すととても恥ずかしいことの一つに、大枚をはたいて詩集を自費出版したという過去がある。 30年以上前、成人式に参加しないかわりに、20歳の記念に残そうと思ったのだ。 今読めば恥ずかしくて恥ずかしくて、どうしてこんなものを作ってしまったのかと思うほど、下手くそな詩ばかりなのである。 売り物でないから、勝手に友達などに配ったものであるが、忘れたい過去である。(笑) 内容が暗いものばかりで、あの頃の自分がどれほど根暗な人間だったかがわかる。 題名がまた暗いのだ。 『霖雨』という。「りんう」と読む。何日も降り続く雨という意味である。 つまり、私の心はそういう状態で、いつか晴れるという期待がない希望がない状態だったのである。 で、どうしてこんなことを書いたのかというと、昨日の新聞広告に、昨年直木賞を受賞した葉室麟さんの新しい小説が大きく紹介されていたのが目に入ったからだ。 その題名が同じ『霖雨』。 すっかり忘れていた詩集の存在を思い出してしまったのだ。 こちらは「長い雨が続いても、いつかは上がる時が来る」という期待の持てる歴史時代小説のようだ。 「どんなに辛いことがあっても、決して諦めてはいけない。そんな思いを伝えたかった」と著者の言葉がある。 気になる題名。買って本棚に並べるべきか迷っている。
GW中に『テルマエ・ロマエ』を見たのですが、大々的に新聞広告なども阿部ちゃんの顔がいっぱいで、どれほど面白いのかと期待したのですが、面白い部分はテレビの宣伝で放送されてしまっていて、残念ながらこの程度か、という感想でした。 見て満足したという映画になかなか出会えず、映画館への足も遠のいているこの頃なんですが、無料券があったので、今日は『おとなのけんか』を見てきました。 子ども同士の喧嘩を解決するために集まった2組の夫婦が、最初は冷静に礼儀正しく話しをしているのですが、次第に白熱し、それぞれに抱える本音がむき出しになり、収拾のつかないバトルへと発展、修羅場へ陥っていく80分である。 金物屋の主人と作家の夫婦(ジョン・C・ライリーとジョディ・フォスター)と、弁護士と投資ブローカーの夫婦(クリストフ・ヴァルツとケイト・ウィンスレット)の4人が、リビングで繰り広げる会話。 ケンカをすると、怒りにまかせて全然関係ない方向へ進んでしまうことは、私もよくあることで、論点からはずれてしまう、そういう人間心理を描いていると思う。 でも、日本人の親だったら絶対にありえない設定になってますけどね。ありえねぇことが起きているから面白いというか。さすが外国。 部屋の中だけの設定で、ハデさがなくお金のかかっていない映画だけど、こういうの好きかも。 脚本の良さと4人の演技力ですね。 『戦場のピアニスト』でアカデミー賞監督賞を受賞している、ロマン・ポランスキー監督の作品です。
GWまで落ち着かない日々を過ごしていたのですが、やっと今週はどっぷり本に浸かっています。 以前『逆説の日本史』の9巻で「琉球王国の興亡編」と、14巻で「琉球王国と日本編」を読んでいたのですが、わからないまま読み流していたので、記憶に残っていない。 沖縄の城址を実際に見て、沖縄の地図を頭に描きながら、それを再び読み返してみると、琉球の歴史がバッチリわかりました。水がしみ込むように理解できました。 歴史は、現地に行くことによってこんなにもすんなりと解るものなのだと、改めて思い知りました。 今読んでいるのが、磯田道史さんの『殿様の通信簿』で、磯田さんといえば『武士の家計簿』で有名になりましたね。 磯田さんは、江戸時代の古文書を何の抵抗もなくスラスラ読める稀有な才能の持ち主です。 これがまた面白い本なんです。書き方が上手なので読みやすいというか。 幕府が隠密に調べてきた諸大名(243人)の内情を、幕府高官がまとめた人物評価が書かれた『土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)』という元禄期の秘密諜報の書物があるそうです。 その中から徳川光圀、浅野内匠頭と大石内蔵助、池田綱政、前田利家、前田利常、内藤家長、本多作左衛門について書かれています。 浅野内匠頭は無類の女好きで、引き籠りで視野が狭く、知恵がなく短慮な人物と書かれていたとか。「文道を学ばず、武道を好む。生まれつき気が小さく、贅沢はしないが、民からむさぼっている」と。 民衆に厳しく、非常に神経質な軍事マニアの大名で、奥方の下女に非道を働いたこともある女好き。「すでにこの家は危ない」という噂もたっていたそうだ。 『忠臣蔵』で美化され描かれているのとは全く違った赤穂の殿様だったわけですね。 大石内蔵助だって、討ち入りの前は京都の遊郭で放蕩三昧の遊びをしていたし、男色にもふけっていて、15歳の息子の大石主税にも男色を強く勧めていたため、熱中してしまう始末で。 しかも、内蔵助は18歳の少女を妊娠させて討ち入りに行っている。 こんな不良中年が、50人近い部下を連れて完璧な殺人事件を起こしたわけです。 ドラマや映画で美化され、墓参りの歴史マニアも多いようですが、実態はこのようですねぇ。 で、笑ったのが岡山藩の二代目藩主、池田綱政という殿様について書かれている部分なんですが、磯田さんは岡山の出身で、小さい頃からおじいさんに話を聞いていたのだそうです。 池田綱政は、なんと70人も子どもを産ませていたのだと。 日本三大名園の一つ、岡山後楽園を作るよりも、子供を70人も作ることのほうが、よほど凄いと思うと磯田少年は思っていたのでした。 大学生になって、『土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)』に出会い、真っ先に池田綱政のページをめくったところ、 「馬鹿殿様」という内容のことが書かれていたそうだ。まるで志村けんのバカ殿のような人だった。 源氏物語の雅な世界にあこがれ、毎日昼は蹴鞠をして遊び、夜は芸人を集めて酒宴をひらいていたとか。 磯田さんは、「生まれつきバカと書かれた実にめずらしい殿様である」と書いている。(笑) 「日本一の馬鹿殿様と言われてもおかしくない」と。 「岡山城本丸は、綱政という光源氏のおかげで、巨大な人間の産卵場と化しており、あちらにも、こちらにも、綱政によく似た子どもがいて、遊んでいる。そのうち増えすぎた子どもが、城からあふれだした。とうとう綱政は作りすぎた子どもを、家来に配りはじめたのである。」 爆笑しながら読みました。 磯田さんは歴史番組の解説でも、実にわかりやすく説明してくれるのですが、中学時代に家にあった古文書に興味をもち、面白がる孫に、おじいさんが読み方を教えてくれたのだそうです。 親につけられた「道史」という名前は、「歴史の道」という意味だとか。 ちなみに別の本で読んだのですが、大石内蔵助の母親が岡山藩の家老の娘で、その家から岡山藩士だった磯田家に嫁に来てるから、その当時は磯田さんちと大石内蔵助は親戚だったそうだ。 「わたしは妻と35歳のとき結婚したんですが、結婚するまで正真正銘、立派な童貞でした」と対談で語っているのをネットで読みました。(笑) 35歳まで童貞を守り通した磯田さんも凄い。 地方の神社には神主が書き記した地震の古文書がたくさん残されていて、解き明かされないままになっているので、本格的に過去の地震の記録を調べたいと言っている。 古文書を読めない地震学者では役に立たないので、磯田さんに早く読み解いてもらいたいですね。
4月も終わろうとしているのに、お出かけネタを一つ書いていなかった。 4月14日。東京は肌寒い雨。 毎回上京したら、出来るだけ何か一つ、美術館や博物館で見てこようと思っています。 今回は、東京国立博物館の『ボストン美術館 日本美術の至宝展』と、隣の国立科学博物館の『マチュピチュ発見100年 インカ帝国展』のどちらにしようか迷ったのですが、実際のマチュピチュになどなかなか行けるものではないので、後者を選択。娘と足を運んでみました。 インカの人々は文字を持たなかったらしい。 記録は残っていないが、研究が進み詳細が少しずつわかってきたようだ。 展示されていたミイラは、目玉も残っているというリアルなもので、ちょっと不気味でした。 インカ帝国を滅ぼしたスペイン人は、多くのものを略奪していった。 あの山のてっぺんに「空中都市」を造った人々とは、いったいどんな人たちだったのでしょうね。 あの急斜面に石を積み、何を考え、何を食べて暮らしをしていたのでしょうね。 会場の最後に、世界遺産マチュピチュを3D映像で見せてくれる大きなスクリーンが設置されていました。 標高2400mの山に築かれた「空中都市」を、コンドルになった気分で上空から見せてくれたり、自分で歩いて見てるような感じで映してくれます。素晴らしい映像です。 2万点の現地の写真を組み合わせてマチュピチュを再現したものらしい。 玉木宏さんのナレーションで、とても聞き易い声でした。 上野で少しマチュピチュを感じてきました。 この展示は6月24日までやっています。
昨日、今日といいお天気で気温も上がり、お花見日和でした。 昨日は市内の桜 北上川のほとりに桜並木が1kmくらい続く桜の名所だそうですが、一昨日初めて聞いたばかりの場所で、友達に言われるまま、渋滞を避けるため早朝から出かけました。 岩手県では名所なのかもしれませんが、人も沢山いたけど、桜の花そのものは、申し訳ないけどたいしたことがなかった。 桜の木の数は多いのに、老木のせいか花そのものの数が少ない。つまり花がまばらで密集していないのです。 桜の木の下を歩いていても、なんかスカスカな感じ。だから写真を撮る気になれない。 「東北三大桜の名所」って書いてあるけど、弘前城、角館と同じレベルにしてはいけないと思う。 わざわざ行って見るほどの桜ではなかった。うちの近くの桜の方がずっと豪華に沢山咲いてるから。もっと綺麗な所は沢山あるからねぇ。 「東北三大桜の名所」の名は撤回して欲しいな、岩手県。 だって、いままで聞いたこともない場所だったもん。本当に綺麗ならもっと有名なはずだもの。 案の定、早々に道路は渋滞し、私達は10時にはそこを出て帰ってきました。
沖縄から東京に戻って、娘のアパートに数日滞在しました。 その間、杉並と横浜に住む友達とそれぞれ会ってきました。 12日、快晴。 杉並の友達は転勤族で、息子たちが幼稚園の時に知り合い、小学1年までの約3年間のお付き合いでしたが、私が上京した時に、時々一緒に都内見物をして下さる方です。 でも彼女が観光地を案内してくれるわけでなく、いつも私の希望地に付き合ってもらいます。 東京生まれ東京育ちの方が、案外観光地には行かないもので、いつも彼女が行ったことのない場所を、知らずに私が指定してしまうようで、逆に感謝されています。 今回の希望地は『旧古河庭園』と『飛鳥山の渋沢栄一史料館』です。 待ち合わせ場所に指定したのは、メトロ南北線の西ヶ原駅。乗降客が少ない所でした。 ![]() バラの庭園で有名。 旧古河邸宅内を見学するには、希望日の10日前までに往復葉書での事前予約が必要とのこと。庭の見学だけは150円。 そんなことも知らず前日に適当に決めたのですが、ここも「前は通ったことがあるけど庭は見たことがなかった」という彼女。 お天気もよく桜が満開で、バラの花はまだだったけど、日本庭園の木陰のベンチで、積もる話に夢中になりました。 ウィキペディアによると・・・・・ 旧古河庭園(きゅうふるかわていえん)は、東京都北区にある都立庭園である。1917年(大正6年)に古河虎之助男爵の邸宅として現在の形に整えられた。現在は国有財産であり、東京都が借り受けて一般公開している。 明治期の当地は陸奥宗光の邸宅であったが、宗光の次男・潤吉が古河財閥創業者である古河市兵衛の養子となったため、古河家に所有が移った。 1917年(大正6年)に古河財閥3代目当主の虎之助(市兵衛の実子)によって西洋館と庭園が造られ現在の形となった。洋館と洋風庭園は、洋風建築を手掛けたジョサイア・コンドルにより設計された。また、日本庭園は近代日本庭園の先駆者、小川治兵衛(植治)により作庭された。 第二次世界大戦中は陸軍に接収され、終戦後は連合軍に接収され、イギリス大使館付駐日武官の宿舎などに利用された。 1982年(昭和57年)から1989年(平成元年)まで7年をかけた修復工事により現在の状態まで復元された。2006年(平成18年)には、大正時代初期の形式をよく留める庭園が評価され、国の名勝に指定された。 一般に公開されるようになったのは最近のことなんですね。 話に夢中になり過ぎて昼食を食べることも忘れ、次の希望地、飛鳥山に行きました。古河庭園から徒歩5分くらいの近さでした。 飛鳥山公園は、徳川吉宗が享保の改革の一環として整備された公園で、江戸庶民に一般開放されていたとか。明治6年に、上野公園などと共に日本最初の公園に指定された所だそうです。 明治12年、渋沢栄一が飛鳥山に別荘を構え、明治34年から死去した大正6年まで本宅として使用。昭和20年の空襲で焼失してるとのこと。 ![]() 桜の後ろが渋沢栄一史料館 飛鳥山には、北区飛鳥山博物館、紙の博物館、渋沢史料館と三つの博物館があるのですが、見学したのは渋沢史料館だけです。 昨年、渋沢栄一の本を読んで飛鳥山のことを知りました。 おしゃべりをしなければ、大きな公園内の桜をもっと沢山見ることができたのかもしれないですが。(笑) またの機会に・・・・・。
沖縄4日目、最終日(4月9日)。 リゾートホテルなので、朝食後に中庭に出て写真を撮ったり、浜辺を歩いたりと、毎朝けっこうのんびりな動きになっていた。 お土産等の荷物を宅配便に託し、チェックアウトしたのは9時半。 ホテルのある東シナ海から、太平洋側に向かって中城城跡(なかぐすくじょうあと)を目指した。 首里城、座喜味城、今帰仁城、そして4つ目の世界遺産中城城である。 小さな駐車場に車の数も少なく、ぱっとしない暇そうなチケット売り場。 さほど期待しないで急な坂道を登って行くと、視界が大きく開けた。 ![]() おお~!! 広々とした芝生と石垣が。なんだかとても気持ちがいい場所である。 ![]() 眺めがいい!! この曲線美が独特である。 ![]() ここは天然の要害で、300余もあるとされる沖縄のグスクの中で、最も遺構がよく残っている。古琉球時代のものである。 14世紀後半から15世紀にかけて築きあげられたもので、1972年5月15日の日本復帰の日に、国の史跡に指定されたという。そういえば今年は復帰40年目だ。 ![]() ![]() ![]() まだ発掘調査は続いていた。 私の古城めぐりに娘は嫌がるのかと思ったら、意外にも好評だった。 もらったパンフレットも見ず、ただただ景色を眺め、写真を撮るだけだったのですが、帰宅後に読んでみると、ここにもペリーたちが来ていたことがわかった。 「要塞の資材は、石灰岩であり、その石造建築は賞賛すべきものであった・・・・・」と記している。ペリー提督も感嘆していた場所だった。 ペリー一行は首里城に無理矢理入ったというのは歴史の本で読んでいたが、1853年にここもしっかり現地調査をしていた。 4つの城跡の中で、ここが一番良かった。 行って良かったと満足しつつ、空港へと向かったのであった。 |一覧| |
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