051~060かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを これほど貴女を恋い慕っているということさえ、言うことが出来ないのだから、まして伊吹山のさしも草ではないが、それほどまでとは貴女は知らないだろうね。 私の燃えるようなこの思いを。 この歌は「後拾遺集」に「女に初めて遣はしける」と詞書して収められています。 この歌には非常に多くの技巧が用いられています。 恋人に贈る歌は、技巧に凝った華やかなものが良いとされていました。 ですから、この歌の技巧の多さも、自分の気持ちを伝えると同時に、凝った歌で相手の気を引くという計算によるものと思われます。 恋に身を焦がす自分の姿をさしも草が燃える情景に重ね、相手への想いの激しさを訴えていて巧みです。 備考 息吹山は近江国にもありますが、この歌の場合は下野国(栃木県)の下都賀郡にある山とする説が有力です。 此処(栃木県下都賀郡)は現在も藻草の産地です。 作者の実方は、左近衛中将であったが、藤原行成と争って陸奥守に左遷され任地で死去しました。 死後、望郷の念から雀となって宮中に現れたという伝説が残されています。 【藤原実方朝臣】ふじわらのさねかたあそん 平安中期の官人で歌人。(?‐998) 左大臣師尹の孫。 清少納言らと交際した風流人。 中古三十六歌仙の1人。 歌は「拾遺和歌集」などの勅撰集に入集。 家集に「実方朝臣集」 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇> 明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほ恨めしき 朝ぼらけかな 夜が明けると、やがてまた日が暮れて、貴女に逢えると知ってはいるものの、やはり別れとなると、恨めしくなってしまう明け方であるよ。 「後拾遺集」の詞書には「女のもとより雪降り侍りける日帰りて遣はしける」と記されています。 従って、衣衣(後朝)の歌であることが分かります。 作者は恋人と一夜を過ごした後、離れがたく思いながら自分の家へ戻り、早速この歌を詠んで贈ったのでしょう。 別れ別れで過ごす日暮れまでの時間は、恋人たちにとっては果てしなく長く感じられるものです。 夜が明ければ日は必ず暮れ、また逢えると理性では分かっていても、別れの時刻である明け方が恨めしく感じられてしまうのです。 片時も離れずに恋人と一緒にいたいという作者の愛情の深さが伝わってきます。 激しく燃えた昨夜の光景が脳裏に浮かんだのでしょうか。 失礼しました。(笑) 備考 この歌には雪景色は全く詠み込まれていませんが、「後拾遺集」の詞書と一緒に味わうと、雪の降りしきる夜明けの清々しい情景が思い浮かび、いっそう趣の深いものになります。 当時の風習では、夫婦や恋人は1日中一緒に過ごすわけではなく、男性は夜に女性のもとを訪れ、朝になると自分の家へ帰らなければなりませんでした。 度々記しましたが、これを「通い婚」と言います。 【藤原道信朝臣】ふじわらのみちのぶあそん 藤原道信のこと。(972‐994) 太政大臣為光の3男。 和歌に優れていた。 容姿が美しく、人柄も立派だった。 従四位上左近中将だったが23歳の若さで死亡した。 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ 嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る 貴方がいおでにならないのを嘆きながら、一人で寝る夜の明けるまでが、どんなに長いものであるか、貴方はご存知でしょうか。 ご存知ないでしょうね。 「拾遺集」の詞書によると、兼家(当時27最)が訪れたとき、長いあいだ待たせた後に門をあけたところ、「立ちくたびれた」と文句を言ったので、それに答えて詠んだとされています。 しかし、「とんぼ日記」には、次のような話が書かれていて、こちらの方が、より事実に近いと考えられます。 結婚の翌年の天暦9年(955年)、2人の間には道綱が生まれました。 ところが、間もなく兼家は町の小路の女と浮気を始めました。 11月のある明け方、夫が訪れて門を叩きましたが、彼女は会いたくなかったので門を開けずにいました。 そうすると、夫はまたしても例の女の所へ行った様子でした。 そこで翌朝、色の移り変わった菊に、この歌を添えて女の家に送ったということです。 備考 彼女の有名な「とんぼ日記」は、兼家との21年間の結婚生活を回想したものです。 満たされない夫婦関係の寂しさや道綱への愛情が書き綴られています。 当時は一夫多妻制で、兼家には作者以外にも正妻がいた外、何人もの恋人がいました。 夫の浮気にじっと耐え、ただひたすらその訪れを待つことしか出来なかった当時の女性たちの嘆きが伝わってくる歌ですね。 【右大将道綱母】うだいしょうみちつなのはは 睦奥守藤原倫寧(ともやす)の娘。(937-995) 本朝3美人の1人と言われた美貌の持ち主。 和歌の才能にも恵まれていた。 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ 忘れじの 行末までは かたければ 今日を限りの 命ともがな いつまでも忘れまいとおっしゃる貴方の言葉が、遠い将来まで変わらないという事は頼みに出来かねますので、そうおっしゃってくださる今日を最後とする命であって欲しいと思います。 夫(道隆)は家柄も良く、なかなかの好男子だったといいます。 彼の愛を受け始めた作者は、幸せの絶頂にあったことでしょう。 しかし、今は自分1人を愛し将来を誓ってくれている道隆も、この先、外の女を愛さないとも限りません。 まして当時は一夫多妻制の時代です。 貴族の男性が正妻以外に何人もの妻や恋人を持つことは、決して珍しい事ではありませんでした。 いずれ夫の愛を失って辛い思いをするくらいなら、今、幸せなまま死んでしまいたい・・・。 死んでしまいたいと言いながらも、その裏では、この幸せが永遠に続くことを願う作者の一途な気持ちが伝わってきます。 備考 この歌は、「新古今集」の詞書に「中関白の通ひ初(そ)め侍りけるころ」と記されています。 「中関白」とは、摂政兼家の長男の関白藤原道隆のことで、彼が夫として作者のもとに通い始めた頃に詠んだ歌です。 【儀同三司母】ぎどうさんしのはは 高階貴子のこと。(?-996) 長男の伊周が儀同三司(左大臣・右大臣)だったので、こう呼ばれた。 道隆の存命中は栄華を極めた。 道隆の死後は不遇な晩年を過ごした。 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ 滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ この滝の水音は、聞こえなくなってから、かなり長い年月が経ってしまったが、その名高い評判だけは流れ伝わって、今でもなお聞こえていることであるよ。 この歌が詠まれたのは、上皇の死後100年以上が過ぎた頃でした。 庭園は荒れ、滝の流れも涸れてしまっていました。 公任はその滝の跡に立って、遠い昔の美しい庭園と滝の面影を忍んだわけです。 技巧の優れた歌ではありますが、声に出して読んでみると、滝の水が流れ落ちるような滑らかな調べが味わえます。 備考 この歌は、「拾遺集」に「大覚寺に人々あまたまかりたりけるに、古き滝を詠め侍りける」と詞書して収められています。 「大覚寺」は京都の嵯峨にあり、かつて嵯峨上皇の離宮であった寺です。 上皇は此処の池に滝を造り、滝殿を立ててご覧になったと伝えられています。 現在も大沢池の北側にその石組みが残っています。 【大納言公任】だいなごんきんとう 藤原頼忠のこと。(966-1041) 正二位権大納言。 博学多才で、和歌、漢詩、管弦に秀でていた。 「新撰髄脳」「三十六人撰」「拾遺抄」「和漢朗詠集」などを編著書を残す。 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの 逢ふこともがな 私は病気のため間もなく死んでしまうでしょうが、あの世に行ってからの思い出として、せめてもう一度あなたにお逢いしたいものです。 作者の和泉式部は容姿が美しく多感な女性で、多くの男性に愛されました。 彼女は和歌の才能が抜群で、情熱的な恋の歌を数多く詠んでいます。 この歌は、これといった技巧を用いず、彼女の作品の中では素直なのであると評されています。 あの世への思い出に、せめてもう1度だけ逢いたいと説々と訴えた歌からは、女心の哀れさと共に相手への激しい想いが感じられます。 恋多き女性であった作者の情念が伝わってきます。 備考 「後拾遺集」の詞書には「心地例ならず侍りけるころ、人のもとにつかはしける」と記されています。 病気が重くなって死を予感した頃、恋しい人に贈った歌ですが、相手の男性が誰かは分かっていません。 比較的自由な恋愛が認められていた当時でさえも、その奔放な恋愛関係は「浮かれ女」と評されたほどでした。 波乱に富んだ生涯により、後世に数多くの説話が生まれています。 【和泉式部】いずみしきぶ 平安中期の女流歌人。(976-?) 大江雅致の娘。 小式部内侍の母。 多彩な恋愛経験の持ち主で、真情に富む情熱的な歌が多い。 代表作は恋愛生活を綴った「和泉式部日記」 家集「和泉式部集」 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さあ、その事ですよ、貴方は私のことを不安だなどとおっしゃっていますが、私が貴方のことを忘れましょうか。決して忘れはしませんよ。 疎遠になっていた恋人が、自分のことは棚に上げて、「貴女の心変わりが不安です」と言ったので、この歌を詠んだと言われています。 備考 当時の恋歌に和歌が果した役割の大きさと、そのやりとりがどんなに機知に富んだ洒落たものであったかが窺い取れる作品です。 【大弐三位】だいにのさんみ 本名は藤原賢子。(999‐?) 平安中期の女流歌人 紫式部の娘で父は藤原宣孝。 歌は「後拾遺和歌集」以下に見える。 「狭衣(さごろも)物語」の作者にも擬せられている。(詳細不明) 家集に「大弐三位集」 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ やすらはで 寝なましものを 小夜更けて かたぶくまでの 月をみしかな おいでにならないと分かっていたならば、ためらわずに寝てしまったでしょうに、貴方をお待ちしていて、とうとう夜が更け、西の山に沈もうとするまでの月を眺めてしまったことですよ。 この歌は、「後拾遺集」の詞書によれば次のようになる。 中関白(藤原道隆)が少将であった頃、赤染衛門の姉か妹の所へ通って来ていた。 ある夜、訪ねると言って、あてにさせておきながら来なかったので、その翌日、赤染衛門が代作したものだ。 約束をした男をストレートに非難するのではなく、【かたぶく(傾く)までの月をみしかな】と詠む事で、一晩中恋人の言葉を信じて待っていた女性の恨みを婉曲に表現している。 ひとりで月を眺めながら恋人を待ち続ける女性の姿が鮮やかに浮かび上がる。 感情豊かな歌となっている。 備考 道隆は儀同三司母の貴子の夫です。 彼女は道隆が通い始めた頃、「誓いの言葉も将来まではあてにならないから、今幸せなままで死んでしまいたい」と嘆いていた。 頼りにならない男性を、ただ待つしかなかった当時の女性たちの悲しみが、どれほどのものであったか、この道隆への恨みを詠んだ歌からも、容易に想像できる。 【赤染衛門】あかぞめえもん 平安中期の女流歌人。生没年共に不明。 時用(ときもち)の娘で、大江匡衡(まさひら)の妻。 藤原道長の妻倫子(りんし)に仕え、その娘の上東門院(藤原彰子)のもとにも出入りしていた。 歌才は和泉式部(いずみしきぶ)と並び称された。 三十六歌仙の1人で「栄花物語」の作者に擬せられる。 家集に「赤染衛門集」 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ 大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立 大江山を越え、生野を通っていく道は遠いので、まだ天の橋立の地は踏んでみた事もありませんし、母からの文もまだ見ておりません。 この歌に関し、「金葉集」には、次のような長い詞書が記されています。 母の和泉式部が夫の藤原保昌と共に丹後国へ行っていた頃、都で歌合がも開催され、小式部内侍も歌人として出席する事になりました。 それを聞いた藤原定瀬が、宮中の幼い彼女の局(つぼね)にやってきて、「歌はどうされましたか。丹後のお母様に代作を頼む使いは出しましたか。手紙を持った遣いの帰りはまだですか。さぞご心配でしょうね。」などとからかいました。 そこで小式部は、立ち去ろうとする定瀬を引き止めて、この歌を詠んだということです。 定瀬に悪気はなく、ちょっとからかっただけだったのでしょうが、小式部は母のいる丹後国へ行くまでにある地名(大江山・生野・天の橋立)を詠み込みました。 更に、掛詞や縁語などの技巧を駆使した歌を即興で詠み、その才能を示したのです。 備考 小式部は母の和泉式部に似て、幼い頃から和歌に優れていました。 しかし、年若いのに歌が上手なのは有名な歌人である母の代作ではないかと、嫉みも手伝って疑う人もいたのでしょう。 からかった定瀬は、思いがけない見事な歌に驚き、返歌もできずに逃げ帰ったということです。 【小式部内侍】こしきぶのないし 和泉式部の娘。(?-1025) 母の式部に対して小式部と呼ばれた。 幼い頃から和歌に優れていた。 26~27歳の若さで死亡した。 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ |