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カテゴリ:まんが・小説・テレビなど
以前、マンガ家の資質には、短編向きと長編向きがあるのではないかという仮説以下の思い付きを書いたことがあったけれど、どちらも易々と描き上げてしまう才能が存在します。無論、掲載紙の要請する事情によって紙幅が限定された上で原稿を納めざるを得ないという現実的な事情もあるのだろうけれど、大概の長編マンガが長編としつつも実態としては、短編の寄せ集めのような仕上がりであることはちっとも珍しいことではないと思うのです。つまりは例えば大友克洋のような恵まれた特別なマンガ家を除いては、雑誌連載の各話でそれなりの読了間を読者にもたらすことを余儀なくされるだろうから必然短編の寄せ集めとならざるを得ないのかもしれません。しかし、雑誌販売の形態が冊子からデジタル化へと移行しつつある現在、従来の雑誌という概念の変容を余儀なくされるのではないかと思うのです。例えば、マンガ家は順次書きあがったその場でデータをアップロードしていき、リアルタイムで物語が進行していく。読者は、その展開に意見を述べてマンガ家は即座にアイデアとして組み入れることもできるだろうし、今でもよくあるように1話目は無料でその後は頁単位で課金、マンガ家に収入として振り込まれるなどといったことも容易であろうと思うのです。そうなると長い物語を描きたいと思っているマンガ家も実力がありさえすれば財政状況も安泰となり、短編の積み重ねではない本当の長編が読めそうです。
『失楽園』(集英社, 1988) 「男たちの風景」 『西遊妖猿伝 第3巻』(潮出版社, 1998) 『地獄の戦士』(集英社, 1981) 「地獄の戦士」、「復讐クラブ」 『天崩れ落つる日』(集英社, 1997) 「コンプレックス・シティ」 『夢の木の下で』(マガジンハウス, 1998) 「壁男 PART2」 『夢みる機械(サンコミックス版)』(朝日ソノラマ) 「ぼくの日記帳」 お馴染みのウィキペディア情報によると諸星氏はやはりマンガ家の星野之宣が常に意識する存在であったようなのです。古代史や民俗学といった題材をマンガの主題とすることの多い両者ではありますが、星野氏が『ヤマトの火』連載開始時の実現した対談で、「本棚に自分が持っている本と同じものが並んでいることに苦笑した」と語ったそうな。そっくりな本棚で空想を巡らせながらも上梓される作品はまったく正対するような印象と内容となるのはまったくもって不思議なことです。
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Last updated
2020/12/22 08:30:06 AM
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