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北土燃ゆ 天地人「直江兼続」と北の群雄たち
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―戦国時代、北の大地でもその火は燃えていた~上杉・南部・伊達・最上・安東・芦名・・・北の覇権を賭ける戦い― [全26件]

2009年11月10日楽天プロフィール Add to Google XML

第26回 三つ巴 南部領 その七 九戸政実~誇りにかけて信直を許さず 
[ 天地人と北の群雄たち ]  

 さて、本編では陰謀渦巻く大阪城内での兼続の活躍を描いている。その陰謀の種をひとつひとつ摘んでゆく。直江兼続の面目躍如の場面である。

 実は、この時代、戦の場面ばかりが話の種として取りざたされることが多いのだが、その前段階の根回し、すなわち情報戦に勝つことが曳いては戦に勝つための必須条件となっている。これは、合戦というものがすでに力勝負から、駆け引きによって成されるものと形を変えてきたからである。
 なぜなら戦う人数の規模が大きくなりすぎて、軍を統べる者自身の目が全体に行渡らなくなり、どうしても幾つかの分団に分けて統率せざるを得なくなり、戦いひとつに、より多くの人々の利害が絡んでくるため、その隙を付く情報戦の比重(統率者と被統率者の仲を裂く『離間』・軍の指揮者を消すことにより軍全体の指揮系統を狂わす『暗殺』・自らの境遇に不満を持つ民衆を扇動し軍を足止めし、混乱させる『一揆の誘発』等)が大きくなったのである。

 そのような時代背景の中でいよいよ九戸政実も動き出す。理由はこうである。

一) もともと南部氏の潮流である場合

     「わが『九戸家』は南部家の正当な血を継いで来た一族である。現当主『晴政』の本人ではなく兄弟『高信』がどこぞの妾腹に生ませた卑しい子が宗家を継ぐなど以ての外である。」

二) 実は元は甲斐南部氏が北に向かうに当たり同じ甲斐から付いて来た「小笠原氏」の流れである場合

     「そもそも、津軽一帯を大浦(津軽)為信に取られてから、南部の経済の屋台骨を支えてきたのは『九戸家』である。さらに、周辺の敵を見回した時、宗家三戸は『大浦』と『安東(秋田)』―今の北海道南に『蠣崎(後の松前)』も居るが、海を越えてこなければならない為、あまり脅威とならない―さえ見ていれば良いが、実質、南部家の南半分を領する『九戸家』は『斯波』『和賀、稗貫』『戸沢』『安東』そして、場合によっては、『伊達』までもが脅威となってくるし最悪は『浄法寺』や鹿角の小領主たちとも再び戦わなければならないという立場であり、これまでも甲信越の名家『小笠原』の血の誇りにかけてこれを守ってきた。それに比べて『田子信直』は何をしてきたというのだ。何もしていないではないか。わが『九戸家』が南部を領するのが筋道である」

 となるのである。
   

 どのみち宗家を「田子信直」が継ぐことは「九戸政実」、血の誇りにかけて受け入れがたい事であったのだ。しかし「北信愛」の半ばクーデターとも思しき実力行使―一説に由れば、当主決定のための話し合いの場を自らの兵を以って取り囲み、自らの説(信直待望論)をごり押ししたとも伝えられる―
によって、当主は「信直」に決まった。

 そこで政実もついに実力行使に出るのだが、これはまた次回に。

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最終更新日時 2009年11月10日 23時17分36秒



2009年10月20日

第25回 三つ巴 南部領 その六 九戸政実 
[ 天地人と北の群雄たち ]  

 さて、諸処の事情で事実上休載していたこのブログ、改めて再開です。
もしよろしければ、後半もお付き合いいただきたい。

 本編「天地人」は、上洛前の一騒動が描かれたがあまり重要でないので、早速、北の南部に目を戻そう。

 今回からの主役は「九戸政実」。以前少し触れたが(ブログ第2回参照)この「九戸氏」は室町時代後期、南部氏と並び小さいながら大名と認識されたほどの勢力であった。それも当然で、当時、九戸氏の勢力圏は、今の岩手県北部のほとんどであり、「宗家」を名乗る三戸南部氏と肩をならべるほどの大きなものとなっていたのである。ゆえに南部晴政も自分の娘に、政実の弟である九戸実親を婿として取り姻戚関係を結んでいたのである。
 
 ただし、この九戸家の出自にも大きく二つの説がある

一) もともと南部氏の潮流である
二) 実は元は甲斐南部氏が北に向かうに当たり同じ甲斐から付いて来た「小笠原氏」の流れである

 というものである。

 皮肉なことにどちらの説の側に立っても後に、九戸氏が戦を起こす理由が成り立つのだが、これについては、また次回、詳しく述べたいと思う。

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最終更新日時 2009年10月20日 9時17分53秒

2009年7月28日

第24回 三つ巴 南部領 その五 ―大浦為信、野望の選択
[ 天地人と北の群雄たち ]  

 さて、天地人本編は千利休の娘が大活躍・・・?まあ、好きにやってよ、ということで、こちらも前回の続きにお付き合いいただきたい。

 天正十六年(1588年)為信はついに津軽占領の仕上げに入った。
 津軽に権勢を振るう為信を良しとせず浪岡郡代―北畠氏を追ったのは為信であるがその後、宗家三戸南部氏が形としてこの地を領していた―石川<浪岡>政信(信直の弟)はかつての津軽郡代、南長勝や楢山義実(ならやまよしざね)達と語らって為信を排除する謀議を重ねていたことを知り、先手を打った。
 
 為信は、天正十七年(1589年)二月に病気になったと表明し、それが治ったとして三月三日に全快祝いを催したいと政信を招待した。何かあるのではと政信が丁重に断ると、今度はそれではこちらから出向くと伝えた。こうまで言われると政信は断ることも出来ず、それを許し三月七日となった。
 
 為信は身近な者を使い料理等の支度をさせ、いよいよ宴となった時、毒見役となったのは為信の妹で政信の側室で当時懐妊中の「お久」であった。

 惨劇は翌日から始まった。まずお久が急死。政信も九日から口も利けなくなり十六日に死亡。わずか三十年ばかりの命であった。

 そして犠牲者はこればかりでない。為信の妻・伯父、下館九朗・南一。
 その状況は「食中毒」によるものと見える。しかし、為信の支持による毒殺という見解は根強い。事実、この後直ぐ為信は安東実季と組んで浪岡城を総攻撃。南部勢を追い、ついに、この城を我が物としたのである。
 
 これによって為信は遅ればせながら、「戦国大名」の仲間入りを果たした。自らの野望のためには、家族や親族を犠牲にすることを厭わない。恐るべき人物である。

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最終更新日時 2009年7月28日 21時53分9秒

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