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さて、本編では陰謀渦巻く大阪城内での兼続の活躍を描いている。その陰謀の種をひとつひとつ摘んでゆく。直江兼続の面目躍如の場面である。 実は、この時代、戦の場面ばかりが話の種として取りざたされることが多いのだが、その前段階の根回し、すなわち情報戦に勝つことが曳いては戦に勝つための必須条件となっている。これは、合戦というものがすでに力勝負から、駆け引きによって成されるものと形を変えてきたからである。 なぜなら戦う人数の規模が大きくなりすぎて、軍を統べる者自身の目が全体に行渡らなくなり、どうしても幾つかの分団に分けて統率せざるを得なくなり、戦いひとつに、より多くの人々の利害が絡んでくるため、その隙を付く情報戦の比重(統率者と被統率者の仲を裂く『離間』・軍の指揮者を消すことにより軍全体の指揮系統を狂わす『暗殺』・自らの境遇に不満を持つ民衆を扇動し軍を足止めし、混乱させる『一揆の誘発』等)が大きくなったのである。 そのような時代背景の中でいよいよ九戸政実も動き出す。理由はこうである。 一) もともと南部氏の潮流である場合 「わが『九戸家』は南部家の正当な血を継いで来た一族である。現当主『晴政』の本人ではなく兄弟『高信』がどこぞの妾腹に生ませた卑しい子が宗家を継ぐなど以ての外である。」 二) 実は元は甲斐南部氏が北に向かうに当たり同じ甲斐から付いて来た「小笠原氏」の流れである場合 「そもそも、津軽一帯を大浦(津軽)為信に取られてから、南部の経済の屋台骨を支えてきたのは『九戸家』である。さらに、周辺の敵を見回した時、宗家三戸は『大浦』と『安東(秋田)』―今の北海道南に『蠣崎(後の松前)』も居るが、海を越えてこなければならない為、あまり脅威とならない―さえ見ていれば良いが、実質、南部家の南半分を領する『九戸家』は『斯波』『和賀、稗貫』『戸沢』『安東』そして、場合によっては、『伊達』までもが脅威となってくるし最悪は『浄法寺』や鹿角の小領主たちとも再び戦わなければならないという立場であり、これまでも甲信越の名家『小笠原』の血の誇りにかけてこれを守ってきた。それに比べて『田子信直』は何をしてきたというのだ。何もしていないではないか。わが『九戸家』が南部を領するのが筋道である」 となるのである。 どのみち宗家を「田子信直」が継ぐことは「九戸政実」、血の誇りにかけて受け入れがたい事であったのだ。しかし「北信愛」の半ばクーデターとも思しき実力行使―一説に由れば、当主決定のための話し合いの場を自らの兵を以って取り囲み、自らの説(信直待望論)をごり押ししたとも伝えられる― によって、当主は「信直」に決まった。 そこで政実もついに実力行使に出るのだが、これはまた次回に。 ブログランキング 歴史 歴史人気ブログランキング ランキング ブログランキング【くつろぐ】 人気ブログランキング にほんブログ村 戦国時代
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2009年11月10日 23時17分36秒
さて、諸処の事情で事実上休載していたこのブログ、改めて再開です。 もしよろしければ、後半もお付き合いいただきたい。 本編「天地人」は、上洛前の一騒動が描かれたがあまり重要でないので、早速、北の南部に目を戻そう。 今回からの主役は「九戸政実」。以前少し触れたが(ブログ第2回参照)この「九戸氏」は室町時代後期、南部氏と並び小さいながら大名と認識されたほどの勢力であった。それも当然で、当時、九戸氏の勢力圏は、今の岩手県北部のほとんどであり、「宗家」を名乗る三戸南部氏と肩をならべるほどの大きなものとなっていたのである。ゆえに南部晴政も自分の娘に、政実の弟である九戸実親を婿として取り姻戚関係を結んでいたのである。 ただし、この九戸家の出自にも大きく二つの説がある 一) もともと南部氏の潮流である 二) 実は元は甲斐南部氏が北に向かうに当たり同じ甲斐から付いて来た「小笠原氏」の流れである というものである。 皮肉なことにどちらの説の側に立っても後に、九戸氏が戦を起こす理由が成り立つのだが、これについては、また次回、詳しく述べたいと思う。 ブログランキング 歴史 歴史人気ブログランキング ランキング ブログランキング【くつろぐ】 人気ブログランキング にほんブログ村 戦国時代
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2009年10月20日 09時17分53秒
さて、天地人本編は千利休の娘が大活躍・・・?まあ、好きにやってよ、ということで、こちらも前回の続きにお付き合いいただきたい。 天正十六年(1588年)為信はついに津軽占領の仕上げに入った。 津軽に権勢を振るう為信を良しとせず浪岡郡代―北畠氏を追ったのは為信であるがその後、宗家三戸南部氏が形としてこの地を領していた―石川<浪岡>政信(信直の弟)はかつての津軽郡代、南長勝や楢山義実(ならやまよしざね)達と語らって為信を排除する謀議を重ねていたことを知り、先手を打った。 為信は、天正十七年(1589年)二月に病気になったと表明し、それが治ったとして三月三日に全快祝いを催したいと政信を招待した。何かあるのではと政信が丁重に断ると、今度はそれではこちらから出向くと伝えた。こうまで言われると政信は断ることも出来ず、それを許し三月七日となった。 為信は身近な者を使い料理等の支度をさせ、いよいよ宴となった時、毒見役となったのは為信の妹で政信の側室で当時懐妊中の「お久」であった。 惨劇は翌日から始まった。まずお久が急死。政信も九日から口も利けなくなり十六日に死亡。わずか三十年ばかりの命であった。 そして犠牲者はこればかりでない。為信の妻・伯父、下館九朗・南一。 その状況は「食中毒」によるものと見える。しかし、為信の支持による毒殺という見解は根強い。事実、この後直ぐ為信は安東実季と組んで浪岡城を総攻撃。南部勢を追い、ついに、この城を我が物としたのである。 これによって為信は遅ればせながら、「戦国大名」の仲間入りを果たした。自らの野望のためには、家族や親族を犠牲にすることを厭わない。恐るべき人物である。 ブログランキング 歴史 歴史人気ブログランキング ランキング ブログランキング【くつろぐ】 人気ブログランキング にほんブログ村 戦国時代
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2009年07月28日 21時53分09秒
さて、本編は上洛を一度決めたもののまだ迷う景勝が自らの「義」を再認識し、兼続はもう一歩進んで「民への愛・仁愛」を自らの信念とし、ついに「愛」の兜誕生という所。 しかし、この「民への愛」は政治戦略の道具とされることもしばしば有る。兼続の場合はどうかということは置いて、今回の主役、大浦為信はこのことを明らかに政治の道具とした人物である。 元亀二年(1571年)5月・石川・和徳に攻め入り天正三年(1575年)1月には大光寺城(今の青森県平川市大光寺地区今の六羽川の東側に今も城跡が残っている)をさらに天正六年(1578年)7月にはついに北畠氏の浪岡城(今の青森県青森市浪岡地区に今も浪岡川の北に広大な城跡が現存。必見!)も落城させた。 津軽地方の主城を落として、勢いづいた為信であったが民衆の心を捉えるため、このようなことをしている。 天正十~十一年(1582~1583年)頃のことであるから、南部信直が三戸南部宗家を継いだばかりの頃、津軽地方(今の青森県青森市以西)は作物の収穫が悪く、また疫病もはやり民衆が困窮した。このとき南部家から津軽地方に送られていた代官は、課せられた賦役を守りたいがため、今まで以上に取立てを厳しくしたため、民衆から怨嗟の声が上がった。ここで為信は民衆を取り込むため、自らの蔵を開き、金や穀物を貸し出し又医薬品を与えて民の窮状を助け、さらに宗家三戸南部氏に年貢の上納を拒否。かえって飢饉の有様を訴え、助けるよう陳情を行ったのである。この事によって為信は民衆の心を掴み、尊敬までもされるようになった。 と、ここまでを見ると大浦為信という人物、無類の英傑ですばらしい人徳者としか映らないであろう。この人物がもうひとつの顔を剥き出しにするのはこの数年の後になる。 さて、その顔とは?それは次回に。 ブログランキング 歴史 歴史人気ブログランキング ランキング ブログランキング【くつろぐ】 人気ブログランキング にほんブログ村 戦国時代
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2009年06月22日 21時57分06秒
本編は、ついに、真田幸村登場。なんと、兼続に弟子志願。それって史実か。という突っ込みを物ともせず「天地人」は突き進む、の、だが、こちらでは、もうしばらく、南部家の話にお付き合いいただきたい。 さて、今回はまず、一般的な「戦国物語」の間違いを指摘しておこう。この時代の物語を見ると『何某の某』は『何家の誰某』の家臣であるという表現をよく見るが、当時のいわゆる家臣という感覚は、もう何代も前から続けて、その大名に従っている家系であるとか、ごく近い血縁関係にあって、共に何十年も手を携えてその地の政に当たっているとか、そういう特別な関係であり、ほとんどの繋がりはその地の有力小大名や土豪集団または民衆が、いわゆるその地の纏めの者(貴族や守護・地頭大名とは限らない。その地に住む人々に、自らの領主と認められた人物)との間で「御恩」と「奉公」の関係で成り立っている、緩やかな共同体であるというのが普通であり、「主君」と「家臣」の関係は秀吉の「惣無事令」(大名と認められた者たちが領国の内外で、私闘をすることを禁じられた)や江戸時代の「一国一城令」(ひとつの藩には、城を一箇所しか認めない)といった法令の下、侍の「主従関係」が整備された結果なのである。 特に奥羽地方はそれぞれの有力小大名や土豪集団そして民衆連合の独立の気運が高く、それが百姓一揆の多さにも現れているし、秀吉がある程度天下を纏めても、戦が止まなかった遠因となっている。 さて、これを理解してもらった上で話を進めるのだが、各有力武将や土豪達は南部領の中に居るといえども、完全に南部家の支配に服していないという状況であり、すきあらば独立をと画策している輩は、領内で両手に余るほどの数、居たのである。ゆえに今の領主に魅力が無ければ、叛旗を翻すという行動は、むしろ、謀反を起こすというより、革命の旗を揚げる感覚の方が近かったと推察される。 そして、晴政の失政を機に、その一番の旗を揚げたのが、大浦(津軽)為信であったことは、前回述べたが、この人物、なかなかの食わせ物である。 次回は、この為信について述べたいと思う。 ブログランキング 歴史 歴史人気ブログランキング ランキング ブログランキング【くつろぐ】 人気ブログランキング にほんブログ村 戦国時代
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2009年06月13日 03時24分31秒
本編は、歯に衣着せぬ物言いの三成に対して、兼続が一度は憤慨するも、秀吉から三成の本質を聞いて怒りを納め、もう一度話し合い和解、三成への信頼感を深めるようになったというところ―何か、秀吉の「人たらし」に見事嵌まったような感が無きにしも非ずだが、その辺は皆さんで想像してみて欲しい。 では、今回も南部家の話にお付き合いいただきたい。 さて前回は、南部晴政が実子・晴継に後を継がせたいがため、養子の田子信直を攻撃したと書いた。これによって、南部領内は「晴政派→反信直派」と「信直派」に分かれて以後、約二十年の間争うことになる。この最初の争いは南部家の重臣で「信直派」である、剣吉(けんよし)城主「北信愛(きたのぶちか)」が自らの城(剣吉城・今の青森県三戸郡南部町名川、剣吉地区にあり、国道四号線を北に下るとき、八戸市へ行く道路と五戸町へ行く道路のちょうど分かれ道になっているところに今も城跡が残っている)に信直を匿い、南部家の名代、八戸氏を頼って、晴政との和議を画策している。 信直が後継者の立場を自ら辞しても尚、攻撃を仕掛ける執拗さは、誰の目にも常軌を逸した行動に見え、結果、これ以降晴政は急速に周囲の者の信頼を失うことに成っていった。 尚、先に「晴政派→反信直派」と書いたのは、晴政が天正十年一月四日に卒した後、この実子・晴継も相次いで亡くなり(謀略、暗殺説と病死説があり、未だ本質は不明である)、晴政派は次第に当時で宗家三戸南部氏を凌ぐほどの勢力に膨らんでいた九戸氏の「九戸政実・実親」の元に多く集結して行きそのまま、反信直派となっていったため、こう表現した。 このような構図になっていったのは、同じ、養子でも当時は田子信直が晴政の叔父の妾腹の子ということに対して九戸氏は南部の本流の血筋と信じられていた(今は関東・小笠原氏の血筋という説も有力)ため、「血縁」というものを重く捉えている者たちは家の後を継ぐのはやはり清流にという思いで九戸氏を押し、利害を重く見る者も当時の勢力バランスを天秤にかけて九戸氏になびいたようである。 しかし、この不安定な中、いち早く行動に出たのは当時まだ、弱小勢力であった、大浦氏の養子為信であった。 元亀2年(1571年)5月・石川・和徳(共に今の青森県弘前市内に地名が残っている)に攻め入り、独立へと向かって、駆け出したのである。 では、次回もこの続きにお付き合い願いたい。 歴史人気ブログランキング ランキング ブログランキング【くつろぐ】 人気ブログランキング にほんブログ村 戦国時代
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2009年06月08日 19時27分37秒
さて、本編はいよいよ豊臣秀吉・石田三成と上杉景勝・直江兼続の「落水城の会談」。ずっと気になっていた秀吉の側近、石田三成に会えた兼続だが、三成の手厳しい言葉に激怒。この会見如何に。 という所だが、しばし、南部家の話にお付き合いいただきたい。 さて「天地人」。話は、秀吉の時代に突入した。この人物、ご存知の方も多かろうが「清洲会議」で、天下を握ってから慶長3年(1598年)に亡くなるまでの晩年、それまでの人物像を覆すほどの暴政を行った。 老いてから授かった我が子を天下人にしたいため、すでに関白の座を譲っていた甥の「豊臣(羽柴)秀次」を窮地に追いやり、自刃させたり、朝鮮半島を足がかりに明国(現代「中国」の当時の呼び名)まで、我が領地としようとしたこと。「伴天連追放令」による、キリシタンへの迫害も記憶に残る。 そして、太閤検地、刀狩である。この政策を「暴政」とするのは、やや乱暴な気もするが、少なくとも、皆が好んで受け入れたとは言いづらい。 これらの政策が、やがて奥羽全土を戦火に包む火種となるのだが、この話は、また後に項を設ける。 さて、ここで秀吉の例を引いたのは、南部家の宗家の二十四代、南部晴政(はれまさ)という人物が秀吉とほぼ、同じように晩年の政を誤ったことを伝えたかったからである。 この晴政も、年老いるまで宗家を継ぐべき嫡男に恵まれなかった。ゆえに、叔父・石川高信(いしかわたかのぶ)の息子で、岩手郡一方井(今の岩手県岩手郡岩手町沼宮内の西側、一方井地区)に生を受けその後、田子城(今の青森県三戸郡田子町にあり、宗家の本城・三戸城の南西二十キロ弱のところ)に預けられた、田子信直(たっこのぶなお)や南部氏の係累、九戸氏(当時、今の岩手県九戸郡九戸村を本拠としていた)の長子政実(まさざね)の弟、九戸実親(くのへさねちか)等を養子として迎えて、将来を託そうとしていた。 ところが、ここで、諦めていたはずの嫡男・晴継(はるつぐ)を授かったのである。とたんに、晴政はわが子かわいさのため、これまで事実上、次の跡継ぎと決めていた信直を疎んじるようになり、遂には戦まで仕掛けたのである。 これをきっかけに、南部領は激震、大浦為信の津軽侵攻・九戸政実の不穏の呼び水となり、果てには、和賀・稗貫(今の岩手県北上市の近辺)の一揆勢も蜂起、南部家の長い二十年が始まった。 歴史人気ブログランキング ランキング ブログランキング【くつろぐ】 人気ブログランキング にほんブログ村 戦国時代
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2009年06月03日 18時01分05秒
さて本編は魚津城落城、しかし、本能寺にて信長が明智光秀に倒され、この光秀を羽柴秀吉が駆逐、この大きな動きで上杉家が運よく当面の危機を脱したというところ。ドラマの中で「あの」信長がいとも簡単に謙信に説得されてしまったが、これもご愛嬌ということで、今回はこのころの東北地方の大名の動きを見てみよう。 本能寺の変に倒れた織田信長が台頭してきたのは1570年代である。姉川の戦い(1570年)足利義昭追放(1573年)長篠の戦い(1575年)石山合戦(1580年終)と順調に勢力を伸ばしていた時代だが、この時代、東北地方も各大名が大きく動き始めていた。 元亀元年(1570年)4月 伊具丸森の戦い 相馬義胤が伊達家の丸森城を落とす。原因は伊具郡(今の宮城県南伊具郡丸森町・阿武隈川がほぼ直角に曲がった、その南<ちなみに福島県相馬市がこの東南の太平洋沿岸にある>)の領有をめぐっての対立―伊達家と相馬家の長い対立戦争の始まり。この後、天正4年(1576年)・天正5年(1577年)と争い続け、天正13年(1585年)の「人取橋の戦い」への序曲となっている― 元亀2年(1571年)5月 石川・和徳の戦い これまで南部晴政の配下に甘んじていた大浦(後の津軽)為信が独立を画策してついに南部家に叛旗を翻す。次々と津軽地方の諸城を落とし、この約七年後の、天正6年(1578年)7月、為信は浪岡城の「浪岡御所」南北朝時代からの名氏の嫡流・北畠顕村を滅ぼしついに津軽一円(今の青森県のほぼ西半分<青森市・弘前市・五所川原市・黒石市・つがる市等>)を我が物とする。奇しくも「御館の乱」勃発の年である。 天正10年(1582年)8月 大沢山の戦い 出羽国由利郡(今の秋田県由利町周辺)を信濃から下向して治めていた、由利十二党(仁賀保・矢島・赤尾津・子吉・芹田・打越・石沢・岩谷・潟保・鮎川・下村・玉前の十二の地侍の集団)が安東氏と組み、横手(今の秋田県横手市周辺)に居を置く小野寺義道に攻めかかった。これにより、義道は多くの有力家臣を失い、以後衰退することになった。 天正10年(1582年) 荒沢の戦い 出羽国庄内(今の山形県庄内地方)、鎌倉時代からこの地を領有する武藤家の領主大宝寺(武藤)義氏が由利郡に侵攻。当時、由利十二党と同盟関係だった安東愛季の軍がこれを迎え撃つ。 天正11年(1583年)3月 前森蔵人の変 大宝寺義氏の重臣・前森蔵人が謀反。当主義氏を殺害。以後「東禅寺義長」と名乗り、最上家と組んで、武藤家と対立、庄内地方は無政府状態に陥る。 このように並べただけでも、勢力の盛衰の移り変わりが大きく、ほぼ12年の間には、北の勢力図も大きく変わった。 これは、大きな大名の上杉、伊達、芦名、最上、佐竹等の目が皆、中央を向いているために、それらの介入が無い、または遅れると見て、陸奥・出羽地方での小大名の領地の切り取り合戦が激しくなったと想像できるのだ。 ところで、この地方にはもうひとつ名家があったはずである。そう、陸奥・南部家である。この重要な時代に、あまつさえ津軽地方までも切り崩され、いったい何をやっていたのだろうか? それについては、また次回にて。 歴史人気ブログランキング ランキング ブログランキング【くつろぐ】 人気ブログランキング にほんブログ村 戦国時代
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2009年05月19日 19時20分41秒
さて、本編は上杉家の西の拠点「魚津城」が織田軍に包囲され、風前の灯。その行く末はいかに。というところ。 この「天正9年(1581年)」は上杉家が最大の存亡の危機に陥った厄年である。前回『上杉家は西に「織田」南に「北条」東に「芦名」北に「伊達」と敵だらけの四面楚歌の状況に追い込まれた』と表現したが、これに加えて今まで頼もしい味方であった新発田城城主でありここまで敵を一人で300人以上も打ち倒したと云われる猛者・新発田重家<別名・五十公野(いじみの)治長>が信長の甘言に乗り、叛旗を翻したのである。 なぜ、このような事態になったのか? これはそもそも、御館の乱の論功行賞の不備が原因なのである。この年、刃傷事件を起こした「毛利秀広」もそうなのだが、これに加え「五十公野信宗<別名・長沢道寿斎>」そして「新発田重家」は乱勃発時に一番にはせ参じた面々なのだが、いわゆる「外様衆―上杉家の一門との関係が、まだ希薄な家柄―」ということで、恩賞が少なかったのである。しかも、新発田家に至っては親類縁者総て(ちなみに五十公野信宗は重家の義弟である)を以て景勝方に加担したのである。 これがどれ程の決断かというと、この当時、国内の内紛が起きた場合、どちらが勝っても「家系(家名)」が残るように、両派に親類縁者が分かれて戦うことを厭わなかった時代に<味方した側が負けた場合、家が断絶する。すなわち附いた側の将と自らの親類縁者そして家族が心中する>という、一大決心の表れなのである(つまりは、それだけ景勝という人物を買っていたことにもなる)。 だが、この頃の景勝にはおそらく兼続にも、この新発田の決意を推し量る裁量が無かったのであろう。結果彼らを満足させる恩賞を与えることが出来なかったため、その嫉みや恨みを買うことになってしまった。 おそらくは景勝にとっても兼続にとっても、その生涯で最も悔やまれる、失策であろう。これによって上杉家を自ずから窮地に追い込んでしまい、且つ御館の乱の時の味方を次々失ったのであるから。 こうして、上杉家は更なる敵を抱え、八方塞になってしまったのである。この打開策は果たして有るのであろうか。ということでまた次回。 歴史人気ブログランキング ランキング ブログランキング【くつろぐ】 人気ブログランキング にほんブログ村 戦国時代
最終更新日
2009年05月14日 00時04分00秒
さて、本編は上杉家内でまたも内紛、兼続の異例の出世を嫉む毛利秀広が刃傷沙汰に及び、直江信綱が巻き込まれ死亡。普通であれば家名断絶のところを兼続が婿養子になり継ぐよう景勝に命じられ、それに従いついに「直江兼続」誕生というところ。 しかし、なぜ、これ程までに「直江」の家名を大事にしたのであろうか? 今回はこれについて少し触れてみたい。 まず、認識していただきたいのは、この当時の社会は武家も貴族も今以上に「血縁」というものを重く捉えていたことである。人とは必ず死を迎え、この現世から居なくなる。であるから、自らの「血」を受け継ぐ子供は自分に一番近い、それこそ―自分の分身―と言って良い存在と捕らえ、己れを『○○氏(家名)』と名乗りこれを「家系」として継ぐことによって、自らの功績または家格―家柄や朝廷内での地位―を未来永劫伝えていくことを望んだため「家名(氏)」すなわち家系が途切れるということは自ら生きた証だけではなく、祖先の存在意義までも失ってしまうものとして、当時は非常に忌み嫌われたことなのである。 それにしても、である。普通に考えれば、これは当事者の問題であり、本来であれば、大名当主が干渉するようなことではない。なのになぜ「直江」の家については、景勝まで乗り出して家名存続に寄与したのか。 その疑問に答えると、このようになる。 この「直江」家は、あの「大化の改新」を推し進めた「藤原鎌足」の孫であり当事の直江荘を承った「麻呂」の家系という名家であった事。つまりは、朝廷内でも、身分の高かった貴族の流れを汲む家系であるため。これを断絶させてしまうと、当時でもある程度の権勢を持っていた朝廷との疎遠となることを意味し、国のために良くないという政治事情がひとつ。 さらに、信綱の義父景綱は、かつての「川中島の合戦」で信玄の息子・武田義信を敗走させるという、大きな武功を立てた人間であったのでその功績への配慮という人情がひとつ。 そしてもうひとつが「兼続」への絶大な信頼と期待の景勝なりの表現である。 ともあれ、この婿養子の儀により「直江兼続」となった樋口与六だがこの、天正9年(1581年)上杉家は西に「織田」南に「北条」東に「芦名」北に「伊達」と敵だらけの四面楚歌の状況に追い込まれたのである。 さて、この先の上杉家の運命は。というところで、また次回。 歴史人気ブログランキング ランキング ブログランキング【くつろぐ】 人気ブログランキング にほんブログ村 戦国時代
最終更新日
2009年05月10日 12時58分16秒
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