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テーマ:食べ物あれこれ(49905)
カテゴリ:薬
子供の頃、習字を習わされていた時期があり、日曜日の午前中は近所の習字の先生の家へと通うのが毎週の事となっていました。習字の先生はもともと教職にあった方のようで、高齢の穏やかな方であった事が今でも思い出として残されています。
当時、高齢の方に多かった印象があるのですが、先生も仁丹を愛用しておられ、ハッカと生薬が混じった特有の香りと、硯に水を足しながら使われていた墨の香りは、ずいぶんと時を隔てていてもすぐに当時の日曜日の午前中へと引き戻してくれる感じがします。 仁丹は製造メーカーである森下仁丹株式会社の創始者、森下博によって今から100年以上も前の1905年に開発されています。従軍して台湾を訪れた際、現地で伝染病に冒されてしまい、現地の人が清涼剤を口に含む事で伝染病に感染しないようにしているという知恵に触れた事が、後の仁丹開発に繋がったと言えます。 当時は医療技術の発達が充分ではなかった事から、病気を治す事よりも病気にならない工夫が意識されていた事が伺え、単に清涼剤といった嗜好品の類ではなく、病を防ぐ物として開発された事が判ります。 仁丹の語源は江戸時代に実在したとされる試し斬りにされた罪人の臓物を使った薬剤、人肝(じんたん)にあるという説がありますが、あくまでも俗説で、儒教の中にある「仁義礼智信」の仁に、薬剤名に「丸」や「散」といった文字と同じようによく使われていた「丹」を繋げて明治33年(1900年)に商標登録されています。 仁丹の名前と共に親しまれている軍人の肖像、世に言う仁丹将軍については、実は軍人ではなく外交官だとされています。すでに世界的な視野に立ち、薬を広める外交官という意味が込められていたらしく、それを裏付けるかのように仁丹は現地で発音しやすいような現地ごとに微妙に異なるローマ字表記で書かれています。 マークについては選定した創始者の言葉として、一度決めたからにはやすやすと変更するものではなく、誰が見てもよく判り、裏側からでも簡単に判るものでなくてはならないとされています。今日のブランディングの基本とも言える考え方が、すでに存在していたと言えます。 今ではそのような感じはしませんが、かつては「仁丹と言えば広告」と言われていたほど広告に力が入れられ、存在自体が珍しかった飛行機を使ったビラ配りや電球を配して夜間でも仁丹の文字が読めるようにしたイルミネーション、電車沿線のホーロー看板、電柱に町名を記した案内板広告など、あらゆる広告媒体を駆使しています。 丹には赤いという意味もあり、それを示すように仁丹も当初は赤い色をしていました。昭和4年になって現在と同じ銀色の粒が開発され、発売されて今日も銀色の製品が売られています。銀色には金属の銀、食用銀が使われていて、製品の視覚的な部分だけでなく銀イオンによる品質保持作用にも寄与していると言えます。 子供の頃から古臭い印象を持っていましたが、病気を未然に防ぐ予防療法的観点や商標へのブランディング、その時々の最新のメディアを有効活用し、新たな広告手法をを編み出すメディア戦略、銀イオンの有効活用等、先端的な部分を多く持つ製品であると思えてきます。最近見かけなくなってきていますが、できれば次の100年も元気でいてほしい商品でもあります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年11月26日 07時43分32秒
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