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一歳のお誕生会 米… New! 料理長52歳さん

2012年06月12日
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カテゴリ:カテゴリ未分類
 意外なほど女性説が説得力を増してくる中、そのすべてを打ち砕く物として謙信の肖像画が残されています。上杉謙信その人を描いたとして今日、最も親しまれている肖像画は無精ひげが青々と描かれた如何にも無骨な武人という姿で、女性らしさなど微塵も感じる事ができません。

 実は今日残されている肖像画は、江戸時代に入ってから謙信を全く知らない画家によって謙信というイメージを元に描き起こされたもので、特によく目にする謙信像は明治31年に製作された版画となっています。生前に描かれた唯一の肖像画にはひげがなく、色白の姿となっていて、後の肖像画とは異なるイメージである事が判ります。

 越後には「ごぜ」と呼ばれる盲目の女芸人の伝統があり、ごぜ唄として古い時代の伝承が残されています。そのごぜ唄の中に謙信を扱ったものがあり、「寅年寅月寅の日に生まれたまいしまんとらさまは、城山さまのおんために、赤槍立ててご出陣。男も及ばぬ大力無双」という唄が残されています。

 寅年とは享禄3年(1530年)の事で、寅月の寅の日とは1月21日と謙信の誕生日である事が判り、「まんとら」とは謙信の三番目、「景虎」の次の名前である「政虎」の事を指している事が、「政所(まんどころ)」「御政方(おまんのかた)」などのように「政」を「まん」と読む例の存在からも判ります。唄の中で謙信が無双の怪力の持ち主であり、それをあえて「男も及ばぬ」と表現しているところに謙信が男ではなかった印象を強くしてくれます。

 また、当時のスペイン国王フェリペ2世はジパングの黄金伝説にあるように日本には多量の黄金がある可能性を信じ、日本へ使者を派遣して黄金に関する調査を行わせています。調査の結果は報告書にまとめられてフェリペ2世の下へ送られ、その中のゴンザレスの報告書に上杉景勝について「叔母から大量の金を相続して保有している」と記され、謙信の姉の子である景勝にとって謙信が叔父ではなく叔母と記載されている事に、謙信が女性として報告された事を伺う事ができます。

 白神神社の白山堂に祀られているご神体に「毘」の旗印を掲げた女神像があり、「毘」の旗の下に戦を勝ち抜いた軍神が女神であったという印象を与えてくれます。自らを毘沙門天の化身と信じた謙信が毘沙門天の姿ではなく女性像とされているとしたら、合理的な説明は「女性であった」以外にはないようにも思えてきます。

 当時、女性が家督を継いだり城主になるといった事は珍しくはなかったので、病弱で人望に欠ける兄に代わって文武に秀でた妹が担ぎ出されるという事も考えられない事ではないのですが、それならば何故、後になって不自然な肖像画や位牌を作成してまで男性化しなければならなかったのか、今度はそちらの方が気になってしまいます。

 最も考えられる事は、上杉家が景勝の代になって家老の直江兼続が石田光成と懇意であった事から徳川家康と対立し、関が原の戦いのきっかけともなった家康の会津征伐を招いた事や、西軍に就いていた事から米沢へ減移封されて120万石の大大名から30万石の一大名に没落して力が弱まった事。外様大名として常に取り潰される危険性があり、武家諸法度によって女性の城主が認められなくなったため、神格化されて崇拝さえされている謙信が女性だと継承の正当性という点で文句が付けられる可能性があるために、謙信を男性化したと見る事ができます。

 女嫌いとして知られる謙信ですが、女性宛の手紙の方が多く、細かなやり取りが行われていて、むしろ女性とは仲が良かった事が判ります。伝説として語られる人物なだけに知られていない意外な一面も多く、そうした意外性が本来の人物像を捉えにくくしてしまい、そんな中から出てきた珍説、それが謙信女性説なのかもしれないと思っています。





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最終更新日  2012年06月12日 07時58分01秒
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