テーマ:囲碁全般(745)
カテゴリ:囲碁
ナゾさんから、興味深いコメントをいただいたのでそれに関連した話。
「負けることより内容の悪い碁を打つことを恐れなさい」との藤沢先生の言葉は素晴らしいと思うが、私には非常に難解でもある。私の場合、「内容の良い碁」を打とうとするとたいていは、「内容の悪い碁」になってしまう。これは、勝とうとするほど勝てなくなるのと似ている。碁を打つ心構えは、簡単に考えると簡単だが難しく考えると極めて難しい。 さてここでさらに疑問が一つ。「内容の良い碁」ってどういう碁のことだろう? プロに似ている碁? 人に褒められるような碁? 本手や形の良い手ばかりの碁? 上手い手を連発する碁? 厚く打って後半よりつく碁? 個性的で大胆な構想を描く碁? 勝負にこだわらず常に最強の手を打つ碁? など人それぞれであろうし、一人の中でも時とともに変っていくものだと思う。 最近私は、最高に集中した状態で対局して、後で並べてみて対局時の興奮や苦悩が蘇ってくるような魂の入った碁を打ちたいと思っている。以前はもっと理性的な考えをしていたのだが、年とともに妙に感情的な思いに変化してきている。老化のせいだろうか?言い換えると、生きた証しになるような碁を打ちたいという気持ちである。 これは、後世に残すという意味ではない。原始人が襲ってきたけものと全力で闘って倒した時の充実感に近いのではないかと思っている。 自分より強いけものと戦う原始人の気持ちは、「戦う内容がよければ負けてもいい」なんて事はあり得ない。「勝とう勝とう」なんて考えているのとも違うだろう。とにかく相手を倒すために、矛盾のようだが「勝ち負けを忘れて」勝つために手段を選ばず全力を出したはずだ。 火事場の馬鹿力といわれるように、人間は普段は出せる力を無意識にセーブしていると言われているが、これは頭の働きも同じではないかと思っている。 めったにないが、「火事場の馬鹿頭」とも言えるような状態を感じることがある。勝ちたいという考えを超越して、興奮をともなった激しい感情になり、加えて雑念がなく読みに集中し普段なら絶対読めないような所が読めてしまう極めて冴えた状態である。 このような状態て打てた碁は、勝ち負けによらず確実に生きた証しとなる碁である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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