テーマ:囲碁全般(745)
カテゴリ:囲碁
7月24日分の週刊碁に谷岡先生という法律の先生が、コラムで面白いことを書いている。賭け碁も小額なら法に触れないし悪いことではないので、そのくらいはいいじゃないか、という内容である。
この話題については、書くのをためらっていたが、法律家もそう言っているので今日はその話。断っておくが、けして目碁(賭け碁)を推奨しているわけではない。囲碁の歴史を知る上では欠かせない目碁について、文化的歴史的側面から紹介するのである。 最近は、「目碁をやった事がある」という人でも目碁のやり方を知らないことが多い。一局の勝敗だけに何点と賭けるのは、目碁とは言わない。勝負と目数差の両方に点数をつけるのが目碁である。 ルールは簡単。普通は、「1-2、2-5、5-1」と覚える。要するに勝負が千点なら目数差を切り上げで10目単位(目)200点、同様に勝負2千点なら目が 500点、勝負5千点なら目が千点、となる。あとは点数の単位が変わっても、同じことである。 目碁を生業とするものを目碁師とか真剣師と呼ぶ。江戸時代の四宮米蔵は表の世界にも出てきたので有名であるが、本来の真剣師はけして表には出ないし、その本当の実力は誰も知ることは出来ない。 真剣師でも、ピンからキリまである。一般人を相手にするだけでなく、一流どころは主に金持ちの商人や殿様が多額の懸賞を賭けて遊ぶ「馬」となって生計を立てる。 当然強い打ち手は、スポンサーの寵愛を受けていたであろう。伝説的な打ち手はどの時代にもいたはずで、周囲のものは彼を神格化しその実力は本因坊クラスだと信じていたはずである。 真剣師は、挑戦者が勝負を挑み易いように、相手に大きなハンデを与えて打つ特殊な技術能力を持っている。 本因坊には稽古で3子で打っているのに、6子置けと言われれば挑戦したくなるだろう。しかし稽古の碁とは全然違うのだから、その道のプロに勝てるはずがない。 木谷門に入門すると、兄弟子にどんどん打ち込まれて泣かされたという話は有名だが、修羅場を知らない今のアマ5段クラスなら、冗談ではなくて11子12子と打ち込まれてしまうのである。 ただ、勝ち続けるだけでは相手がいなくなってしまう。そこが、実は目碁のポイントである。たまに、負けてあげるのである。この時は、小さな負けかたをしておいて、勝つ時はドカンと目を出して勝つのである。さらにそれだけでは、一流の真剣師とは言えない。 負けても満足してもらうように、相手を楽しませるのも一つの技術だ。盤上ではマジックのような華麗なサバキを披露し、番外では面白い話をして場を和ませるのも一つ。 何しろ、真剣師にはすごく弱い人もいて、何と自分の方が井目置いて勝負するようなレベルの人もいるのである。 現代でも、場所によっては古来の目碁が残っているのだが、それだけで生計を立てられる伝統的な真剣師という職業は、時代の変化によって絶滅の危機にある。 ところで二つだけ目碁の注意を。親しい人同士で遊ぶなら良いが、そうでない場合はけして近くに観戦者を寄せないこと。その理由がすぐわからない人はそういう遊びをしない方が良いのだが、説明するとサイン送りをさせないためである。 さらにもう一つ。学生時代に、新入の可愛い女性部員がちょっと碁が面白くなってきた頃に、目碁の面白さを教えようとして、彼女が部をやめてしまったという苦い経験がある。 けして、彼女が博打がきらいだったわけではない。丁寧な言葉で説明してしまったのだ。くれぐれも、丁寧な言葉を使わないように。 「ちょっと○○さん、お目碁やってみませんか。」 前置きが長くなったが、要するに最後の教訓を言いたかったのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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