ブログを作る※無料・簡単アフィリ    ブログトップ | 楽天市場
068941 ランダム
327.『学ぶとは、自己を習ふなり』… (読書・コミック)楽天ブログ 【ケータイで見る】 【ログイン】
職の精神史
ホーム 日記 プロフィール オークション 掲示板 ブックマーク お買い物一覧

PR

カレンダー

2009年8月
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031     
<一覧へ今月次の月>

キーワードサーチ

▼キーワード検索
楽天ブログ内
このブログ内
ウェブサイト

▼タグ検索(楽天ブログ内)
日記 フォト 動画

カテゴリ

バックナンバー

モバイル

>>ケータイに
このブログの
URLを送信!

 

日々の感動・発見・疑問

<< 前へ次へ >>一覧コメントを書く

2008年04月24日 XML このブログを購読する

327.『学ぶとは、自己を習ふなり』(道元)
[ 内定への一言(歴史/古典) ]    

※この文章は、2003〜2006年に大学生・若手社会人向けに配信されたメルマガ『内定への一言』のバックナンバーです。

327.『学ぶとは、自己を習ふなり』(道元)



僕はここ数ヶ月は、特に歴史の「一次史料」を中心に集めていますが、それと同じく集めているのが東洋思想や禅関係の書籍です。

その中でも、特に僕が心惹かれているのは、鎌倉時代の禅僧・道元の「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」です。



世の中、「自分なり」とか「自分らしく」という価値観ももてはやされていて、それも一面の真理はあるのでしょうが、人間はすぐに慢心して目の前のことさえも見えなくなるもの。

思い通りにならない現実にもがき苦しみ、「もう、どうにでもなれ!」と諦めた瞬間、ふわりと体が浮いたような気持ちになって、あれほど苦しんでいた問題がさらりと解けてしまった…という経験は、大なり小なり誰もが持っていることでしょう。


就活なら、「自分をどう見せようか」と苦心惨憺して失敗を繰り返したあげく、言うことがなくなって相手の話をじっと聞いていたら、「君は聞き上手で伸びそうだ」と言われたり…。

営業なら、手を尽くして契約を採ろうと虚勢を張って惨敗し、商品知識が尽きてしまって、相手の会社の感想を話していたら「それ、いいアイデアだね!」と契約が取れたり…。



考えてみれば、そこには「相手を思う」という当たり前すぎる素朴な現実が横たわっていただけのことなのですが、「自分、自分」と調子に乗っているうちは、そんなことにすら気付けなかったのです。

ライト兄弟以前の多くの研究者や飛行愛好家たちは、「人力で飛べる」と慢心したことから失敗を重ね、実に300年も人類の空への憧れは大自然の前に圧倒されてきました。

数々の自然科学の研究や技術改善の軌跡を学んだライト兄弟が最後に悟ったのは、「人知を捨て、人力への過信を去り、ただ自然の法則に合わせる」ということでした。



初飛行に成功した兄弟に、ある人が「おい、よく空を征服したな」と祝福の言葉をかけた時、兄弟が「冗談じゃない。我々が空に合わせて変わったんだ」と言った一言は、既にご紹介しましたよね。

自然の中には「大気」や「風」という現象があり、ただ人間がそれに合わせさえすればいつでも飛べたのに、そんな単純な事実も、「腕力や走力で飛べる」と思っているうちは、見えなかったのです。

就活でも、トークやメイクが勝負を決めると思っているうちは、連戦連敗を続けるものです。なぜならそれは、墜落した多くの飛行家と同じく「大気」に相当する「相手の気持ち」を無視しているからです。



「自分のやりたいこと」に相手を合わせさせるのではなく、「相手の望み」を察して自分の長所や性格を表現する、ただそれだけの単純なことが、知識を詰め込むほど頭が鈍くなり、できにくくなるのです。

我意に固執して頑張れば頑張るほど、人間の思考や想像は偏狭になり、世間や他人を恨んだりはしてみるものの、世間や他人は一向に構ってくれません。

内定を決める要因は、「自分をどう見せるか」ではなく「相手をどう見ているか」であり、落ちる人の自己PRは「自分を伝えること」だが、受かる人の自己PRは「相手の可能性と自分を関連付けることだ」とは、毎年の就活対策で何度も何度も言っていることです。



人生には、このように作為や虚飾にまみれているうちは目が曇って全然見えなかったのに、素直な気持ちになると驚くほど素朴な事実に感動する、ということがよくあります。

我々はそのたびに、「自分って、こういう人間だったのか」とか、「そうそう、こういう気持ちになりたかったんだ」と、成長の喜びと未熟さを同時に感じたりしてしまうものです。

つまり、人生で起こることは全て「自己を自己たらしめるための試練」であり、経験とは自分の本性を顕在化させるための出来事で、それは外面的には違っていても、本質的には誰の人生にも変わらない性質の事件が適度に用意されている、といえるでしょう。



だから、嫌なことから逃げることなど不可能なのです。嫌と思うのも自分。逃げるのも自分。逃げて出会うのも自分。踏ん張って気付くのも自分。

嫌だと思って後回しにしたり、適当な言い訳を付けて手抜きをしたような作業は、巡り巡って自分が一番苦しい時に、まとめて襲い掛かってきます。

あたかも、それは「あるべき自分」が「まだ分からんのか!」と追い詰めてくる葛藤のようでもあります。



我々現代人の錯誤は、人生や自分に何らかの問題が存在すると、それらは全て「不足」によるものだと無意識のうちに決め付けてしまうことではないでしょうか。

しかし、正しくは、不足ではなくエゴや虚飾の鎧が重すぎて潰されているだけです。

自分を飾ろう、認められたい、よく扱われたい、他人より良く評価されたい、といった自分中心の発想に囚われすぎて、自分を見失っているだけといえるでしょう。

人が新たな達成を得る時は、「何かを身に付ける」ではなく「元々あったものに気付く」だけです。



例えば「営業がうまくなる」とは、セールストークや商品知識を身にまとうことではなく、「相手の気持ちを相手の立場で聞けるようになること」です。

自分の思い込みや利益を一旦捨て、一切口を挟まずに相手の悩みや夢に耳を傾けられる自分になることです。

達成や悟りはいつも期待を下回って素朴なものです。大きな感動や偉大な達成は、いつも「やればできる」、「練習の成果」、「お客様のおかげ」など、シンプルな言葉で表現されます。

むしろ、心からそう思えない限りは、そう思えるようになるまで、何度も何度も現実から波状攻撃のようにボディブローを食らわされるのが人生だといえるでしょう。



そして、利己的な執着を捨て去った時、そこに元からいた素朴な「自分」の姿に気付き、「なんだ、自分ってこういう人間だったのか」と悟る…。

つまり、人間とはどこで何をしようが、結局は「あるべき自分」や「元からそうだった自分」に立ち戻る行為を続けているのであり、それを受け入れられるかどうかが幸せを決めるといえます。

2年ほど前に、「運がいい人とは、良いことが起きる人ではなく、起こったことに感謝できる人だ」という言葉を紹介しましたが、これともつながる境地でしょう。



道元は「学ぶとは、自己を習ふなり」という境地に達し、人生で起こる全てのことは修業であり、我執を捨てて自然の法則と一体調和の境地に達することが人のあるべき生き方である、と説いています。

「学ぶ」とは、本来あるべき自分の扱い方を知ることにほかならず、人は知識や考え方を学んでいるようであっても、実はそれらは「自分」を学ぶ手段や鏡に過ぎず、そこで見える自分を認めるかどうかが大事だ、ということです。

ですから、バイト、サークル、ゼミ、勉強、就活、仕事など、表面的にやっていることや触れている情報、知識は異なっていたとしても、そこではいつも「本来あるべき自分」が待ち受けており、「早く素直になって気付いてくれよ」と見守っているともいえるでしょう。



僕は26歳で倒産スレスレの経験をして以来、「見性成仏」という考え方が本当に大切だと、平安時代や鎌倉時代の本から教わりました。

人の中には既に尊い姿があり、それは誰の中にも等しく存在する人間の本質で、他人はそれを気付かせることしかできない。

人が人を変える、個人が社会を作り変える、などといった発想は現代人の思いあがったエゴに過ぎず、できるのはただ、「本来あるべき自分」、「そうありたい自分」に気付かせるささやかなきっかけ作りに過ぎない…。



見性の「性」とは性別や男女の差ということではなく、「その人が持つその人らしさ」といったほどの意味で、絶対に「こいつは分かっていない」、「こいつは何も知らない」、「オレが教えてやろう」、「分からせてやる」などといった接し方をしてはいけない、ということ。

「成仏」とは、道元や親鸞が生きた頃の意味で言えば、現代的な「亡くなる」という意味ではなく、「仏の道にかなうこと=人としてあるべき姿に到達すること」です。

要するに、「見性成仏」とは、「その人の中に既に存在している尊い姿を信じて根気良く接し続け、ただその姿が引き出されるよう、虚心坦懐に奉仕させていただく」といったような意味です。



僕は別に、何らかの信仰上の理由からこんな話を書いているのではありません。ただ、このような心掛けは就活や営業、スピーチでも大事だと思っているし、ましてや僕より10歳近く若く、素晴らしい才能を持っている学生さんたちと接する時は決して忘れてはいけない、と考えています。

学生の皆さんは、既に尊い自分や、時を得て開花すべき偉大な才能を持っているのです。それを、自己過小評価や過去の失敗、自信不足、気後れなどの錯覚から正しく捉えられていないだけ。

学生さんがどれだけ「私には無理なんです」と言おうと、あるいは経験的に未熟であろうと、僕は学生さんにその才能や可能性が「ない」とは思えません。「ある」と信じるからこそ、あれこれ手を尽くして、これだけは間違いない、という知識や経験をお伝えするのです。



FUNに入って半年くらいすると、よく学生さんが「自分が変わった」とか「考えが変わった」と言うのを聞きます。普段の学生生活では接しない経営者や年長者に会い、実学的な経営や会計を学べば、表面的にはそう思うでしょう。

しかし、僕はそういう時、必ず「自分で考え始めただけだよ」とか「自分を思い出しただけだよ」と言うことにしています。

少なくとも、「変える」のような他律的な思い上がりで接することだけは避けねばならない。自分が手を尽くして変えるのではなく、自発的に変わる手助けをする引き立て役に徹しなければならない、とはよく考えていることです。

なにせ、「学ぶとは、自己を習ふなり」なのですから。



FUNで教えてきたこと、あるいはこれからご提供していくことは、全てこの考えの範囲内にあります。つまり「僕しかできないこと」ではなく、そうすれば誰にもできることであり、自分の創意工夫でいくらでもアレンジできる基本のみです。

それは突飛な知識やアクロバット的な技術ではなく、自分と今より少しはうまく折り合うための心構えや、先人の尊い知恵です。

僕は自分の独創的な思想を伝えようなどとは思っていません。僕ごときの未熟者にそんなことは大それた思い上がりです。それより、日本に伝えられてきた伝統や文化の奥深さを共感し、その延長線上で仕事や将来を考える仲間になりたいのです。



昔は「儲かって楽しい」とか「自分らしくてすごい」などということが生活の楽しみでしたが、今ではそういうことには虚しさを覚えます。

今生きていて一番幸せなのは、「歴史とつながっている」、「自分のやっていることが、日本のためにちょっとだが役立っている」という実感です。

自分を気にしなくなった所に幸せがたくさんあり、執着を捨てると自分が見えてくるなんて、昔は考えもしなかったことです。



今日は思いつくままにつらつらと書いてきて、意味が分からない部分もあったかもしれませんが、また1年後くらいに未熟者の悟りについて書こうと思っています。

大それたことや珍しいこと、無茶なことやトリッキーなことをしなくても、今ここに「あるべき自分」になれる全ての材料は揃っているのだと思うと、なんだか満ち足りた気持ちになってきませんか?



大きいことをやるのが自分らしさではなく、小さいことをどれだけ大きく優しい気持ちで受け止められるかが自分らしさです。

小さいことにもでっかく感謝でき、終わる頃には自分を全面的に受け入れて未来に同意できる就活を、ぜひ一緒に楽しんでいきましょう。




最終更新日  2008年05月11日 17時22分07秒
コメント(0) | トラックバック(0) | コメントを書く
この記事のトラックバックURL:
http://tb.plaza.rakuten.co.jp/nk1231/diary/200804240018/2df25/


■コメント

お名前
タイトル
メッセージ
・メッセージ本文は全角で800文字までです。
・書き込みに際しては楽天ブログ規約の禁止事項や免責事項をご確認ください
・ページの設定によっては、プルダウンで「顔選択」を行っても、アイコンが表示されません。ご了承ください。


<< 前へ次へ >>一覧コメントを書く一番上に戻る


Powered By 楽天ブログは国内最大級の無料ブログサービスです。楽天・Infoseekと連動した豊富なコンテンツや簡単アフィリエイト機能、フォトアルバムも使えます。デザインも豊富・簡単カスタマイズが可能!

Copyright (c) 1997-2009 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.