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2021年07月10日
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カテゴリ:テレビ番組


駒澤大学が創価大学を大逆転した第97回箱根駅伝(2021年) 復路10区の名勝負。『ブラタモリ』でスルーしていた常盤橋公園の渋沢栄一像を見ながら振り返る。そして、『ブラタモリ』で紹介していた常盤橋門跡から常磐橋へ。本日、常磐橋 10年ぶりに開通の日とは露知らず。「常盤橋」と「常磐橋」。どちらも同じ、「ときわばし」。すぐ近くに同じ名前の橋があるなんて!そんなことあるのか!あるんです。でも、ご安心ください。この動画を見れば、絶対に間違えることはないでしょう!映画『麒麟の翼』のように、刑事ドラマのトリックに使わないでください(笑)。同じ日本橋川に架かる橋なだけに!貨幣博物館も、おすすめです。
『新美の巨人たち』2021年7月10日(土) 辰野金吾『日本銀行本店本館』(重要文化財)×内田有紀 一枚の絵 辰野金吾が全身全霊を賭けて作り上げたという『日本銀行本店本館』は、3階建てなのに石の鎧を纏っているかのような存在感を放つ、円の屋根が目を引く建物。正面の堅牢な障壁、美しい列柱の回廊に囲まれた中庭、中に入れば博物館さながらの美の世界!明治29年竣工以来125年前の姿を保ち続けています。なぜ円の造形なのか?辰野を最も悩ませた金庫室はいかにして完璧に設計されたのか?窮地を救ったのは高橋是清だった!?辰野の建築が大好きだという内田有紀さんが日本銀行に潜入!数々の美の真髄に迫ります。
<Art Traveler>内田有紀<ナレーター>渡辺いっけい
日曜劇場『半沢直樹』の聖地巡礼 三井本館も、お忘れなく。
撮影日:2021年5月10日(月)


[常盤橋公園]
常盤橋公園は、江戸城の城門の一つ常盤橋門があった。昭和8年(1933)に財団法人渋沢青淵翁記念会(現在の渋沢栄一記念財団)によって復旧整備が行われた公園。令和3年(2021年)現在、工事のため閉鎖中ですが、2021年度中に一部を暫定開放予定。撮影したこの日、2021年5月10日月曜日13時に、常磐橋が開通。


[常磐橋門] 
五街道は、東海道、日光街道、奥州街道、中山道、甲州街道の順に整備されました。「街道」は、正式には「道中」なので言い直すと、東海道、日光道中、奥州道中、中山道、甲州道中の順に整備された、となります。この中の、奥州道中へと通じる玄関口に配された江戸城外郭の正門が常磐橋門です。1606年(慶長11年) から江戸城外郭工事が始まった。1629(寛永6)年に、奥羽の大名によって桜田門などと同様の枡形門に修築された。往時には外側に高麗門、内側に渡櫓門を配していた。現存の石垣は、枡形門の石垣の一部。創建当初は外堀の正門であることから「追手口(おおてぐち)」、また浅草へ通じていることから「浅草口」と呼ばれた。改名の上意を受けた町年寄筆頭・奈良屋市右衛門は、寄宿の浪人から「常盤(ときわ)」の名を得て、これを献上し、採用され、3代将軍・徳川家光が常盤橋門と命名。常盤橋門は、明治6年(1873年)に破却、3分の2の石垣が現存。江戸城の外郭門の中では最も保存状態がよく、昭和3年(1928年)に国の史跡として保存が決定。


NHK大河ドラマ『青天を衝け』あらすじ
第13回 栄一、京の都へ
2021年5月9日放送
渋沢栄一(吉沢 亮)と渋沢喜作(高良健吾)は江戸で平岡円四郎(堤 真一)の妻・平岡やす(木村佳乃)から一橋家のご証文を受け取り、無事京都へたどりつく。京都では朝廷が参与会議を開催。薩摩藩などが国政に影響力を持ち始める中、“一度全てを捨て、新しい世を作ろう”と語る松平春嶽(要 潤)に、徳川慶喜(草彅 剛)は静かに怒りを募らせる。一方、渋沢栄一からの文を喜んだ尾高長七郎(満島真之介)は京都に行くことを決意。しかし道中で誤って飛脚を斬ってしまい捕らえられる。栄一の文も見つかり、幕府から目を付けられた栄一と喜作は追い詰められる。


第14回 栄一と運命の主君
2021年5月16日放送
渋沢栄一(吉沢 亮)と渋沢喜作(高良健吾)は、平岡円四郎(堤 真一)から一橋家に仕官せよと迫られるが、渋沢栄一は徳川慶喜(草彅 剛)に自らの意見を建白することを条件に出す。平岡円四郎は遠乗り途中の徳川慶喜に2人を対面させ、屋敷で謁見させることに成功。渋沢栄一と渋沢喜作は、一橋家に仕官することになった。一方、徳川慶喜は、薩摩藩が天皇に信頼の厚い中川宮(奥田洋平)を取り込んでいることに気づく。中川宮を問い詰め、その場にいた島津久光(池田成志)らに“天下の大愚物、天下の大悪党だ”と言い放つ。


「青淵(せいえん)」という雅号について栄一は「青淵と云ふ私の号は、私が十八歳頃、藍香先生から附けて貰った。当時私の家の下に淵があって、その関係から私の家を淵上小屋と名附けていた。それから青淵と云ふ号が出来たのである」(渋沢栄一記念財団HPより抜粋)と語っている。尾高藍香(あいこう)とは、尾高 惇忠(おだか じゅんちゅう)のことです。「中の家」の裏口を出ると清水川清水川(しみずがわ)沿いに、渋沢栄一の雅号(がごう)“青淵(せいえん)”の名を冠した青淵公園があり、「青淵由来之跡の碑」が建つ。また、毎年11月から翌年1月までイルミネーションが点灯され、冬の夜の風物詩として親しまれている。


常磐(じょうばん)
• 常陸国(茨城県の大部分)と磐城国(福島県浜通り・中通り南部)の総称。三陸と合わせて、日本の東海岸を構成する地域。

  
常盤橋門・常磐橋の歴史
1606年(慶長11年) - 江戸城外郭工事が始まる。
1629年(寛永6年) - 出羽・奥羽の大名により外郭諸門(日比谷・数寄屋・鍜冶橋・呉服橋・常盤橋・神田橋・雉子橋)が築かれる。
1657年(明暦3年) - 大火、常盤橋門・常磐橋が修復される。
1703年(元禄16年) - 地震、常盤橋門・常磐橋が修復される。
1806年(文化3年) - 火災、常盤橋門・常磐橋が修復される。
1849年(嘉永2年) - 大地震、常盤橋門・常磐橋が修復される。
1855年(安政2年) - 大地震、常盤橋門・常磐橋が修復される。
1873年(明治6年) - 常盤橋門渡櫓(わたりやぐら)・冠木門(かぶきもん)などが撤去され、桝形石垣は残る。
1877年(明治10年) - 桝形石垣の多くは取り壊され、小石川橋門の石垣の一部を使って石橋「常磐橋」が造られる。
1917年(大正6年) - 戸川残花(とがわざんか)翁が市役所に常盤橋見附の保存を懇願。
1923年(大正12年) - 関東大震災後の大正15年に新たに常盤橋と新たな道路が建設され、道路によって桝形石垣の一部が切り取られる。
1925年(大正14年) - 常盤橋の保存を内務省及び復興局に陳情、史跡保存物として仮指定を申請。
1928年(昭和3年) - 国史跡「常盤橋門跡」に指定。
1933年(昭和8年) - 在団法人渋沢青淵(しぶさわせいえん)翁記念会による復興整備で、常盤橋公園が開園する。
1934年(昭和9年) - 常磐橋の補修工事が行われる。
1965年(昭和40年) - 常盤橋公園が千代田区へ移管される。
1969年(昭和44年) - 高速道路建設によって常盤橋門石垣が解体修理される。
1986年(昭和61年) - 千代田区により常盤橋門石垣が解体修復される。
2011年(平成23年) - 東日本-大震災の影響で一部の石のずれにより修復工事を開始する。
2021年(令和3年)5月10日 - 修復工事が終了し、通行が開始される。


奈良屋市右衛門(ならやいちえもん)
江戸町年寄の世襲名。初代は大和国奈良に居住していたが,1582年(天正10)に徳川家康に忠節をつくし,三河に移住したという。日本橋本町一丁目に180坪の居宅を拝領し,樽屋,喜多村とともに江戸の三町年寄として町支配を担当した。1834年(天保5)に館(たち)姓を名のることを許された。享保改革に際し,問屋仲間組合の結成に努力し,中心となって活躍したのは奈良屋であった。


日銀近くの常磐橋、10年ぶり開通 東日本大震災で被災
 東日本大震災で被災した都内最古の石橋「常磐(ときわ)橋」(東京都千代田・中央区)が10日、10年ぶりに開通した。今回、総工費36億円の大規模な修復を経て、明治の建設当時の姿が忠実に再現された。再開発エリアに隣接し、令和9年度に竣工(しゅんこう)を目指す高さ390メートルの日本最高層ビル「トーチタワー」とともに街の新たなシンボルとなりそうだ。(本江希望)
 江戸城外堀の正門があった国指定史跡「常盤橋門跡」内の常磐橋は、明治10(1877)年に木造から石造に架け替えられた。都教委によると、「磐」の字を用いたのは、部首が「皿」だとが割れて縁起が悪いことからだといわれているという。
 常磐橋の10年ぶりとなる通行再開は、新型コロナウイルスの感染拡大で、静かな幕開けとなった。(中略)
 文明開化の時代に誕生した常磐橋は、伝統的な石造技術と2つのアーチや大理石の親柱など、西洋的な意匠によるモダンな外観が特徴で、長さ約31メートル、幅約11メートルの歩行専用橋。東日本大震災で崩落の危険が生じたため、全面的に修復された。
 修復に携わった千代田区の環境まちづくり部道路公園課の坂牧興一主任(28)によると、橋を解体し約5000個の石を選別。当時の姿に復元するため、4分の3は、元の石を補修して使い、新たな石も、築造当初の産地に近い石を使用し、一つ一つ積み直していったという。
 「熊本城の修復も重なっていたので、数少ない文化財専門の石工(いしく)職人さんを集めることも大変でした」と坂牧主任は振り返る。
 震災から10年の節目に開通した常磐橋。安全性を確保するだけでなく、当時の写真に基づき、建設時に近い作りを再現。橋の欄干のデザインや水の流れを分散するために橋の側面に設置する水切石などは、今回の工事で当時の姿に近付けたということです。
(産経新聞 2021/05/10 21時00分をもとに加筆修正)


江戸東京の中心に位置する常盤橋門跡
国史跡 常盤橋門跡 昭和3年3月24日指定
千代田区教育委員会
 近世最大級の城郭を誇る江戸城は、雉子橋門から時計回りに神田川に至る約14 ㎞の外堀がありました。このうち常盤橋門は、江戸城外郭の正門に当たり、良好に石垣が残る城門跡です。 門の創設は慶長年間に遡り、現在見られる枡形石垣は寛永6 年(1629)に奥羽の大名によって築かれたものです。「江戸城外郭御門絵図」によれば、高麗門と渡櫓門を配置する枡形門で、門の前には木橋が架かっていました。2/3 の石垣が現存し、石橋修復工事により、その内部から3本一組の木杭による橋脚と橋台石垣が発見されました。明治時代の初め、東京の近代化の象徴として、城門に架かる木橋が、石橋に架け替えられていきました。その中で明治10 年(1877)に小石川門の石垣石材を使って、二連アーチ石橋の常磐橋が架けられました。その特徴は、当時は珍しい歩車道分離で、白い大理石の親柱や花崗岩による路面、洒落たデザインの高欄手摺柵など、文明開化の面影を残した橋でした。架橋当時から錦絵や絵葉書などに登場する東京の名所となっていました。現在も、常盤橋門跡周辺は、日本銀行本店本館など近代の文化財とともに、江戸・東京の中心地として推移した地域を示しています。千代田区では東日本大震災による解体修理を行っており、様々な資料をもとに常盤橋門の形や創建当時の石橋の面影を取り戻す工事を行っています。


日本銀行の呼称はどのように読むのですか?教えて!にちぎん
回答
「日本銀行」の読み方については、法律などで「○○と読む」と決められている訳ではなく、また、日本の国名を「ニッポン」と読むか、あるいは「ニホン」と読むのかという問題に似て、二者択一的に決めるのは難しいところです。ただ、お札の裏に「NIPPON GINKO」と印刷してあることもあって、日本銀行では「ニッポンギンコウ」と呼ぶようにしております。





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最終更新日  2021年07月10日 22時59分44秒
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