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野口三千三(1914-98)が創始した野口体操を様々な角度から紹介しようとするものです。
野口三千三の哲学、からだ・ことば、くらし、野口体操教室の活動状況等々… 野口体操教室は、野口三千三が主宰した唯一の教室です。 その教室は今も野口三千三に長年に亘って薫陶をうけた 弟子たちの手によって引き継がれています。 そこでは野口の哲学と、それをからだの動きで確かめようとする実技をやっています。 からだは道具ではない、からだは私自身です。 道具として鍛え上げようとはしていません。 「からだの動きの実感を手がかりにして 自分とはなにか、人間とはなにか、地球とはなにか、自然とはなにか を探検する営みを体操という」(野口三千三) ******************************** ●小冊子「野口体操教室の記録」 (108ページ/頒価1000円) ブログ「野口体操教室の日記」が、 1冊の小冊子としてまとめられました。 開設後、約半年分がぎゅっと詰まった、 密度の濃い1冊となっています。 -------------------------------- ●インタビューCD「野口体操と私− 野口体操は自分を生きること」 (約60分/頒価800円) 野口体操教室代表・高岸昭代が、自分 自身の野口体操体験を熱く語ります。 ******************************** とくに、こころやからだのケアなどに かかわる仕事をされているかたでしたら この小冊子とCDは、必見・必聴です。 ↑↑の小冊子とCDは おかげさまで好評の内に完売いたしました。 ありがとうございました。次の企画をおまちください。 -------------------------------- ●2006年5月のワークショップに参加された方の体験感想文を 右下のフリーページの欄に掲載させていただきました。 ★野口三千三の本がここから購入できます。 http://plaza.rakuten.co.jp/noguchitaisou/3000 ★メールマガジン ------------------------------------------ 野口体操教室──「重さは思い、思いはイメージ」 ------------------------------------------ が、2006年2月より、スタートしました。 このブログは過去のブログを編集するかたちで、 順に、お届けしていきます。毎週月・木発行。 メルマガ登録は、こちらからどうぞ。 ------------------------------------------ 野口体操教室の日記 [全1084件]
ここまで臀にこだわって来て、 いよいよ臀(尻・腰)の存在が、臀の存在の重要性が、実感されてきました。 つくづくと我がお臀を撫でてみたくなる心境です。 臀は、立ったからだから見るとからだの真ん中に位置し、脚と胴体をつないでいます。 しかし人が立つ以前、臀は直接足でした。 臀の働きを抜きにして立ったからだの動きは考えられません。 その「臀」と「臍」が共通に持っている愛らしさに野口三千三の優しい思いが注がれます。 「そこまで言うのか…」 優しい笑顔で参加者から感想が出ました。 そうです。 究めればそこから世界は広がる、と言います。 「臀を撫でる、お尻にさわる……適切なあり方で『うち・たたき』『重さをのせ』『愛撫』した時に、初めて臀はその重要な役割に充分にこたえ、限りない魅力を保つものではなかろうか。 臀は、明るく素朴で大らか、基礎的・根源的な逞しさ力強さ、ほんのちょっと粗野・下品・野卑、鋭敏で繊細微妙、くすぐり・ひやかし・はじらい……というような多義性・多様性を持っている」(野口三千三) 「そこまで言うのか…」 でもあり、 つくづくと我がお臀を撫でてみたくなる心境 でもあり、 ……では、他人の臀はどんなお臀? と気になり出し…、 みんなでお臀を撫であいました。 野口体操には、 「いち・にぃ・さん」の号令の変わりに 「大胆奔放・繊細優美」 という号令? 掛け声? 音頭?…で動く体操があります。 それは、臀の、 明るく素朴で大らか、基礎的・根源的な逞しさ力強さ、ほんのちょっと粗野・下品・野卑、鋭敏で繊細微妙、くすぐり・ひやかし・はじらい……というような多義性・多様性を包括した腰の動きです。
看護大学の講座を終えて、集められたアンケートで気になることがあります。 「ところでこれは看護や精神医療にどう生かしたらいいのでしょうか?」あるいは、 「どう生かされているのでしょうか?」 という質問です。 こんな質問は看護大学だけではありません。 「大好きな野球に、ゴルフにどう生かしたらいいか?」 「暮らしにどう生かすべきか?」 これにはちょっと驚かされます。 つまらない時間を過ごしてソンをした、とか、バカバカしいったらありぁしいない、 と思っているならともかく、野口体操をやったことに対する驚きや気づきが書かれた後の質問です。 そんなことには答えられないのです。 それだけでいいじゃないかと思います。 正しい方法論がどこかに用意されているのではないからです。 自分自らと関係のない方法論なんてありません。 自分と関わりなく何かを成し遂げることは出来ないのです。 自分が納得すればそこに工夫が生まれます。 自分自身が変れば方法論も変ります。 誰かに教えてもらった方法がどんなに素晴らしい方法だったとしても、それはその人のもので自分のものではありません。 真似ようが盗もうが、何を真似たか、何を盗んだか、それはあなたのからだを経過したあなたのものなのです。 しかし確かに、自分と関わりなくやろうとする人たちは多くいます。 感じるより先に記憶し、思うより先に策を練り、こうするのああするのと外側から固めて行こうとします そんな人を見ていると、自分自身をそっちのけにしているのです。 「動きのイメージは、分析的なものではなく、動的で、ある方向性を持った流れであり、総合的な直感によって創造された生きものである」(野口三千三)
定期健診で訪れた病院でドクターから言われました。 「根拠ある協力が出来れば理想的です。」 ドクターからさらりと出たコトバ、しかし疑いのない確信に満ちたコトバ、「根拠」。 「根拠」とは何を指すのか…。 実験・データー・エビデンスのようなことを指しておいでなのでしょうか…。 もうコートを持って立ち上がっていたことと、 「根拠ある協力が出来れば理想的です。」のコトバが気になってそのまま帰ってきました。 信頼できるドクターなので問うてみようとおもいます。 先生、「実感」では「根拠」にはなりませんか? 実感は個人的で孤独でその人だけの感覚です。 だからその都度新鮮に、そのもの・ことと一体とならなければなりません。 そのもの・ことを最初から眺めたり観察したり分析した結果は実感とは言えません。 その対象と一体となって実感することです。 対象化し観察しなおし分析し概念化するのはその後です。 やがて、同じことが全く違った感覚でとらえられたりします。 実感はその人の経験の深さにおいて変化します。 経験こそ実感だからです。 「感覚がとらえたことしか思考の材料にならない。思考しないと行動できない」(野口三千三) 他の誰かのものではない、今のわたしの実感、これをわたしの根拠としたい。 データーを集め割り出された平均値ではない、今のわたしの実感、これをわたしの根拠としたい。 実感もまた変化するものであるのだから、感じる能力はいつも研ぎ澄まされ磨かれていたい。 「いま・ここ・じぶん」(野口三千三) 野口体操は、からだの中の実感の変化を生きることです。 そこから捉えた実感は、感じる能力を育てます。
看護大学で精神の授業を持っておいでの宮本真己教授と打ち合わせをしました。 木曜日に行われる講座を控えてのすり合わせです。 教授は「違和感」をキーワードに、精神の何たるかを究明し解き明かしてゆかれます。 看護師が足をすくわれるのは、 看護の過程で起こる患者との違和感・看護師同士の違和感・医師との違和感です。 精神の病で生き辛くなっている患者もまた親・友・職場・社会に違和感を持っています。 さて、その先どう対処するか、の前に、 自分の中に起こっている違和感をそのまま認め、受け入れることを説かれます。 膨大な資料・症例のもとに、教授独自の視点から“人間とは” “精神とは”を解きほぐしてゆく考察は吸い込まれる説得力があります。 その中に位置づけられているのが野口体操です。 「野口体操をやって分ったのは、すべての認識の前に、からだの方が先に感じとっているのではないか、ということです。 僕の場合、その感じる能力そのものが衰えてきました。」 真っ正直に打ち明けて頭を掻きながらこうも付け加えられました。 「僕の場合なだらかなカーブを描いて衰えてきたのですが、 精神の落ち込みは急激な感覚の衰えほど強く現れます。」 野口三千三は「違和感」と繋がることばとして「差異」をあげています。 「差異ということはあらゆる存在(働き・現象・認識・動き)の前提である。というよりも、差異こそ存在そのものであると言いたいのである【唯差異論】」(野口三千三) とともに、こんなことばも遺しています。 「豊かさとは『ちょっと・少し・わずか・かすか・ほのか・ささやか・細やか……』というようなことを『さやか』に感ずる能力から生まれる」(野口三千三) 看護の以前に、 看護する自分のからだの裏(うち)には、今、何が起こり何を感じているのか…、 自分のからだの裏(なか)に今起きている微かな感覚を捉えられなくしたのは何故なか…、 看護師の卵たちとの濃密な時間がたのしみです。
野口三千三のことばを味わい尽くしていると、 今まで気に掛けていなかったり忘れていたこと、あるいは 気にかかっていたけれど横目に見ていたこと、実はからだの裏(うち)にあったこと…、 に光が当たることがあります。 「人間にとって『うち、たたき』の動きは『戸をたたく(門をたたく)』『肩をたたく』などでもわかるように、具体的な動作から抽象的な意味を持った人間の行為にまでの、多義性を持った働きであり、コトバなのである」(野口三千三) 「うち解ける」がそれでした。 「解」は野口体操にとって抜き差しならない大切な字です 「うち・たたき」と「解」が一つになって「うち解ける」になります。 そうか…、 「解(溶)る」には「うち・たたき」が必要なんだ…、 「うち・たたき」如何によって「解(溶)る」ことができるんだ…、 固まっていたものが解(溶)ける。 難問が解(溶)ける。 関係が解(溶)ける。 「説く」だって、 説く側の「うち・たたき」された内容が、聴く側の「うち・たたき」されたからだの中にだけ染みとおる。 「梳く」も 固まりからまった髪の毛を梳く(すく)ことそれ自体が「うち・たたき」の行為。 そこで今日のからだの動きは「背中の対話」から始めまりました。 背中合わせになった二人が「うち解ける」動きです。 触れ合っているところから腕・脚の先までうち解けるには、何より脳味噌を解(溶)さなければなりません。 そしてこれが一番難しいのでした。
14日、第二土曜日、 ☆★大阪で野口体操教室を★☆ 五期・三回目が行われました。 異例の出だしでした。 日曜日、同じく大阪で講演がある阿部常正先生と高田馬場で待ち合わせてご一緒しました。 いつもは新幹線の車中でもう一度じっくり板書の整理をするのですが、 阿部先生から「さあ、座禅をしましょう」と誘っていただきました。 先生は座禅とはおっしゃらず「黙って静かに座る」と言われます。 新幹線の椅子に腰掛けたまま、ほぼ一時間、黙って座りました。 始める前には必ず、「何も念じない、何も思わない」と呟かれます。 それが先生の座禅をやるに当たっての唯一の助言です。 名古屋を告げる車内放送がけたたましく鳴り響き…、終わりました。 大阪の教室は静かで熱気があり、孤独で家庭的です。 思えばどの教室も同じような空気があります。 野口体操の特質である自分の内側を感じ取ろうとする繊細な感覚が深い静けさとなります。 「でも…、自分のからだは自然体であるはずなのに…、自然な動きができない。」 その現実に直面します。 伝え手もそこは見逃しません。 いえ、出来ないことを見逃さないのではありません。 自然な動きから遠のかせているのに、それが何であるか本人も気付いていない道理、 そこに助言をしてあげられたら、と思っているのです。 そんな時、孤独な静けさが破れ、熱気が広がり共感が家庭的にさせます。 けれども、こんな人がいます。 「優しくしてほしい。ほめてほしい。」とアンケート用紙に書かれてありました。 上に「もっと」と書いたのを二箇所とも黒く塗りつぶしてありました。 願いの強さを抑制した行為から、彼の本根が伝わってきます。 彼は前回、「多少、“おおめに”みてください(大きい心で)」と書いてよこしました。 はい、わかりました、と答えました。 でもそれだけではイヤだったのですね。 「もっと、優しくしてほしい。もっと、ほめてほしい。」だったのですね。 伝え手も、受けと取る彼の「優しい・ほめる」の欲求の出所も内容も分らない。 受け手の彼も、伝え手の「優しい・ほめる」の根拠も内容もわからない。 関係の真ん中に野口体操を挟んで時間を掛けて分かり合ってゆきます。 からだの動きにそのすべてが表出されていると確信するからです。 それが野口体操の「何も念じない、何も思わない」時間です。 「協力の在り方がだんだん進んでくると『協力』ということばが邪魔になってくる。……このようなことばの全部をふくみ、そのどれも意識していない在り方なのである。やはり、『無』の状態としかいいようがない。(私としては『空』という方が好きなのだが)そんな在り方が出来た時……そして、少し間をおいて、なんともいいようのない『いい感じ』、それは格別ないい感じなのである。」(野口三千三)
人間関係の中で、当然のようにやられている“配慮”に疑問を持つことが度々あります。 その配慮が無意味だったり取り越し苦労だったりしていることも多く、 それより何より配慮することが、実は、 本当に必要な配慮をさせなくしていることに気がつくからです。 そんな場合の“配慮”は、そこそこまあまあ生きてゆくにはもってこいです。 これこそ美しい在りようだと教え込まれ、頭ごなしにそのとおりに守っている人もいます。 誰のための遠慮なのか…、 誰のための心配なのか…、 相手よりは自分のための守りの場合が多いものです。 からだの動きで確かめてみました。 二人で組んで交代で相手のからだを「うち・たたき」ました。 切実な関係の切実な動きです。 「自分の気持ちを相手の裏(なか)に生(なま)のままでそっくりそのまま直接つたえようという願いや祈りをこめてでたたく場合」(野口三千三) です。 その目指す先はここです。 「そのものの裏(うち)に滞在する測り知れない能力(霊力・生命力・活力・呪力)を活性化し、発現することを期待し、祈って叩たたく場合」(野口三千三) ここでも、“配慮”が裏目に出ました。 遠慮や心配で目指すところも見失います。 誰のための遠慮なのか…、 誰のための心配なのか…、 切実な関係を持とうとしないのか、持ちたくはないのか…、 やるでもなく、やらないのでもなく、何をしたいのか…、 どうしていいのかわからないのか…、 からだを知ることはそんな無駄な配慮から開放してくれます。 間(ま)、距離、力加減、リズム…の基本を学びます。 一人ひとりの違いは、相手のからだから学びます。 「うち・たたき」する側も、される側も 「すみません、だいじょうぶ…?」から 「イタイの?だいじょうぶ…?」から、 やがて、教室がはじけ「新しい変化・動きを引き起す」のでした。 |一覧| |
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