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野口体操の「逆立ち」は、二人でやる逆立ちです。 「ふつうの逆立ち」と呼んでいます。 やがて一人でできるようになるために二人でやっているのではありません。 逆立ちをする者とその人に寄り添って共に逆立ちをする者は、 ずっと二人の逆立ちをやります。 それが自然でふつうだからです。 なぜって、関係こそが人間らしい営みの基本です。 そして、人間の関係は二人から始まっています。 しかし、その一人ひとりは自立していなくてはほんとうの関係は取れません。 「ふつうの逆立ち」は、人間関係における基本的な問題を見事に捉えています。 「包助」と「包助者」 「包助」のある逆立ちは「ふつうの逆立ち」です。 「包助者」は、「ふつうの逆立ち」をする者に寄り添う協力者です。 この両者がいなくては「ふつうの逆立ち」は成立しません。 今週は日曜日・火曜日の教室ともに「包助」だけをやりました。 逆立ちはスタッフの寺島康子がしました。 「足で立った状態から『重さという生きもの』になったからだが、自らの重さのエネルギーだけで、逆さに立ってしまうという在り方なのである」(野口三千三) 「ふつうの逆立ち」に誰よりも近い逆立ちをする寺島です。 その寺島も、「包助者」によっては立てません。 「包助」なしでは野口体操の「逆立ち」とは言えません。 そして、「ふつうの逆立ち」でどうしても大切なのは、寄り添う側「包助」です。 誤解をされています。 逆立ちをする人が「主役」だと。 一人で逆立ちができるのが技術的に上位だと。 この誤解があるからだけなのでしょうか? 「ふつうの逆立ち」をするとその人の普段の人間関係が見えてきます。 受容、信頼、協力の内容があいまいになり、具体的ではなくなります。 自分がやってもらいたいこと、自分が安心できることすら不確かになります。 関係そのものが取れなくなります。 さらにはっきりすることは、それでも自分のやり方を換えようとはしないことです。 もっと言えば、自分はそうはやっていないと思っていることです。 そもそもは、自分がそうなっているとを感じないことです。 いろいろ言い分もあります。 「包助」は、その言い分を充分出し切るのに、絶好のからだの動きです。 「逆立ちすることよりも、よりよい『包』になることが、全人間的には重要な問題だといいたい」(野口三千三)
火曜教室は、イギリスから帰った花崎摂の授業が行われ、 久しぶりの花崎の授業をたのしみました。 そのときの経験を相馬律子が寄せてくれました。 彼女は、月一回やられている「課外授業」のメンバーの一人です。 【相馬律子の野口体操 ――「脳点一点逆立ち」と「生卵が立つ」ということ】 「前回に引き続き「逆立ち」のレッスンが行われた。 野口体操では、 中身のあり方が重要であり、その動きに必要な中身のあり方がある、と言われている。 今日は、生卵とうで卵で中身のあり方が異なることにより表出される動きが違う、 ということを経験した。 ゆで卵はひねりを加えるとくるくると独楽の様に回り続けるのに対し、 生卵はまわす側の思うようには動かない。 次に生卵を床に立てることを行った。 生卵の中身は液体である。 生卵の中身を感じながら立てようとするのだが、立つ瞬間には今までの迷いがなくすッと立ってくれる。 教室の全員が卵を立てることができた。 今日行った「脳点一点逆立ち」と「生卵が立つ」ということは同じ「立つ」ことの原理を含んでいる。 「脳点一点逆立ち」をやってみて、痛みや、からだが力んでしまう感覚の方が強く感じられ、私の中身が生卵の様に液体にはなれなかった。 まっ直ぐ立つということと自分の中身のあり方との関係が「逆立ち」をすることでハッキリしたレッスンでした。 中身のあり方を色々な動きで探っていきたい。」 「立っている生卵は、美しいということ、正しいということの基礎原理『当たり前(当然)』と、動きにおける一般理論『信ずること→任せること→ゆとり(余裕)-新しい可能性』を私に教えてくれているのである」(野口三千三)
大阪の教室からKさんがお出でになりました。 「期に一回、東京教室に参加できます」 という特典を利用しての参加です。 けれどもそんな規則を超えて、Kさんいつでもどうぞ、と待っています。 Kさんには、大阪教室のみんなが余りあるほどのお世話になっています。 静かに見守ってもらっており、何かコトがあればとっさに判断して必ず動いてもらえる、 そんな信頼を負担感なく持っていられます。 それほど悦んで楽しんでみんなと自分をつないでいるKさんなのです。 Kさんと触れ合っていると、野口先生のこんなことばを思い出します。 「すべての人間にとって一番大切なものは優しさである。一体、人間にとって優しさより大切で、優しさより強いものが他にあるだろうか」(野口三千三) 「健康」の「康」は、大和ことばで言えば「やすらか」です。 いつでもどうぞ、とみんなが待っているMさんもお出でになりました。 「老いても人の役に立ちたいのです。」 今Mさんは、野口体操教室を月一回にして集中的に学校に通っておいでです。 Mさんならではの着眼で、それがやがて野口体操と結びついて新しい道が拓く予感です。 日曜教室は、そんなお二人の参加を得た今日から、「逆立ち」のコーナーに入りました。 「逆立ちになったとき大切なことは、新鮮で繊細で余裕のある開放の実感が明確になることである」(野口三千三) 今まで学校教育でやられてきた「倒立」ではない「逆立ち」。 その意味するところを伝えたいと熱が入り興奮しているのは伝え手です。 ところが、 「静かな興奮を感じています」 Mさんならではのことばです。 実に、からだの内や感情が「なみ・うず・らせん」となって感じられます。 つたわった、通じあった、伝え手のおおきなよろこびです。 二人が加わってて教室は泡立ちました。 「逆立ち」の意味するところがさらに鮮やかになりました。
「脳点一点逆立ち」から「普通の逆立ち」に入りました。 もちろん、「脳点一点逆立ち」をやりたい人はそれを深めます。 野口三千三は何故、「脳点一点逆立ち」を「普通の逆立ち」の前に位置づけたのか。 「脳点一点逆立ち」は、頑張らない実感をより持ちやすいのです。 頑張らない感覚とは、不安定を安定と感じられる感覚です。 掌で立つより脳点で直に立つことの方が、その感覚を捉えるのはより可能です 実際の暮らしから見て、 胴体から肩関節へ、そこからつながる腕のながれは、 胴体から股関節へ、そこからつながる脚のながれに比べて大変不自由です。 つまり肩関節の方が真っ直ぐではないのです。 掌で立つことはその分不安定で頑張ろうとします。 だから、先に「脳点一点逆立ち」で 頑張らない感覚、不安定を安定と感じられる感覚を充分からだに憶えさせておくことが肝心です。 野口三千三は何故、「ふつうの逆立ち」と呼ぶのか。 「倒立」ではないからです。 「逆立ち」の方がほんとうの(ふつうの)逆立ちだからです。 さらに、「包助」と一緒になって二人で逆立ちをします。 「脳点一点逆立ち」も「普通の逆立ち」も、「包助」と一緒に二人で逆立ちをすることも、 共通の基盤は頑張らないことです。 Sさんにはいつも教えられます。 先週も今日も積極的に自身の在りようを確かめられました。 これではないな…、と思いながらも、今それしか出来ないから、自身も承知の上であえて、 「頑張る脳点逆立ちなら筋肉で立つことはできます。」と、 汗をかきながらやってみせてくださいました。 「脳点一点逆立ち」も「普通の逆立ち」も、誰が見てもカタチは整っていました。 しかし、 「足で立った状態から『重さという生きもの』となったからだが、自らの重さのエネルギーだけで、逆さに立ってしまうというあり方なのである」(野口三千三) ではありませんでした。 今までそうやって来て、これからもそうやって行ってもそれで充分通用するやり方を、 ここまで来て本気で見直そうとされているSさんです。 これは違う、これではない。 違和感はSさん自身が直感されています。 ほんとうに気持ちのいい「逆立ち」がSさん自身のからだの中に在ります。
「あなたは今、原初生命体ですか?」(野口三千三) 野口三千三は、自分に、そしてわたし達に問い続けました。 「あなたは今、原初生命体として生きていますか?」 2011年の今日、今、人間は進化の極みにいます。 一人ひとりの進化においても同じことが言えます。 おそらくもっともっと進化し続けるでしょう。 どこまで行くのか、その計り知れなさに夢を抱く人もいれば不安を持つ人もいます。 しかし、実は、このからだは生命の起源からの38億年の記憶が刻み込まれています。 その以前、地球誕生からの記憶と言うべきでしょう。 忘れていると言っても、しょせん現在の私の脳が忘れているだけ。 現在生きているからだはその38億年の記憶と蓄積なしには存在しません。 2011年の進化したこのからだと、 同じからだの中に在る38億年前の生命の起源における「原初生命体(コアセルベート)」とが、行ったり来たりする経験が「体操」です。 その経験をする時間が体操の時間です。 自分はからだが硬いとか、今こんな問題を抱えているとか、何か気づきが欲しいとか、 現在の進化し切ったからだの側だけに立ってその課題をなんとかしようとする問題解決の場ではありません。 ただ「原初生命体」に遡る ただ「体操」をする。 自分の裏(なか)に刻み込まれて在る38億年前の世界を、 ひたすら実感したい、味わおう、とすることこそが一番やられなければならないことです。 2011年を生きるからだは時々方向を見失います。 進化といわれる情報が頬笑みながら手招きします。 手招きされた方向に乗って行けるかと足を踏み出しても、からだは付いて行けません。 凝り・不自由さ・痛さ・硬さ…として感じられているそれを、疾患と言ってしまう前に、自らの中に生き続ける原初生命体に遡ってみよう。 原初生命体と行き交う時間をたっぷり持って、からだはほっとします。 わたし達は、そこから始まったのですから。
花崎 摂がイギリスから帰ってきました。 卒論で根を詰めて体調を崩し、帰国が遅れたのでした。 火曜日の教室は、花崎と交代でやってきました。 少し落ち着くまでからだを馴らす期間は取ることになるかもしれませんが、 教室は再び今までのリズム、二人の伝え手の交替に戻ることになります。 野口三千三が遺した教室で、 わたし達は野口三千三が創始した野口体操の「検証と継承の授業」をしています。 わたし達とは、五人のスタッフと教室に参加されている全ての人たちを指します。 たった一日だけ覗きに来ただけの人や、すぐ止めてしまったひとも含まれた全ての人です。 何が気に入らなかったのか、何故止めてしまわれたのか、 思い当たることも、皆目意味の分からないことも、スタッフ会議で一つ一つ話し合われてきました。 反省すべきこと、譲れないことがつぶさに話し合われ、授業の内容を深めてきました。 その上で、スタッフ一人ひとりの視点を変えた切り口と個性で授業が展開されてゆくことは必要だと考えています。 イギリスから帰った花崎の、新しく捉えた野口体操をお楽しみいただけるのも間近です。 教室は、今日から「逆立ち」に入りました。 「健康とはなにか」(野口三千三) の項の一番最後に、野口三千三が「逆立ち」を持って来たのは何故か? 「筋力によって、ゴマカシ・デッチアゲ・ゴリオシ……のむりやり倒立の罪悪を考えたことがあるだろうか」(野口三千三) その罪を明確にするには、 今までの「倒立」から「逆立ち」へと、概念を変えねばなりません。 それは、からだとからだの動きのイメージを根こそぎ変えることでもあります。 「逆立ち」は、時間をかけてゆっくり自分のものにしてゆくに価値あるからだの動きです。
【☆★大阪で野口体操を★☆――そんな探険をしていることの大きな意味】 大阪で5年目、九期の教室が幕を開けました。 伝え手は、そこに受け手がいて、そのひとたちから学ぶことで力になってゆきます。 今期は18名のグループですが、新しい参加者が6名です。 この新しい6名とどんな関係を持ってゆけるだろうか…。 野口体操を間にしてそれぞれの課題をどこまで深めてゆけるのか…。 まだ始まったばかりのドキドキわくわくはハネムーンの感覚に似ており、 すべてはこれから知り合ってゆくことになります。 あとの12名は実に頼もしい。 この中に、4年間一期からお付き合いを頂いている方が5人もいらっしゃいます。 4年前からの人と6ヶ月前からの人、期は違っても12人は交じり合って、一つの調和を成しています。 受け入れる側と新しく入ってきた人たちの関わりが実にいいのです。 大阪にこの12名の野口体操のグルーップが在って、そのグループが月一回一堂に会して 「からだの動きの実感を通して自然とは何か、地球とは何か、人間(自分)とは何かを探険する営みを体操という」(野口三千三) 大阪で、からだの実感で、そんな探険をしていることの大きな意味が感じられて来ました。 これは手前味噌でもなく、大げさでもなく本当にそうなのです。 すべては1人から始まる、と言われます。 そのとおりです。 その一般論を具体的に見せてくれるのが、この1人×12人のグループです。 教室の前とあととは違う。 まして4年前とは確実に違う。 その変化がお互いを信頼させ、その変化の中でつながっているのです。 教室がこの12人の内容を持って熟してきたのです。 そこにスタッフや伝え手が同席させてもらっています。 このグループは教室以外で集って何かをしているわけではありません。 教室が終ればそれぞれの場に帰ってゆきます。 しかし、つながっているのです。 たった12人(やがて新しく加わった5人、来月からの一人も加わって18人になるでしょう)から生まれるもの。 そのつながりが生んだものは必ず世界を変化させてゆくことでしょう。 それを確信できるようになりました。 それを繋いでいるのが野口体操です。
うーん、今日の授業は疲れました。 終ってから授業のからだを解くのに、しばらく時間がかかりました。 基本的で本質的なことを地道にコツコツと…。 それを何より大切にしています。 大自然という大きな視野の中に身をゆだねるために、 だから、どうしても身につけておかなくてはならないことは、 基本的で本質的なことを地道にコツコツやることの中にあります。 むやみに息をつめて頑張ることが地道にコツコツだとは思えませんが、 だらだらやっていても何の発見もありません。 繊細で緻密な感覚が大切になります。 長年の付き合いのある美容室の先生は、サッカーを趣味とされています。 もう50代になるからだで、一週間に二度も練習試合を粉すほどの熱心さです。 強引な父親ではない彼ですがその思いは熱く、三人の子供にもサッカーを教え、 現在は三子の長男だけがプロを目指しています。 美容室に行くとそのほとんどがサッカーの話です。 彼は確信をもって言います。 「いい選手には、地道にコツコツと繰り返し練習して自然と力が抜けないとなれません。」 つまりは、そのことが出来るようになって始めて力は抜ける、というのです。 「それには、地道にコツコツと繰り返し練習するしかないと思いますけどねえ。」 どうどう巡りのようですが、明快で説得力がありました。 挟みを片手に訓練でやる反復練習の動きをフロアーでやって見せてくれました。 興味を持っていろいろ質問をしました。 見て聴いて思いました。 たぶん、サッカーの練習は部分割りしてそれを繰り返し練習するのだろうか。 その部分は個人に負かされていて、それを繰り返す中で個人的に感覚が開かれ力が抜けてゆく。 その上で、全体でそれをつないで流れをつくってゆくのではないか。 野口体操はどうか。 からだの中身が体液として捉えられているのか? その体液の重さを感じられるか? からだの動きはからだの中の体液の流れだと実感できるか? からだの重さを感覚すること、重さの流れをからだの中に創ることとは、 いきなりまるごと全体から始めることです。 最初からからだの力が抜けていることを要求されます。 この得体の知れない違和感が観念を超えて、一つの実態となって感覚されるまで繰り返すしかありません。 地道にコツコツと。 力が抜けて初めて現れる世界です。 「『頑張り』がなくなった時、『重さ』が主役の『透明な力』の世界が現れてくる」(野口三千三)
今やどんな病気も、当人に告知されます。 もう20年も前、弟の癌を主治医が弟に直接告知して家族はおろおろしました。 まだあの頃は、告知ということばすら社会的な課題でした。 では、精神の病気も他の病気と同じように認識されているのかと言えば、 決してそうではありません。 家族すらそれを認めようとしない、 他人には知られまいとし、他人もまた、聞くのをはばかるだけでなく陰で噂をする。 当人は、 知っても対応できないからか。 知的な衰えがおこり、客体化できる力も衰えるからか。 それとも知ってもしあわせにはなれないからか。 自分のことは自分が知る権利があります。 なのに、彼等はほとんど自分の真実を知らされているとは思えません。 嘘を言わないのは当然のこと。 出来るかぎり本当のことを言う。 そうやってきました。 信頼関係がそこにあるとしたら、そのことが一番の理由だと思うぐらいです。 今日は、「老い・死」に終始してしまいました。 ああ、今日は何とか無事にここに来れました。 ――みんな笑っています。 この病院への往復はバスです。 片道1位間以上はかかります。 最近、往きで眠ってしまって終点まで行ったことが二度ほどありました。 ――三回でしょ!? え? ああ、そうかあ…、 でも、終点まで3つほどしか停留所がありませんから、実際に遅刻をしたのは一度きりです。 帰りは、 お客さん、終点ですよお。 なんて肩を叩かれることが何度もあります。 乗り物で眠ってしまうなんて、以前には考えられなかった。 しようがないなあ、年取ったなあ…。 ――頷きながら、身を乗り出してきます。 脅しをかけているのではありません。 やがてやって来るのではなくて、今、この瞬間も老いに向かっています。 みんなに年を考えたって、もうそんなに時間は無いのです。 形のあるものは壊れる 腐らない生ものは不自然でしょ? 生きているものは死ぬ。 ほんとうの財産はこのからだしかありません。 放ったらかしておくなんて、もったいない。 自分のからだを味わい尽くしてから死んでいかなきゃ。 ――彼等は死を受け入れる力も持っています。 じぃーとしていては、からだの中には何も起こらない。 頭の中でグルグルと考えているだけでは。からだは何も言ってくれない。 何を味わったらいいのかも分からない。 自分のからだの中身を味わい尽くしてから死ぬ。 うん。いいことばだと思うなあ。 どう? いいことばだと思わない? ――もう一度笑ってくれました。 どうやったらからだの中身が感じられるのか、 どうやって味わうか、 一緒にやってみましょう。 「そのぐらい実感というものは、ある意味ではあやしいんです。あやしいからこそ、私たちはもっともっとそれを確かめる作業をやらないと、生きているすべての事柄がほとんど宙に浮いてしまうようなことになりかねません」(野口三千三)
教室が始まる20分ほど前、その方は突然お出でになりました。 「今日でなくても、また次のチャンスでいいのですが、見学させていただけませんか。」 ホームページから此処にたどり着いたとおっしゃいます。 本来から言えば事前に連絡をもらって、お話ができる時間を取って来て頂いています。 でもそんなことでお帰りいただくわけにはいきません。 青梅からです。 20分ほどの間にお聴きしました。 以前、格闘技をやっていたこと。 又からだを動かしたいと思って少しからだを動かし始めたこと。 そうしたら、自分のからだが思った以上に硬くなっていたこと。 柔らかいからだを取り戻したいと思って、パソコンで検索して此処に来たこと。 「私は、生きるということの中で自分自身の『まるごと全体』が、オパーリンの『生命の起源』における『コアセルベート』の未分化・全体性のあり方とそっくりそのまま、重なり合い解け合ってしまうのを実感するのである。私は、この状態を原初生命体と呼んでいる」(野口三千三) 「水袋」を手に、このお話しをました。 ほんの20分やそこらでどれだけ伝えたいことが伝えられたか分かりません。 相手の表情を感じながら、手探りのやりとりです。 Oさんとおっしゃいます。 しかし、Oさんの出現で今日の2時間の予定はすべて変更されたかと言えば、全くそうではありません。 お陰様で、基本の基本を丁寧に繊細に確かめることができました。 主題は、 「絵画・書道においては、直線を描くことが基本だと言う人が多い。 動きにおいては、重さの方向(地球の中心への方向・鉛直線)に、からだの主軸を一致させる感覚が基本となる。それは、どのような体勢になっても、地球の中心がどの方向かを感じ取る能力、といってもいい」(野口三千三) でした。 この難解で高度な主題は、誰でも知っている単純な動きで確かめられました。 実は、生きた人間の単純明快な動きの中にも、この能力がそなわっているからです。 誰でも日常の中でやっている基本のそのまた基本の動きです。 Oさんに、途中何度か皆さんの動きをみていただきました。 「すごい…」とその度に言われました。 その声を聴いて、伝えたかったこと・感じ取ってもらいたかったことが 伝えられ感じ取ってもらえたがわかりました。 終って、今日の経験を話してもらいました。 「からだとこころが一つでなければ何もできないんだなあ、と思いました。 自分はからだとこころは別になっているなあ、とはっきり分かりました。」 何もできなくて、ほとんど突っ立っていることしかできなかった二時間。 それなのにぐっしょり汗をかきながら、Oさんが経験されたからだの中身は きっと豊かな動きだったろうと思われました。 「柔らかいからだとはどういう状態を言うのか」 少なくとも、求めてお出でになったことへの洞察がここから始まろうとしていました。 │<< 前のページへ │一覧 │ 一番上に戻る │ |
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