カテゴリ:本の感想(海外の作家)
ベン・ライス(雨海弘美訳)『ポビーとディンガン』 Ben Rice, Pobby and Dingan ~アーティストハウス~ アシュモル・ウィリアムソンの妹、ケリーアンには、「特別な人にしか見えない」友達がいた。ポビーとディンガン。アシュモルも、父のレックスも二人の存在を信じていなかった。 レックスは、鉱山でオパールを採掘するため、家族とともにオーストラリアのライトニング・リッジにやってきた。 ある日、レックスは、ケリーアンに、ポビーとディンガンが存在しないことを認めさせようと、ケリーアンが学校に行っている間に、鉱山に連れて行くと言い出した。 その夜から、ケリーアンは具合が悪くなり始めた。ポビーとディンガンがいなくなった、鉱山で死んでしまったのかもしれない。彼女はそう主張し、食べなくなった。 二人を探すために鉱山に行き、盗掘疑惑をかけられる父。日に日に衰弱していくケリーアン。二人を助けるためには、ポビーとディンガンを-あるいは、二人の死体を-見つけるしかない。少なくとも、ライトニング・リッジの人々に、二人を探すふりをしてもらうしかない。こう考えて、アシュモルは二人を「探す」ために奔走する。 (以下の感想では、多少オチに言及しています) 数年ぶりの再読です。書店で、珍しく衝動買いをした一冊。 アシュモルの一人称で物語は進みます。ポビーとディンガンなんてうそっぱち。ずーっとそういうスタンスで語っている彼ですが、自然と、スタンスを変えるときがくるのです。うそっぱち、架空の友達、見えない、でも、「いる」。最初は、少しぎこちなく、けれど、次第に自然と、そういうスタンスに移っていくのです。 彼の淡々とした語り口のせいか、最初に読んだときに感動したのは覚えているのですが、今回、なかなか泣けなかったのです。はて、泣けるのかな、と思ったのですが、物語が終わりに近づくにつれて、やはり涙しました。 ところで、人は、自分が関心を持っていることには、注意をひかれてしまうものだと思います。ある言葉を知ると(あるいは意識すると)、それから、よくその言葉に出会うようになる、だとか。なんのことはない、それ以前から当然のように存在している言葉を、意識するか、しないかの違いだと思います。で、私は中世ヨーロッパの説教について勉強を進めているわけですが、本書の最後の方でも、牧師さん(というからには、プロテスタントでしょう)のお説教があります。人々は、ありがたくその言葉を聞いていますし(少なくとも、そのように読めました)、牧師さんも、説教に対する意気込みをもっています。なにしろ、そのお説教に私も涙してしまいましたし…。先日読んだ『白い犬とワルツを』にも、説教について言及がありましたが、説教の重要性というものを感じます。 なお、「ポビーとディンガン」は、辻村深月さんの『子どもたちは夜と遊ぶ(下)』の章題の一つとして使われています。同書の紹介のときにも、少しふれておきました。その記事はこちらです。 ちょっと疲れてしまったとき、そんなときに読みたくなるような本ですね。 * 訳者あとがきによれば、本書はベン・ライス氏のデビュー作だそうです(他の作品は読んだことがないのですが…)。舞台の事情、アシュモルのある行動など、物語の背景を知るのに参考になりました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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