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カテゴリ:想うこと
芥川龍之介の晩年(昭和二年六月七日)の作品「手紙」の中にこういう一節がある:
僕はこういう話の中にふと池の水際に沢蟹の這っているのを見つけました。しかもその沢蟹はもう一匹の沢蟹を、……甲羅の半ば砕けかかったもう一匹の沢蟹をじりじり引きずって行くところなのです。僕はいつかクロポトキンの相互扶助論の中にあった蟹の話を思い出しました。クロポトキンの教えるところによれば、いつも蟹は怪我をした仲間を扶けて行ってやるということです。しかしまたある動物学者の実例を観察したところによれば、それはいつも怪我をした仲間を食うためにやっているということです。 この「ある動物学者」というのが誰であるかについて、芥川は作品中では触れていない。しかし、この部分を読んで南方熊楠「十二支考」の中の「蛇に関する民俗と伝説」の中の文章を思い出した: ただし、かかる現象を実地について研究するに、細心の上に細心なる用意を要するは言うまでもないが、人の心をもって畜生の心を測るの易からぬは、荘子と恵子が魚を観ての問答にも言える通りで、正しく判断し中つるはすこぶる難い。たとえば一九〇二年に出たクロポトキン公の『互助論』に、脚を失いて行きあたわぬ蟹を他の蟹が扶け伴れ去ったとあるを、那智山居中一月経ぬうちに、自室の前の小流が春雨で水増し矢のごとく走る。流れのこなたの縁に生えた山葵の芽を一疋の姫蟹が摘み持ち、注意して流れの底を渡りかなたの岸へ上がり終わったところを、例の礫を飛ばして強く中てたので半死となり遁れえず。その時岩間より他の姫蟹一疋出で来たり、件の負傷蟹を両手で挟み運び行く。この蟹走らず歩行遅緩なれば、予ク公の言の虚実を試すはこれに限ると思い、抜き足で近より見れば、負傷蟹と腹を対え近づけ、両手でその左右の脇を抱き、親切らしく擁え上げて、徐ろ歩む友愛の様子にアッと感じ入り、人をもって蟹に及かざるべけんやと、独り合点これを久しうせしうち、かの親切な蟹の歩みあまりに遅く、時々立留まりもするを訝り熟視すると、何のことだ、半死の蟹の傷口に自分の口を接けて、啖いながら巣へ運ぶのであった。これを見て、予は書物はむやみに信ぜられぬもの、活き物の観察はむつかしいことと了った次第である。 芥川が南方のこの文章を読んで、自分の創作の中で引用したのかどうかは分からない。しかし、両者ともクロポトキンの相互扶助論の中のエピソードを引用していることからその可能性は高いのではないかと思う。 南方のこの文章は、雑誌「太陽」の大正六年出版の第二十三巻に掲載されているので、時代的に芥川が読んでいてもおかしくはない。「十二支考」は十二支に当てられている動物に関する民俗や伝説を古今の広い文献から求めて書き記した文章だけれど、必ずしも「動物学者」的な観点から見ている訳ではない。 柳田國男については芥川は「河童」の中でその著作「山島民譚集」の名前を出しているが(また芥川は「河童」の執筆に当たって「山島民譚集」を参照したらしい)、南方熊楠については他の作品の中でも名前を出しているかどうか分からない。南方熊楠は東京で出版されていた雑誌にも投稿をしていたけれど、東京の人々に当時一般的に知られていたかどうかは疑わしい。生前は南方はむしろ紀州で有名であり、また彼の名前は日本でより欧州での方が有名だった。 それにも関わらず、芥川龍之介と南方熊楠が接していた(であろう)証拠になるような文章を見かけて興味深く思った。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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