ブログを作る※無料・簡単アフィリ    ブログトップ | 楽天市場
255960 ランダム
M17星雲の光と影 (そのほか)楽天ブログ 【ケータイで見る】 【ログイン】
M17星雲の光と影

PR

Keyword Search

Mobile

>>ケータイに
このブログの
URLを送信!

M17星雲の活動記録 [全371件]

2009.08.18楽天プロフィール Add to Google XML

「チャンドラーのある」人生  (9)
[ 文章論 ]  

この数か月、どんな本を読んできたか、あらためて考えてみた。

レイモンド・チャンドラー『さよなら、愛しい人』(村上春樹訳)、『大いなる眠り』、『かわいい女』(創元推理文庫)、『湖中の女』、『プレイバック』、『高い窓』(ハヤカワ・ミステリ文庫)。村上春樹『1Q84』(新潮社)、ジョージ・オーウェル『動物農場』(角川文庫)。ダシール・ハメット『マルタの鷹』(これは途中まで)。そして、今、目の前にあるのは『フイッツジェラルド短編集』(岩波文庫)。

要するに、村上春樹関連本ばかり読んでいるようなものである。しかし、この中でもっとも強くこころを動かされたのは、チャンドラーの文章である。

その文章の堅牢、精緻、剛健、精妙。そこには確かな「世界」がある。その世界に入るためのドアを開け、順路にしたがって歩を進める。その歩みのなかに感じる至福、充足、緊張、愉楽。極端なことをいえば、ストーリーなどどうでもよくなるほどの魅力が、この文章にはある。

ストーリーを追うことに熱心な読者は、彼がなぜこれほど細かい描写を積み重ねるのか、疑問に思う人がいるかもしれない。しかし、この緻密な書き込みは、ある意味では必然なのである。彼は細かく書こうとしているのではない。細かく書かざるをえないのだ。それは文章化する以前に、彼の目に、描こうとする世界があまりにも鮮明に「見えてしまって」いるからである。

チャンドラーは「インナービジョン」の人である。彼にとって、文章を書くという行為は、実はことばによって世界を描くということを意味していない。まず、ことばがあり、そのことばの積み重なりを通して世界が浮かび上がってくる。この当然ともいえる流れの中に彼は位置していない。チャンドラーの場合、ことば以前に彼の脳内にくっきりと鮮明な内的な像が浮かんでいる。その像の運動方向に沿ってことばを展開することが、彼にとっての「書く」ということなのである。

ふつうの物書きならば、ことばを使って世界を描く。ひとつひとつのことばをていねいに積み重ねることによって、まるでキャンパスに油絵具を次々に塗り重ねていくように、画が描かれる。しかし、チャンドラーの場合は違う。ことばによって徐々に世界が作り出されるのではなく、ことば以前に、まず鮮明きわまりない内的なイメージがあり、そのイメージをことばが追っていく。当然、そのイメージのすべてをことばで表現することはできない。限られた、不十分なことばで、そのイメージの一部分が表現されることになり、その後には表現されなかった膨大なイメージが残される。そのことばにはならないイメージの残骸が、逆に作品世界のリアリティを、解像度を高めていく。ことばを超えてイメージを現出する力。そういう力が彼の文章にはある。

どこまでも鮮明で、あきれるほどの解像度をもった映像が、彼の脳内にはすでにくっきりと浮かび上がっている。それはことばによって再現することができないほど、確固とした映像である。彼はその映像を読む者の脳内にどうすれば再現することができるか。そう考える。むだな逡巡をなくし、目的地を定め、ひとつひとつの事実を冷静に、客観的に、論理的に積み重ねていく。それはある意味では息の詰まるような緊張感を伴う作業だ。しかし、その文章を辿る私たちの内面にきざすのは、他でもない、「自由」の感覚なのである。

彼の徹底的に人為的、客観的な言語操作が、なぜ人に「自由」を感じさせるのか。それは彼の文章が、どこまでも「人間であること」を突き詰めることから生まれてきたものだからだ。

彼は神のように世界を創造しない。上空から世界を俯瞰し、自分の意のままにチェスの駒を動かすように、登場人物を操作することをしない。なぜなら、そんなことは人間にはできないからだ。チャンドラーは空を飛ばない。あくまでも地面の上にいる。地表から自分の方位を確認し、進むべき方向に向かって一歩一歩、歩を進める。鳥の眼ではなく、虫の眼で世界の表面を移動していく。マーロウはそのように事件を追う。それがどこへたどりつくのか。彼自身にもわからない。「よくわからない」という彼のお得意のセリフは、彼が神の視点を拒絶していることを示す象徴的なことばだ。人間とは自分がどこにいるのか、その立ち位置が「よくわからない」存在である。それがチャンドラーの示す人間の定義なのだ。

読者はマーロウと視点を共有しながら、そのストーリーを追うことになる。しかし、読者もマーロウの頭の中にまでは入っていけない。彼は一人きりで、車をとめ、しばし考えにふける。しかし、彼がその時、何を考えているかは、読者には明らかにされない。彼の頭のなかに入るためには、読者は自分のあたまをフルに動員して彼の思考を再現しなければならない。これはずいぶん不親切な書き方のように思える。しかし、考えてみてほしい。いったい誰が実人生のなかで、他人の脳のなかに入りこむことができるだろうか。

文章を書くことは(それをフィクションという世界に限定すべきなのかどうか、今の私にはまだよくわからない)、神の視点、鳥の視点に立つことへとたえず誘惑されることである。そして、真に文章を書くということは、その誘惑に打ち勝つ文体を持つということである。チャンドラーの文章はそのことを教えてくれる。

文章を書くことは、実に容易に神の視点、鳥の視点を手に入れることを可能にする。しかし、その瞬間にその文章は腐敗臭を放ちはじめる。そういうことではないかと私は思う。

誰も神のように一望俯瞰の視点を手に入れることはできないし、鳥のように上空から世界を見渡すこともできない。われわれはみな、名もない虫として、きわめて見晴らしの悪い地表をもぞもぞと動いて行くしかない存在なのである。しかし、一匹の虫として、懸命に、自分の進むべき方向を模索し、そこを目指して歩いていく。虫の視点から世界を解釈する。それこそが「生きる」ということではないのか。彼の文体はそのことを告げている。

すべてを見通すことができない人間は、いったいどのようにふるまえばいいのだろうか。そこで踏み越えてはならない線はどこにあり、逆に踏み越えなければならない線はどこにあるのか。それを虫の視点で獲得するためには何が必要なのか。そこでは、自分の目に入る事実を出来る限り正確に認識すること、それをことばで再現し、いくつかの事実をつなぐつなぎ目、ブリッジを自分の知力を尽くして正確にトレースすることが大事である。そこではことばの精度が重要になる。そして、Aという事実とBという事実をどうつなぐか。その過程をできるだけ明瞭に認識することが大切である。というよりも、虫にできることはそれしかないのだ。そして、それをやり遂げた末に見えてくるのは、自分を神や鳥と錯視した人間にはけっして目にすることのできない、人間の生の真実なのである。チャンドラーの文章はそう告げているように、私には思える。

マーロウは行動の指針を見失い、思いあぐねて、しばしば自分の部屋の机の深い引き出しを開け、ウィスキーのビンを取り出し、それを口に含む。その時、チャンドラーの目には、その上の段の引き出しも同時に鮮明に映像化されている。その引き出しをそっと開けてみると、その内部に置かれたものの配置もどこまでも鮮明に見える。右手の奥に何があり、左手には何が置かれ、引き出しの取っ手がどのような形状をし、どういう材質でできているか。ことばにしようと思えば、いくらでも文章に描くことはできる。しかし、彼はそうしない。そのまた上の引き出しも、壁も、窓も、そこに漂う空気も、煙草の煙も、すべて手に取るように見えているのに、それはことばにされない。そして、ことばにされないことによって、それらは注意深い読み手のこころのなかにありありと浮かぶことになる。ことばの限界を通して、そのことばの向こうに、ほとんど無限の世界の広がりを表現する。私には今のところ、これ以上の言語表現の形を思い描くことができない。チャンドラーの文章とは、要するにそういう文章なのだ。
凡庸な作家がことばの数を増やすことによって文章の解像度を上げようとするのに対して、彼はむしろことばで表現しないことで、自身の脳内にある映像の圧倒的な解像度を感じさせるのである。

これだけ精緻なことばを用いながら、なおかつまだ描かれていないもののほうが多い。それがチャンドラーの文章だ。

「ぼうや、文章っていうのは、こういうふうに書くもんなんだぜ」

彼の文章はそう語りかけてくる。おい、おい、いい歳こいたおっさんを「ぼうや」呼ばわりかよ。しかし、その見立ては彼の文章がいつもそうであるように、公正で、客観的で、かつ正確だ。チャンドラーの文章に比べれば、私の文章など、「ぼうや」以前、いや人間以前のレベルにとどまる。

「おまえはチャンドラーの文章を翻訳で読んでいるだけだろう。それでなぜ彼の文体を論じることができるのだ」

こころある読み手はそうつぶやくだろう。たしかに、その意見は正当だ。私もそう思う。一般的にはその指摘は正しい。

だが、私にはなぜか、翻訳の向こうにたしかに彼の屹立した文体が見えるのである。

ひとつには清水俊二という名訳者の存在があるのだろう。その彼でさえ、「プレイバック」のあとがきの中で、「(チャンドラーの文章は)日本語になおすと、魅力が半減してしまうのが大へん残念なのである」と書いている。すると、私は彼の文章の半分しかまだ味わっていないことになる。これは実にたいへんなことである。

言いたいことを言い尽くせないままに、字数が尽きた。チャンドラーについては、もう一度、これまで読んだ作品を、そして読み残している唯一の長編「ロング・グットバイ」を読んでから、あらためて語りたいと思う。

「一に足腰、二に文体」

私はあらためて村上春樹のこのことばを噛みしめるのである。





Last updated 2009.08.18 22:35:37
コメント(9) | コメントを書く



2009.05.03

清志郎の死  (8)
[ 音楽 ]  

朝五時に忌野清志郎死去のニュースを知る。

ロックとは何か。それは定義不能の音楽である。

ロックはことばでは説明できない。それは「やる」しかない音楽であり、「生きる」しかない音楽である。

そういう意味で、彼はロックを生きた。

では、ロックを生きるとはどういうことか。


私がはじめて彼の存在を知ったのは「フォークの人」としてだった。

私は職業上の時間の何割かを「教える」ことに割いている人間だ。

どうしてそういう仕事を選んだか。そこには明確な目的意識があったわけではない。自分で立てた計画にもとづくことでもない。単なる偶然だ。

だから、自分で教える時に「こうしよう」とか「こうしなければならない」という決まりをなにひとつ持たない人間だった。少なくともポジティブな意味での目標はなかった。

でも、手ぶらで生徒の前に立つわけにはいかない。せめて「こういうことだけはしない」というネガティブな規範意識くらいは持つべきだと思った。

教師をはじめるにあたって、最低限これだけはやらないようにしよう。

「教師らしい教師にはならない」

そう思う気持ちの底に、「ぼくの好きな先生」という唄があった。

「タバコを吸いながら いつでもつまらなそうに
タバコを吸いながら いつでも部屋にひとり
ぼくの好きな先生 ぼくの好きなおじさん

タバコと絵の具のにおいの あの部屋にいつもひとり
タバコを吸いながら キャンバスに向かってた
ぼくの好きな先生 ぼくの好きなおじさん

タバコを吸いながら 困ったような顔をして
遅刻の多い僕を 口数も少なくしかるのさ
ぼくの好きな先生 ぼくの好きなおじさん

タバコと絵の具のにおいの ぼくの好きなおじさん

タバコを吸いながら  あの部屋にいつもひとり
ぼくと同じなんだ 職員室が嫌いなのさ
ぼくの好きな先生 ぼくの好きなおじさん

タバコを吸いながら 劣等生のこのぼくに
すてきな話をしてくれた ちっとも先生らしくない
ぼくの好きな先生 ぼくの好きなおじさん

タバコと絵の具のにおいの 僕の好きなおじさん」


以来20年以上、この歌詞が私の頭の片隅から消えることはなかった。

その歌詞を書いた人間が、今日、この世から消えてしまった。


「ロックを生きる」とはどういうことか。

ロックには「骨」が必要だ。「反骨」ということばには垢がついたので使わない。とにかく中心部に「骨」がなければロックとはいえない。

その骨には「棘(とげ)」がある。外側に向かって、身近な者の肌に突き刺さる棘をもっていること。これも条件のひとつだ。

でも、棘だらけのまま、生きることはできない。鋭い棘には「さや」が必要だ。それをそっと包みこむコーティングを施さなければ、少なくとも持続的にロックを生きることはできない。

その「さや」に当たるのがユーモアとテンダネスだ。「やさしさ」ということばには手垢どころか、腐臭まで漂ってくるので使えない。ユーモアとは物事と向きあう時に「正対しない」ことだ。少しだけ斜に構える。そこに生まれる微妙な空気の流れの変化を「ユーモア」と呼ぶ。

テンダネスはさらに説明がむずかしい。プレスリーの「ラブ・ミー・テンダー」を想像してほしい。あの歌詞、あの歌い方。一見するとソフトなラブソングに聞こえるが、あれは明らかに病んだ者のつぶやきであり、独白だ。病むこととすれすれの繊細、繊弱。それがテンダネスである。

「スロー・バラード」という曲を思い浮かべてほしい。あるいは「帰れない二人」の歌詞を。

敗残、敗北、絶望の中に甘美な香りを嗅ぎ当てることもロッカーの資質のひとつなのかもしれない。


骨と棘とユーモアとテンダネスをもった一人のロッカーの死。

忌野清志郎の冥福を、……祈ろうとは思わない。

しかたない。今日は「あきれて物も言えない」を大音量で流すことにしよう。


「どっかの山師が オレが死んでるって 言ったってさ
 よく言うぜ あの野郎 よく言うぜ
 あきれて物も言えない」

「どっかの山師が オレが死んでるって 言ったってさ
 よく言うぜ イモ野郎 よく言うぜ
 あきれて物も言えない

 低脳な山師と 信念を金で売っちまう おエラ方が
 動かしてる世の中さ よくなるわけがねー
 あきれて物も言えない」

 ……あきれて物も言えない。




Last updated 2009.05.03 18:36:30
コメント(8) | コメントを書く

2008.12.18

札幌にて  (7)

先週の土曜日、札幌に講演に出かける。これで今年通算10本目の講演行脚である。そのほとんどは東京から西への移動だったが、今回は方向を大きく転じて北海道。しかも日帰りの強行軍である。

飛行機に乗るのは実にひさしぶりだ。すっかり乗り方を忘れてしまった。総務課の人間にチケットの手配を頼んだら、「ほいよ」とパソコンからプリントアウトされたA4の紙を二枚渡された。

「なんだよ、これ。こんなんでだいじょうぶなの?」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ、それで乗れるって。じゃあな」

その紙には飛行機の便と時間、そしてQRコード(携帯のカメラで撮影するための脳みその皺みたいなぐにゃぐにゃしたコード)が印刷されているだけ。こんな紙切れひとつではたして北海道まで行けるのだろうか。

後でわかったことだが、これは「スキップ」というシステムだそうである。手荷物検査の入口にQRコードを読み取るガラスの小窓があり、そこにコードをかざすと、ぴっという音とともにレシートのようなものが出てきて、そこに自分の名前や搭乗予定が書いてある。搭乗する際も同様で、カウンターの読み取り機にQRコードをかざすと、その場でチケット(というよりもデパートのレシートみたいなものだが)が出てきて、それに座席番号が書いてある。なんだか釈然としない気分のまま、飛行機に乗り込む。

そうこうしているうちに飛行機が離陸する。

前夜の寝不足がたたって目を開けていられない。睡魔が襲ってくる。離陸直後に、はるかかなたに霊峰富士の姿を見た以外は、ほとんど寝ていた。

やがて「当機はまもなく新千歳空港に着陸します」というアナウンスが流れる。窓から下を眺めると、陸地が見える。もうかなり低空飛行をしており、地上の木々がはっきりと見える。地面はうっすらと白い。今日の予想最高気温は零下3度。「最低」ではない。「最高」である。おそらく昨日の夜、降雪があったのだろう。

こうして上から見ると、木々の様子、植生が本土と異なっているのがわかる。目に入るのは細く尖った針葉樹の枯れ枝と地面の雪だけ。ああ、もう照葉樹林文化圏を脱してしまったのだなあという感慨がそこはかとなく湧いてくる。

無事着陸して機外に出ると、かちんとした冷たい空気にぶつかる。「おお、さぶっ」というようなやんわりとした寒さではなく、かっちりとした冷気があたりに満ち満ちており、それに体がぶつかった感じである。変な感想だが、ワイキキの空港でがつんとした熱気にぶつかるのと、どこかしら共通点があるように思える。

いさぎよいというか、きっぱりしたというか、半端さを感じさせない寒さである。「おお、寒い」とか、「うう、寒い」とか言う時の、「おお」や「うう」を許さない問答無用の断言口調(というのも形容矛盾だが)の寒さである。私は基本的に寒さを好まないが、ここの寒さにはどこかしら好感がもてる。真夏の福岡で肌に突き刺さるような日射しを浴びる気分とどこか似ている。それに空気の質感が違う。湿り気をとりさった、からっとした感じがなんだか心地いい。

しかし、そんな感慨に浸っている場合ではない。とりあえずエアポートという電車に乗って、札幌駅に向かわなければならない。

空は快晴。下にはうっすらとした雪。車道は大丈夫だが、歩道はところどころ凍結しているようだ。そこもべちゃべちゃ感のまったくないきわめてドライな凍り方である。

札幌の駅に着き、改札を出る。駅前の通りはどーんと広い。外は寒いというより、むしろ冷たい。日陰に入ると風がきついので、思わず近くの大丸デパートに入る。わざわざ札幌まで来たのだから、すしでも食うか。そう思って、8Fにある「すし善」に向かう。

前日、札幌の食い物屋をネットで調べていたら、東京の金持ちが日帰りでこの店に(といってもデパートではなく、本店だが)すしを食いにくるという話が書いてあった。あまりにいけすかない話なので、自分で実行してみようと思い立つ。ちょっと説明するのがむずかしい心理である。

とりあえず、リーズナブルなお値段のにぎりセットを頼む。磨き込まれたカウンター席に座ると、すし屋なのに店員さんが物静かだ。小さな声で注文を聞く。隣の席にはなんだかあか抜けない風情の10代後半の女性が座っている。その隣にはさらにあか抜けない男性がぼーと前を向いて放心状態である。でも、そのぼーとしたふたりが、ぼーとしたなりに、なんだか気持ちを高揚させているのがわかる。彼らは緊張しているのである。おそらくは初デートであろうか。「よし、お昼はがんばって大丸のすし善にしよう」、男性がそう決意し、勇気をもって実行している真っ最中なのであろう。

やがてそのカップルの目の前にすしがくる。板さんがひとつずつ握ってカウンターに置いてくれる。女性は箸をもって、すしをつまみ、右ひじを張り出すように高くかかげ、顔に向かってやや斜め上方から飛行機が着陸態勢に入るようにすしを滑空させ、縦方向にぱくりと口に入れる。なんだかカメレオンが虫を食べているようである。箸でつまんだすしをいったん自分から離し、そこからひじを張った状態で自分の口めがけて縦方向にすしを入れる。若い女性がチョコパフェかなんかを食べる時には時折見かける食べ方だが、すしにはどうなんだろう。でも女性はまったく意に介することなく、ぱくりぱくりとすしをほおばり、「おいしー」を連発する。まあ、なんというか、ほほえましい光景ではある。少なくとも反対側に座っている3~4歳のこまっしゃくれたガキが「ぼく、とろー」とか言っているのよりはよほどいい。今、大地震が起こって、このビルが瓦解したら、とりあえずどちらを助けるかは明らかである。

私の目の前にもすしがくる。やや小ぶり、上品な流線形である。ネタはひらめ。すでに刷毛で醤油がうっすらと塗られている。口のなかに入れると、飯もネタも口の中でほどけて溶けて消えてしまう。イカ、コハダ、まぐろ、とびこ、いくら。すべてあっさりと口中に消えていく。

口に入れたとたんに「うまい」というのでは必ずしもない。淡い味がひととき口の中を通りすぎ、その後にほのかなうまみが残響のように体の中に広がっていく。そういう感じである。魚介類にはおよそ臭みというものがない。きわだった匂いもしないし、味もほのかである。まるで谷川の湧き水にしばらく浸した後で、そこから引き上げたばかりのネタを次々に口に運んでいるようだ。

「とびこ」がこんなにおいしいものだとは知らなかった。さらに驚いたのは「ほたて」である。透明感のあるほのかな甘みが、口の中のはるかな回廊をどこまでも通り抜けていく。これがほたてならば、これまで自分が食べてきたものはいったいなんだったんだろう、そう思ってしまう。

一通りすしを食べ終わり、岩のりの入った上品な吸い物を啜っていると、「追加でにぎりましょうか」と板さんが小さな声でささやく。「ああ、いや、いいです」といいながらも、腹の中に何かがたまっているという感触がまるでない。この調子で食べていたらきりがない。それに第一、これから大きな仕事が待っている。ほわーとした気分のまま、すし善を後にする。そのすしのうまさの半ば以上は、店を出てから感じられたようにも思える。かすみでも食べたんじゃないかという気がするほどだった。

食後、デパートの中と駅前の通りをしばらく散策する。

デパートの中で感じたのは、北海道の人は狭いところを歩くのがあまり得意ではないということだ。歩こうとすると、何度も目の前に「ぬぼー」と人が立っているところにぶつかる。けっして悪気があるわけではない。ただ、ずどーんと人が突っ立っているだけである。東京の電車のホームでよく見かけるような、こすっからいドブネズミがちょろちょろと目の前を通りすぎるというのとはちがう。ただ、なーんにも考えずに、自然に、ぬぼーっと突っ立っている方がおられるのである。それもなぜか、女性が多かったように思う。

どうもこの地では、女性はゆったりのんびり、それに比して男性は比較的細やかに気をつかっておられるようである。こういうところもなんとなく博多に似ている。女性の存在感が強いところにいると、気持ちが落ち着く。そういえば機内で読もうと思って持ってきた本のタイトルは福岡伸一先生の「できそこないの男たち」(光文社新書)。できそこないの男どもが蝟集している場所にろくなところはない。日々の政治のニュースを見ても、それは明らかだろう。

午後、札幌駅の近くの高校で先生方に講演を行う。予定時間90分を20分もオーバーしてしまう。聞き手に恵まれて、出来はまずまず。その後の質疑応答も親密な雰囲気のなかで気持ちよく行うことができた。

しかし、余韻に浸っている時間はない。4時過ぎになると既に外は暗くなっている。挨拶もそこそこに車に飛び乗り、札幌の駅へ。そして電車で新千歳空港に向かう。

残念ながら晩飯を食っている時間がない。あわててふたたび大丸の地下で海鮮丼を買って車内で食べることにする。ビールの銘柄をどうしようかと一瞬迷うが、そんなもの迷う必要はない。ここにはサッポロビールという巨大な地ビールがあるではないか。缶ビールを買い、あたふたと列車に乗り込む。そういえば、空港のどこかに「札幌でもキリン」というポスターが貼ってあったような気がする。

海鮮丼のシールを見ると、なんと本店は横浜と書いてある。しかし、そこに載っているイカ、イクラ、カニ、ホタテのレベルの高いこと。見事なものである。講演の余韻が残っているので、ビールを一気のみしてもぜんぜん酔いがまわらない。しかたなくぼんやりと窓外の風景を眺める。

一つ前の席には乳児を抱いた、まだ若いお母さんが座っている。通路をはさんで、その左側には、ほとんど中学生ではないかと思われるようなカップルが座っている。そして、二人は一言も話さない。切れ長の目をした男は終始窓ガラスの外を見つめている。その隣で帽子にもバッグにもブーツにも可愛いぼんぼんをつけた女の子は所在なげにぼんやりしている。でもなんだか男の子をきづかっている気配が見える。おそらく男の子がなにか無体なことをしようとして、やんわりと女の子に拒絶されたのではなかろうか。これは私の妄想かもしれないが、なぜかこの地では見知らぬ人々の心のなかが透けて見えるような気がする。なぜだろう。やはり湿気が少ないからだろうか。

そのうちに女の子が帽子の横っちょについた毛糸の玉をくるくると手で回しはじめる。隣の席の赤ん坊に見せているのである。赤ん坊はそれを見て、小さな手を伸ばしてくる。二人は手を伸ばしあって、やがて手を握り合う。なかなかいい光景である。その向こうで硬い表情をした男の子がじっと外を見ている(ふりをしている)。

やがて赤ん坊と母親は電車を降りる。車内はがらんとしている。そして、列車は新千歳空港に到着する。私は荷物を網棚から降ろし、マフラーを巻き、コートを着込む。すると斜め前の女の子が座ったままの上体を男の子のほうに思いっきり伸ばして、その頬に軽くキスをする。ひょっとするとキスというのとは違うのかもしれない。硬く、ぎこちなく、でもしっかりとくちびるを男の子の頬にぎゅっと押しつける。男の子は相変わらず、無言、無表情。でも、そのこころがあたたかくほぐれかけているのがわかる。電車が止まって、男の子がさっと歩きはじめる。タイミング悪く、私が二人の間にはさまる形になる。あわてて座席に戻って、さっき結んだばかりのマフラーをもういちどほどき、「お先に」とぼんぼんをつけた女の子に目配せをする。女の子は軽く頭を下げて小走りで彼氏の後を追う。そして、男の子の右腕に両手でしっかりとしがみつく。

なかなかいい光景である。

はじめて来たのになつかしい。

札幌の街の印象を要約すると、そういうことになる。

恋の街サッポロ。

むかし、そういう歌があったっけ。

浜口庫之介の歌だ。

こいのーまちー、さっぽろー。

われながらひどいエンディングである。

とほほ。

おしまい。





Last updated 2008.12.19 09:02:00
コメント(7) | コメントを書く

一覧

Calendar

February 2012
SMTWTFS
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
26272829   
<backthis monthnext>

Archives

Comments

 PATTI@Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01)訳詞を検索したら、素敵な訳詞が出てき...
 M17星雲の光と影@Re:読んで頂けるでしょうか・・・?(08/18)らんさんへ コメント拝見しました。...
 M17星雲の光と影@Re:読んで頂けるでしょうか・・・?(08/18)らんさんへ コメント拝見しました。...
 ペット総合サイトアクセス記録ソフト無料 楽天 アクセス記録ソフト! http...
 ペット総合サイトアクセス記録ソフト無料 楽天 アクセス記録ソフト! http...
 通りすがり@自我肥大私は生物学が好きなのですが、とある評...
 らん@読んで頂けるでしょうか・・・?2009年8月以来、ブログの更新をなさって...
 ななし@たまたまよみました大江健三郎で、検索していて、たまたま...
 eico@感涙です南桂孝の記事でこのブログに辿り着きま...
 CCC@失礼します。レポート作成の参考にさせていただきま...

 

Powered By 楽天ブログは国内最大級の無料ブログサービスです。楽天・Infoseekと連動した豊富なコンテンツや簡単アフィリエイト機能、フォトアルバムも使えます。デザインも豊富・簡単カスタマイズが可能!

Copyright (c) 1997-2012 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.