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M17星雲の光と影

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2009.08.18 楽天プロフィール Add to Google XML

「チャンドラーのある」人生
[ 文章論 ]    

この数か月、どんな本を読んできたか、あらためて考えてみた。

レイモンド・チャンドラー『さよなら、愛しい人』(村上春樹訳)、『大いなる眠り』、『かわいい女』(創元推理文庫)、『湖中の女』、『プレイバック』、『高い窓』(ハヤカワ・ミステリ文庫)。村上春樹『1Q84』(新潮社)、ジョージ・オーウェル『動物農場』(角川文庫)。ダシール・ハメット『マルタの鷹』(これは途中まで)。そして、今、目の前にあるのは『フイッツジェラルド短編集』(岩波文庫)。

要するに、村上春樹関連本ばかり読んでいるようなものである。しかし、この中でもっとも強くこころを動かされたのは、チャンドラーの文章である。

その文章の堅牢、精緻、剛健、精妙。そこには確かな「世界」がある。その世界に入るためのドアを開け、順路にしたがって歩を進める。その歩みのなかに感じる至福、充足、緊張、愉楽。極端なことをいえば、ストーリーなどどうでもよくなるほどの魅力が、この文章にはある。

ストーリーを追うことに熱心な読者は、彼がなぜこれほど細かい描写を積み重ねるのか、疑問に思う人がいるかもしれない。しかし、この緻密な書き込みは、ある意味では必然なのである。彼は細かく書こうとしているのではない。細かく書かざるをえないのだ。それは文章化する以前に、彼の目に、描こうとする世界があまりにも鮮明に「見えてしまって」いるからである。

チャンドラーは「インナービジョン」の人である。彼にとって、文章を書くという行為は、実はことばによって世界を描くということを意味していない。まず、ことばがあり、そのことばの積み重なりを通して世界が浮かび上がってくる。この当然ともいえる流れの中に彼は位置していない。チャンドラーの場合、ことば以前に彼の脳内にくっきりと鮮明な内的な像が浮かんでいる。その像の運動方向に沿ってことばを展開することが、彼にとっての「書く」ということなのである。

ふつうの物書きならば、ことばを使って世界を描く。ひとつひとつのことばをていねいに積み重ねることによって、まるでキャンパスに油絵具を次々に塗り重ねていくように、画が描かれる。しかし、チャンドラーの場合は違う。ことばによって徐々に世界が作り出されるのではなく、ことば以前に、まず鮮明きわまりない内的なイメージがあり、そのイメージをことばが追っていく。当然、そのイメージのすべてをことばで表現することはできない。限られた、不十分なことばで、そのイメージの一部分が表現されることになり、その後には表現されなかった膨大なイメージが残される。そのことばにはならないイメージの残骸が、逆に作品世界のリアリティを、解像度を高めていく。ことばを超えてイメージを現出する力。そういう力が彼の文章にはある。

どこまでも鮮明で、あきれるほどの解像度をもった映像が、彼の脳内にはすでにくっきりと浮かび上がっている。それはことばによって再現することができないほど、確固とした映像である。彼はその映像を読む者の脳内にどうすれば再現することができるか。そう考える。むだな逡巡をなくし、目的地を定め、ひとつひとつの事実を冷静に、客観的に、論理的に積み重ねていく。それはある意味では息の詰まるような緊張感を伴う作業だ。しかし、その文章を辿る私たちの内面にきざすのは、他でもない、「自由」の感覚なのである。

彼の徹底的に人為的、客観的な言語操作が、なぜ人に「自由」を感じさせるのか。それは彼の文章が、どこまでも「人間であること」を突き詰めることから生まれてきたものだからだ。

彼は神のように世界を創造しない。上空から世界を俯瞰し、自分の意のままにチェスの駒を動かすように、登場人物を操作することをしない。なぜなら、そんなことは人間にはできないからだ。チャンドラーは空を飛ばない。あくまでも地面の上にいる。地表から自分の方位を確認し、進むべき方向に向かって一歩一歩、歩を進める。鳥の眼ではなく、虫の眼で世界の表面を移動していく。マーロウはそのように事件を追う。それがどこへたどりつくのか。彼自身にもわからない。「よくわからない」という彼のお得意のセリフは、彼が神の視点を拒絶していることを示す象徴的なことばだ。人間とは自分がどこにいるのか、その立ち位置が「よくわからない」存在である。それがチャンドラーの示す人間の定義なのだ。

読者はマーロウと視点を共有しながら、そのストーリーを追うことになる。しかし、読者もマーロウの頭の中にまでは入っていけない。彼は一人きりで、車をとめ、しばし考えにふける。しかし、彼がその時、何を考えているかは、読者には明らかにされない。彼の頭のなかに入るためには、読者は自分のあたまをフルに動員して彼の思考を再現しなければならない。これはずいぶん不親切な書き方のように思える。しかし、考えてみてほしい。いったい誰が実人生のなかで、他人の脳のなかに入りこむことができるだろうか。

文章を書くことは(それをフィクションという世界に限定すべきなのかどうか、今の私にはまだよくわからない)、神の視点、鳥の視点に立つことへとたえず誘惑されることである。そして、真に文章を書くということは、その誘惑に打ち勝つ文体を持つということである。チャンドラーの文章はそのことを教えてくれる。

文章を書くことは、実に容易に神の視点、鳥の視点を手に入れることを可能にする。しかし、その瞬間にその文章は腐敗臭を放ちはじめる。そういうことではないかと私は思う。

誰も神のように一望俯瞰の視点を手に入れることはできないし、鳥のように上空から世界を見渡すこともできない。われわれはみな、名もない虫として、きわめて見晴らしの悪い地表をもぞもぞと動いて行くしかない存在なのである。しかし、一匹の虫として、懸命に、自分の進むべき方向を模索し、そこを目指して歩いていく。虫の視点から世界を解釈する。それこそが「生きる」ということではないのか。彼の文体はそのことを告げている。

すべてを見通すことができない人間は、いったいどのようにふるまえばいいのだろうか。そこで踏み越えてはならない線はどこにあり、逆に踏み越えなければならない線はどこにあるのか。それを虫の視点で獲得するためには何が必要なのか。そこでは、自分の目に入る事実を出来る限り正確に認識すること、それをことばで再現し、いくつかの事実をつなぐつなぎ目、ブリッジを自分の知力を尽くして正確にトレースすることが大事である。そこではことばの精度が重要になる。そして、Aという事実とBという事実をどうつなぐか。その過程をできるだけ明瞭に認識することが大切である。というよりも、虫にできることはそれしかないのだ。そして、それをやり遂げた末に見えてくるのは、自分を神や鳥と錯視した人間にはけっして目にすることのできない、人間の生の真実なのである。チャンドラーの文章はそう告げているように、私には思える。

マーロウは行動の指針を見失い、思いあぐねて、しばしば自分の部屋の机の深い引き出しを開け、ウィスキーのビンを取り出し、それを口に含む。その時、チャンドラーの目には、その上の段の引き出しも同時に鮮明に映像化されている。その引き出しをそっと開けてみると、その内部に置かれたものの配置もどこまでも鮮明に見える。右手の奥に何があり、左手には何が置かれ、引き出しの取っ手がどのような形状をし、どういう材質でできているか。ことばにしようと思えば、いくらでも文章に描くことはできる。しかし、彼はそうしない。そのまた上の引き出しも、壁も、窓も、そこに漂う空気も、煙草の煙も、すべて手に取るように見えているのに、それはことばにされない。そして、ことばにされないことによって、それらは注意深い読み手のこころのなかにありありと浮かぶことになる。ことばの限界を通して、そのことばの向こうに、ほとんど無限の世界の広がりを表現する。私には今のところ、これ以上の言語表現の形を思い描くことができない。チャンドラーの文章とは、要するにそういう文章なのだ。
凡庸な作家がことばの数を増やすことによって文章の解像度を上げようとするのに対して、彼はむしろことばで表現しないことで、自身の脳内にある映像の圧倒的な解像度を感じさせるのである。

これだけ精緻なことばを用いながら、なおかつまだ描かれていないもののほうが多い。それがチャンドラーの文章だ。

「ぼうや、文章っていうのは、こういうふうに書くもんなんだぜ」

彼の文章はそう語りかけてくる。おい、おい、いい歳こいたおっさんを「ぼうや」呼ばわりかよ。しかし、その見立ては彼の文章がいつもそうであるように、公正で、客観的で、かつ正確だ。チャンドラーの文章に比べれば、私の文章など、「ぼうや」以前、いや人間以前のレベルにとどまる。

「おまえはチャンドラーの文章を翻訳で読んでいるだけだろう。それでなぜ彼の文体を論じることができるのだ」

こころある読み手はそうつぶやくだろう。たしかに、その意見は正当だ。私もそう思う。一般的にはその指摘は正しい。

だが、私にはなぜか、翻訳の向こうにたしかに彼の屹立した文体が見えるのである。

ひとつには清水俊二という名訳者の存在があるのだろう。その彼でさえ、「プレイバック」のあとがきの中で、「(チャンドラーの文章は)日本語になおすと、魅力が半減してしまうのが大へん残念なのである」と書いている。すると、私は彼の文章の半分しかまだ味わっていないことになる。これは実にたいへんなことである。

言いたいことを言い尽くせないままに、字数が尽きた。チャンドラーについては、もう一度、これまで読んだ作品を、そして読み残している唯一の長編「ロング・グットバイ」を読んでから、あらためて語りたいと思う。

「一に足腰、二に文体」

私はあらためて村上春樹のこのことばを噛みしめるのである。




Last updated  2009.08.18 22:35:37
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2009.05.03

清志郎の死
[ 音楽 ]    

朝五時に忌野清志郎死去のニュースを知る。

ロックとは何か。それは定義不能の音楽である。

ロックはことばでは説明できない。それは「やる」しかない音楽であり、「生きる」しかない音楽である。

そういう意味で、彼はロックを生きた。

では、ロックを生きるとはどういうことか。


私がはじめて彼の存在を知ったのは「フォークの人」としてだった。

私は職業上の時間の何割かを「教える」ことに割いている人間だ。

どうしてそういう仕事を選んだか。そこには明確な目的意識があったわけではない。自分で立てた計画にもとづくことでもない。単なる偶然だ。

だから、自分で教える時に「こうしよう」とか「こうしなければならない」という決まりをなにひとつ持たない人間だった。少なくともポジティブな意味での目標はなかった。

でも、手ぶらで生徒の前に立つわけにはいかない。せめて「こういうことだけはしない」というネガティブな規範意識くらいは持つべきだと思った。

教師をはじめるにあたって、最低限これだけはやらないようにしよう。

「教師らしい教師にはならない」

そう思う気持ちの底に、「ぼくの好きな先生」という唄があった。

「タバコを吸いながら いつでもつまらなそうに
タバコを吸いながら いつでも部屋にひとり
ぼくの好きな先生 ぼくの好きなおじさん

タバコと絵の具のにおいの あの部屋にいつもひとり
タバコを吸いながら キャンバスに向かってた
ぼくの好きな先生 ぼくの好きなおじさん

タバコを吸いながら 困ったような顔をして
遅刻の多い僕を 口数も少なくしかるのさ
ぼくの好きな先生 ぼくの好きなおじさん

タバコと絵の具のにおいの ぼくの好きなおじさん

タバコを吸いながら  あの部屋にいつもひとり
ぼくと同じなんだ 職員室が嫌いなのさ
ぼくの好きな先生 ぼくの好きなおじさん

タバコを吸いながら 劣等生のこのぼくに
すてきな話をしてくれた ちっとも先生らしくない
ぼくの好きな先生 ぼくの好きなおじさん

タバコと絵の具のにおいの 僕の好きなおじさん」


以来20年以上、この歌詞が私の頭の片隅から消えることはなかった。

その歌詞を書いた人間が、今日、この世から消えてしまった。


「ロックを生きる」とはどういうことか。

ロックには「骨」が必要だ。「反骨」ということばには垢がついたので使わない。とにかく中心部に「骨」がなければロックとはいえない。

その骨には「棘(とげ)」がある。外側に向かって、身近な者の肌に突き刺さる棘をもっていること。これも条件のひとつだ。

でも、棘だらけのまま、生きることはできない。鋭い棘には「さや」が必要だ。それをそっと包みこむコーティングを施さなければ、少なくとも持続的にロックを生きることはできない。

その「さや」に当たるのがユーモアとテンダネスだ。「やさしさ」ということばには手垢どころか、腐臭まで漂ってくるので使えない。ユーモアとは物事と向きあう時に「正対しない」ことだ。少しだけ斜に構える。そこに生まれる微妙な空気の流れの変化を「ユーモア」と呼ぶ。

テンダネスはさらに説明がむずかしい。プレスリーの「ラブ・ミー・テンダー」を想像してほしい。あの歌詞、あの歌い方。一見するとソフトなラブソングに聞こえるが、あれは明らかに病んだ者のつぶやきであり、独白だ。病むこととすれすれの繊細、繊弱。それがテンダネスである。

「スロー・バラード」という曲を思い浮かべてほしい。あるいは「帰れない二人」の歌詞を。

敗残、敗北、絶望の中に甘美な香りを嗅ぎ当てることもロッカーの資質のひとつなのかもしれない。


骨と棘とユーモアとテンダネスをもった一人のロッカーの死。

忌野清志郎の冥福を、……祈ろうとは思わない。

しかたない。今日は「あきれて物も言えない」を大音量で流すことにしよう。


「どっかの山師が オレが死んでるって 言ったってさ
 よく言うぜ あの野郎 よく言うぜ
 あきれて物も言えない」

「どっかの山師が オレが死んでるって 言ったってさ
 よく言うぜ イモ野郎 よく言うぜ
 あきれて物も言えない

 低脳な山師と 信念を金で売っちまう おエラ方が
 動かしてる世の中さ よくなるわけがねー
 あきれて物も言えない」

 ……あきれて物も言えない。



Last updated  2009.05.03 18:36:30
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2008.12.18

札幌にて

先週の土曜日、札幌に講演に出かける。これで今年通算10本目の講演行脚である。そのほとんどは東京から西への移動だったが、今回は方向を大きく転じて北海道。しかも日帰りの強行軍である。

飛行機に乗るのは実にひさしぶりだ。すっかり乗り方を忘れてしまった。総務課の人間にチケットの手配を頼んだら、「ほいよ」とパソコンからプリントアウトされたA4の紙を二枚渡された。

「なんだよ、これ。こんなんでだいじょうぶなの?」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ、それで乗れるって。じゃあな」

その紙には飛行機の便と時間、そしてQRコード(携帯のカメラで撮影するための脳みその皺みたいなぐにゃぐにゃしたコード)が印刷されているだけ。こんな紙切れひとつではたして北海道まで行けるのだろうか。

後でわかったことだが、これは「スキップ」というシステムだそうである。手荷物検査の入口にQRコードを読み取るガラスの小窓があり、そこにコードをかざすと、ぴっという音とともにレシートのようなものが出てきて、そこに自分の名前や搭乗予定が書いてある。搭乗する際も同様で、カウンターの読み取り機にQRコードをかざすと、その場でチケット(というよりもデパートのレシートみたいなものだが)が出てきて、それに座席番号が書いてある。なんだか釈然としない気分のまま、飛行機に乗り込む。

そうこうしているうちに飛行機が離陸する。

前夜の寝不足がたたって目を開けていられない。睡魔が襲ってくる。離陸直後に、はるかかなたに霊峰富士の姿を見た以外は、ほとんど寝ていた。

やがて「当機はまもなく新千歳空港に着陸します」というアナウンスが流れる。窓から下を眺めると、陸地が見える。もうかなり低空飛行をしており、地上の木々がはっきりと見える。地面はうっすらと白い。今日の予想最高気温は零下3度。「最低」ではない。「最高」である。おそらく昨日の夜、降雪があったのだろう。

こうして上から見ると、木々の様子、植生が本土と異なっているのがわかる。目に入るのは細く尖った針葉樹の枯れ枝と地面の雪だけ。ああ、もう照葉樹林文化圏を脱してしまったのだなあという感慨がそこはかとなく湧いてくる。

無事着陸して機外に出ると、かちんとした冷たい空気にぶつかる。「おお、さぶっ」というようなやんわりとした寒さではなく、かっちりとした冷気があたりに満ち満ちており、それに体がぶつかった感じである。変な感想だが、ワイキキの空港でがつんとした熱気にぶつかるのと、どこかしら共通点があるように思える。

いさぎよいというか、きっぱりしたというか、半端さを感じさせない寒さである。「おお、寒い」とか、「うう、寒い」とか言う時の、「おお」や「うう」を許さない問答無用の断言口調(というのも形容矛盾だが)の寒さである。私は基本的に寒さを好まないが、ここの寒さにはどこかしら好感がもてる。真夏の福岡で肌に突き刺さるような日射しを浴びる気分とどこか似ている。それに空気の質感が違う。湿り気をとりさった、からっとした感じがなんだか心地いい。

しかし、そんな感慨に浸っている場合ではない。とりあえずエアポートという電車に乗って、札幌駅に向かわなければならない。

空は快晴。下にはうっすらとした雪。車道は大丈夫だが、歩道はところどころ凍結しているようだ。そこもべちゃべちゃ感のまったくないきわめてドライな凍り方である。

札幌の駅に着き、改札を出る。駅前の通りはどーんと広い。外は寒いというより、むしろ冷たい。日陰に入ると風がきついので、思わず近くの大丸デパートに入る。わざわざ札幌まで来たのだから、すしでも食うか。そう思って、8Fにある「すし善」に向かう。

前日、札幌の食い物屋をネットで調べていたら、東京の金持ちが日帰りでこの店に(といってもデパートではなく、本店だが)すしを食いにくるという話が書いてあった。あまりにいけすかない話なので、自分で実行してみようと思い立つ。ちょっと説明するのがむずかしい心理である。

とりあえず、リーズナブルなお値段のにぎりセットを頼む。磨き込まれたカウンター席に座ると、すし屋なのに店員さんが物静かだ。小さな声で注文を聞く。隣の席にはなんだかあか抜けない風情の10代後半の女性が座っている。その隣にはさらにあか抜けない男性がぼーと前を向いて放心状態である。でも、そのぼーとしたふたりが、ぼーとしたなりに、なんだか気持ちを高揚させているのがわかる。彼らは緊張しているのである。おそらくは初デートであろうか。「よし、お昼はがんばって大丸のすし善にしよう」、男性がそう決意し、勇気をもって実行している真っ最中なのであろう。

やがてそのカップルの目の前にすしがくる。板さんがひとつずつ握ってカウンターに置いてくれる。女性は箸をもって、すしをつまみ、右ひじを張り出すように高くかかげ、顔に向かってやや斜め上方から飛行機が着陸態勢に入るようにすしを滑空させ、縦方向にぱくりと口に入れる。なんだかカメレオンが虫を食べているようである。箸でつまんだすしをいったん自分から離し、そこからひじを張った状態で自分の口めがけて縦方向にすしを入れる。若い女性がチョコパフェかなんかを食べる時には時折見かける食べ方だが、すしにはどうなんだろう。でも女性はまったく意に介することなく、ぱくりぱくりとすしをほおばり、「おいしー」を連発する。まあ、なんというか、ほほえましい光景ではある。少なくとも反対側に座っている3~4歳のこまっしゃくれたガキが「ぼく、とろー」とか言っているのよりはよほどいい。今、大地震が起こって、このビルが瓦解したら、とりあえずどちらを助けるかは明らかである。

私の目の前にもすしがくる。やや小ぶり、上品な流線形である。ネタはひらめ。すでに刷毛で醤油がうっすらと塗られている。口のなかに入れると、飯もネタも口の中でほどけて溶けて消えてしまう。イカ、コハダ、まぐろ、とびこ、いくら。すべてあっさりと口中に消えていく。

口に入れたとたんに「うまい」というのでは必ずしもない。淡い味がひととき口の中を通りすぎ、その後にほのかなうまみが残響のように体の中に広がっていく。そういう感じである。魚介類にはおよそ臭みというものがない。きわだった匂いもしないし、味もほのかである。まるで谷川の湧き水にしばらく浸した後で、そこから引き上げたばかりのネタを次々に口に運んでいるようだ。

「とびこ」がこんなにおいしいものだとは知らなかった。さらに驚いたのは「ほたて」である。透明感のあるほのかな甘みが、口の中のはるかな回廊をどこまでも通り抜けていく。これがほたてならば、これまで自分が食べてきたものはいったいなんだったんだろう、そう思ってしまう。

一通りすしを食べ終わり、岩のりの入った上品な吸い物を啜っていると、「追加でにぎりましょうか」と板さんが小さな声でささやく。「ああ、いや、いいです」といいながらも、腹の中に何かがたまっているという感触がまるでない。この調子で食べていたらきりがない。それに第一、これから大きな仕事が待っている。ほわーとした気分のまま、すし善を後にする。そのすしのうまさの半ば以上は、店を出てから感じられたようにも思える。かすみでも食べたんじゃないかという気がするほどだった。

食後、デパートの中と駅前の通りをしばらく散策する。

デパートの中で感じたのは、北海道の人は狭いところを歩くのがあまり得意ではないということだ。歩こうとすると、何度も目の前に「ぬぼー」と人が立っているところにぶつかる。けっして悪気があるわけではない。ただ、ずどーんと人が突っ立っているだけである。東京の電車のホームでよく見かけるような、こすっからいドブネズミがちょろちょろと目の前を通りすぎるというのとはちがう。ただ、なーんにも考えずに、自然に、ぬぼーっと突っ立っている方がおられるのである。それもなぜか、女性が多かったように思う。

どうもこの地では、女性はゆったりのんびり、それに比して男性は比較的細やかに気をつかっておられるようである。こういうところもなんとなく博多に似ている。女性の存在感が強いところにいると、気持ちが落ち着く。そういえば機内で読もうと思って持ってきた本のタイトルは福岡伸一先生の「できそこないの男たち」(光文社新書)。できそこないの男どもが蝟集している場所にろくなところはない。日々の政治のニュースを見ても、それは明らかだろう。

午後、札幌駅の近くの高校で先生方に講演を行う。予定時間90分を20分もオーバーしてしまう。聞き手に恵まれて、出来はまずまず。その後の質疑応答も親密な雰囲気のなかで気持ちよく行うことができた。

しかし、余韻に浸っている時間はない。4時過ぎになると既に外は暗くなっている。挨拶もそこそこに車に飛び乗り、札幌の駅へ。そして電車で新千歳空港に向かう。

残念ながら晩飯を食っている時間がない。あわててふたたび大丸の地下で海鮮丼を買って車内で食べることにする。ビールの銘柄をどうしようかと一瞬迷うが、そんなもの迷う必要はない。ここにはサッポロビールという巨大な地ビールがあるではないか。缶ビールを買い、あたふたと列車に乗り込む。そういえば、空港のどこかに「札幌でもキリン」というポスターが貼ってあったような気がする。

海鮮丼のシールを見ると、なんと本店は横浜と書いてある。しかし、そこに載っているイカ、イクラ、カニ、ホタテのレベルの高いこと。見事なものである。講演の余韻が残っているので、ビールを一気のみしてもぜんぜん酔いがまわらない。しかたなくぼんやりと窓外の風景を眺める。

一つ前の席には乳児を抱いた、まだ若いお母さんが座っている。通路をはさんで、その左側には、ほとんど中学生ではないかと思われるようなカップルが座っている。そして、二人は一言も話さない。切れ長の目をした男は終始窓ガラスの外を見つめている。その隣で帽子にもバッグにもブーツにも可愛いぼんぼんをつけた女の子は所在なげにぼんやりしている。でもなんだか男の子をきづかっている気配が見える。おそらく男の子がなにか無体なことをしようとして、やんわりと女の子に拒絶されたのではなかろうか。これは私の妄想かもしれないが、なぜかこの地では見知らぬ人々の心のなかが透けて見えるような気がする。なぜだろう。やはり湿気が少ないからだろうか。

そのうちに女の子が帽子の横っちょについた毛糸の玉をくるくると手で回しはじめる。隣の席の赤ん坊に見せているのである。赤ん坊はそれを見て、小さな手を伸ばしてくる。二人は手を伸ばしあって、やがて手を握り合う。なかなかいい光景である。その向こうで硬い表情をした男の子がじっと外を見ている(ふりをしている)。

やがて赤ん坊と母親は電車を降りる。車内はがらんとしている。そして、列車は新千歳空港に到着する。私は荷物を網棚から降ろし、マフラーを巻き、コートを着込む。すると斜め前の女の子が座ったままの上体を男の子のほうに思いっきり伸ばして、その頬に軽くキスをする。ひょっとするとキスというのとは違うのかもしれない。硬く、ぎこちなく、でもしっかりとくちびるを男の子の頬にぎゅっと押しつける。男の子は相変わらず、無言、無表情。でも、そのこころがあたたかくほぐれかけているのがわかる。電車が止まって、男の子がさっと歩きはじめる。タイミング悪く、私が二人の間にはさまる形になる。あわてて座席に戻って、さっき結んだばかりのマフラーをもういちどほどき、「お先に」とぼんぼんをつけた女の子に目配せをする。女の子は軽く頭を下げて小走りで彼氏の後を追う。そして、男の子の右腕に両手でしっかりとしがみつく。

なかなかいい光景である。

はじめて来たのになつかしい。

札幌の街の印象を要約すると、そういうことになる。

恋の街サッポロ。

むかし、そういう歌があったっけ。

浜口庫之介の歌だ。

こいのーまちー、さっぽろー。

われながらひどいエンディングである。

とほほ。

おしまい。




Last updated  2008.12.19 09:02:00
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2008.11.20

人はなぜ振り込め詐欺にだまされるのか

昨日、NHKの「クローズアップ現代」で、振り込め詐欺特集をやっていた。いくつかの事例がとりあげられていたが、たとえばこういう新手のやり方があるそうである。

「もしもし」
「ああ、あのー、オレ、オレやけど、今度携帯の番号変わったから、ちょっとメモしといてんか」

そういわれて、電話に出た高齢の男性は、このくらいの年齢で自分が知っているのはと考える。ああ、そうか、おいの○○か。

「ああ、わかった。ちょっと待ってな。いま、ペン持ってくるから。ああ、うん、○○○の○○○○やな。よし、わかった。」
「そう、じゃあ、またな」

がちゃんと電話が切れる。もちろん男性は何も疑わない。変更した電話番号を告げるだけの電話に不信感をもつ人間はいないだろう。まさかこれが振り込め詐欺の序章だとは夢にも思わないはずである。

翌日の夕方、同じ声で電話がかかってくる。

「あのなあ、オレ友だちと最近株をはじめたんやけど、ほら、こないだ株の暴落騒ぎがあったやろ。あれで俺の買うた株がえろう下がってしもうてな。今日中に75万円振り込まんとたいへんなことになるんや。頼むから振り込んで、頼むわ」

その電話の発信番号は昨日告げられた番号である。男性はあわててATMに駆けつけ、指示通りの金額を振り込んでしまう。

世の中には悪知恵にたけた人間がいるものである。

営業にはアプローチ、商品説明、クロージングという三つの段階がある。「こんにちは、○○さーん」から始まって、玄関先に客と一緒に腰を下ろすまでがアプローチ、そこから商品説明が始まり、それが一通り終わって、契約書が取り出されるところから大詰めのクロージングというわけである。

トップセールスはアプローチを重視する。もちろん技術的な面で、簡単にアプローチアウトをくらわないように、ありとあらゆるテクニックが駆使されるのはもちろんだが、下手にアプローチがうますぎると、最初からぜんぜん買う気のない客に延々と商品説明をして、契約書を取り出したとたんに「わたし、いらないわ」の一言で徒労に終わることになってしまう。これでは商売にならないので、トップセールスはアプローチ段階で相手の心理を鋭く見抜く洞察力に例外なく秀でているものなのである。

先の振り込め詐欺の事例で私が感心したのは、犯人が巧妙なアプローチを考案していたからである。最初に「電話番号が変わったからメモしといて」といって、「あんた、いったい誰や」といわれたら、これはだまし通すのがむずかしいという判断がつくだろう。そこで切ってしまえば、詐欺どころか、単なる間違い電話で済む。「ああ、これは失礼しました。まちがえました」で終わりである。

この作業を繰り返して、こちらが名乗るまでもなく、向こうのほうで勝手に自分の知り合いと思いこむ人間に出会うのを待つ。そういう人間に出会ったら、あえてそれ以上話し続けることなく、いったんは電話を切る。そして、翌日かけ直す。ここまでの下準備をした後で、やおら「実は」といって銀行振り込みをもちかけるというわけである。

営業の勝負所は「相手を座らせる」ところにある。この電話の場合、もう相手はべったりと犯人の隣に座ってしまっている。座っているどころか、ほとんど「落ちて」しまっているといってもいい。その後の振り込みの操作とか、振り込むための理由は、実はたいした問題ではない。振り込め詐欺の手口もずいぶんと洗練されてきたものである。

しかし、それにしてもこれだけ連日、警察やマスコミが振り込め詐欺撲滅キャンペーンを繰り広げているのに、なぜ依然としてだまされつづける人がいるのだろう。そうお思いの方も多いのではなかろうか。

私はこのキャンペーンが、実は振り込め詐欺の隆盛に一役買っているのではないかとにらんでいる。

「私はこんな詐欺にはぜったいに引っかからない」という意識が世の中の人々に浸透すればするほど、実は自分の置かれた状況を「これは詐欺ではない」と信じる力が強まるということがある。現に詐欺にだまされつつある状況下で「自分はだまされない人間である」と堅く信じる人間は、その前提から「今、自分が直面している事態は詐欺ではない」という確信に導かれやすい。「私はだまされない」⇒「今も私はだまされていない」⇒「だから、これはけっして詐欺ではない」というループの中にすっぽりと入ってしまい、結果的にまんまとだまされてしまうのである。だから、マスコミは「これだけ教えてやってるのに、まだだまされるアホがいる」というトーンで番組を作るのではなく、そう思っている人間に限って、それを逆手にとられてこんなふうにだまされるという角度から番組を作るべきなのである。「なんで、この人たち、だまされるんやろ、アホやなあ」という感想を視聴者に与えるのではなく、「あら、これやったら、私かてひょっとしたらだまされとるわ」と感じさせる番組を作らないと、犯罪防止には役立たないのである。

もうひとつ。振り込め詐欺に引っかかる人間が後を絶たない理由は、だまされる側の「私は人を助けている」という意識にあるように思う。

現代に生きる高齢者に「人に頼りにされる」機会がどれほどあるだろう。都会の老人などはとくにそういう機会が少ないと思われる。誰にも頼りにされず、一人きりで寂しい日々を送っている高齢者は「はたして自分が生きることにどんな価値があるのか」、「私ははたして人様のお役に立っているのだろうか」、そういう思いを抱きつつ生きているのではないか。地域の共同体から切れ、親族と疎遠になり、孤独な日々を送る高齢者にとって、自分を正当に価値づけるための唯一の手がかりは、ひょっとすると自分の預金通帳の残高なのかもしれない。

そういう人のもとに、ある日「助けてくれ」というSOSの電話が入る。「あなたが頼りなんだ。いますぐにお金を振り込まないとたいへんなことになる。頼むから助けてください」

そういう電話を受けて、彼らはどう思うだろう。実にひさびさに自分が頼りにされている。私を救えるのはあなただけだとこの人は言っている。しかも、助ける手段は自分を正当に価値づけているところの銀行預金だ。今となってはこれだけが自分をアイデンティファイしてくれる貴重な「財産」だ。それを必要とする人に送金手続きをすることによって、もう誰にも頼りにされなくなったこの自分にも再び復権のチャンスがめぐってくる。自分を頼りにし、救いを求める人々を助けることによって、自分が正当に評価される時がやってきたのだ。彼らがそう思ったとしても不思議ではない。

そう信じ込んだ老人にとって(別にこれは老人に限ったことではないが)、「ちょっと待ってください。それはひょっとすると振り込め詐欺ではないですか」と言って振り込みを制止しようとする偉そうな銀行員や警察官はどう見えるだろう。おそらくは彼らの正当な自尊心の発現を邪魔する「敵」に見えるのではないだろうか。だって、彼らは自分に向かって「おまえはマスコミでこれだけ騒がれている振り込め詐欺に、まんまとだまされつつあるおろかで無価値な老人なんだぞ」と面と向かって言われていることになるわけだから。

彼らが「だいじょうぶです。ほっておいてください。これは詐欺なんかじゃありません」といって、銀行員や警察官の手を振り払おうとする気持ちが私にはわかるような気がする。自分の価値を認め、助けを求める人間のために働こうとする自分の行動を邪魔し、自分を愚か者として否定する背広や制服に身を固めた人間に、誰が唯々諾々と従うだろうか。

こう考えると、振り込め詐欺の根は意外に深いところにあることがわかる。

被害者はただ単に巧言にひっかかった受身の存在というよりも、むしろ人を助けようという積極的な意思の持ち主なのである。彼らはだまされたというよりも、むしろ積極的、能動的に自分をだます詐欺行為に参加していると見ることもできる。

「自分は無力な人間ではない」、「自分は社会に参加し、人を支え、助ける力をもっているんだ」――そういう気持ちを高齢者たちが確かにもつことが、そして、それを可能にするような社会の仕組みを作ることのほうが、今行われている振り込め詐欺キャンペーンよりもはるかに有効な防止策ではないかと、私はひそかに考えるのである。


Last updated  2008.11.21 09:11:31
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SMETANA「MA VLAST」
[ 音楽 ]    

東京芸術劇場で、スメタナの「わが祖国」を聴く。演奏は読売日響、指揮は正指揮者の下野竜也氏である。

「わが祖国」といえば、第2曲の「モルダウ」が有名だが、全曲を通して聴くと70分以上かかる。ちょうどCDまるまる一枚分である。6つの交響詩のそれぞれが比較的独立していることもあり、なかなか全曲を通しで聴くことはない。コンサートでもこの曲の全曲演奏というのはあまり聞いたことがない。料理屋のテーブルにいきなり巨大な天丼の特盛りがどーんと置かれたような、一点豪華主義、超重量級のメニューである。

この曲のCDを二種類もっているが、指揮はいずれもラファエル・クーベリック。一枚は1950年代にウィーン・フィルを振ったロンドン盤、もう一枚は1971年にボストン響を振ったグラモフォン盤。どちらかというと、あまーくなつかしい響きのするロンドン盤を聴くことが多い。クーベリックの本領はなんといってもライブにある。通常録音ではなぜかおとなしめの演奏をすることが多い彼だが、ライブとなると紳士の仮面をかなぐり捨てて、激情家の一面を剥き出しにすることがある。海賊版で出たブラームスの一番のライブ演奏などは何度聴いても興奮する。いつかは彼のライブ盤の「祖国」も聴いてみたいものである。

などと思いつつ、東京芸術劇場に到着。巨大なパイプオルガンが屹立するステージ正面を見つめる。このホールは豪華ではあるが、威圧感を感じさせず、ある種の親密な雰囲気がただよっている。コンサートホールとしてはまことに快適な空間だ。開演時間が迫り、オーケストラの面々が舞台に出てくる。今回は大編成であり、ステージ上は団員で満員状態。舞台の両端にハープが一台ずつ置かれるという配置を私は初めて見た。

その左右のハープの掛け合いで曲は始まる。読売日響の弦の響きはとても美しい。春の昼下がりの風のように、さわやかに聴く者のからだのなかを吹き抜けていく。その音に浸っていると、まあ、あんまりややこしいことを考えるのはやめて、この響きにひととき身を委ねようという気分になる。

指揮の下野氏の動きはとても「正直」だ。自分のイメージした音の通りに体を動かす。動作は過剰でもなく、不足してもいない。こういう音を作りたいんだというメッセージが体から正直に発散されている感じである。全体を統率する指揮者というよりも、演奏者の一人といったほうがふさわしい気がする。

彼は、舞曲的なリズムをもつ曲の演奏が得意なようだ。そういう箇所にくると、聴いているこちらの体が自然に動き出す。曲の最高潮で分厚い和音がホール全体に鳴り響くと、次の瞬間、潮が引くようにすっと静寂が訪れる。その静寂のなかに和音の残響がかすかにただよう。そういう瞬間が何度も訪れた。よく揃った厚い和音の後の一瞬の静寂。これはほとんど生理的な快感を感じさせる。オーケストラ、指揮者ともに高い技術的水準に達していなければ、こういう瞬間はめったに訪れるものではない。

そういう演奏で第二曲目の「モルダウ」を聴くと、あらためてこの曲が間然するところのない傑作であることがよくわかる。音が心地よく流れ、渦を巻き、うねり、水かさを増し、やがて音を立てて流れ下っていく。そのよどみのなさと生き生きとした躍動感。このオーケストラの弦の美しい響きがこの曲想にはぴったりである。

第三曲目にこれまで気づかなかった実に美しいフレーズがあることを知ったり、第四曲目でコントラバスが奏でる「いびき」の音に頬がゆるんだり、第五曲目には何かしら構造的に問題があるなと感じたり、しかし、最後の第六曲目では、もう何も考えることなく流れるままの音に身を任せていた。

全体として、生理的にたいへんここちよい75分間だった。

なんだかたよりない感想だけれど、このご時世に、何も考えず、ここちよいひとときを過ごせただけでも多としなければならない。

最後の一音が鳴り響いた後、ステージ中央と袖の間を、体をはずませながら指揮の下野氏がまるで反復横跳びのように早足で何度も往復する。彼の求めに応じて、各パートがそれぞれ立ち上がり、そのたびに聴衆から割れるような喝采が送られる。

私のいちばんのお気に入り、ティンパニの岡田全弘氏に対して手が痛くなるほどの熱烈なアプローズを私が送ったことはいうまでもない。この人の打音を聴くと、ほんとうにこころが弾む。この人のティンパニでブラームスの一番や、ベートーヴェンの七番、そしてブルックナーのスケルツォが聴けたら、どれほど幸福なことだろう。美しい弦の響きと心躍る岡田氏の打音を聴くだけでも、このオーケストラの演奏を聴く価値は十分にある。

というようなことを思いながら、ひとときの愉悦の時間を終え、私は暮色の濃い憂鬱の靄の中へと一人歩き出すのだった。


Last updated  2008.11.20 20:19:46
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2008.11.13

「定額給付金」騒動

このところ定額給付金をめぐる騒動でもちきりである。

これが日本国の景気浮揚に効果があるかどうかはきわめて疑問だが、特定の業種の人々にビッグチャンスの到来ととらえられていることはまちがいない。

振り込め詐欺グループの人々である。

たとえば、次のなかでもっとも信憑性に欠けるものはどれでしょう、というクイズがあったとする。

1 朝の通勤電車で、あなたの夫が痴漢をし、示談金が必要になった。

2 出勤時に息子さんの車が交差点で人身事故を起こし、至急、示談金が必要である。

3 税の還付金が発生したので、銀行の口座に振り込みたい。ついてはATMの窓口に来てほしい。

4 今度、政府が国民全員に1万2千円を配布することになったので、そのお金を取りに来てほしい。

予断と先入観がなかったとしたら、多くの人が4を選ぶだろう。常識的にもっとも現実的に起こりうる確率の少ない現象は4だからだ。少なくとも夫が性犯罪に走ったり、息子が交通事故を起こしたり、税務署が還付を行うことよりも、政府が国民全員に1万2千円を配る確率のほうがはるかに低いことはたしかだ。

ちょっと目端の利く詐欺師だったら、4の案はただちに却下するだろう。「そんなもん、誰が信じるかよ、ばーか」の一言で終わりである。その試みを、今の政府は大まじめに実行しようとしている。その結果、どういうことが起きるだろうか。

まず、日本国民の正常な懐疑精神が損なわれることだろう。今までだったら「えー、そんなばかな」と一蹴していた事柄も、「うーん、このご時世ならば、それもありかもしれない」と考えられるようになる。「そんなばかな」と判断する基準が国民レベルで大幅に引き上げられるのである。その結果、人はトンデモ話にだまされやすくなる。突拍子もないことを、後先の計画性もなく、時の権力者が口にしてしまう時代なのだから、少々怪しい話でも真実である可能性が高まってくる。いままでだったら「うそだろう」で終わっていた話が、「ひょっとするとほんとうかもしれない」に変わってしまう。

もしも、今年の年末、区役所から一本の電話がかかってきて、「例の定額給付金の件なんですが、75歳以上の後期高齢者の方々には、総理の英断によって、特別給付金がさらに5千円加算されることになりました。お手数ですが、その振り込みのためにATMの窓口に来ていただけますでしょうか」といわれて、「そんなばかな」と一蹴できる高齢者がどれほどいるだろう。

機を見るに敏な振り込め詐欺グループが、このビッグチャンスを見逃すとは思えない。

しかも現在の案では、65歳以上の高齢者には給付金が8千円加算されるという。彼らにとっては願ったりかなったりといういうところである。

おそらく詐欺グループの内部では、今ごろせっせと詐欺話の「絵図」が描かれていることだろう。シナリオ作成、トーク集と反論防止マニュアルの編集、ロールプレイング作業に余念がないのではなかろうか。

所得制限の実施、配布方法の細目については自治体に一任するという報道を聞いて、彼らが小躍りする姿が目に見えるようだ。

「あれ、そのやり方って新聞で読んだのとちょっとちがうとおもうんだけど。」

「ええ、わが自治体では独自の方式を採っておりまして、住民の方々へのサービスや高齢者の方々の諸事情にも配慮してですね、直接役所の窓口においでいただくのではなく、銀行のATM窓口で振り込み手続きが簡単にできるようにしているのでございます。」

そういう反論の未然防止トーク集がいまごろせっせと書かれているのではないか。

あるいは「当自治体では1千8百万円以上の所得のある方々には給付金をご辞退いただくという方針をとっておりまして、つきましてはその所得制限に抵触しないかどうかを、預金通帳を提示していただくことによって確認させていただいているという、そういうわけなのでございます」。そう言いながら家庭を巡回訪問する「役人」が出現してこないとも限らない。

「低脳な山師と 信念を金で売っちまうおエラ方が

 動かしてる 世の中さ よくなるわっけがねー
 
 あきれて 物も 言えねー」

(RCサクセション「あきれて物も言えない」)


という歌声がどこからか聞こえてくる。


この政策は後日、振り込め詐欺振興に多大の貢献をした政策として、人々に長く記憶されることになるのではなかろうか。




Last updated  2008.11.13 20:55:02
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2008.11.10

駄句ひとつ

先日、筑紫哲也氏がなくなった。それ以前に緒方拳氏の訃報も聞いた。なんだか、人生のかなりの部分をともに生きてきた人間が次々になくなっていくという感慨がある。

かなり以前のことだが、緒方氏が「徹子の部屋」に出演したことがある。見るともなくその番組を見ていたのだが、彼の観察眼の鋭さとことばの選び方のシャープさに驚いた。きわめて高いレベルで知性と感性のバランスがとれた人なんだなあ。そう思った記憶がある。

そのなかでこういう話があった。

「私はね、スナックかどこか、カウンターのあるバーで、相手と二人で飲んでる時に、こう言われることがあるんですよ。『なぜおまえは俺の顔を見ないんだ』って。

 私はそういう時、正面を見て、隣の人の話を聞いているわけです。でも、首を曲げて、その人のほうは見ない。それで、なぜこっちを見ないんだと相手は言っているわけです。

『いや、見えてるんだ』って私は言うんですが、まずわかってもらえないですね。だって、全然こっちのほうを見ないじゃないかというわけです。でも、ほんとに見えてるんですよ、嘘じゃない。私は正面を向いたままで、こう、横のほうがなんとなく見えちゃうんですよ。でも、なかなかわかってもらえないんだなあ、これが。」

何気ない話だったが、「ああ、オレとおんなじだ」とその時思った。私も横に並んで誰かと話をしている時、その人のほうを首をねじ曲げて見ることはほとんどない。そんなことをしなくても、「見えている」と感じるのである。

これは別に目が離れているとか、顔が魚に似ているとか、そういう話ではない。実際問題として、隣の人間の位置に視力検査表や文字を置いて、それが読めるかというとぜんぜん読めないのである。その意味では「見えていない」ことになる。

でも、その人間がどんな表情をしているか、何を感じ、何を考えているかは、だいたいわかる。それも想像というのではなく、「見えている」感じでわかるのである。このあたりの感覚はなかなか説明するのがむずかしい。

これは横方向に限らない。たとえば、講演をする場合、200人程度の聴衆の最後列にいる人の顔は、私にはまったく見えないはずである。視力は裸眼で0.1程度で、極度の乱視なので、その位置に何か文字が書かれていたとしても、まったく読むことはできない。

でも、私にはそこにいる人の顔が、「見える」のである。「ああ、退屈しかけてるな」とか、「興味を感じて身を乗り出しはじめたな」とか、「共感してくれてるな」とかいうことが、かなりはっきりとわかるのである。いや、正確にいえば、わかっているような気がするのである。

これはネガティブな反応よりも、好意的な反応に対して感じることが多い。おそらく自分で求めているからそうなるのだろうが、この感覚はけっして「錯覚」とも言い切れないのである。

それは講演が終わって、その人が実際にこちらにやってきて、好意的な反応を示してくれることがあることからもわかる。

この感覚については、自分でもうまく説明できない。現実には時折見えていないものが見えることがあるというだけである。これは別に特別な能力とかそういうものではない。おそらく誰にでもあるものなのだと思う。ただ目のいい人はそのことに気づく機会がないだろうし、人によってその感度に多少の差があるのだろう。

まあ、これはそれだけの話である。それ以上、発展する話ではない。でもそれ以来、緒方拳氏を見るたびに、「同じ種族」の人を見るような感じをもつようになった。数少ない同族を一人失ったのはまことに残念である。

筑紫哲也氏には一度だけ偶然遭遇したことがある。まだ大学生の頃だったが、大学の正門を出て、都電の駅に向けて歩いていると、前方にぼさぼさの髪をした、かなり大きめのバッグを担いだ中年の男性が歩いていた。私は正門のそばにある古本屋を覗くつもりだったので、少し足を速めてその人を抜き、本屋に入った。

その店は典型的な古本屋だった。場所柄、外国語の本が若干多かった以外は、特に特徴もない。店全体の雰囲気は焦茶色一色。硬い本が多く、雑誌の類はほとんどなかった。店内にはNHKFMが人間の可聴範囲ぎりぎりの小さな音で流れており、その音量が私は気に入っていた。あまり本を買った記憶はないのだが、暇な時にはなんとなくそこに入って、書棚を眺めていることが多かった。

私の後から筑紫氏が入ってきた。私は例によって直接その姿は見なかったが、なんとなくその姿が「見えた」。あいまいな記憶だが、その日、大学で氏の講演が行われたのではなかったかと思う。私はとくに興味もなかったので、その講演は聞かなかったが、おそらくはそれが終わった後、誰も連れることなく、たった一人で、大学の脇にある小さな古本屋を覗いたのだろう。本好きな人なんだなあと、その時思った。初めて行く土地や旅先で古本屋を覗くのは、本好きにとってひそかなときめきを感じさせる行為なのである。

彼はその店に浸透していた焦茶色によく馴染んでいた。おそらくモスグリーンのトレーナーとクリーム色のチノパンを履いた、もう一人のくらーい大学生の客もさぞかしその場に溶け込んでいたことだろうと思う。ほんの数十分程度だったが、その店で並んで古本の棚をいっしょに眺めていたことがあった。ただそれだけのことである。

その時、この人は基本的に「本」の人なんだなあと思った。彼が「活字の人」だということは知っていたが、その活字ははなばなしくあちこちを飛び回る新聞や雑誌の活字だとばかり思っていた。でも、この人の根底には「本」の活字があるのではないか。なんとなくそう感じた。なぜそう思ったかはよくわからない。至近距離にいて、とにかくそう感じたのである。

そういえば、「本」の人であることを感じさせるジャーナリストが減ったように思う。白魚のおどり食いみたいに、あちこちにはね回る活字を必死で追いまくっている自称ジャーナリストはたくさんいるが、ずっしりと厚みのある本に深く刻印された活字を頭のどこかで意識しながら活動しているジャーナリストがいまいったい何人いるだろう。

この人は自分とはおよそ同類とは思えないけれども、遠いご先祖さまをたどると、ひょっとすると、どこかで血が交錯していたのかもしれない。

きのう、ラジオに小沢昭一が出て、こういう話をしていた。

「あのねえ、長生きするってのはいいことだって、みんないうでしょう。あれは嘘だよ。私なんか長生きしてるでしょう。で、どうなるかっていうと、まわりの知り合いや友だちがみーんないなくなっちゃうわけ。ほんと、だーれもいなくなっちゃうんだ。だから長生きするっていうのは、要するに、友だちがいなくなるっていうことですよ。ひとりぼっちになるってことですよ。それを長生きっていうんだって、最近になってやっとわかってきたんだ。いや、ほんとに。」


訃報聞き 一人きりなる われ思う


駄句である。

季語がないって?季語は「われ」である。そして季節は。いうまでもない。「冬」に決まっている。



Last updated  2008.11.10 21:19:02
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2008.11.06

A CHANGE HAS COME

日頃からテレビはほとんど見ない。しかも、多くの場合、ビデオに録って見るので、番組をライブで見る(というのも変な言い方だが)ことはほとんどなくなってしまった。一日の生活の中で生でテレビをみるのは、かろうじて夕食の時くらいだろうか。

それも背中越しである。夕飯を食べる時、テレビに向かっているのは私の背中だ。当然画面は見えず、音だけが聞こえる。NHKの七時のニュースの場合、それでも別に支障を感じない。ひょっとすると、背中で見ている視聴者を想定して番組を作っているのではないかと思えるほどだ。スポーツニュースを除いて、あえて振り返って画面を見ようと思うことはない。

きのうもそうやって、夕飯を食べていた。すると、背後から聞こえてくる音に、背中がわずかに反応した。少しだけ「熱」を感じたのである。肌で熱を感じるような音が七時のニュースから流れることは珍しい。私は耳を澄ませる。英語の演説である。当然、切れ切れにしか意味はわからないが、リズミカルで、適度な抑揚があり、感情と理性のバランスがほどよくとれている。扇情的でもなく、かといって冷たくもない。こういう話し方を私は好む。音が一定のリズムを保ちながら、ゆっくりと波形を描いてうねり、そのゆったりとした波の上に、簡潔で明快なことばがのせられていく。語りに力を感じさせる演説である。そう、テレビでは昨日シカゴで行われたバラク・オバマの勝利演説が流れていたのである。

こちらのリスニング能力に限界があるせいで、切れ切れにしか聞きとれないが、それでも、格調の高い、名演説であることはわかる。今朝の新聞で、その演説の要旨を読んでみたのだが、いかんせん、訳にあの「格調」が感じられない。しかたがないので、その冒頭部に下手くそな訳をつけてみる。

「シカゴの皆さん!

もしアメリカがあらゆることをなしうる場だということに疑念をもつ人がいるとしたら、われらの建国者の夢が今でも生きつづけていることを疑う人がいるとしたら、そしてわれわれのデモクラシーの力に疑いをもつ人がいるとしたら、今夜こそが、その答だ。

その答は、学校や教会の周りを囲んだ、この国がかつて見たこともないような多数の人々の列によって語られた。3時間も4時間も待ち続け、多くは生まれてはじめてそのような経験をした人々によって。なぜなら、彼らは今回はきっと違う、自分たちの声が変革をもたらしうると信じたからだ。

その答は、若者と老人、富者と貧者、民主党員と共和党員、黒人、白人、ヒスパニック、アジア人、ネイティブ・アメリカン、同性愛者とそうでない者、障害をもつものともたない者によって語られた。アメリカ人は世界に向かってメッセージを発したのである。われわれはけっして単なる個人の寄せ集めではなく、単なる赤と青の州の寄せ集めでもないと。

われわれは今も、そしてこれからも、アメリカ合「州」国なのだ。

その答は、われわれが成しうることについて、疑いの目を向け、おびえ、懐疑的であれと、あまりにも長きにわたって、多くの者たちに言い聞かされてきた人々が、今や自らの手を歴史の弧にかけ、よりよい日々への望みに向かってもう一度それを動かす方向へと導いたのである。

長い時間がかかった。でも今夜、まさにこの日、この選挙の、この決定的な瞬間に、わたしたちが成しえたことによって、変化がアメリカに訪れたのだ。」


やはりうまくは訳せない。

この演説を聞いて、私が感じたのは、次のようなことだ。

アメリカの巨大な政治は、個人の資質で左右されるほど繊弱なものではない。そこでは圧倒的な物量を伴うシステムが、膨大な人間とはかりしれない資源を伴って、ぎしぎしときしみながら、大きく回転を続けていく。

このことばを発した人間の政治的生命もいずれは尽きることだろう。その肉体的生命もほどなく終わりを迎えるかもしれない。しかし、この演説のことばは、それらよりも長く生命を保つだろう。息をしつづけることだろう。

心血を注がれ、ことばの力を信じる者によってこの世に生み出されたことばは、それを生み出したシステムよりも、それを世にあらしめた人間よりも、はるかに長生きをする。

そういう予感がする。

ことばに対して、シニカルで、おびえた、疑り深い姿勢をもつ社会は、長く命を保つことばを生み出すことができず、そのことばを担う強靱な精神を育てることができず、結果的に永続性をもつ活力にあふれた公正な社会を作り出すことができない。

そういう哀れな社会のリーダーは同じ日に、こういう発言をしている。

「どなたが大統領になられようとも、日本にとりまして日米というものが基軸というのは終始一貫、変わっていない。民主党政権の時であろうと、共和党政権の時であろうと、日本政府としてきちんとした対応を米国とやってこれた。そういった努力を引き続きオバマという人とやっていかねばならぬ。米国でできたからすぐ日本でも民主党という短絡的な思考は、私は持っておりません。」

笑おうとした頬が引きつって、背中になにやら悪寒が走る。

どうやら風邪を引いたようだ。



Last updated  2008.11.07 06:25:47
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2008.10.27

古典について
[ 本 ]    

最近、通勤時のバッグに入っている本は、たとえば「夏目漱石 私の個人主義など」(中公クラシックス)、シェークスピア「ハムレット」、「ロミオとジュリエット」、「リチャード三世」(新潮文庫)などである。

「ほほう、古典のお勉強ですか。感心ですなあ」
「いや、勉強なんてとんでもない」
「では、なぜ古典を」

実際に聞かれたわけではないのだが、誰かに書名を覗かれたら、そういう反応が返ってきそうである。これに対してどう答えたらいいだろう。

「べつに古典だから読んでいるわけではない。ここにあることばが自分にとって『リアル』だから読んでいるだけだ」

これで了解してもらえればいいのだが、おそらくはわかってもらえないだろう。

しかたがない。確率論でいくか。

なぜ古典を読むか。この問いの立て方にまず問題がある。むしろ「あなたはなぜ古典を読まないのか」、「あなたはなぜ新刊を選ぶのか」。そう問い返したほうがいいように思う。

あなたはなぜ現代の本だけを選択的に読むのか。おそらく人は自分の感じていること、自分の思いに近いものを書物の中に探すのだろうが、それが現代、ないしは近現代に書かれたものの中にあると考える根拠はどこにあるのか。そもそも今あなたの抱いている関心や興味、思考や悩みのうち、いったいどれほどのものが「今」という時間に規定されたものなのだろう。

私にはよくわからない。いや、冷静に考えれば、それらが現代の本に書かれている確率は、過去の本に書かれている確率よりもはるかに低いということはいえそうだ。それに「現代」の本は多すぎる。雑多だし、時間のふるいにもかけられていない。こちらに自分の賭け金を置くのは、かなりギャンブル性の高い賭けといえる。

現代人の関心事のほとんどは、過去の人々の関心事でもあった。政治、経済、社会、思想、歴史はもちろん、より個人的な家族、教育、恋愛、生活に至るまで、それらをめぐる問題のどれだけが、現代という時代に特有のものなのか、私には疑問に思える。

遠い昔から現在に至るまでの時の流れを「線」ととらえると、現在中心主義は世界を現在という「点」でとらえようとしている。長大な線とほとんど面積ももたない点のどちらに真理や真実が多く含まれているか。その答は自ずから明らかではないだろうか。

「じじいがしたり顔して古典なんか読みやがって」

かつてはそう思った時期もあった。しかし、今では書店にうず高く積まれている新刊書の山を見て「なぜわれわれはかくも『現代』という時に縛られているのか」、そう思う。

われわれは選択の余地なく「今」という時を生きている。しかし、だからといって、なぜ本を選ぶ時にまで「今」に縛りつけられる必要があるのだろう。私にはその意味がよくわからない。

そして、ある日、きまぐれで「マクベス」を手にとった。高校生の頃からこの手の本はなんども手にとってはみたものの、すぐに読むのをやめてしまった。考えてみれば、あの頃、自分の頭のなかには「現在」しかなかったように思う。しかし、その「現在」も今となっては、すでに遠い「過去」である。それは、なんの変哲もない、時間軸上に位置するたったひとつの点にすぎない。

年を重ねるということは、かつての自分の現在が、次々に過去へと変わっていく経験を重ねることである。今のこの時も、すぐに灰色の過去になる。そういう思いを何度も味わうことである。だとしたら、年を取ることの役得は現在の呪縛から自らを解き放つことにある。そうはいえないだろうか。

そんなことを思いながら、ぱらぱらとめくったシェークスピアの世界は、濃密でリアルで、あちこちが鋭角的にとがったことばの洪水であり、氾濫であった。未来とは何か。悪とは何か。運命とは、愛とは、行動とは、思索とは、人間とは何か。そういうリアルな問いが、緊密な物語世界の構築を通してありありと眼前に浮上する。

答え?もちろんそんなものはない。生きるとは問いを生きることであり、問うことそのものである。だから性急に答を求めることは死に急ぐことを意味する。われわれが欲するのはどこまでも深く掘り下げられた問いそのものである。そして、そのような問いは一定の幅をもった時間の厚みのうちにこそ見出すべきものであり、それは時のふるいにかけられ、時代性をやすりで適度に削りとられていることが望ましい。

だから、私が古典をバッグに入れるのは、目的ではなく、結果なのである。古典を読むことにいっさいの理由づけはいらない。ただそのなかのことばが「リアル」だから、切実だから、私はそれを読むだけだ。

漱石の「私の個人主義」に次のような一節がある。彼は学習院大学で、学生達を前に「学習院という学校は社会的地位の好い人がはいる学校のように世間から見なされております。」と述べ、権力や金力があなたがたにはきっと付随してくるだろうと言う。

「私の考えによると、責任を解しない金力家は、世の中にあってはならないものなのです。そのわけを一口にお話しするとこうなります。金銭というものはしごく重宝なもので、何へでも自由自在に融通がきく。たとえば今私がここで、相場をして十万円儲けたとすると、その十万円で家屋を立てることもできるし、書籍を買うこともできるし、または花柳社会を賑わすこともできるし、つまりどんな形にでも変わって行くことができます。そのうちでも人間の精神を買う手段に使用できるのだから恐ろしいではありませんか。すなわちそれを振りまいて、人間の徳義心を買い占める、すなわちその人の魂を堕落させる道具とするのです。相場で儲けた金が徳義的倫理的に大きな威力をもって働きうるとすれば、どうしても不都合な応用といわなければならないかと思われます。思われるのですけれども、実際そのとおりに金が活動する以上はいたしかたがない。ただ金を所有している人が、相当の徳義心をもって、それを道義上害のないように使いこなすよりほかに、人心の腐敗を防ぐ道はなくなってしまうのです。それで私は金力にはかならず責任がついてまわらなければならないといいたくなります。自分は今これだけの富の所有者であるが、それをこういう方面に使えば、こういう結果になるし、ああいう社会にああ用いればああいう影響があると呑みこむだけの見識を養成するばかりでなく、その見識に応じて、責任をもってわが富を所置しなければ、世の中にすまないというのです。いな自分自身にもすむまいというのです。」

「いやしくも倫理的に、ある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を発展する価値もなし、権力を使う価値もなし、また金力を使う価値もないということになるのです。それをもう一遍いい換えると、この三者を自由に享け楽しむためには、その三つのものの背後にあるべき人格の支配を受ける必要が起こってくるというのです。もし人格のないものがむやみに個性を発揮しようとすると、他を妨害する。権力を用いようとすると、濫用に流れる、金力を使おうとすれば、社会の腐敗をもたらす。ずいぶん危険な現象を呈するに至るのです。」(夏目漱石「私の個人主義」)

漱石はべつに今日の夕刊を見ながらこれを語ったわけではない。これは1914年、今から94年前、彼の死の二年前になされた講演の一節である。

このすこやかな「常識」がすがすがしく清涼な響きをともなって感じられるとすれば、あたかも蓮の花のように清楚で可憐に感じられるとすれば、それは「現代」に生きるわれわれが、首までどっぷりと汚泥に浸かっていることを意味している。

古典はそのことを痛切に私に教えてくれるのである。



Last updated  2008.10.28 06:26:43
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2008.10.06

「マクベス」
[ 本 ]    

シェークスピア「マクベス」(福田恆存訳、新潮文庫)を読む。なぜ今さら沙翁の本などをあらためて読んでいるのか。自分でもよくわからない。ただ本屋の書棚の前でこの本に何ごとかを囁かれた気がして、ふと手にとってみたのである。そして、冒頭を読んでみると、なぜかとても「しっくり」くるものを感じた。買い求めて、読み出したら、一気にその世界の中に引き込まれてしまったのである。

おそらくは福田恆存の翻訳の力も大きいのだろう。この訳は、ことばを語る人々の身体の動きをありありと感じさせる。ことばが意味とともに、ある種の調べを奏でている。日本語としての居住まいが正しく、ことばのひとつひとつのたしかな手ごたえを玩味しているうちに、いつのまにか劇の中に引きずり込まれてしまうのである。

しかも、この劇のぎりぎりに切り詰められた凝縮力。全身筋肉というか、むしろ必要な筋肉まであちこちで削ぎ落とされてしまったような異様な緊迫感のみなぎる劇である。

冒頭、三人の魔女が現れる。「きれいは穢ない、穢ないはきれい」という有名な逆説を弄した後で、魔女はマクベスに預言を告げる。

第一の魔女「お祝い申し上げますぞ、グラミスの領主様!」
第二の魔女「お祝い申し上げますぞ、コーダの領主様!」
第三の魔女「お祝い申し上げますぞ、いずれは王ともなられるお方!」

第一の魔女は現在を、第二の魔女は近未来を、そして第三の魔女は未来を告げる。そして、第二の預言はたちどころに実現される。ここからマクベスの悲劇が始まる。

マクベスはこの預言に操られるように王を殺害し、周囲の人間を次々と殺戮していく。

私はこの戯曲を読みながら、悪の悪たるゆえんはどこにあるのかを考えた。

想像を絶するような凶悪な犯罪が起こった時、人々はまず茫然とし、その後にその犯罪の過去を探ろうとする。容疑者の生い立ち、家庭環境、学校生活、人間関係。しかし、多くの場合、過去にその犯罪の決定的な因子を探り当てることはできない。悪が悪である理由を過去に求めることはできないのである。

人々は次に「現在」にその原因を求めようとする。彼が犯行を思い立った瞬間、そして犯行のただ中で、何を考え、何が起こったか。スローモーションで繰り返し、繰り返しその「現在」を反芻し、その犯罪の核心を探し求める。だが、核心は「現在」にもない。犯行の行われる瞬間をストップモーションで止め、その画像を繰り返し再生しても、やはりその凶行がなぜ行われたかの解答はみつからない。悪の理由は現在にも存在しないのである。

それならば、悪が悪となる決定的な因子はどこにあるのか。おそらくそれは「未来」にあるのだろうと私は思う。

悪とは何か。それはあることを起点として次々と連鎖的に悪が増殖していく時、その起点となったものを指す。これは無意味な循環定義に見えるが、実は人間にとっての悪の本質はこの循環の中にこそあるのではなかろうか。

「マクベス」にはその過程が、生き生きとリアルに描き出されている。

マクベスを王殺しに駆り立てたものは何か。それは表面的には野望であり、野心である。しかし、魔女の預言により、彼はほとんど王位につくことを約束されているのである。これまで通りの生活をして、悠然と自らの即位の日を待ち続けることも可能だったはずだ。彼はなぜそうすることができなかったのか。あるべき未来を待ち設けることができず、なぜ自らの手で強引に王位を奪いとろうとしたのか。

その原因は未来の喪失にあるのではないか。彼は現在を言い当てられ、近未来を言い当てられ、未来を預言される。彼はその預言を信じざるをえなくなる。そして、その預言を信じることは、彼にとっては未来を失うことを意味するのである。

王位につくという預言によって彼は逆に未来を得たのではないか。そう思われるかもしれないが、預言は未来を約束するものではなく、むしろ本来ならば未来に向かって開かれているべき可能性を封じるものである。預言は無限に存在するはずの可能性をたった一つの出来事に置き換えてしまう。余命半年という医者の宣告は、半年間の確実な生を約束するのではなく、彼の未来への希望を奪いとる。預言が未来を奪うとはそういうことである。

もしもそれが彼の望む事態であったとしても、基本的な事情は変わらない。彼は将来の王位を預言されることによって、未来を失う。本来ならば、自分の意志と力でつかみとるべき未来を彼は永遠に喪失してしまうのである。

そして、この未来の喪失と根源的な「悪」は深く結びついている。

悪は、未来を奪われた人間が、それへの復讐を行おうとする時、その人間のこころに胚胎するものではなかろうか。

マクベスは自分の意志を超えてなされた未来の決定を覆すために王殺しを行う。未来を宿命や運命にではなく、自らの強固な意志と力によって取り戻すために彼は自力で王位を奪いとろうとし、それに成功する。

しかし、その成功は彼のこころに猜疑の種を次々とまきちらす。自分が王になしたのと同じことが自分の身に降りかかるのではないかというおそれを彼は捨て去ることができない。未来を信じることができなくなった人間に残されたものは人間の意志だけであり、その意志は人間である限り、すべての者が備えている。彼にはもう一日も安息と安寧の日々は戻らないのである。

未来を知ることは、未来を失うことである。

この悲劇の核心を突くことばは、どこまでも逆説の形をとる。

未来を不確定な、漠然とした可能性として思い描くのではなく、どこまでも自らの意思と行動でつかみとることのできるもの、予測可能なものとしてとらえる時、人間のこころには悪が生まれる。

だとすれば、近代社会と巨大な悪とが切り離しがたく結びついていることにも得心がいく。

この書はあるいは近代社会が不可避的にもつ悪の根源を、17世紀に喝破した大いなる預言の書なのかもしれない。

そんなことをふと思うのである。


Last updated  2008.10.10 06:41:11
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