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内田樹400Mリレー第二走者論… (そのほか)楽天ブログ 【ケータイで見る】 【ログイン】
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2005.12.22 楽天プロフィール Add to Google XML

内田樹400Mリレー第二走者論
[ その他 ]    

内田樹氏の文章を読んでいて、私の頭に浮かぶのは「探照灯」のイメージである。闇夜の中で前方を照らし出すサーチライト。まっすぐに遠くまでよく届く光線。その発信源に内田樹という人物がいる。

その光の向かう先は未来である。以前、村上春樹の文体について、井戸の中に鉛の塊を下ろす時のロープにたとえたことがある。まっすぐでよじれず頑丈なロープ。それは垂直方向に重いテーマを深化させる道具としてきわめて有効に働く。

それに対して氏の文章は水平方向に光を投射する投光器の働きをしているように思える。未来へ向けてまっすぐにその光は向けられている。もちろん氏の文章に屈折がないわけではない。むしろ逆説的な話法がしばしば用いられ、文章は時に屈曲し、そこから意外な展開を経た後に、思いもよらない眺望が目の前に一気に開ける。それが氏の文章の魅力のひとつであることは疑いない。

ただし、その文章からもっとも強く感じとれるのは、過去の学問的遺産、現在の状況分析を、未来を見通すために用いようとする強い意思である。後ろ向きの姿勢で過去を愛玩したり、現在の足場を自明の不動点として現状分析に汲々とする姿勢は彼には見られない。過去も現在も将来への射程の中でとらえられ、再編成され、組み替えられる。そう私の目には見える。

氏の文章からうかがえる思考の特質は以下の三点に要約できる。

A 未来を見通そうとする意思、その射程の長さと正確さ
B 思考のツールとしての学問的知見、概念
C 明晰、柔軟でリーダーフレンドリーな文章

この三点の相互関係に彼の思考、文章の特質が表れているように思う。

冒頭に述べたようにこの中で最も強い印象を与えるのはAである。これは思考の方向性を決定する「意思」といえる。

Bはその思考を支える「装置」であり、Cはその装置から生まれてくる「出力」の形状である。

まずAとCの関係をみてみよう。

探照灯の光が遠くまでまっすぐ届くのは、Cの明晰な文章表現に負うところが大きい。

しかし、彼の文章の「わかりやすさ」はけっして単純化を目的としたものではない。むしろ逆である。論理を飛躍、発展させるためにはある種の「ねじり」が必要になる。それはねじることで新たな方向性を見出すことが可能になるからだ。しかし、このようなねじりはともすれば単なる混迷や混沌に陥る危険性をもっている。そうならないためには、ねじれそのものを正確、明晰に表現する必要があり、そこでクリアな言語表現が必要になるのである。彼の文章のわかりやすさは、いわば複雑さを有効に使いこなすための手段なのだ。

それではBはどうだろう。過去の学問的遺産の継承において彼はどのようなスタンスをとるか。私の目にはそれはきわめてオーソドックスなものであるように思える。先人の思想を力ずくでねじまげるような姿勢は、すくなくとも私には感じられない。その受けとめ方の柔軟性や自由さは、けっしてもとの思想の改変、改鋳を意味するものではない。むしろ、ここでも先人の思想を将来を見通すための力とするために、それを固定化した遺物とせず、生産性をもった道具とするために、彼は心を砕いているように思える。そして、未来を見通す強固な意思をもっている以上、彼は先人の思想をむしろすなおにしっかりと自分の手のひらの中におさめさえすればよいのだ。彼の発想の斬新さはいわばそのようなオーソドックスな学的継承の態度に支えられているように思える。

内田氏の著作を読むと、その読者の多くは「これこそまさに私がいいたかったことだ」という感想をもつ。私もそうだ。これこそ私が前から考えていたことであり、言おうとしてことばにならなかった思いである。それが今目の前に文章化されているという感慨を多くの人がもつ。しかし、これが錯覚であることはいうまでもない。それは彼のHPに寄せられたコメントやトラックバックの文章を読むとよくわかる。(もちろんこの文章も例外ではない)

このような感想はおそらくはBのオーソドキシーがもたらすものではないだろうか。そこには新奇なもの、奇異なものはほとんどない。その多くは読者の頭の中にすでに存在している概念装置の組み合わせであり、そこからの出力も平明、明快な文章の形をとる。材料は自宅の冷蔵庫にあるものと一緒、調理法もわかりやすく、難しい技術は使われていない。「これなら私だって作れる」と思うのも無理はない。しかし、内田氏の文章には未来を見通す強い意思が存在しており、そこにこそ彼の料理の核心があるのだ。

彼はやや腰をかがめ、いつでも走り出せる体勢をとったまま、体の後方に差し出した右手の中心部で先人の学問的遺産をしっかりとうけとめ、それを握りしめる。そして自ら走りはじめる。しかし、右手を後方に差し出した状態のままでは前に向かって十分な加速をすることはできない。いったん手にしたバトンを左手に持ち替え、全速力で走る体勢を作らなければならない。その過程でバトンは右手から左手へと持ち替えられ、ここに「ねじれ」が生まれる。先人の思想はこの瞬間に「ねじられ」、内田氏自身のものへと同化される。この消化力、同化力の強靱さも彼の特徴のひとつである。彼はとてもじょうぶな胃袋をもっている。

もしもバトンの継承のみが目的ならば、バトンを渡した瞬間、しゃがみこんでバトンの形状を仔細に眺めることも可能だろう。後ろを向いたまま、いつまでもそのバトンを確認している人間も学問のフィールドには多数存在している。ひょっとすると、そのバトンの来た方へと逆走する人間もいるかもしれない。そういう人間もけっして珍しくはない。

しかし彼は前方へ向かってひたすら走り続ける。いったい何のために。もちろん次の走者にバトンを渡すためである。

彼は400メートルリレーの第二走者なのだ。思想家の多くは、自らを第一走者、あるいは最終走者とみなす。独創性豊かなパイオニアとして、あるいは先人の知見を統合する完成者として彼らは自らをイメージする。あるいはそのトラックをはずれ、「長距離走者の孤独」を感じながら、一人で走り続ける者もいる。

しかし、内田樹の独創性は自らの立ち位置を、第一走者でも最終走者でもなく、またマラソンランナーでもなく、あくまでもリレーの第二走者ととらえるところにある。

そして、彼の独創性はその立ち位置だけではなく、その独自の倫理観にももとづいている。彼はバトンを受けとる時に、なぜか第一走者の順位をも自らの責任ととらえるのである。第二走者の存在が第一走者の走りに影響を与えないわけがない。だから、第一走者の順位に対して自分は責任がある。このような「有責性」を彼は感じ続けている。

そしてそのバトンを次の走者に手渡すこと。それに対する責任感も彼の前進する力と結びついている。彼が「師」の存在とその意味、後進への指導と教育に力を尽くすのは、いわばリレーの第二走者の宿命なのである。

だから、彼の論考の多くがコミュニケーションに関わるものであること、彼の主著のタイトルが「ためらいの倫理学」であること(中間者にためらいはつきものである。少なくとも第一走者、最終走者よりは。)はけっして偶然ではないのである。

以下、次項へ
(と続く予定なんですけど、はたしてどうなりますやら)





Last updated  2005.12.22 17:31:36
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Re:内田樹400Mリレー第二走者論(12/22)   ジュンさん


Re[1]:内田樹400Mリレー第二走者論(12/22)   M17星雲の光と影さん


楽しみにしています   ジュンさん


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