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内田先生の日記の中に興味深い記事があった(12月24日「内田樹の研究室」)。京大での集中講義の直後に書かれた日記で、頭の中で高速作動したエンジンの余熱がこちらにも伝わってくる内容である。
そこでは春日先生との対談でインスパイアされたという統合失調症に対する考えが述べられている。この病気の症例のひとつに「幻聴」がある。宇宙人の声が聞こえる、指令が聞こえるという例のあれだ。しかし、なにものかの声が聞こえるというのは日常的に頻繁に起こることであり、何も異常なことではない。事態の全体像が時間や論理の流れに即すことなく一瞬のうちに見えるということもしばしば起こる。この一瞬のうちに意識の中に現出する現象を分解し、整序するところに「時間」が発生し、そこに知性が関与しているのではないかという、きわめて刺激的な論点がそこでは示されている。 論の詳細は内田先生の日記で確認していただくとして、ここでは「統合」の「失調」ということを考えてみたい。 これはふつうに考えると、人間が意識でコントロールすべきものごとが統御不能の状態となり、精神に異常をきたす事態ということになるだろう。 つまり、ほっておくとばらばらで収拾のつかないフラグメントがまず存在し、それらを有機的に統合する主体として意識が存在し、その機能が不全状態に陥ると人間の精神は異常をきたすという図式がここには見られる。 はたしてこれでいいのだろうか。人間存在はもともと「ばら」であり、それをまとめるのが理性の働きである、という考え方は、後段はうなずけるとしても、前段がかなり怪しいものであるように私には思える。 人間の体にたとえよう。人体をばらすと頭、首、手、足、胴体に分かれる、これを接合すると人間になる、という考えはなにかおかしくないだろうか。 猫や犬には「頭痛」は存在しない。たしかに人間が感じる部位に似たような痛みが生じることはあるだろう。しかし、彼らはそれを「頭痛」とはとらえない。自分の存在に何か不快な出来事が起こっているというふうにしか感じないはずだ。なぜといって、彼らには「頭」ということばがないからだ。頭、手、足ということばがなければ、それに対する意識も生じない。「朝から頭が痛い」という言明は、自分自身の一部を「頭」という言語で切り分けない限り生じることがない。 話が回りくどくなりそうなので、言いたいことをまず書く。つまり、統合失調という考え方は、「分離→統合→失調」という図式にのっかったものだが、その前提を問わなくてもいいのかということを私は言いたいのだ。おそらくは、「存在→分離→統合→失調」という流れを考えることが必要ではないか。 「人間とはなにか」「私とは何か」という疑問に、私は「それは『存在』だよ」と答えたい。この質問は究極の疑問とか、哲学の根本命題とかいわれるが、それほどたいそうなものとは思えない。目の前に一個の細胞がある。これはまぎれもない存在である。目の前の一個の単細胞生物。人間存在を根源までさかのぼって考えたいのなら、答えは簡単である。その単細胞生物をプレパラートに貼り付けて、「ほれ」といって差し出せばいいのである。もとはひとつであり、そのひとつはまぎれもない「存在」であり、かつひとつの全体である。ここにはむずかしいことはなにもない。 その単細胞生物はやがていくつかのかたまりに接合し、多細胞となる。それらは単なる細胞の塊から、機能的にいくつかに分化していく。この時点で「ばら」がうまれる。先ほどの統合失調症の図式も遡れば、ここに淵源があると考えられる。 人間がもともと「ばら」の寄せ集めだというのは虚構である。もとはひとつの細胞であり、その細胞はひとつでありながら、全体であり、それを無理にばらすと生命は失われる。あくまでも生命体という水位を保った状態で、人間を還元していくとするならば、つまるところ最後は細胞にいきつき、その細胞はひとつのまとまった全体である。 だから、もともとひとつであった人間存在をいくつかのものの寄せ集めとしてとらえるためには意識の活動、もっといえば虚構の図式を案出する必要がある。全体からそれぞれの機能に枝分かれした状態のところでストップモーションをかけ、「いいですか、ここが出発地点ですよ、ここからすべてははじまるんです、そういうことにしましょうよ」という合意が必要になる。それが近代的思考だというふうに私は考える。 「人間は考える葦である」「考えるゆえに我あり」。いずれも「考える」という行為を人間の活動の中から「ばら」として摘出しないと成立困難な考え方である。 「人間はもともとばらなんだ。そういうことにしましょうよ」という合意が歴史的に存在し、それが現代に生きる人間の脳髄の奥深くにまで浸透している。それはすでに虚構ではなく、事実と感じられている。「ばらばらのものをまとめるのには集中力がいる、トレーニングがいる。その主体が意識というものなんですよ、ね、そうでしょう、みなさん。」多くの人々がうなずく。「そのまとめる働きがこわれちゃったら、頭おかしくなるんですよ。その症状を統合失調症というんですよ、わかりましたか」。「はーい」という返事が聞こえる。 でも、それはおかしい。前提に誤りがある。人間はもともとばらばらなんかじゃない。それはひとつの全体であるべきはずであり、それをばらばらに感じるというのはひとつの約束事であり、虚構であり、物語だ。統合失調症の患者は何らかの理由でその物語を自明の前提として承認できなくなった人々ではないだろうか。彼らはばらばらのものをまとめることができないのではない。もともとばらばらだったというストーリーをうまくのみこめないのだ。 そして人間存在はばらばらから始まるという分離主義者は、意識と無意識を分離し、意識による無意識のコントロールを唱える。でも、土台それは無理な話だ。人間の意識では無意識はとらえることができず、とらえることの出来ない部分を「無意識」と名づけているわけだから、その定義からいって、意識が無意識をコントロールすることなどできるわけがない。 でも、「それじゃ、あんまりぶっそうだから、コントロールが可能ってことにしちゃいましょうよ。」と誰かがいい、みんなが「んだ、んだ」とうなずく。「そして、そのコントロールができないのは病気。そうでしょ」「んだ。んだ」 でも、彼らはコントロールができないのではなく、コントロール可能という約束事に異を唱えているのではないだろうか。それも無意識的に。暴論かもしれないが、私は統合失調症という病気は、無意識そのものが自己の存在を証明するために人間の体を使って行っている示威活動であるように思えてならない。
?・・?さん
コメントありがとうございます。去年の12月に書いた文章です。改めて読むと、ずいぶんわかりづらい書き方してますね。読みづらかったと思いますが、読んでいただいて感謝しております。基礎的なことも知らないで書き散らした文章ですが、お気を悪くされなかったようで、すこしほっとしました。くれぐれもおだいじになさってくださいね。(2006.06.09 19:16:16) │<< 前へ │次へ >> │一覧 │コメントを書く │ 一番上に戻る │ |
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