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昨日ブログで「理性」について私見を述べたが、通常のこのことばの使い方とはかなり異なるものでもあり、わかりづらいとの指摘を都内某所より受けたので、再び理性について書く。でも、「理性について」というタイトルでがちがちに書くと、おそらく誰も読んでくれなくなりそうな気がするので、ちょっとくだけた感じで書きましょうかね。テーマがなにしろ固いから。
私の言いたいことは一つである。それは「理性は暴走する」ということだ。このことに関しては皆さんももう少し意識されたほうがよいのではなかろうかと日頃から考えている。「ああ、あのクールで理性的なまなざしがたまらないわ」という表現および状況を否定するつもりはないし、「感情の暴走を理性が止める」というケースがあることも承知している。ただ、「理性が暴走する」危険性に無自覚でいると、先々かなりまずいことになるのではないかというのが、私が日頃から感じている危惧なのである。 一般的にいえば理性とは概念的思考能力のことである。つまり、現実的、具体的な細々したものを捨て去って、本質だけを取り出したところに成立する思念の世界が「理性」のすみかである。感情と対立して考えられることが多いのもご承知の通りである。 「感情の暴走を理性が止める」という一般的例文を先に挙げたが、私はこれはむしろ逆ではないかと思う。たとえば、そう、あなたに愛してやまないキュートな恋人がいたとしましょう。彼女のほっぺに「チュッ」をしたとする。でも一度では物足りない。もう一度「チュッ」、まだ物足りない。三度目の「チュッ」。これは愛情にもとづく行為であり、まぎれもなく感情生活に属することがらである。しかるにこの行為を480回繰り返すということをあなたは考えられるだろうか。さすがに最愛の恋人でも薄気味悪くなってあなたを突き飛ばすか、あるいは新たな段階を目指して別種の行動に推移するいうのが一般的なパターンだろう。つまり、感情というのはおのずから一定の段階に達すると、自然に止まるものなのである。いくら何でもまあこれくらいのところでやめとこう、と思うのが感情の特質なのだ。突発的、一時的に暴発することはあっても、それが永久に持続することはない。だから、おのずとブレーキがかかる。これが感情の世界である。 これに対して理性の世界ではどうか。ここで理性の代表、数学に登場していただこう。いまここに「1」という数字がある。これに1を加える。その和は2である。これにまた「1」を加える。こういうふうに、前の数字に順次「1」を足していく作業を行うとする。この作業の480番目を想定することはきわめて容易である。479に1を足して480という数字が得られる瞬間ですね。「おい、おい、いつまでおんなじことやってんだよ、そろそろやめたらどうなんだ」とは誰もいわない。この動作はおのずから止まることはないのである。止めようとすれば、あらかじめ「1からはじめてこれを100回繰り返したとする」という制限ないしは条件を加えておかなければならない。 私の言っている「理性の暴走」というのは、要するにこういうことなのだ。理性の世界では、あるルールが設定されるとそれにしたがってそのルールが適用され、それは一直線にどこまでも突き進む。具体的世界を捨象した抽象的、理性的世界では、ニュートンの運動の第一法則のように、一旦動き始めた物体は抵抗がなければどこまでも等速度運動を続けるのである。「いったん動き始めると、自分では止められない」、これを指して、私は「理性とはブレーキのない車だ」といったのである。 何を馬鹿なことをいっているんだといわれるかもしれないが、これは重要なことである。昨日の日記で、「あなたは理性的な人間だ」というと、客観的自己認識能力にすぐれた人間であるかのような印象を与えるかもしれないが、実は「あんたは動き出すと自分ではとまらない人間だね」といっているのと同じだといった。この表現がわかりにくかったとすれば、例文を変えよう。被修飾語を「人間」ではなく、「殺人者」に変えてみる。さあ、あなたは次の二つの殺人者のうち、どちらのほうにより強い恐怖を覚えますか。ひとつは「感情的な殺人者」、もうひとつは「理性的な殺人者」。 前者はかっとなったら突発的に殺人を犯しそうで物騒ではあるものの、そのタイミングをはずしたり、注意深く観察していれば、難を逃れることはできそうだ。しかし、後者はどうだろう。どんなに逃げ回ろうとも、どこまでも執拗につきまとわれ、最後にはとどめをさされそうな気がしないだろうか。私は後のほうがこわいですね。たちがわるそうだし。 理性というものは強力なパワーをもっているけれども、それだけに暴走する危険性もより多くもっている。もっとも危険なのは、自らその暴走を止めるブレーキを内蔵していないことだというのが、私がいいたいことなのである。 アウシュビッツの虐殺が恐怖をもたらすのは、それが異民族への憎悪や排斥感情に根ざすものだからではなく(そんなものは今日どこでも観察できる)、その殺戮行為がきわめて合理的、事務的に、いわば理性的に整然と行われていたというところにある。どんなに異民族を憎んで無差別殺戮を繰り返したとしても、それが感情にもとづくものであれば、何万人、何十万人も殺せるものではない。そこには「もう、そろそろやめとこう」というブレーキがおのずからかかるからである。 しかし、それが行政府の命令で、官僚機構を通して整然と秩序立って行われていた場合、この殺戮には歯止めがきかなくなる。たとえ何百万人殺したとしても、その組織の内部から「殺すのをやめろ」という声が発せられることはないのである。 これはけっして特殊なケースではない。理性というものが本来そういう性質をもっているのである。原爆の悲劇を考えてみてほしい。あの原爆の内部にはその当時の最高レベルの専門的科学者の理性と知性がおしげもなく投入されていたはずだ。だからこそ、あのような大量殺人が引き起こされたのだ。そのことを忘れるべきではないと私は思う。 だからといって、私はいわゆる反理性主義を唱えているわけではない。理性のパワーは旧陋を打破するために必要なものであり、弱者が強者に対抗するためにも不可欠なものである。 しかし、その暴走する本性を十分に認識した上で慎重に理性をコントロールする姿勢をもたなければ怖ろしいことが起こる。私はそう思うのである。 こう考えてくると、理性の世界の住人である、たとえば大学人、知識人、文化人のお歴々の多くが人間的品性に欠けているということにも納得がいく。たまたま人間的品格をそなえた知識人がいたとしても、それはあくまでも「たまたま」なのだ。理性そのものの中からその品格が生じたわけではない。 たとえば、そういう知識人の中にこういう口調で話す人がいる。「え、なに、あんた、こんな初歩的なことも知らないの。そんなこと中学校の教科書にも載ってるよ」。さすがにこうあからさまにはいわないものの、これをソフィスティケイトされた猫なで声で皮肉まじりに語る啓蒙主義者の方々がいる。(私はけっして宮台真司氏を個人攻撃しているわけではないので誤解のないように) しかし、そういう当人は公費を使って本を買ってもらい、朝から晩まで他の労働も行わず、ひたすら勉学にいそしむことを許されている特権の持ち主なのである。少々物を知っていてもそれは当然であり、本を読む暇も精神的余裕も許されないでいる一般の労働者を無知だといってあざける権利など彼にはないはずだ。 私は建築現場のそばを歩いていて、いわゆるスポーツやエクササイズによってではなく、純粋な肉体労働のみによって形作られた見事な筋肉の持ち主の姿にほれぼれと見とれることがある。しかし、彼らが道を歩いている一般人に向かって「おい、そこのにいちゃん、ちょっと暇だから腕相撲でもやらんか」と声をかけ、圧勝すると「なんだ、へなちょこやのー、これじゃ、うちの小学校の息子にも負けるわ」などと言うのを聞いたことはただの一度もない。「そんな失礼なこと、するわけないじゃないか」、彼らはそういうはずである。 理性の世界の住人に、自制心や品格が欠けているからといって驚くにはあたらないのである。理性そのものの中にその暴走を止める制動機は装備されていないのだから。 │<< 前へ │次へ >> │一覧 │コメントを書く │ 一番上に戻る │ |
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