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このところ、自らの欲望の命ずるままに行動し、それが結果的に法的規範を越えてしまったという事件報道が多いようである。これに対して世の識者は、「これは個の欲望の肥大化を止めることができない『欲望自然主義』の暴走である。これを防ぐには一刻も早く『公』の意識を取り戻し、内面的倫理の確立をいそがねばならない。そのためにはまず教育のあり方をみなおすべきである」というようなことを声高に唱えられるのかもしれない。
でもちょっと待ってほしい。欲望が肥大化しているのは事実だとしても、それを外部からの働きかけによって押さえることができるものかどうか、私はそれに対してかなり懐疑的である。 そもそも「欲望」というものをどうとらえるべきか。これが問題だ。いったい、ヒトという生き物は、欲望を解放することが得意なのか、それとも欲望を抑制することが得意なのか。どちらだろうか。 もっとも原初的な欲望とは「本能」の指令だろう。自然の与えた欲望に従順に従っていれば、自然のサイクルの中で自らの生存基盤を保つことは可能だ。多くの生物はその本能に従って、自らの生存基盤を確保しようとする。しかし、ただひとつ、ヒトだけはその方法を選択しなかった。本能の世界に安住することを選んだのであれば、今日の人類は存在しなかったはずである。 自然の欲望に従順に従うことを拒否することから、人間の人間らしい生き方が始まった。だから、二者択一するとすれば、人間はそもそも「欲望を抑制する能力にたけた生き物だった」ということになる。 しかし、ヒトというものは一筋縄ではいかない生き物である。彼は曲がりくねった生存戦力を選択する。彼は本能の命じる欲望を抑制することをばねにして、自らの内なる欲望をさらに膨脹させる戦略を選んだ。 考えてみれば、誰も抑制しない欲望がどこまで行くかと考えてみれば、そんなものはたかがしれている。誰も止めることがなければ、「もうこのへんでやめとこ、いいかげんあきたし」ということになって、欲望はそれほど昂進するものではない。しかし、「押さえなきゃならない」という意識が一方にあれば、「わかっちゃいるけどやめられない」という意識が働き、欲望はストッパーをはずされてどこまでも昂進することになる。 たとえばおいしいラーメンを一杯食べる。「う~ん、一杯では我慢できない。もう一杯食べちゃおう」というのは、まあ自然な欲望の発露といえる。でもこれを20杯も30杯も食べ続けることは不可能だ。そのラーメンの値段を500円としよう。まあ、よほど腹が減っていたとしても、この欲望はせいぜい二千円から三千円レベルで止まるはずである。 しかし、これが金銭欲という形をとると話は別である。いま手許にある一億円を二億に増やすためにはどうすればよいか、というような欲望の形は十分に可能である。でも一体、一億の金銭的価値とはそもそも具体的にどのようなものか。さらにそれを倍増するという欲望が具体的に何を意味するのか、これはおそらく誰にもイメージすることができないはずである。しかし、金銭という抽象的な価値尺度を導入することによって、人間の欲望はどこまでも増殖可能になった。食欲という具体的な尺度を喪失することによって、人間の欲望を止めるストッパーははずれてしまったのである。目の前の一杯のラーメンを食べる欲望を抑え、その500円を貯金しよう。そして、その貯金を毎日続けよう。そのような形で具体的な欲望を制御することで、人間の欲望は抽象化することとなり、それと同時に具体的欲望に自ずから備わっていたストッパーが外れる結果になってしまったのだ。 人間の文明は、このようにして、その欲望をひたすら肥大化、昂進する方向に進歩を続けてきた。そして、多くの人々はその欲望の昂進にブレーキをかける必要があるにもかかわらず、そのブレーキが機能しない状態に陥っている。だから、教育によってそのブレーキを人間一人ひとりの内面に装備する必要があるのだと多くのヒトは考える。 でも、この考え方はおそらく不毛である。人間の文明はひたすらその欲望を昂進する方向に働いており、その駆動力によってこれまで「進歩」を達成し、その成果をわれわれは享受してきた。アクセルの技術的進歩は日進月歩とどまることを知らないレベルまで向上しており、それがもたらす甘い蜜をわれわれは味わい続けてきたわけである。 しかるに、そのアクセルを制御するブレーキの技術はどうなっているか。これは昔とまったく変わらない。内面的倫理、良心の命ずるところに従い、社会秩序を尊重する。これではスポーツカーのアクセルに自転車のゴムのブレーキを装着したようなものである。200キロのスポーツカーの疾走を自転車のハンドルのゴム式ブレーキで制御することなど、どれほど握力の強い人間が試みてもむだというものである。 欲望というアクセルを内面的倫理というブレーキで制御するという発想自体がすでに破綻していることに気づかなければならない。 一定のスピードを越えた運動体ではブレーキは役に立たない。航空機にもジェット戦闘機にも宇宙ロケットにもブレーキなどついてはいない。ではどうやってその動きを制御するのか。それは逆方向に作動するアクセルをもうひとつつけるしかない。いわゆる「逆噴射」というやつである。 現在の欲望の暴走をくい止める手段がもしあるとすれば、それはおそらく「逆噴射」のアクセルを人間の内面に装着するしかないのではないか。そう私は考える。 人間は欲望を肥大化させ、それを昂進させることに快感を得る生き物である。このことには疑いをはさむ余地がない。なによりも現在の社会情勢がそのことの正しさを雄弁に物語っている。それが法律的規範をもやすやすと乗り越え、そのことが社会問題化しているとすれば、解決策はひとつしか考えられない。それはその欲望を制御することを新たな快感と感じる装置を人間の内面に装着することである。 ぐったりと疲れて電車の座席に座ったとする。たまたま目の前の乗客が前の駅で降り、そこに座ることができた。「やれやれ」と思って、疲労困憊したサラリーマンはその席に座る。この時点で脳から快楽物質が微量ではあるが分泌される。 すると次の駅で杖をついた80過ぎのおばあさんが足を引きずりながら、目の前に立つ。一瞬躊躇したものの「あっ、どうぞ」といって、席を立ち、おばあさんに譲る。このまま自分の降りる駅まで座って居眠りしたいという欲望を抑え、席を譲る。一見するとこれは快楽昂進に逆らう行為のように見える。でも、その時、彼の脳からは新たな別種の快楽物質が分泌されはじめる。「いま、俺は座り続けたいという自らの欲望に打ち勝ち、高齢者に席を譲った。譲られた人間からは手厚い感謝の意が表明され、周囲の空気も俺に好意的だ。あのまま席に座り続けて、降車駅まで居眠りしつづける快感と、席を譲ることによって得られる快感を比較考量すると、これは明らかに後者のほうが上である。」こう考えたとしても不思議ではない。 つまり、欲望の暴走を止めるためには、欲望を止めることを快感と感じる装置を内面に装着することが必要なのである。そして、その装置は実は人間の歴史のはるか以前から発明され、今日まで維持されてきている。それは「マナー」である。 自分の欲望を抑え、他者に配慮する。自らの欲望を抑制し、他者の意向を優先することによって、実は自己の欲望を昂進させるよりもはるかに大きな「快楽」を得ることができる。その経験の根を幼少時から植え付ける装置、それこそが「マナー」なのである。 それは欲望の抑制を教えるのではない。欲望の抑制がより大きな快楽につながることを教える手段なのである。 だから、今日多くの人々が自らの欲望に駆り立てられ、法の規範をも乗り越えた行動を行うのは、実は快楽装置の未熟さに起因しているのである。 「自分一人がきもちよくなってそれで満足しているようじゃまだまだ。そのきもちよさを他人に譲り渡してごらんなさい。もう信じられないような快感があなたの全身を貫くことになりますよ。あの快感を経験することもしないで、自慰行為にふけっているようじゃ、まだまだ大人とはいえませんな。もう一歩先にほんとうの快楽はあるのですよ」といって、より強力な快楽の道へと導くことが、今日の憂慮すべき状況を変えるきっかけとなるのではなかろうか。 少なくとも教育基本法を変えるなどという見当違いな方法よりは、よほどまともで、より実効性を伴う提言だと思うのですが、いかがでしょうか。 │<< 前へ │次へ >> │一覧 │コメントを書く │ 一番上に戻る │ |
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